木船郁子は、闇の中を一人で歩いていた。
そこは、闇しか存在しない世界だった。見えないわけではない。ライトがあったとしても、なにも照らし出すことはできないだろう。そこには、建物も無ければ、道も無い。足元を覆い尽くす草原も、あるいはむき出しの土の地面や海原のように広がる砂も無い。地面そのものが存在しないのだ。空も存在しない。だから、前も後ろも、上や下といった概念さえ無い。本当に闇以外には何もない世界だった。郁子は歩く。どこを目指しているのかは、自分にも判らない。闇しか存在しないのだから、目指すものも無い。地面さえ存在しないから、その行為を歩くと言っていいのかさえ判らない。それでも郁子は歩く。歩き続ければ、何か見えてくるかもしれない。
どれだけ歩き続けたか、やがて、正面に小さな光が見えた。それは本当にわずかな光だったが、そこへ向かえば何かある。そう思い、郁子は光の方へ進んだ。進むほどに、光はどんどん強くなる。そこへ行けば、この闇から抜け出せる。そんな気がした。自然と走り出していた。光はどんどん大きく、眩しくなり、郁子の全身を包み込む。やった。闇から抜け出した。そう思ったとき。
――なんかあの娘、気味悪いよね。
光の向こうから、声が聞こえた。
郁子は、思わず足を止める。
少女の声だった。聞き覚えのある声。いや、忘れられない声と言った方がいい。それは、郁子が通っていた高校の、クラスメイトの声。卒業以来会っていない――もう二度と会うこともないだろうと思っていた娘の声。
その声に。
――うん、あたしもそう思ってた。
別の声が応じた。それも覚えのある声だった。別のクラスメイトだ。
さらに。
――急に黙り込んだりするよね。
――うん、あるある。
別の声が応じる。みんな覚えがある。みんなクラスメイトだ。みんな、郁子と仲が良かった――いや、仲が良いと思っていた娘たちだ。
声は聞こえる。
――ああいう時さ、なんか、全部判ってる、みたいな顔しない?
――するする。
――ホント、気持ち悪いよね。
やめて……郁子は両手で耳を塞いだ。
しかし、どんなに強く耳を押さえても、その声は手のひらをすり抜けて聞こえてくる。まるで、耳ではなく、直接心に響いているかのように。
――実際、あたしが誰にも話してないこと、あの娘が知ってたことあったよ?
――えー? なにそれー? やばーい。
やめて! 郁子は後ずさりする。声は聞こえる。
――知ってる? あの娘の胸の痣。
――あ、見たことある! すっごくおっきな痣があるの。
もうやめて! 郁子は耳をふさいだまま、
――あの痣、なんか人の顔みたいに見えるよね。
――なにそれ? 呪われてんじゃないの?
――ちょっとやめてよ、怖いなぁ。
やめてやめてやめて、もうやめて! 郁子は叫ぶ。自分の声で相手の声をかき消そうと叫び続ける。それでも声は聞こえる。郁子は耳をふさぐ。すこしでも声を聞くまいと。それでも、声は聞こえる。郁子は逃げる。少しでも声から遠ざかるために。それでも――声は聞こえる。
――ホント、気味悪いよね。
――うん、気持ち悪い。
――やばーい。
――怖い怖い。
郁子は逃げる。
耳を塞いで。
光が射す世界から、光が射さない世界へ。
闇へ向かって。
闇しか存在しない世界へ。
郁子は、走る。
「――――!?」
息を飲むと同時に、郁子は意識を取り戻した。
そこはもう、闇の世界などではなかった。クラスメイトの声も聞こえない。ごつごつした岩が続く波打ち際で、聞こえるのは潮騒のみ。郁子が住んでいる中迂半島の三逗港近辺では珍しくもない風景だ。
上半身を起こし、周囲を見回す。ここはどこだろう? なぜこんなところで気を失っていたのだろう? 記憶を探る。すぐに思い出した。船で夜見島へ向かう途中、高波に襲われ、海に落ちたのだ。腕時計を見ると、深夜二時を過ぎていた。高波に襲われたのが六時前だったから、八時間以上経過している。よく助かったものだ。郁子は安堵の息を洩らした。
ひときわ強い波が押し寄せた。波は岩に当たって砕け、しぶきが顔にかかった。郁子は顔を拭い、何気なく手を見てどきりとした。手が真っ赤に染まっていたのだ。怪我をしている? それも、かなりの出血量に思えた。しかし、身体中調べてみても、どこにも傷は無い。痛みも感じない。訳が判らなかったが、とりあえず血で汚れた手を洗おうと波打ち際にしゃがみ、海が血のように真っ赤に染まっていることに気がついた。驚いて尻餅をつく。そうだ、船が高波に襲われた時もそうだった。濁ったサイレンの音が聞こえたかと思ったら、突然、海が赤く染まったのだ。
それで、郁子は気がついた。
あたしは、夜見島に流れ着いてしまったんだ!
再び強い波が押し寄せ、岩に当たってしぶきとなった。それが、海から伸びてきた手が郁子を掴み、引きずり込もうとしているように見えた。思わず後ずさりする。
夜見島は、三逗港で働く人やその近隣の住民から『呪われた島』と呼ばれ、忌み嫌われていた。実際に島やその近海では失踪事件や遭難事故が後を絶たないし、海底ケーブル切断事件など、常識では考えられないような出来事も多発している。何より、郁子自身、この島に言い知れぬ恐怖を感じていた。三逗港で働いている郁子は、仕事で海に出て夜見島の近くを航行することも少なくない。その度に、島から邪悪な気配が漂ってくるのを感じている。夜見島に近づいてはいけない。郁子は本能的にそう悟っていたのだ。だから、昼間、船長から夜見島へ向かうと言われたとき、考え直すよう説得した。だが、客からかなりの大金を積まれたらしく、船長は考えを変えなかった。さらには、郁子に対しても、普段の五倍のバイト料を出すと言う。高校を卒業し、一人暮らしを始めて四ヶ月。生活費は郁子が思っていた以上にかかるし、港で安定した職に就くためには様々な資格を取得しなければならず、その費用も貯めなければならない。五倍のバイト料は魅力的だった。悩んだ末、客を島まで連れていくだけで、自分たちは絶対に上陸しないことを条件に引き受けたのだ。やはり断るべきだった。もちろん、今さら後悔してもどうにもならない。とにかく、一刻も早くこの島を離れなければ。
郁子は立ち上がり、持ち物を確認した。財布やパスケース、ライトなど、普段持ち歩いているものは、海に落とさないよう全てチェーンで結びつけている。何も無くしていない。郁子はライトを取り出し、壊れていないことを確認する。万が一の事態に備え、小型だがかなり遠くまで光が届く物を買っておいた。これで近くを航行する船に救助サインを送ろう。それには、もう少し高い場所の方がいい。郁子はライトで周辺を照らした。海と反対側は堤防があるが、高くて登れそうにない。さらに周囲を照らすと、岩場を堤防沿いに少し進んだ先に、コンクリートのブロックが海にせり出しているのが見えた。船を繋ぎ止める係留柱や桟橋もある。どうやら港のようだ。郁子は、足を滑らさないよう気を付けつつ、そちらへ向かった。
港までたどり着いた郁子は桟橋を渡った。桟橋の先には石段があり、それを登ると、急な斜面にコンクリート製の建物がびっしりと並ぶ廃墟に出た。見覚えがある。夜見島沖を航行中、何度も見た光景だ。恐らくここは、島の南西部にある夜見島港だ。ならば、この桟橋から少し南へ行けば灯台があるはずだ。そこからなら救助サインを出しやすいだろう。運が良ければ緊急時の通信設備や救命ボートがあるかもしれない。あまり島を歩き回りたくはないが、行ってみる価値はある。郁子は灯台へ向かおうとして。
――あれ?
道端に、小型のデジタルカメラが落ちているのを見つけた。最新式のもので、廃墟に落ちているに似つかわしくないように思う。恐らく最近誰かが落としたのだろう。そのカメラには見覚えがあった。確か、昼間三逗港で出会った雑誌の編集者が持っていた物だ。名前は確か、一樹守といっただろうか。勝手に写真を撮られたので抗議し、その場で消去させたからよく覚えている。オカルト系雑誌の取材で夜見島に渡る船を探しており、郁子が働いている船に乗ることになったのだ。あいつも、この島に? 郁子はカメラを拾った。
その瞬間。
――助けて、あたし、あの男に追われているの。
郁子の脳裏に、一樹と、彼の腕にすがりついて助けを求める少女の姿が浮かんだ。
それはすぐに消えたが、また別の姿が浮かぶ。今度は、一樹と少女がゾンビのような化物から逃げる場面だ。
その場面はまた消え、今度は一樹が化物と戦うところが見える。さらに場面は切り替わり、迷彩服を着た二人組と言い争う場面が、着物姿の女に追いかけられる場面が、工場のようなところで多くの化物から逃げる場面が……様々な場面が現れ、次々と切り替わる。
そして。
――もうすぐ、あたしたちはひとつになれる。ずっと、ずっと、一緒にいられるの。
一樹の首の後ろに腕を回し、耳元でささやく少女の姿が浮かんだ。
映像が消え、郁子は我に返った。今のはなんだったのだろう? 判らないが、あまり驚きはしない。こういった不思議な能力は、幼い頃から何度も経験している。だからこそ、郁子はクラスメイトの前から去り、人の少ないさびれた港で働くことにしたのだ。なぜこんな能力があるのかは判らないが、なんにしても、あの一樹という男が危険なことに巻き込まれているのは間違いないだろう。
「……知らないよ、あんなヤツ」
小さくつぶやく郁子。くだらない理由で上陸禁止の島に向かっていたヤツがどうなろうと知ったことではない。今は自分の身の安全が第一だ。一刻も早くこの島を離れなければ。郁子はカメラをその場に置いて行こうとした。
……でも。
――掴まれ!
郁子に向かって手を伸ばす一樹の姿を思い出す。
船の上で赤い高波に襲われた際、郁子は海に投げ出されそうになった。必死で手すりにしがみついていたところを、船室から出てきた一樹が助けようとしてくれたのだ。自分が海に落ちる危険も顧みず。
郁子はしばらくその場に立ち尽くしていたが。
「……ああ、もう! ふざけんなよ! バーカ!」
悪態をつき、カメラをポケットにしまう。
そして、灯台とは反対の方向へ向かって、走り出した。
この港のちょうど反対側、島の北東部に、廃墟となった遊園地がある。高台にある観覧車は、仕事中の海上からもよく見えるのだが。
島から漂ってくる邪悪な気配は、いつもそこから湧き出していることに、郁子は気が付いていた。