夜見島の北部、鳩の形で例えると右翼の中央に、
蒼ノ久集落からこの要塞跡へと通じる道の途中で、作家の三上脩は、黒のデニムジャケットを着たヤンキー風の男と一緒に道端に座り込んでいた。五時間ほど前、蒼ノ久集落の資材置き場で何者かに襲われ、崖下へと転落した三上は、通りがかったこの男に助けられたのだ。男は阿部倉司と名乗った。この島へ来るとき、三上がチャーターした釣り船に強引に乗り込んできたカップルの内の一人だ。
「しっかし危なかったなー。あんた、あのままだったら、あのゾンビみたいなやつらに襲われて、一巻の終わりだったぜ」
阿部の話によると、三上が意識を失った後、島を大きな赤い津波が襲い、ゾンビのようなヤツらが徘徊し襲ってくるのだという。実際、ここへ来るまでも何度か襲われ、三上も阿部の目を通して確認していた。屍人と見て間違いない。屍人と幻視の能力……夜見島に古くから伝わる伝承が現実のものとなっている。全てはあの赤い海が原因なのだろうか? あの赤い海はなんだ? 三上がこの島に住んでいたのは四歳までだ。怪談じみた話は子供たちの間でも広まっていたのでかろうじて覚えているが、難しい話は覚えていない。
「……なーんか、見たことあるんだよなぁ」
阿部が、三上の顔を覗き込んでいた。そして、ぽん、と手を叩くと。「そうだ! テレビとかによく出てる作家の先生じゃないか? 確か、ナントカぎょナントカっていう小説の!」
「ああ。よく知っているね」と、三上は頷いた。恋愛小説『人魚の涙』で塵芥賞を受賞した三上は、その後、テレビ番組への出演や雑誌の取材などの仕事が相次いでいる。三上自身はそのような仕事にはあまり興味がないのだが、彼をもっと売り出そうとする編集社が芸能事務所の協力を得て行っているのだ。
阿部は「へへへ」と笑って鼻の下をこすった。「オレ、頭ワリーから小説は読んだことねーんだけどよ、テレビアニメでやってたのを観たぜ。きんぎょが空を飛んで、ウシやサメが喋るヤツ。あれは斬新な設定だったなぁ。先生、よくあんな話思いつくな」
「……それは私の作品ではないな。私の本は、まだ映像化されていないよ」
「そうなのか? じゃあ、ドラマや映画になったら教えてくれよ。それならオレも観れるからさ」
「私としてはぜひとも本を読んでもらいたいね。もっとも、無事に帰れたらの話だが」
三上がそう言うと、阿部は肩を落としてため息をついた。「……なんでこんなことになっちまったかなぁ。占い女も、どっかいっちまうしよ」
阿部には連れがいた。ネックレスやブレスレットをじゃらじゃらとつけた女性だった。阿部の話によると、赤い津波に襲われた後離れ離れになり、今はどこにいるのか判らないという。
阿部が顔を上げて三上を見た。「そういや、先生の連れてた犬、どうしたんだ?」
「…………」
愛犬のツカサのことを思う三上。彼が屍人に襲われる前、蒼ノ久集落の資材置き場で、ツカサは崩れた建物の下敷きになった。島に上陸して以降、ツカサの目を頼りに行動していた三上。幻視が途切れて闇に閉ざされた視界は、三上の絶望そのものだった。
「ツカサは、思い出となってしまったよ」独り言のようにつぶやく。
「思い出?」
「ああ。みんなそうだ。父も、母も、姉も……私の大切な人は、みんな私の元から去っていく」
我ながら、抽象的なことを言っているな、と思う。いつもそうなのだ。三上が書く作品は抽象的な表現が特徴だ。重要なことははっきりと書かず読者の想像力に任せる、それが人気の秘密でもあるのだが、こんなときでも作家としてのクセが抜けないことに、三上は苦笑する。
三上の言うことが判ったの判らないのか、阿部は「ふーん」と曖昧に唸った。「……まあ、元気出しなよ、先生。オレも、ガキの頃犬を飼ってたんだ。先生の犬みたいに立派な血筋のやつじゃねーけど、メチャクチャかわいかったよ。で、十歳くらいの時だったかな。オレ、道路に飛び出して、車にはねられそうになったんだ。そこに犬が走って来て、俺のこと突き飛ばして、助けてくれたんだ。でも、代わりに犬がはねられちまって。そいつ、どうなったと思う?」
「……どうなったんだね?」
「はねられた瞬間は、絶対死んだと思ったんだけどよ、そいつ、すぐに起き上って、ぴんぴんしてるの。一応病院に連れて行ったけど、かすり傷くらいしかなかったよ」
「それは、運が良かったんだね」
「そうかもしれない。でもよ、オレ、思うんだ。動物ってのは、オレたち人間様が思ってるより、ずっとつえーんだよ。人間が大ケガや死んだりするようなことでも、あいつらなら平気だってことは、たくさんあるんだ。だから、先生の犬だって、きっと無事なはずだ」
阿部の顔を見る三上。無論、弱視の三上にはぼんやりと輪郭が見える程度だが、それでも、彼の爽やかな笑顔が見えるようだった。
「……そうだな。君の言う通りだ。ありがとう、阿部君」
阿部は、また「へへへ」と子供のように笑った。
蒼ノ久方面から獣の遠吠えのような声が聞こえた。屍人だ。
「おっと。ヤツらが来たようだ」立ち上がる阿部。「先生。すまねぇが、犬を探すのは後だ。まずはここから脱出するぜ」
三上も立ち上がる。「私は目が見えない。すまないが、君の目を借りるよ。ときどき私を見てくれ。そうすれば、はぐれないですむ」
「OK、じゃあ、行くぜ」
阿部と三上は要塞跡の方へ進んだ。しばらく進むと『第一砲台跡』という立札と、地域一帯の地図を描いた案内板があった。この要塞は、日露戦争及びその後の二度の世界大戦でも結局使われることはなく、太平洋戦争時の金属類回収令で砲台が全撤去されると同時に日本軍も撤退した。その後はしばらく放置されていたのだが、昭和三十年代の金鉱発掘時代になると、鉱員たちの娯楽の場のひとつとして人々が集まるようになり、また、島の小中学生が社会見学の場として利用することも多くなったので、危険が無いように建物が補修され、公園として整備されたのである。もちろん、それは昭和五十一年の島民失踪事件以前の話であり、今はまた廃墟と化しているだろう。
地図によると、このまま要塞跡を抜けて東へ進めば碑足という地域へ向かうことができるようだ。だが、要塞跡にも多くの屍人が徘徊しているだろう。注意して進まなければならない。
さらに進むと、三メートルほどの高さのコンクリートの壁があった。崖が崩れないようにコンクリートで固めた、いわゆる
二人は擁壁の陰に身を隠しながら東へと進む。途中、『弾薬庫跡・兵舎跡』という立札が立てられてあり、そのそばに地下への階段があった。もっとも、地下にも屍人は多数徘徊しており、特に行く必要もないので、二人はそのまま東へ進んだ。
しばらく進むとまた立札がある。このまま東へ進むと要塞内の電気設備を管理していた電灯所跡があり、南へ進むと碑足方面へ向かうようだ。
しかし、碑足方面へと向かう道は三メートルほどの崖に阻まれていた。かつてはそこに階段があったようだが、今は崩れ落ちてしまい使うことができない。他に脱出する道はなく、なんとかして上へあがらなければならない。何か台になるものがあればよいのだが。三上たちは周囲を見回した。
幸い、近くにドラム缶が転がっていた。阿部が崖下に移動させ、上にあがる。そこから手を伸ばすと崖の上に手が届いたので、なんとかよじ登ることができた。三上も阿部の目を通してドラム缶の上にあがり、そこから崖の上に引き上げてもらった。
「よし! うまくいったな! さあ、先生の犬を探しに行こうぜ! 大丈夫。きっとすぐ見つかるさ!」
明るい声の阿部。彼の言うことには何の根拠もないのだが、不思議と彼の言う通りのような気がしてくる。そうだ。ツカサはきっと生きている。まずはツカサを探し、そして、島から脱出する方法を探ろう。
三上と阿部は、碑足方面へと向かった。