その日、多河柳子はアパートの部屋で、一人、日記を読み返していた。何の変哲もない大学ノートに鉛筆で書き記した簡素なものだが、この一年の間、毎日欠かすことなく書き綴ってきた。思い出を詰め込んだ大切な日記だ。
日記を読み返しながら、柳子は時折部屋の中を見回す。古い木造アパートの六畳一間。ここで、柳子は阿部倉司と暮らしてきた。二人で暮らすにはあまりにも狭いこの部屋にも、思い出が詰まっている。食器棚のおそろいのマグカップ、インスタントコーヒーの瓶、壁に掛けられたドライフラワー……もちろん、それらを買った日のことも、全て日記に記してあった。この日記と部屋は、倉司との思い出そのものだ。この一年は、本当に幸せだった。
だが、この生活が決して長くは続かないことを、柳子は悟っていた。
ずっと、胸の奥がざわめいている。幸せだった一年の間も、ずっと消えなかったざわめき。忘れようと思っても忘れられなかった言葉。決して忘れることのできない、彼女の使命。
――七つの門と、七つの鍵を解放せよ。
一年前、突如胸の奥底から湧き上がったこの言葉と共に、柳子は人として生きる道を無くした。
今と違い、一年前の柳子は使命に忠実だった。柳子はオリーブの葉に適した人間を探した。その結果出会ったのが、阿部倉司だった。
柳子は倉司を島へと誘うために接触を試みた。当時の柳子は住む場所を持っていなかった為、二人で暮らし始めるのにさほど時間はかからなかった。柳子は倉司の部屋で暮らしながら機会を伺った。
一週間が過ぎた頃、倉司が柳子に仕事を勧めてきた。近所のスーパーのレジ打ちの仕事だ。ずっと家に閉じこもってばかりの柳子を心配したのだ。だが、柳子は断った。使命に目覚めた柳子は、太陽の下での行動が制限されるのだ。日中外に出ることはできない。そう告げると、倉司は簡単に信じた。
二週間が過ぎた頃、倉司は再び仕事を勧めてきた。今度は少し離れた繁華街の小さな居酒屋だ。出勤は日が暮れてからだし、夜が明ける前に帰宅できる。これなら、昼間外に出る必要はない。それでも柳子は気が進まなかったが、むきになって断ると怪しまれるかもしれない。とりあえず働いてみることにした。
三週間が過ぎた頃、柳子は仕事に慣れていた。これまで働いたことがない柳子に対し、お店の人は優しく指導してくれた。倉司に言われ、しかたなく仕事を始めた柳子だったが、案外悪くない気分だった。少なくとも、ずっと家にこもっているよりは気がまぎれた。
四週間が過ぎた頃、柳子は常連の客と仲良くなっていた。柳子よりも一回り以上年が離れた女性だが、不思議と話が合った。やがて、仕事以外の時間にも会うようになった。その女性と一緒にいる時間は、すごく楽しかった。
一ヶ月過ぎた頃、柳子は気がついた。
自分は、人間としての暮らしを手に入れていたのだ。
目が覚めるとそばに倉司がいて、仕事場に行くとお世話をしてくれる仲間がいて、仕事が終わると何でも話せる友人がいて、そして、部屋に帰るとまた倉司がいる。
そんな暮らしに、心が安らぐようになっていた。
この暮らしに、満足していることに気がついた。
この暮らしを、いつまでも、いつまでも、続けたいと思うようになっていた。
だが――。
それが決して叶わぬ願いだということは、判っている。
――七つの門と、七つの鍵を解放せよ。
胸の内から、常にその言葉は湧き上がる。二ヶ月経っても、四ヶ月経っても、半年たっても、一年経っても、胸の内に焼きついた使命は、決して消えない。
そして、使命を果たさぬ者がどのような末路をたどるのかも、柳子は理解していた。それが、そう遠からず訪れるであろうことも。
ノックも無しに玄関のドアが開いた。日記を見ていた柳子は、顔を上げて玄関を見る。鍵はかけていたはずだが、ドアは何の抵抗もせずその者の侵入を許した。倉司ではないだろう。彼はまだ仕事中だ。
侵入者は畳張りの部屋に土足で上がりこむ。真夏にもかかわらず長袖のシャツを着て、さらにその上にカーディガンを羽織った女だった。女は奥に座る柳子のそばに立ち、冷たい目で見降ろした。その顔は、まるで鏡を見ているかのように柳子と瓜二つだった。驚きはしない。
「なぜ、使命を果たさないの?」女が口を開いた。その目と同様の、冷たい口調だった。「
柳子は、女の目を真っ直ぐに見つめ返す。「判ってるわ。でも、あたしにはできない。あたしはもう、島には帰らない」
女が表情を歪めた。「本気で言っているの?」
「もちろんよ」ためらうことなく答える。
女は表情を歪めたまま、柳子のそばにしゃがんだ。右手を伸ばす。柳子は抵抗せず、目を閉じ、女に任せた。女の手が頬に触れた。その瞬間、女の心の内が流れ込んでくる。女は岸田百合という名で、二年前に鳩として放たれた。長い時間をかけて人間の言葉や生態を学び、人間の社会に馴染んだ。母から与えられた使命を果たす――その強い決意を、柳子は感じ取った。
それは、柳子と百合が同調したことを意味していた。特別なことではない。二人は、共に母から分裂した存在だ。元々同じ存在だったのだ。だから、触れ合うだけでその心を共有することができる。だから、柳子が百合の心を知ったと同時に、百合も柳子の心を知ったはずだ。
百合が手を離した。「……幸せなのね、あなた」
柳子は目を開け、「ええ」と、力強く頷いた。
百合は変わらず冷たい目を向けている。いや、その目の奥から、ふつふつと怒りが湧き出しているのを、柳子は感じていた。
百合はわずかに顎を上げた。「判っているはずよ? それは所詮、
柳子たち闇の住人は、地上で生きるためには人の身体を殻として利用しなければならない。殻には、感情や記憶が残っていることがあり、中に入った者は、それを共有することになる。だが、多くの場合、殻の感情や記憶が闇の住人に影響を及ぼすことはない。せいぜい、口調や仕草が変わるといった程度のことだ。
だが、まれに、殻の記憶に惑わされ、闇の住人からかけ離れた行動に出る者もいる。
柳子や百合ら『鳩』には使命がある。人間を島に連れ帰り、七つの門と七つの鍵を解放しなければならない。全ては母のため――母に尽くすことだけが、鳩のたったひとつのやるべきことなのだ。それを放棄し、人として暮らし続けることに幸せを感じるなど、殻の感情以外の何ものでもない。それは、柳子にも判っていた。
それでも。
「たとえこの感情が偽りでも、あたしは構わない。あたしは今、幸せなの。この幸せを、ずっと続けていたいと思ってる」
強い決意と共に、そう告げた。
百合の表情がさらに歪む。「そんなこと、お母さんは許さないわ」
「判ってる。だから、あなたが来たんでしょ?」
柳子は、決して考えを変えようとはしない。たとえどのような結末が待っていようとも。
二人はそれ以上何も言わず、ただ、お互いの強い決意を込めた視線をぶつけ合った。長い時間、ずっと。
やがて。
「――最後に、もう一度だけ言うわ」
部屋が凍りつくかと思うほどの声で、百合が告げる。「使命を果たして」
それでも、柳子の決意は変わらない。
「できないわ。だって、あたしは『人間』だから」
その瞬間、百合はハンマーを取り出し。
柳子の顔に、打ちつけた。
長い時が過ぎ――。
夕日が射し込み始めた部屋で、岸田百合はただの殻となったかつての仲間を見下ろしていた。柳子と名乗っていたその女の顔は、もはや判別がつかないほどに潰れている。百合は、自分の行動が理解できなかった。なぜ、ここまでしてしまったのだろう? ただ殺すだけならば、一度殴ればすむはずだ。なのに、何度も、何度も、殴ってしまった。なぜだ? 考える。
使命を放棄し、人として生きていくことに幸せを感じていた柳子。百合は、柳子と同調し、彼女の胸の内から溢れ出た幸せを感じ取った。
それに比べ、自分は何も持っていない。ただ使命を果たすだけの、空っぽの存在。
――あたしは、柳子に嫉妬したのだろうか?
百合が地上に放たれて二年。その間、彼女は人間について学んだ。嫉妬とは、他人をうらやましく思い、憎しみへと至る感情だ。バカな、と、百合は自分の考えを笑い飛ばした。あたしは使命を果たすために地上に放たれたのだ。人として生きることを選んだ柳子に嫉妬するなど、あり得ない。だから、嫉妬したとすれば、それは殻の感情だ。殻が嫉妬し、結果、柳子を執拗に殴ってしまったのだ。つまり、あたしも殻の感情に惑わされていたことになる。
……いや。
使命を果たそうとしない者を――母の意志に背く者を徹底的に排除するのは、鳩として当然のことだ。あたしは、母の怒りに従っただけだ。決して、殻の感情に惑わされた訳ではない。
百合はハンマーを投げ捨てると、部屋を後にした。
階段を下り、道を少し歩いたところで、前から男が歩いて来るのに気がついた。
「――お? 柳子じゃねぇか。どうした? 久しぶりに、仕事に行く気になったのか?」
男は嬉しそうな声で百合に話しかけてきた。
それは、阿部倉司という名の男――柳子と一緒に暮らしていた人間だ。
百合は何も答えなかったが、男は構わず続ける。「やっぱ、人間働かないとダメだからな。一週間も休んだこと、みんなにちゃんと謝るんだぞ? なぁに。きちんと謝れば、許してくれるさ」
男は百合のことを柳子だと思っている。まったく同じ顔をしているから当然だろう。これは使えそうだ。
鳩として地上に放たれた百合にはふたつの使命がある。ひとつは、使命を放棄した不完全品の排除。これはすでに果たした。もうひとつは、人間を島へ連れ帰ること。男は百合のことを柳子だと思っている。百合は柳子と同調したから、柳子の記憶は全て持っている。柳子になりすますのは容易だ。この男を島へ連れて行くことは容易だ。
だが、不意に。
――おい柳子。そこの百均に良いマグカップがあったから、買って来たぞ。カワイイだろ?
両手に同じクマ柄のマグカップを持って笑う倉司の顔が、胸の内に浮かんだ。
さらに。
――柳子、コーヒー淹れたから、一緒に飲もうぜ? 今日のは、ちょっといいヤツだぞ?
そのマグカップにコーヒーを淹れてテーブルに運ぶ倉司の笑顔が浮かぶ。昨日の夜、同じアパートの住人が心配して駆けつけるほどの激しいケンカをしたにもかかわらず。
――ほら、こうしておけば、ずっとこの花を飾っておけるぜ。
ドライフラワーを壁に掛ける倉司の笑顔が浮かぶ。花瓶に入れて飾っていた花がしおれてきたので、慌ててドライフラワーにしたそうだ。それは、倉司の誕生日に柳子がプレゼントした花だった。
次々と浮かぶ倉司との思い出。仲が良かった日々ばかりではない。特に、鳩の使命が強くなったこの数ヶ月の間は、激しく言い争い、彼を傷つけた。
それでも、胸の奥から湧き上がる倉司は、常に笑っている。
「――――」
一人喋り続ける倉司に、百合は、何もせず、何も告げず、歩きはじめた。
「……なんだよ。まだ機嫌ワリーのかよ。ま、いいや。今日は早く帰って来いよ。うまいもん作って待ってるからよ」
背中に聞こえる声に振り向きたい衝動に駆られたが、振り向かなかった。
知らず、目から水が流れ出していた。
これは、涙というもの。人間が、喜んだり、悲しんだり、激しく感情が揺さぶられたときに、目から流れる水だ。
百合も、涙を流すことはできる。だがそれは、人間を思い通りに操るために使うためのものだ。人間の、特に男というものが涙に弱いことを、百合は知っていた。涙で男を操ることができるから、必要なときに流すのだ。何もしていないのに自然に流れてくるなど、今までなかったことだ。
――あたしは今、感情を揺さぶられているのだろうか? 悲しんでいる? 失われた柳子の幸せを嘆いている?
考えを振り払う百合。これは殻の感情だ。あたし自身の感情ではない。あたしは、惑わされない。
百合は強い決意と共に、島への帰還を目指す。