その夜、夜見島の漁業を取り仕切る網元の屋敷には、多くの漁師たちが集まっていた。時刻は夜の八時。朝が早い漁師たちはすでに床に就いている時間だ。にもかかわらず、大広間には二十人以上の男が神妙な面持ちで正座している。日に焼けてがっしりとした体格の中年の漁師、まだ細腕で少年の面影を残す若い漁師、島で最年長の漁師――島の漁師ほぼ全員が集まっていた。つまり、それだけ重要な集まりであることを意味している。
漁師たちの正面には、左目に眼帯代わりの黒い布を巻きつけた年配の男が座っていた。網元の太田常雄だ。太田から少し離れた脇には、娘のともえも控えていた。集められた理由は、まだ誰も聞いていない。しかし、誰もがその理由を察していた。皆、太田の言葉を待っている。だが、太田は座したまま、やや視線を落とし、ずっと沈黙している。太田がなにも喋らないので、他の誰も言葉を発しない。大広間は息をするのもはばかれるほどの静寂に包まれていた。
長い沈黙の後、ようやく太田は顔を上げた。そして、集まった漁師一人一人の顔を確認するようにゆっくりと視線を移動させた後、重い口を開いた。
「遅い時間に集まってもらってすまぬな。皆も知っておるだろうが、
漁師たちは一斉に頷いた。集められた理由は、やはり想像通りのものだった。
岩井家は、蒼ノ久漁港のすぐそばにある二階建ての大きな家だ。その一人娘である
夫の三上隆平が息子の脩と共に島へ移住してきたのは、その二年後のことだった。
もともと閉鎖的な島だ。島民は、島の者が外に出ることはもちろん、島の外から余所者がやって来ることも極端に嫌う。三上家の移住は、島民からは決して歓迎されたものではなかった。それでも、本来は島の住人だった弥生の夫とその息子である。亡き弥生を想いただ静かに暮らしているだけならば、いずれ皆から認められたかもしれない。だが、大学教授であった三上が職を辞してまで島に移り住んだのは、決して亡き妻を想ってのことではなかった。三上の目的は、島の風習や歴史を研究することであった。
島には、地の底や海の底に潜む古の者の話や、死者に神木の枝を刺して葬るなど、独特の伝承や風習が多数存在する。それらは決して島外に漏らしてはならないことなのだが、三上は、それを学会で発表しようというのだ。そのために、島民には禁足地とされる場所にも足を踏み入れ、地面を掘り起し、出土した物を持ち帰り調査している。島民にとってはそれだけでも許し難い所業であるのだが、あろうことか、三上は海から流れ着いた女を家に招き入れ、共に暮らし始めたのである。しかもその女は、海難事故で死んだ弥生と瓜二つなのだ。
「あの女は、昼間はずっと家に閉じこもっているわ」そう言ったのは、太田の脇にひかえていた娘のともえだった。「光を恐れる者は古の者の使い――伝承の通りよ。それに、あたし見たの。あの女が、海から現れた黒くてもやもやしたものを追い払ってた。あの女は、絶対に人間じゃない。化物よ!」
ともえの話に、漁師たちは深く頷いた。疑う者はいない。皆、伝承や風習の意味は幼い頃から繰り返し聞かされている。海の底には『穢れ』が潜んでいる。穢れは海からやってきて人の死体に憑りつき悪さをする。穢れが憑りつかないよう、死者の身体には神木の枝を刺して弔わなければならない。妊娠した女を海に入れてはいけない――穢れが腹の子に憑りつくから。
そして。
時に、穢れは海で死んだ者の姿を模して現れることがある。海で死んだ者が帰って来ても、決して家にあげてはならない。
それらはすべて、島の掟なのだ。
その掟を、三上隆平は犯した。許し難いことであった。それが三上自身の身を滅ぼすだけならばまだしも、島全体の危機に関わるのだから。
太田が言葉を継いだ。「わしは何度も警告をしたが、あの男は聞く耳を持たぬ。『穢れ』から島を守る太田家の当主として、これ以上放っておくわけにはいかぬ。穢れは、排除せねばならぬ」
穢れの排除――その言葉に、漁師たちは一斉に息を飲んだ。広間の重苦しい空気が、さらに重量を増した気がした。そのまま押し潰されてしまいそうな錯覚さえする。
それを破ったのは、漁師の中でも特に血気盛んな若者だった。
「やってやりましょう! おやっさん!!」若者は拳を握りしめて立ち上がった。「穢れを排除し、島の平和を守りましょう!」
若者の言葉に、隣の年配の漁師も「そうだ!」と声を上げる。「余所者は、いつも島を荒らす! 好きにさせていたら、島が滅んでしまう!」
さらにその隣の漁師が「化物から島を守るんだ!」と応じた。さらにその隣の漁師が「親父さんの命だ! 絶対しくじらねぇぞ!」と声を上げれば、「やってやる……やってやる!」と、自分に言い聞かせるようにつぶやき続ける漁師もいる。広間は、先ほどまでの静寂が嘘であったかのように、男たちの怒号に包まれた。
だが、息巻く男たちを、太田は「静まれ!」と一喝した。
再び広間は静寂に包まれる。太田は猟師一人一人の顔を見た後、「そなたらの気持ちは判った。だが、もう一度よく考えるのだ」と、重い口調で続けた。「相手は穢れ。無事ではすまぬかもしれぬ」
海の底に潜む穢れは、様々な妖かしの術を使うとされている。女一人とはいえ、決して侮れない存在であることを、太田は理解していた。
「子供や年寄りがいる者は今すぐ帰るのだ。決して、とがめたりはせぬ」
穢れの排除には、どのような危険があるか判らない。漁師たちの中には、明日子供が誕生日を迎える者もいる。間もなく初めての子が産まれる者もいる。寝たきりの親を介護している者もいる。もしものことがあれば、残された者はどうなるのだろう。
だが、それでも帰る者はいなかった。皆、決意を込めた目で太田を見ている。
「……良いのだな?」
太田の言葉に、漁師たちは力強く頷いた。
「すまぬ、恩に着るぞ」
太田は漁師に向かって深く頭を下げると、視線を娘のともえへ移した。
「ともえ、わしに何かあったら、後のことは任せたぞ」
突然のことに、ともえは驚いて目を丸くする。「そんな……不吉なことを仰らないでください」
「相手は穢れだ。太田家当主と言えど、無事ではすまぬかもしれぬ。首尾よく穢れを排除できたとしても、その行為は余所者には決して理解されまい。最悪の場合、わしは官憲に捕まるやもしれぬ。その時は、そなたが太田家当主代行を務めるのだ」
「そんな! お父様が捕まる覚悟ならば、私も!」
立ち上がろうとするともえを、太田は手のひらを向けて制した。「それはならぬ。穢れを一人排除したところで全てが終わるわけではない。またいずれ、新たな穢れがやって来よう。その際、太田家の当主が不在では、島の秩序を守ることはできぬ」
「しかし、私は女です。女の身では当主など務まりません」
「太田家の当主に男も女も関係ない。その器に足るかどうかだ。わしは男児に恵まれなかったことを一度も悔いたことはない。ともえ。そなたなら、立派に当主の務めを果たせるであろう。わしはそう信じておる」
会合が始まって以来ずっと厳しかった太田の顔が和らいだ。太田家当主の顔から、父親の顔になっていた。
「お父様……」
ともえは目を涙で潤ませたが、やがて強い決意と共に言う。「判りました。その時は、太田家の娘として、必ずや務めを果たします」
娘の言葉に満足した太田は、再び漁師たちに向き直った。「では皆行くぞ! 穢れから島を守るのだ!!」
太田の檄に、漁師たちは一斉に声を上げて応じた。