岸田百合と別れて三時間以上が経過していた。一樹守は、島の北東部にある夜見島遊園にいた。「母親が囚われている」と、百合が言っていた場所だ。遊園地の南側には島で最も高い山・四鳴山がそびえ立っている。山頂には巨大な鉄塔が建っているのだが、その上半分は、雨雲の中に消えていた。消えている部分には雲が無く、そこだけぽっかりと穴が空いているように見える。そこから覗く空の色は、まだ夜明け前だというのに夕焼けのように真っ赤だ。さらには、その赤い穴の中に、周囲の雲がどんどん吸い込まれている。それはまるで、赤い底なしの沼に飲み込まれているかのような禍々しい光景だった。
しかし、今の一樹には、そんなことを気にしている余裕は無かった。
一樹は、一時間ほど前に遊園地にたどり着き、すでに管理小屋や倉庫など、人を監禁できそうな場所を探索していた。しかし、園内は屍人が何体か徘徊しているくらいで、彼女の母親らしき姿は無かった。百合の姿も無い。一樹の元を去った彼女は、どうしたのだろう? 母親を救うのを諦めるとは思えない。一樹に代わる新たな協力者を探しているのだろうか? あるいは、やはり母親が囚われているというのは偽りだったのか。……いや、と、その考えを否定する一樹。彼女が俺の元を去ったのは、俺が彼女のことを信じてあげられなかったからだ。
――守だけはあたしの味方だと思ってたのに!!
去り際に言われた言葉を思い出す。一樹に対してこの言葉を言った少女は百合が
視線を落とし歩いていた一樹は、はっとして顔を上げた。コーヒーカップのアトラクションがあり、そのカップのひとつに、百合が座っていた。駆け寄る一樹。とにかく謝らなければならないと思ったが、言葉が出てこなかった。百合を深く傷つけてしまったのだ。なんと詫びてよいか判らない。
「……座って」
百合は、その美しい顔に何の表情も浮かべず、隣の椅子に手を向けた。言われるまま座る一樹。テーブル状になっているハンドルの上に、ガラス細工の鳩の置物があった。百合がその鳩を持ち上げ、空を飛ぶ様子を表すかのように、ゆっくりと左右へ揺らした。無言で鳩を見つめる一樹。と、百合は突然手を放した。解放された鳩。しかし、ガラスの鳩は飛ぶことはない。鳩はそのまま落下すると、ハンドルの上で粉々に砕け散った。破片が四散し、百合の手を傷つけた。その名の花よりも白い百合の手が、赤く濡れてゆく。一樹はポケットからハンカチを出して百合の手に当てようとしたが、百合がそれを押しとどめた。
「――ここは、元に戻ろうとする世界」
静かな声で言う百合。その手の傷がふさがろうとしていた。ぱっくりと割れた傷は徐々に細い線となり、やがて、その線も消えた。百合は一樹の手からハンカチを取り、血を拭った。百合の手は、彼女の言葉通り、元の純白の手に戻っていた。ハンカチをハンドルの上に置く。そこに、ガラスの鳩が置かれていた。砕け散る前の状態だ。百合の手に注意を奪われた隙に新しいものを置いたのだろうか? 一瞬そう思ったが、即座にその考えを打ち消す。その疑心が彼女を傷つけてしまったのだ。二度と彼女を傷つけてはいけない。それに、周囲には破片のひとかけらも散らばっていない。一瞬の隙さえあれば別の鳩を置くことは可能だろうが、四散した破片の全てを回収することなど不可能だ。元に戻ったとしか思えなかった。
「島は、二十九年前の記憶をとどめているの。そこに、あたしたちが変化を加えることはできない」
百合の言うことは要領を得ない――少し前までそう思っていたが、その言葉は違った。一樹には、彼女の言葉の意味が判った。
百合は、一樹に身を預けた。「やっぱり、あたしにはあなたしかいないの。お願い、守。あたしのそばにいて。ずっと、一緒に」
一樹は百合の肩を抱いた。ガラス細工の鳩よりも脆く儚い身体に思えた。砕け散ったガラスの鳩は元に戻っても、もし彼女が砕け散ったら、決して元に戻らないと思った。護らなければいけない。彼女を傷つけてはいけない。今度こそ、必ず。
「――来て」
百合は立ちあがり、一樹の手を引いてコーヒーカップの外に出た。
四鳴山の北のふもとにある夜見島遊園は起伏が激しく、園内にはいくつかの丘がある。コーヒーカップは園内で二番目に高い丘の上にあり、その西側の観覧車がある丘が最も高い場所だ。コーヒーカップのある丘からは連絡橋を渡って行くことができるが、百合はそれを渡らず、北の方へ向かった。しばらく歩くと下り階段があり、その先は遊園地の裏門だった。百合は門の手前で止まった。
「ここに石碑があるの、見える?」
裏門そばの空間を見つめる百合。一樹には、そこになにも存在していないように見えた。一瞬迷ったが、「ごめん、何も見えない」と、正直に答えた。
「いいの……じゃあ、あたしの目で見て」
百合の目で見る……幻視をしろということだろう。言われた通り百合を幻視すると、彼女の目の前には、二本の鎖で繋がれた石碑があった。立方体をふたつ組み合わせた形で、上部と下部に分かれており、それぞれの側面に、冠や腕輪、海や炎の絵が刻み込まれている。石碑の上部と下部からは、それぞれぴんと張られた状態の鎖が伸びていた。ここが室内なら天井と床に固定されていると思うところだが、ここは屋外。下部はともかく、上部に固定するものは何も無い。それでも、その石碑は確かに鎖でそこに固定されていた。
「七つの門と、七つの鍵を解放するの」
「七つの門と、鍵……?」
幻視をやめ、百合を見る。百合は、目を閉じ、胸の前で手を組むと、森をそよがせる涼やかな風のような声で、歌をうたい始めた。それは、冠をかぶった巫女が、炎を前に舞い踊る歌だった。
一節うたい終えた百合は目を開けた。「これは、この島に伝わる古い詩・
歌が鍵となる――その意味を悟る一樹。幻視をし、百合の目を通して石碑に触れてみた。ひんやりとした石の感触も伝わってくる。確かに、ここに石碑は存在する。一樹は石碑の上部と下部を持ち、捻ってみた。きしみながら回転する。思った通りだった。一樹は石碑を回転させ、上部の冠の絵と、下部の炎の絵を合わせた。すると、石碑は一瞬赤黒い煙のようなものに包まれたかと思うと、ぼんやりと光りはじめた。幻視をやめ、目を開けると、一樹の目にも石碑が見えた。
「これで、ひとつ……あと六つ」
百合が言う。つまり、これと同じ見えない石碑が遊園地内に七つあり、同じように絵を合わせることで、何かが起こるのだろう。
「次へ行きましょう」
百合は来た道を戻り始めた。後を追う一樹。
と、階段の手前でびくんと身体が震え、一瞬だけ一樹と百合の姿が見えた。屍人に見つかった合図だった。周囲を見回すと、南側から迷彩服を着た屍人が近づいて来る。自衛官の屍人だろうか。その手には、小さなナイフのような物を持っていた。一樹は百合を護るために前に出ると、ズボンに差し込んでいた武器を抜いて構えた。拳銃だった。屍人は一樹の拳銃を見ても構わず向って来る。一樹は充分な距離までひきつけ、引き金を引いた。弾は胴体へ命中した。怯み、後ずさりをする屍人。だが、倒れずに向かって来る。一樹は落ち着いて二発目、三発目の弾を撃ちこんだ。屍人は悲鳴を上げながら倒れた。
一樹は百合の方を向いた。「ここに来る途中で手に入れたんだ。百合ちゃんを護るのに、役に立つと思って」
「ありがとう、守」と百合は微笑んだ。「あなたがいてくれて、本当に良かった」
二人は階段を上り、コーヒーカップのある丘の上へ戻って来た。東側の丘へ続く連絡橋の手前で立ち止まる百合。幻視を通して見ると、先ほどと同じような石碑があった。再び歌をうたう百合。今度は、巫女が揺れる舟の上で鳥が戻るのを待つという歌だった。一樹は石碑の絵を巫女と舟に合わせる。赤黒い煙に包まれた後、ぼんやりと光を放つ石碑。これでふたつ。
「次はこっちよ」
百合は連絡橋を渡り、観覧車のある丘へ向かう。だが、その途中で立ちどまった。南の方角、遊園地の正門がある方を見ている。そこに石碑があるのかと幻視をしてみたが、百合の目を通しても石碑は見えなかった。連絡橋の下は時計塔や噴水がある広場になっていて、大きなパンダ型の乗り物もあるが、まさかそれを見ているわけではないだろう。視線の先にあるはずの正門は、夜の闇に隠れて見えない。
「あっちに、石碑があるの?」幻視をやめ、一樹は訊いてみた。
百合は、「ううん、違うの」と首を振った後、続けた。「でも、なにか感じる。あれは……お母さんの……」
一樹は再び幻視をし、正門の方に意識を飛ばしてみた。すぐに屍人の視点を見つけた。正門の前に立ち、園内と、園外を交互に見ている。鉄格子型の門は閉ざされている。その向こう側に何か落ちているのが見えた。
「――いいの。行きましょう」
百合に手を引かれた。気になったが、百合がそう言うのなら仕方がないだろう。二人は先を急いだ。
その後、花畑、管理小屋、噴水広場などを回り、百合の歌に合わせて石碑の絵を合わせていく一樹。六つの封印を解いたところで、最後に観覧車の前へやってきた。
「これが最後よ」
百合がうたう。それは、天を舞う羽衣を着た巫女が舟に背を向けて踊る歌だった。石碑の絵を、羽衣と舟に合わせようとした。だが、その石碑は、これまでのものと少し違っていた。これまでは、上下の立方体それぞれの側面に四つずつ絵が掘り込まれていたが、その石碑には一面ずつしか彫り込まれておらず、残りの面には何も描かれていなかった。一応、絵が描かれた面をそろえてみる。それは、羽衣を着た巫女の絵だったが、そろえても何も起きなかった。どういうことだろう? この石碑だけ他と違うのか? 一体何が違う? 考える一樹。百合の歌を思い出す。羽衣を着た巫女が舟を背に踊る……石碑には、羽衣を着た巫女しか描かれていない。舟はどこにあるのだろう? 考えて、思い出した。東の丘を見る。コーヒーカップのそばの石碑は、巫女が舟の上で鳥を待つ絵だったはずだ。あれに背を向けるということだろうか? 一樹は石碑を回転させ、羽衣を着た巫女の絵が東側の舟の石碑に背を向ける格好にした。思った通り、石碑は赤黒い煙に包まれ、最後の光が灯った。
そして、百合も最後の節をうたう。巫女が全てを踊り終えた時、七つの門が開かれるという詩だった。
百合が、全てをうたい終えたとき。
石碑が、強く光りはじめた。
今度の光は、これまでよりもはるかに眩しかった。一樹でさえ目がくらむような強さだが、光に弱いはずの百合が眩しがっていない。そして、その光はここだけでなく、園内の各所の石碑も同様に強く輝いていた。地面が揺れはじめる。地震か? そう思ったが、不思議と身体は安定している。通常ならとても立ってはいられないほどの揺れなのに、足はしっかりと大地を踏みしめている。何が起こっているんだ? 一樹は訳も判らずそこに立ち尽くす。と、目の前、観覧車が建っている地面から、青い光が溢れ出た。それは観覧車を包み込むほどの強い光だったが、これも、百合が眩しがることはなかった。
やがて、光が消える。
あまりの眩しさに、目を焼かれたかのように何も見えなかったが、徐々に視力が回復していく。やがて見えるようになったが、一樹は自分の目を疑った。
そこに、さっきまであった観覧車が、無くなっていたから。
代わりにあったのは、巨大な穴だ。
観覧車が建っていたその場所に、巨大な穴が空いているのだ。
穴を覗き込む一樹。そこには闇しか存在しなかった。どんなに強いライトで照らしても、決して闇の底を照らすことはできない、そう思えるほどに、深い。
「さあ、行きましょう」
百合が、一樹の手を取った。彼女の足下には、闇の底へと続く鉄製の階段があった。さび止めの赤い塗料が塗られた、非常階段によく使われるものだった。
「もうすぐよ、守。もうすぐあたしたち、ひとつになれるの。ずっと、ずっと、一緒にいられるのよ」
百合の言葉に、ごくり、と、息を飲む一樹。
一樹は、百合に手を引かれ、階段を下りて行った。
ずっと、目を背けてきたことがある。
あるいは、聞かないようにしていたと言うべきか。
コーヒーカップのアトラクションで、百合と再会した時から。
ずっと、胸の鼓動が激しいままだ。
それは、屍人が近くにいる時の、警告を促す鼓動。
それが、ずっと治まらないのだ。
園内を百合と行動している最中も、ずっと鳴りやまないのだ。
一樹の胸の奥底で、ずっと、警鐘が鳴っているのだ。
そしてそれは、今も続いている。
だが、園内には、いたるところに屍人がいた。
危険は、いたるところにあったのだ。
あるいは、これは百合に対する想いの表れかもしれない。
一樹は、ずっとそう言い聞かせていた。
だから。
例え、石碑をひとつ解放するたびに、百合が妖しいほほ笑みを浮かべていても。
例え、闇の底へといざなう百合が、邪悪な笑みを浮かべていても。
それは、すべて自分の思い違いだと、言い聞かせていた。
百合のことを信じようと、心に決めていた。
二度と百合を傷つけないと、誓ったから。
たとえ、自分が傷つくことになったとしても。
もう、誰も裏切りたくなかったから。
一樹は、