森の中に突如出現した大型フェリー・ブライトウィン号内を捜索し、亀石中学の女生徒・矢倉市子を救出した警察官の藤田茂は、船を離れ、島の西部にある蒼ノ久集落に来ていた。古くから島で暮らす漁師たちの港がある地域だ。この集落の丘の上にある道をたどれば、貝追崎という地域へ向かうことができる。そこの浜辺に、藤田が島へ渡るのに利用した小型のボートを停泊させてある。そこへ向かおうとしているのだ。しかし、時刻は深夜の三時前だ。雨が降り続いており、空は厚い雲に覆われ月明かりさえ無い。どういう訳か集落の明かりは点いているのだが、貝追崎へ向かう道は街灯など無く真っ暗だ。屍人や屍霊は夜の闇を苦にしない――というよりは、闇の中こそがヤツらの世界だ。小さな懐中電灯ひとつで移動するのはあまりにも危険だ。加えて、藤田も市子も、屍人たちと戦いと逃亡を繰り返し、かなり疲労していた。いま移動するのは避け、少し休んだ方がいい。そう思い、手近な民家を借りることにしたのだ。
だが、市子は眠るのを嫌がった。眠るのが怖い、何かが来る、と、しきりに不安を口にする。
「大丈夫だよ」と、藤田は励ます。「あいつらが入って来ないよう、お巡りさん、ここで見張ってるから。だから、少し眠っておきなさい」
「……はい」
不安そうな表情で横になる市子。どんなに励ましても、今の状況で安心できるはずもないだろう。それでも疲労が溜まっているからか、市子は五分ほどで小さな寝息を立て始めた。
市子の寝顔を見る藤田。その姿が、娘と重なる。
藤田には、朝子という名の娘がいる。年齢は市子よりも少し上。来年の春に高校を卒業する予定だ。だが、今は一緒に暮らしていない。三ヶ月前、護送中の窃盗犯を逃がしてしまうという失態を犯した藤田は、降格され、中迂半島の交番へ左遷させられた。その際、娘と妻は家に残り、藤田は単身でこの地に赴任したのだ。それは、単身赴任というよりは別居状態だといえる。藤田は、若い頃から家族を顧みず仕事一筋に打ち込んでおり、元々娘からは慕われていなかった。そして、その仕事でも失態を犯してしまい、とうとう見捨てられたのだ。
藤田は――この島に上陸してから何度目になるか――大きくため息をついた。
「――やんなっちゃうなぁ。なんでこんなことになるかなぁ」
独り言をつぶやく。仕事で失敗し、左遷されにもかかわらず、また厄介ごとに首を突っ込み、問題を起こしてしまった。無断での夜見島への上陸。敷地内へ不法に侵入。そして、発砲――。全ては緊急避難及び正当防衛ではあるが、それを説明したところで、死者がよみがえって襲ってくるなど、誰が信じるだろう。もはやクビは避けられない。妻と娘からはさらに愛想を尽かされ、離婚を迫られてもおかしくはない。なぜ、こんなことになってしまったのか? 一人で夜見島へ来なければこのようなことにはならなかったのだろうか。あるいは、屍霊や屍人について調べなければ、謎の座礁船を調べなければ、こんなことは避けられたのだろうか。
自分は、間違った判断をしたのだろうか。
いや……。
藤田は、自分が間違っているとは思えなかった。
生存者がいる可能性がある場所を探索しないわけにはいかないし、刃物や鈍器を持って容赦なく襲ってくる相手から少女を守るためには発砲も必要だ。間違ったことは、何もしていないはずだ。
三ヶ月前の件もそうだ。藤田が左遷させられる原因となった事件――護送中の窃盗犯を逃がしてしまったのは、藤田の人情から出たことだった。藤田が逮捕したその犯人は以前にも同じ罪で有罪となっており、執行猶予中の身だった。二度目ならば実刑は避けられない。だから、刑務所に入る前に一度母親に会って謝りたい、その後、必ず出頭する、と、犯人から涙ながらに訴えられたのだ。その言葉を信じ、藤田は犯人を実家へと立ち寄らせたのだ。それで、逃走を許してしまった。
間違ったことはしていないはずだ。今日も。あのときも。
それでも。
事態が悪い方へ進んでしまうのは、なぜだ?
藤田には判らない。
ただ。
眠る市子を見つめる。
どんなに悪い事態に進もうとも、この少女だけは護らなければならない。
市民の安全を守る、それが警察官の使命だ。たとえクビになろうとも――たとえ命を落とそうとも、己の使命を全うできるなら、それは本望だ。
だから。
「――すまんなぁ、朝子。俺に何かあったら、母さんを頼むぞ」
もはや口癖となった娘への謝罪の言葉を、また口にした。