島を丸ごと飲み込むほどの赤い津波に襲われ意識を失った永井頼人は、自衛隊の上官・三沢岳明にたたき起こされ、現在、大型のフェリーの中にいた。と、言っても、海へ出たわけではない。どういう理屈なのか永井にはさっぱり判らないのだが、いま彼がいるフェリーは、海でも川でも湖でもなく、森の中に存在しているのだ。津波で運ばれてきた、というわけでもなさそうだった。永井が意識を取り戻した時、周囲には津波の形跡などまるで無かった。夢でも見たのだろうか……そう思わずにはいられなかった。この数時間、永井の身の周りで起こっていることはあまりにも現実性を欠いていた。ヘリが墜落し、尊敬する先輩の沖田が死に、その上、死体が動き出して襲い掛かってくる。さらに、意識を取り戻した後は、他人の視界を覗き見るという能力まで使えるようになっていた。三沢によれば、これは『幻視』という特殊な能力らしい。もはや、永井の思考は到底追いつかなかった。夢でなければ説明がつかない。だから。
「……自分、いまだに信じられないんです」
フェリーの左舷甲板から前部へ移動する途中で、永井は先行する三沢の背中に向かって言った。「死体がよみがえって襲ってきたり、大きな津波に飲み込まれたのに無事だったり、他人の視界を覗き見したり、この船も、なんでこんな所にあるのか……もう、なにがなんだか判らなくて、全部夢なんじゃないかって気もします」
三沢は――。
先を歩く三沢は足を止め、振り返った。
「……ほっぺたをつねってやろうか? 痛くなければ夢、痛ければ現実。簡単な判別方法だ」
そう言った後、永井に向けて手を伸ばす。
永井は嫌がって顔を引いた。「やめてくださいよ。三佐の馬鹿力でつねられたら、肉が千切れちゃいます」
三沢は一度小さく笑ったが、すぐに表情を引き締めた。「何が起こっているのかは俺にも判らん。だが、夢なんかじゃないことは確かだ。受け入れるしかない。じゃないと――」
突然、三沢は永井に小銃を向けた。
「――――」
とっさにその真意を悟った永井は、その場に伏せた。三沢が引き金を引く。たたん、と、パソコンのキーボードを叩くような軽い音がし、続いて、後方でうめき声がした。振り向く永井。小さな鎌のようなものを持った屍人が倒れるところだった。
銃口を上げた三沢は、倒れた屍人に冷たい視線を向けた。「……あいつらの仲間入りは、したくはないだろ?」
「――はい」
起き上がる永井。確かに、死体が動いて襲い掛かってくるなど、現実的ではない。しかし、いま周りで起こっていることを全て夢だというのも無理がある。三沢の言う通り、何が起こっているのかは判らないが、確かなことは、襲ってくるヤツらを倒さなければ、こちらがやられるということだ。永井は気を引き締めるため、両手でパンパンと頬を叩いた。三沢はもう一度小さく笑うと、再び先行し、船の前部へと向かった。
左舷甲板から船内へ入ると、正面に前部甲板へ出る扉があり、そのそばには上下階へと続く階段があった。三沢は階段を上がったので、永井は後に続いた。
彼らがこのフェリーを探索しているのは、通信手段の確保が目的だった。この島に上陸して以降、永井らが持っている携帯通信機や、遊園地の電話など、全ての通信機器が使えなかった。まるで、島全体が外部から切り離されてしまったかのようだった。もっとも、今の段階では機械の故障や、通話距離外、通信ケーブルの切断などの可能性も考えられる。他の通信手段も試してみる必要があった。これほど大きなフェリーなら、かなり高性能な通信機器を積んでいるはずだ。また、船ならば、通信機以外にも連絡を取る手段がある。
三階まで上がるとまた扉があり、そこは操舵室だった。鍵は掛けられていないので中に入る。部屋の中央に木製の大きな舵が置かれ、計器類がたくさんついた機械が並んでいる。三沢はその中から通信機を見つけ、操作した。電源は来ているようだが、返って来るのはノイズばかりだ。やはり繋がらないのかもしれない。永井は通信機を三沢に任せ、部屋内を調べることにした。
前方は一面ガラス張りになっており、正面の様子が見渡せた。窓ガラスのそばには永井の身長ほどもある大きなライトが設置されている。永井はそれを調べることにした。そのライトは、点滅の長短によって離れた相手と通信するシグナリングライトだ。これを使うことで周辺を航行する船、あるいは港や灯台等に簡単なサインを送ることができるのだ。これも、船では重要な通信手段のひとつだ。ライトは問題なく点灯消灯できた。ただ、船の正面は少し離れた場所に山が広がっているため、船外に光を飛ばしたとしてもその山に阻まれる。ライトは床に固定されており持ち運ぶことはできない。これを使って島の外へサインを送ることはできそうになかった。他の手段を探してみよう。そう思って移動しようとしたとき、ふと下を見ると、船の甲板に誰かいるのが見えた。赤いカーディガンに白いプリーツスカートの少女だった。
「三佐、生存者です!」
永井が言うと、三沢は通信機の捜査を中断し、永井のそばに立って甲板を見た。そして、わずかに表情を歪めた。
「見覚えがありますね」と、永井は続ける。「あの赤い津波に襲われる直前、森の中にいた少女です。一人のようですね」
永井は甲板内を見回すが、少女以外に人の姿は無かった。あの眼鏡の男――雑誌編集者で、一樹守とかいっただろうか――は、一緒ではないのだろうか?
少女は、なぜか甲板を走り回っていた。急に走り出したかと思うと、突然足を止め、しばらく後退した後、反対側へ走る。かと思うとまた足を止め、右に曲がる。そんなことを繰り返していた。まるでなにかから逃げているようだが、甲板に屍人の姿は無い。……いや、よく見ると、あの蠢く闇がたくさんいて、少女を取り囲んでいた。蠢く闇は強い光を当てると簡単に消滅するが、数が多いと手に負えなくなる。助けなければ。しかし、あまりに数が多く、下りて行く間に襲われてしまうかもしれない。何かないか、と室内を見回して、さっきのシグナリングライトが目に入った。あれを使おう。永井はシグナリングライトのスイッチを入れ、光を甲板へ向けた。何キロメートルも離れた先にサインを送るための光だ。照らされた蠢く闇は一瞬で消滅する。永井は甲板を隅から隅まで照らし、蠢く闇を消滅させていった。そして、あらかた片付け終えたところで、三沢を振り返った。
「三佐。自分、あの娘を保護してきます」
そう言って、永井は操舵室から出ようとしたが。
「――やめておけ」
三沢がそう言ったので、永井は足を止めた。
三沢は冷たい目で甲板を見下ろしながら続ける。「あれには関わらない方がいい」
「……なぜですか?」永井は訊き返す。
「どうもあの女は匂う。まともな人間じゃないかもしれん」
まともな人間じゃない……確かに、上陸が禁止されている島にいるという時点で、まともではないかもしれない。しかし、船が転覆して偶然流れ着いた、と、連れの男は言っていたし、仮にそれが嘘で、何か悪事に加担――例えば、男を誘惑してこの島に連れて来て、殺して埋める、とか――していたとしても、今この状況下で放っておくことは、国民の安全を守るという自衛隊の使命を放棄したことになる。それは、永井が尊敬する先輩・沖田宏の教えに背くことだ。無論、三沢にもなにか考えがあってのことなのかもしれない。永井は、この島で三沢と行動をし、彼のことも少しずつ尊敬するようになっていた。だが、それでもまだ沖田以上の存在にはなっていない。
永井は。
「三佐は、船の捜索を続けてください。自分は、やはりあの少女を放っておけません。保護したら、また合流します」
そう告げると、三沢が止めるのも聞かず、操舵室を出た。
階段を使って一階まで下りた永井は、正面の扉から前部甲板へ出た。少女は闇の中、震えながら立っていた。永井に気がつくと、怯えた表情で後退りする。
「大丈夫、化物じゃないよ」
永井は少女を怖がらせないようなるべく明るい声で言った。小銃を背中に隠し、手を挙げ、敵意が無いことをアピールする。「僕は自衛隊の永井頼人。君を助けに来たんだ」
そう言うと、少女の顔から怯えが消え、安堵の表情になる。そして、駆け寄ってきて、いきなり永井に抱きついた。
「ちょ……ちょっと……君……?」
いきなりのことに戸惑う永井。一旦離そうとするが、少女はその白く細い腕に似つかわしくない強い力でしがみつく。
「怖かった……ずっと一人で……化物にもいっぱい襲われて……本当に怖かったの……」
確かに、さまざまな戦闘の訓練を受けている永井でさえ戸惑うような状況だ。かよわい少女が一人でいるなど、よほど心細かったに違いない。
「でも、連れの彼はどうしたの?」
「化物に襲われて、あたしをおいて一人で逃げたの。お願い助けて。あたしには、もう頼れる人がいないの」
いくら一般人とはいえ、こんな可愛い娘を放って一人で逃げるとは薄情な男だ。永井は、少女を安心させるため、さらに言う。「大丈夫。僕たちは、逃げたりしないから。一度操舵室へ行こう。僕の上官が、島の外と通信を試みているから、うまくいけば助けを呼べると思う」
少女が喜ぶと思って言ったのだが、永井の思いに反し、少女は。
「いやっ!」
急に永井から離れた。「あたし、あの人と一緒にいたくない!」
そう言えば、森の中で出会った時、少女はライトの光を異常に嫌った。連れの男は、彼女は光が苦手だと言っていたし、そういう病気があることは永井も知っている。そんな少女に、三沢は必要以上に光を当てていた。あれでは三沢に悪い印象を持っても仕方がないかもしれない。
「大丈夫。あの人は、見た目は怖いけど、意外といい人なんだ。頼りになるから、一緒にいた方がいいよ」
「いや! 絶対にいや!」
少女はぐるぐると首を振ってかたくなに拒否する。三佐も随分と嫌われたものだな、と、永井が困っていたら。
びくん、と身体が震え、一瞬、甲板に立つ自分と少女の姿が見えた。同時に、鼓動が激しくなる。まずい。これは、屍人に見つかった合図だ。出入口の方を見ると、赤い着物を着て、頭に大きな髪飾りをいくつも着けた女の屍人がいた。手には、樹木の伐採に使うような大きなのこぎりを持っている。屍人はのこぎりを振り上げると、「ぶゎけものおんぬああぁぁ!!」と、呂律の回らない声で叫び、走って襲いかかってきた。
永井は少女を後ろに下げると、小銃を構え、引き金を引いた。身体に数発当てると、屍人はうめき声をあげながら倒れた。着物姿の女が巨大なのこぎりを振り上げるという姿は一見恐ろしげではあるが、冷静に対処すれば銃を持つ永井の敵ではない。
永井は少女を振り返った。「大丈夫。あんなヤツ、僕らの敵じゃないよ。三沢三佐……僕の上官は、もっと頼りになる人なんだ。だから、一緒に――」
「いや! ホントにいやなの!!」少女はまた首を振って嫌がる。そして、永井の手を取り、二の腕に胸を押し付けた。「お願い、頼人。あたしと、二人で逃げて」
「あ……いや……そういうわけには……」
出会ったばかりなのに身体を密着させてきて、永井のことを下の名で呼ぶ……なかなか積極的な娘だ。もちろん、男だから悪い気はしない。
と、また身体が震え、自分たちの姿が見えた。もう一体屍人が来たのかと思ったら、いま倒したばかりの着物女の屍人がよみがえっていた。屍人は何度倒しても復活するというのは永井もすでに経験済みだが、今までの屍人よりはるかに早い復活だ。
とは言え、所詮銃を持っている永井の敵ではない。永井は冷静に銃を撃ち、立ち上がる前に倒した。
「……特殊なタイプの屍人だわ」
少女が、急に真顔になって言った。「屍人は、死体に屍霊が憑りついたもの。死体に残っている記憶に基づいて行動するんだけど、極めて強い思念を持ったまま死んだ人が屍人になると、他の屍人とは違った行動をすることがあるの。そういう特殊なタイプの屍人は、思念が強いからか、屍霊を引き寄せやすい。だから、復活が早いの」
「そうなんだ。君、詳しいね」
「百合って呼んで、頼人」少女は甘えるような声で言い、そしてまた、永井の腕に胸を押し当てた。「ここにいたら危ないわ。またすぐに復活する。早く行きましょう」
確かに、銃があれば負けることなどまず無いが、弾には限りがある。無駄撃ちはできない。
「脱出方法があるの。こっちへ来て」
百合に手を引かれ、前部甲板を後にする永井。甲板右側の扉から一旦船内に入り、階段の横を通り抜け、再び扉を開けて外に出る。今度は右舷の甲板だ。
「あれを使うのはどう?」
百合が指さしたのは、甲板に設置されたボートダビットだった。機械式のウインチで救命ボートを下ろすことができるようだ。地上までは十メートル以上あるが、確かにあれを使えば脱出できるだろう。あとは動くかどうかだ。永井はボートダビットを調べてみた。しかし、故障しているのか、ウインチは動かなかった。もちろん、緊急時のために手動でも下ろすことができるのだが、そのためのクランクが取り外しできるタイプで、ボートダビットやその近くを探しても見当たらない。これでは、脱出することはできない。
また身体が震えた。あの着物女の屍人が追って来ていた。銃を使い撃退するが、これではキリが無い。
「もうひとつ脱出する方法があるの。こっちよ」
百合に手を引かれる永井。再び前部の出入口から船内へ入ると、今度は階段を下りた。地下一階まで下りるとエレベーターがある。それに乗り、地下三階まで下りた。そこは船の貨物室だった。
「ここよ」
三つあるコンテナの横を通り抜け、奥まで行くと、壁に亀裂が入っていて、そこから外が見えていた。地面までの高さは二メートルもなく、下は草地だから、飛び降りても平気だろう。
「さあ、頼人。あたしと一緒に行きましょう」
百合は亀裂を潜って外に出ようとする。だが、その亀裂は少し小さい。体格の小さな百合は大丈夫だが、永井は通れそうになかった。それに、やはり三沢の許可なく勝手に行動することはできない。
「ごめん。僕は通れそうにない。百合ちゃんは一旦脱出して、どこか安全な場所に隠れてて。僕も、すぐに上官の人と向かうから」
永井がそう言うと、百合は。
「……判ったわ」
そう言って、船から脱出した。
一瞬。
百合が、とても不愉快そうな顔をしたように見えた。
――めんどくさいわね、コイツ。
そう言いたげな表情だった。
だが、それは本当に一瞬だったし、恐らく気のせいだろう。そう思った。
永井は貨物室から操舵室へ戻り、三沢と合流した。船の無線は、やはりつながらないらしい。他に通信手段も無く、それ以上船内でやることはなくなったので、二人も船から脱出した。
脱出後、永井は船の周りを探したが、百合の姿はどこにも無かった。