冬山で凍えるかのような寒さと、全身を巨大な鉄板で押し潰されるかのような強烈な痛みで、一樹守は意識を取り戻した。
石造りの階段に伏せる形で倒れていた。顔を上げようとするが、全身を強烈な痛みが駆け抜け、再び意識を失いそうになる。なんとか意識を保ち、目だけを動かして周囲を確認する。まず見えたのは波だった。低い波が次々と押し寄せ、時折やや高い波が押し寄せてくる。波が押し寄せるたび、一樹の身体は水に浸かった。このままでは波にのまれてしまうかもしれない。しばらくじっとしていたら痛みが引いてきたので、ゆっくりと身体を起こした。周囲を見回す。どうやら、海辺の石段に倒れていたらしい。なぜこんなことになったのか、少し考え、思い出した。船が転覆したのだ。赤い高波に飲み込まれて。
はっとして、もう一度よく海を見る。墨のように真っ黒な海が広がっている。陽が落ち、光を失った海は、不気味ではあるものの、特におかしな点は無い。多少波は高いが船が転覆するほどでもない。あの、血のように真っ赤な荒れ狂う海は、一体なんだったのか? そして、サイレンの音は?
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。三上や他の人たちはどうなったのだろうか? 一樹は全身の痛みをこらえてなんとか立ち上がった。まず持ち物を確認する。幸い、財布や携帯電話、デジタルカメラなど、所持品は全てウエストポーチに入れていたので、何も無くしていなかった。一樹はポーチから愛用の眼鏡を取り出してかけると、石段を上がった。どこかの港の桟橋のようだった。腕時計で時間を確認する。夜の九時少し前だった。空には月も星も出ておらず、分厚い雲が広がっているようだ。遠くで雷鳴も聞こえる。すぐに雨が降り始めるかもしれない。
一樹はポーチの中から懐中電灯を取り出し、周囲を照らした。すぐそばに街灯が立っていたが、明かりは点いていない。ライトで上部を照らすと、止まっていた海鳥が驚いて飛び去っていった。さらに周囲を照らす。海と反対側、陸地があると思われる方を見るが、小さな明かりひとつ見つけられなかった。
――ここは……夜見島か……?
そう思った。港の周辺で明かりひとつ無いなど、誰も住んでいないとしか考えられない。夜見島は昭和五十一年の海底ケーブル切断事件以降、無人の島と化している。電力の供給も断たれたままのはずだ。間違いないだろう。
まずはどうにかして助けを呼ばなければならない。わずかな望みをかけ携帯電話を取り出して確認するも、やはり圏外だった。島で電話を探すか? 昔ながらの黒電話や公衆電話なら電力が無くても使用できるが、電話線も切断されていたら意味が無い。なんとか他の方法で救助を要請しなければならない。とにかく島へ向かおう。一樹は足元をライトで照らし、陸の方へ向かおうとした。
足元を、黒い影が横切った。
驚いて声を上げ、飛び退く一樹。
改めて足元を照らすが、そこには何も無かった。なんだったのだろう? 小動物ではないように思った。そういった、はっきりとした形があるものではなく、煙の塊のようなものに見えた。あるいは、
――いや。
ただの見間違いだろう。そう思い直した。少し神経が参っているのかもしれない。危うく命を落としかけたのだから、無理もない。
気を取り直し、桟橋を進む。すぐに堤防が見えた。一樹の背丈の三倍はありそうな、まるで城壁のような高さだった。堤防に沿って進むとまた石段があり、それを上がった先に門が見えた。幸い閉ざされてはいなかったので、門をくぐり、島へと上陸する。
そこは、鉄筋コンクリート造りのビルが立ち並ぶ街だった。島が栄えていた頃は、かなり近代的な街並みだったのだろう。もっとも今は、そのすべての建物が崩壊しかけている。外壁はいたるところで崩れ落ち、ほとんどの窓ガラスは割れ、道はそれらの瓦礫で溢れていた。まさに廃墟だ。
一樹は場所を確認するため、ポーチから夜見島の地図を取り出した。
夜見島は、上空から見ると飛び立つ鳩の形をしており、南西が頭部、北が右翼、南が左翼、北東が尾と見立てることができる。島にはふたつの港がある。ひとつは蒼ノ久という集落で、島の南西、鳩の形で例えると、後頭の部分に位置する。ここは、古くからの住人が住んでいた小さな漁港だ。昔ながらの日本家屋が立ち並び、島本来の姿をとどめた集落である。
もうひとつが夜見島港だ。同じく島の南西に位置するが、鳩の形で例えると喉の部分に位置する。蒼ノ久とは対照的に、近代的な鉄筋コンクリート製のビルが建ち並ぶ地域である。今、一樹がいる港は、この夜見島港と見て間違いないだろう。
古くから外部と関わるのを避け、極めて閉鎖的な島だったこの夜見島だが、太平洋戦争が終わり、高度成長期へ突入した頃を境に、大きく姿を変えることになる。まず、昭和三十五年。夜見島に入った資源調査団が、島の中央の
夜見島港最大の特徴は、本来は丘陵の斜面だった場所に無理矢理近代的なビルを建築したことにある。高低差が激しく、斜面に張りつくように作られた街並みなのだ。
一樹はライトで周囲を照らした。近代的なビルといっても昭和三十年代後半の話である。その頃は日本の桃源郷と呼ばれるほど多くの人が集まり、会社や居住区だけでなく映画館や遊園地などの娯楽施設まで作られたが、昭和四十二年を境に金の採掘量が減り始め、四十五年には枯渇。徐々に人も減り始め、四十八年に金鉱は完全に閉鎖された。夜見島金鉱株式会社も撤退し、乱立された施設だけが残った。以来、三十年もの間雨と強い潮風にさらされ、完全に廃墟と化したのである。
一樹は周囲を見回した。左手側に急勾配の長い階段が見える。夜見島港の中央にある『地獄段』という長い階段だ。続いて、地図で地獄段の周辺を調べる。階段とは反対側へしばらく歩いたところに灯台があるのが確認できた。そこからなら、沖を航行する船に何かしらの合図を送ることができるかもしれない。一樹は灯台へ向かってみることにした。
しかし、少し進むとすぐに行き止まりになった。地図を確認するが、地図上では道が続いている。よく調べてみると、堤防の上が道になっているようだ。上にあがるための埋め込み式の梯子も見つけたが、下段が崩れ落ちているため上がれなかった。堤防はところどころ亀裂が入っている。そこに鉄パイプのようなものを挿し込めば、それを足場にして上がれるかもしれない。そう考え、周辺を探してみる。コンクリートやガラスの破片は無数に散らばっているものの、足場に使えそうなものは何も落ちていなかった。このルートを通るのは諦めるしかなさそうだ。恐らく道は一本ではないだろう。そう思って地図を調べ直すと、一度地獄段を上がり、その先の広場にあるトンネルを下りて向うルートを見つけた。かなりの遠回りになるが仕方ないだろう。一樹は来た道を戻ると、地獄段を上がった。
地獄段は、その呼び名にふさわしい急勾配の長い階段だ。夜見島金鉱株式会社のビルに挟まれた位置にあり、階段の途中からビルの二階、三階へ渡ることもできた。そのビルから連絡橋を通りさらに隣のビルへ渡ることもできる。ビルの各階が多くの連絡橋で繋がる姿は、丘の斜面に無理矢理作った夜見島港の街並みを象徴する光景と言えた。
階段を中ほどまで上がったところで弱い雨が降り始めた。雨具は持っていないため濡れるしかない。もっとも、海に落ちたためすでにびしょ濡れなのであまり気にすることも無いのだが。
階段は、右へ左へとうねるように続いている。近くのビルから崩れ落ちた瓦礫が散乱し、階段自体もところどころ崩れ落ちているため、足を滑らさないよう慎重に進む必要があった。
――うん?
なんとか階段を登りきったところで、一樹は足を止めた。
そこに、人が倒れていたのだ。
中年の男だった。頭から血を流し、うつ伏せに倒れている。
一樹はゆっくりと近づき、男の顔をライトで照らした。血の気を失ったどす黒い顔。光を当てても、全く反応しなかった。息もしていないように見える。ごくりと息を飲む一樹。いやな予感がした。それを確認するため、そっと、男の喉に触れてみた。男の喉は、何の反応も無い。つまり、脈が止まっている。思わず後退りする一樹。どうやら死んでいるようだ。注意して見ると、男のそばに落ちていた大きなコンクリートの欠片に血が付着していた。崩れ落ちた瓦礫で頭を打ったのかもしれない。だが、これは誰だ? 顔に見覚えはなく、一緒に船に乗っていた者ではない。そして、この島には二十九年前から人は住んでいないはずだ。無論、二十九年前に死んだ者が放置されていたということもあり得ない。それほど長く放置されていたなら白骨化しているはずだ。死体は、腐敗すら始まっておらず、コンクリート片に付着した血はまだ乾いてもいない。恐らく死んで数時間といったところだろう。たまたま一樹と同時期に別の船で島に来たということだろうか? あるいは、人知れずこの島に住んでいたのか。判らない。ここであれこれ考えているだけでは何も判らないだろう。とにかく今は、助けを呼ぶことが先決だ。一樹は死体をそのままにして、灯台へ向かおうとした。
足元を、また、煙の塊――あるいは蠢く闇――のようなものが横切った。
とっさにライトを照らす。桟橋で見えた時は見間違いかとも思ったが、今度は違う。確かに、そこにいる。まるで地を這う生き物のように、倒れている男の方へ向かっていく。しかも、ライトを当てると、悲鳴のような甲高い鳴き声まで上げた。
――なんだ、あれは?
訳も判らず呆然とそれを見つめる一樹。蠢く闇は悲鳴を上げながらも倒れている男の元へ行き、そして、男の体内へ吸い込まれるように消えた。あるいは、ライトから逃れるように男の体内へ隠れたようにも見えた。
あり得ないことが起こった。
男の身体がびくんと震えたかと思うと、ゆっくりと、身体を起こし始めたのである。
良かった、無事だった――とは思わなかった。先ほど一樹は、男に脈が無いことを確認している。一樹に専門的な医療の知識は無いが、確実に死んでいたはずだ。無論、一度心臓が止まっても心臓マッサージや電気ショック等で再び動き出すこともあるだろうが、一樹はそのような蘇生術は行っていないし、なにより、起き上がった男は血の気を失ったどす黒い顔色のままで、生き返ったというよりは、死体が動きはじめたという方が的確に思えた。
一樹の心臓が、まるで警鐘を鳴らすかのように大きく鼓動し始めた。このままでは危険だ。そう感じた一樹は、とっさにライトを消し、物陰に身を隠した。そのまま様子を窺う。
起き上がった男は、緩慢な動きで首を回し、肩を回し、足を踏み鳴らした。まるで、各部位の動作の確認をしているかのようである。しばらくその場でのろのろと動いていた男は、一度獣のような咆哮をあげた後、足を引きずりながら通路の奥へと進んでいった。道は途中で左に枝分かれしている。男はそこを曲がると、姿が見えなくなった。
……何だったのだろう? 判らないが、とても追いかけて行って声をかける気にはなれなかった。関わらない方が賢明なように思う。早々に立ち去った方がいい。一樹は音を立てないよう息を殺して通路を進み、枝分かれしている通路の前を静かに駆け抜け、そのまま真っ直ぐ進んだ。しばらく進むと、警告するかのような心臓の鼓動は治まった。ひとまず安堵の息を吐く一樹。
一体あれはなんだったのか? 蠢く闇が男の死体の中に入り込み、動き出した。それはまるで、映画やマンガなどに登場する動く死体・ゾンビのようだった。
――そう言えば。
一樹はこの地を訪れる前に、インターネットで夜見島に関することを簡単に調べていた。島民消失やケーブル切断などの大きな事件、島に伝わる伝承や奇妙な風習、遭難・失踪事件など、多数の情報を得ることができたが、その中に、『
仕方がない。今はとにかく、助けを呼ぶしかない。一樹は再びライトを点け、灯台を目指してさらに進む。しばらく進むと道は鉄柵の扉によって閉ざされていた。地図によると、扉の向こうには夜見島金鉱の資材倉庫があり、その奥に灯台へ下りるためのトンネルがあるようだ。一樹は鉄柵を持って軽く揺すってみる。鍵がかけられてあるが、長年風雨にさらされていたため、
――うん?
資材倉庫のドアの上部には窓が取り付けられてあり、そこから中が見えるのだが、奥に、誰か倒れているのが見えた。髪が長い女性だった。うつ伏せに倒れているため顔はよく見えないが、赤いカーディガンに白のスカート姿から、船に同乗していた奇妙な格好の女や船員の女ではなさそうだ。先ほどの動く死体のことがあるのでどうしたものかと迷っていた一樹だったが、女をよく見ると、わずかに肩が上下に動いていた。息をしている。ならば、このままにしておくわけにはいかない。中に入ろうとしたが、ドアには鍵がかけられてあり開かなかった。ドア越しに呼びかけてみても反応は無い。何か中に入る方法は無いだろうか? 周囲を見回す。地面には廃材がたくさん散らばっている。ほとんどが朽ち果てているが、その中からまだ頑丈な物を選び、それを窓ガラスに打ち付けた。ガラスは簡単に割れる。そこから手を入れ、内鍵を開けて中に入った。
「……おい、大丈夫か?」
一樹は倒れている女――まだ少女といっていい歳頃だ――の肩を揺すった。少女はわずかに声を上げ反応した。顔色も悪くない。かなり色白で、まるで生まれて一度も陽の光を浴びたことがないのではと思わせるほどだが、少なくともさっきの男のようなどす黒い顔ではない。生きている。そう確信した一樹は、さらに呼びかけた。しばらく続けると、女は目を開け、ゆっくりと身体を起こした。
「……ここは……?」
置かれている状況が判らないのか、不思議そうな顔で周囲を見回す。
「ここは、夜見島港の、金鉱会社の倉庫だ。君、名前は?」
「名前……
「よし、岸田さん。君は、なぜこの島にいるのかな? あ、いや、理由は無理に言わなくていい。いろいろと事情があるだろうからね。ただ、もし船があるなら使わせてほしいんだ。僕の乗っていた船が転覆して、乗っていた人が行方不明になっているんだ。早く警察に報せて捜索しないと――」
その時、外から獣の咆哮のような声が聞こえた。
少女が、何かを思い出したかのようにはっとした表情になった。
「……助けて、あたし、あの男に追われているの」
怯えた声で、一樹の腕にすがりつく。
あの男……さっきの動く死体のことだろうか?
「あの男のことを知っているのか?」
少女は小さく頷いた。「港であの男に脅されて、この島に来たの。お願い……助けて」
一樹の腕に胸を押し付けるようにして、少女は助けを請う。
「……判った。少し様子を見てくるから、ここに隠れてて」
そう言うと、少女は頷いた。一樹はライトを取り、少女を残して倉庫の外へ出た。
がしゃん、と音がして、あの男が敷地内に入って来た。体当たりで鉄柵の扉を壊したようだ。
途端に、一樹の心臓が大きく鼓動する。この男は危険だ――そう警告するように。
男と目が合った。生気の宿らぬ虚ろな目。とても生きている人間のものとは思えない。男は低い唸り声をあげながらこちらへと向かって来る。死体に襲われる! 一樹の身体は、まるで石になったかのように動かない。そのまま立ち尽くすしかできない。男に組みつかれた。顔が近づいて来る。何をする気だ? 男は唸り声をあげながら大きく口を開けると、一樹の首筋に咬みついた。
――獣だ。
咬みつかれる瞬間、そんなことを思った。獲物を見つけた瞬間に襲い掛かり、首筋に喰らいつくなど、到底人間の行動ではない。こいつは獣だ。逃げなければ殺される。だが、身体は動かない。男の歯が、皮膚を裂き、肉に食い込んでくるのが判る。一樹は、死を覚悟した。
「――だめ!」
叫ぶような声と共に、少女が外に飛び出してきた。勢いをつけ、男を押し飛ばす。男はふらふらと後退りすると、尻餅を好いて倒れた。
「早く倒して!」
少女が、一樹が持っている角材を見ながら言った。これで殴れということだろうか? そんなこと、できるわけがない。
男がのろのろとした動きで立ちあがろうとする。
「――逃げるぞ!」
一樹は少女の手を取り、走り出した。壊された鉄扉から通路に出て、急勾配の階段――地獄段を下りる。だが、途中まで下りて、このまま桟橋付近へ戻っても逃げ道がないことに気がついた。男は追って来ている。一樹は地獄段の途中にある連絡通路から隣の夜見島金鉱のビルへ渡った。連絡通路はビルの二階へと通じている。だが、中へ入る扉は鍵がかかっていて開かなかった。倉庫の扉と違って窓も無い。ここから中に入ることはできない。幸い通路の先には外階段あった。一階へ下りる階段は崩れていて使えなかったので、三階へ上がる。三階の扉は開いていた。中へ入る。しかし、そこまでだった。部屋には他に出入り口が無く、隠れる場所も無い。男の唸り声が聞こえる。こちらへ向かって来ている。追い詰められたか……いや、部屋の隅、天井から床に鉄パイプが数本通っている場所。その床の一部が鉄格子状になっている。近づいてみると、下の階が見えていた。鉄格子はかなり古く、もしかしたら壊せるかもしれない。一樹は、鉄格子を強く蹴ってみた。
しかし、鉄格子は頑丈で、何度蹴っても壊れなかった。風雨にさらされた外と違い、さび付いていないのだ。これでは無理だ。
扉が勢いよく開いて、男が倒れ込むように室内へ入って来た。一樹たちを見て低い唸り声をあげる。もう、逃げ場はない。
「お願い、戦って」
少女が言う。戦う? あの獣のような男と戦うのか? この角材で殴れというのか? そんなこと、できるわけが――。
「――大丈夫」
少女は、一樹の両手を取り、優しく握りしめた。「あれは、生きている人間じゃないの」
生きている人間じゃない? 確かに、生きているとは思えない。しかし、だからと言って角材で殴るなど、人として許される行為なのか?
「お願い……あたし、まだ死にたくない……」
死にたくない――その言葉で、気付かされた。あの男は、一樹の首筋に喰らいついていた。幸い少女が突き飛ばしてくれたため致命傷にはならなかったが、あのままだったら首を喰いちぎられていただろう。
そう。あの男は、自分たちを殺そうとしているのだ。
死にたくない……その思いは、一樹も同じだ。
ならば、やるしかない。
男が大きく吠える。歯をむき出しにし、こちらへ向かって来る。
一樹は、角材を振り上げ、男の頭をめがけて振り下ろした。
がつん! と、鈍い手応え。
男の首が、奇妙な角度に折れ曲がる。血が、辺りに飛び散る。男は、ふらふらと後退りする。
しかし、倒れない。首を折り曲げたまま、もう一度襲い掛かってくる。
「……ああぁぁ!!」
一樹も、獣の咆哮をあげた。
角材を、男の頭めがけて打ち下ろす。鈍い手応えと共に、血が飛び散る。まだ倒れない。さらに角材を打ちつける。それでも倒れない。何度も、何度も、打ちつけた。男が倒れて動かなくなるまで、ただ、角材を振り下ろし続けた。
「――もう大丈夫、大丈夫よ」
少女の声で、一樹はようやく我に返った。足元には、半分頭が潰れた男が倒れていた。手には、血まみれの角材が握られている。
「うわぁ!」
悲鳴と共に角材を放り投げた。それでも、手のひらには生身の肉体を何度も殴った感覚が残っている。その感覚を振り払うように、両手を身体にこすり付けた。何度も何度も、こすり付けた。この忌々しい感覚を取り除きたかった。だが、何度手をこすりつけても、その感覚は消えない。もしこの場に斧か鉈のような物があれば、一樹は手首ごと斬り落としていたかもしれない。
少女が、一樹の手を取った。
「落ち着いて……大丈夫だから」
優しく握りしめ、そして、ほほ笑んだ。「あたしのために戦ってくれて、ありがとう。気にしないで。あれは、生きている人間じゃない……
「……屍人?」
「ええ。屍霊と呼ばれる黒い煙の塊のようなものが人間の死体に憑りつくと、あれになるの」
屍霊――あの蠢く闇だ。少女の言う通り、地獄段で男の死体を見つけた時、あれが中に入って、男は動きはじめた。
「元々死んでいる人間だから、気にすることはないわ。それに――」
少女は入口を見た。どこから現れたのか、あの蠢く闇が、部屋の中に入って来た。まっすぐ、倒れている男へ向かっていく。
「屍霊は海から来る穢れ。あれがまた憑りつけば、何度でもよみがえるの」
屍霊が男の身体の中へ消えた。すると、男の身体がびくんと震え、起き上がり始めた。
「……行きましょう」
少女に手を引かれ、一樹は外へ出た。幸い、よみがえった男に気付かれることはなかった。
一樹は少女に連れられるまま二階へ下り、連絡通路から地獄段へ戻ると、再び階段を上がった。そのまま資材倉庫のそばを通って灯台へ向かおうとした時、空気を切り裂くような音が空に響いた。
「あの音、なに?」少女は空を見上げた。
空気を切り裂く短い音がいくつも重なりあって響いていた。それは海の方から近づいてきて、一樹たちの頭上を通り、北へ遠ざかっていった。
「ヘリコプターみたいだな」そう言った後、一樹ははっとなった。「もしかしたら、俺たちの捜索をしているのかもしれない」
一樹が島に渡るために乗った船には、他に五人の乗員がいた。誰かが救助され、船の転覆を報せて、救助隊が出動した可能性は充分考えられる。ヘリはかなり低空を飛行しているようだった。もしかしたら着陸を試みようとしているのかもしれない。
「行こう。助かるかもしれない」
一樹の言葉に、少女は頷く。
二人は、島の北部へ向かって進んだ。