二〇〇三年八月三日深夜、
被害は、
災害発生から四十八時間が経過し、残念ながら三名の死亡を確認したが、同時に十五名の村人を救出することができた。それらはいずれも土砂災害があった地区の周辺に住む村人たちで、二次被害によって倒壊した家屋の下敷きとなっていたところを発見され、救助、あるいは収容されたのだった。
それに対し、土砂災害の直接被害に遭った地区の救助活動はなかなか進まなかった。生存者の発見はおろか、遺体の収容さえゼロである。現場の救助活動は難航していた。と、言うよりも、何ひとつ進行していなかった。なぜなら、災害現場には何も無かったからだ。そこはただ土砂が広がっているだけで、生存者も、遺体も、倒壊した家屋やビルさえも存在しなかったのだ。救助隊は大型の重機はもちろん、小回りの利く小型重機、あるいは手作業で土砂を除去し捜索を続けたが、土の下からは瓦礫ひとつ出てこない。それは、地区が土砂に埋もれたのではなく、丸ごと消失したかのような光景だった。
救助隊の間に得体の知れない恐怖が広がる中、時間は刻々と過ぎてゆき、やがて、八月六日を迎えた。災害発生から七十二時間が経過したことになる。一般的に、これ以降の生存者の救出率は著しく下がると言われている。
隊員たちの間に悲壮感が漂い始めた、その六日早朝。
下粗戸の災害発生現場から二キロ南にある地区で、災害発生当初から行方不明だった村の小学生女児一名を発見・保護したとの報せが入った。それは、諦めかけていた救助隊に、希望の光が射した瞬間だった。
自衛隊所属の三沢岳明一等陸尉は、上空でホバリングするヘリから垂らされたロープを取り、先端の金具を救助具に取り付けた。三沢のそばには、彼が一時間ほど前に保護した少女がいる。怪我は無く、体調も悪くないという。確かに見た限り外傷はないし、三日三晩何も口にしなかったとは思えないほど顔色も良い。ただ、心の方は大きな傷を負っているように思えた。三沢は救助時に少女から話を聞いたのだが、その内容はあまりにも現実味を欠いていた。災害発生直後、死んだ村人たちが屍人という化物となってよみがえり、襲ってきたと言うのだ。恐らく少女は、多くの村人の死を目撃し、その恐怖が幻影を生み出したのだろう。そういった現実味に欠く部分を排除して少女の話を整理すると、八月二日の夜、少女は小学校が企画した『星を見る会』という天体観測のイベントに参加し、そこで災害に巻き込まれたようだ。発生当初は担任教師と行動を共にしていたそうだが、八月四日の深夜、担任教師は少女を護るために死亡。以後、少女は四十八時間以上一人で行動していたらしい。
少女が心に負った傷は計り知れないが、残念ながら、三沢にできることは何も無い。救助者の心のケアは三沢の仕事ではない。いま三沢がすべきことは、少女を無事医療施設まで届けることだった。
三沢は普段は絶対に誰にも見せない笑顔で少女の目線にしゃがむと、少女の救命具にもロープを取り付けた。
「高くて怖いかもしれないけど、おじさんにしっかり掴まって、下を見ないようにすれば、大丈夫だからね」
優しい声で言った。少女は不安そうな表情ながらも頷いた。三沢は少女の頭を撫でると、しっかりと抱きかかえ、無線で準備完了を告げた。ヘリから《了解》の返事があり、三沢たちはロープで引き上げられる。『ホイスト救助』と呼ばれる、ヘリからロープで吊り上げる救助方法だ。
災害現場でこのホイスト救助を行うにはかなりのリスクを伴う。通常、この救助を行うヘリは、上空二十メートルから三十メートルでホバリングする。しかし、災害現場でこの高度でホバリングを行うと、ヘリが起こす風が周辺の瓦礫を吹き飛ばしてしまうことがあり危険なのだ。また、土埃を巻き上げ視界も奪われやすい。そのため、今回ヘリは通常の倍ほどの高さである上空五十メートルでホバリングしていた。ホイスト救助が行える限界の高さと言っていい。当然高度が上がると救出までの時間がかかり、それだけ危険は増す。上空に行けば行くほど風は強くなる傾向にあり、まして羽生蛇村は山間で風向きが変わりやすい。ホバリングし続けるのも困難を伴う。少しでもヘリが風に流されたり、万が一にも飛行姿勢が崩れたら、最悪の場合墜落の危険もある。無論、ロープで吊られている三沢も神経を使わなければならない。風は、当然三沢たちにも襲い掛かる。少しでも体勢を崩すと危険だ。最初はほんのわずかな揺れであっても、振り子の要領で揺れはどんどん大きくなる。途中から立て直すのは熟練の隊員でも極めて困難だ。だから、地上からヘリに収容されるまで、体勢を崩さないようにしなければならない。
つまり、今回の救助活動は、ヘリの操縦士と救助隊員どちらにも高度な技術が必要とされるのだ。同時に、二者の息をピタリと合わす必要もある。
だが、三沢は心配などしていなかった。ヘリを操縦しているのは彼の後輩の沖田宏だ。隊内でも特に優秀な男で、三沢とは何度もコンビを組んでおり、ヘリの操縦はもちろん、あらゆる面で全幅の信頼を寄せている。
引き上げは順調に進んだ。ヘリは上空でぴたりと静止しており、安定している。運よく風も穏やかだ。ホイスト救助では高さに驚いた救助者がパニックになって暴れることもまれにあるが、少女は三沢にしっかりと捕まり、目を閉じて下を見ないようにしている。このまま問題なく救助は完了するだろう。そう思った。
だが。
残り十メートルほどの地点で、三沢は違和感を覚えた。
風は相変わらず穏やかだ。ヘリは安定してホバリングしており、三沢も体勢を崩していない。それでも、何かがおかしい。何かが……来る。そんな感じがした。
三沢は、下を見た。
地面から、何かが迫っていた。黒い物だった。
初めはカラスかとんびなどの鳥かと思った。だが、その姿はあまりに鳥とはかけ離れていた。地面からまっすぐ伸びていて、その先端が細く五つに分かれている。
手だった。
地面から、黒い手が伸び出ているのだ。
三沢は、見間違いをしたのだとばかりに何度も瞬きをした。だが、確かにそこには黒い手があって、三沢に迫ってくる。一本ではない。二本、三本と、次々と地面から伸び出てきて、三沢に迫る。
「――見ちゃ、だめ」
少女がつぶやいた。「見たら、おじさんも……になっちゃう」
少女の言葉はよく聞き取れなかった。少女を見る。少女は目を閉じ、顔を伏せ、下を見ないようにしていた。
黒い手が、三沢の右足を掴んだ。はっきりとした感触がある。幻なんかではない。もう一本手が伸びてきて、逆の足を掴んだ。強い力で引っ張る。さらに手が伸びてきて、腕を掴む。さらに伸びてきて、頭を掴む。無数の手が、三沢を掴み、引きずりおろそうとする。
三沢は、声にならない悲鳴を上げた。
《……三沢さん!? 三沢一尉!! どうしました!? しっかりしてください!! 三沢一尉!!》
沖田からの無線で、三沢は我に返った。
眼下には、瓦礫と土砂が広がっていた。無数の黒い手など、どこにも存在しなかった。
「――な――い」
少女が何かつぶやいたが、それはヘリの音に掻き消され、三沢の耳には届かなかった。
結局この救助は何の問題も無く進み、少女は無事救助された。
村での救助活動はその後も続けられたが、これ以降生存者の発見は無く、最終的な行方不明者は三十三名となった。
救助された少女は『奇跡の生還』とされ、週刊誌やテレビなどで大々的に取り上げられた。また、困難な救助活動を成功させた三沢と沖田は隊員から称賛され、表彰もされた。
だが――。
この日以降、三沢は悪夢を見続けている。