一樹守と別れた木船郁子は、蒼ノ久漁港から四鳴山へと続く森の道を歩いていた。ずっと、自分の正体について考えていた。他人の心の中に入り込み、触れるだけで考えていることを読み、そして、他人を思い通りに操る――そんな特殊能力を持つ自分。なぜ、自分にはこのような能力があるのだろう。他人の心が読める能力は、物心ついたときからあった。時が経つにつれ、それが強くなっているように思う。
木船郁子は、中迂半島の亀石野という地域で生まれた。もうすぐ十九歳になる今日まで、決して恵まれているとは言えない環境で育った。母が郁子を産んだのは十四歳の時だったというから、産まれる前から様々なトラブルを抱えていたことは容易に想像できた。父親はいなかった。郁子が生まれる前に死んだと聞いているが、本当かどうかは判らない。
郁子を産んだものの、まだ少女と言っていい年齢の母に、一人で子供を育てられるはずもない。母は中学を卒業すると、郁子を両親に預け、割のいい仕事を求めて上京した。定期的に届く手紙には「生活が安定すれば迎えに行く」と書いてあったが、母は結局、
祖父母に育てられた郁子は、中学を卒業し、亀石野から少し離れた三逗高校に通うことになった。電車を乗り継げば祖父母の家からでも通えない距離ではなったが、郁子は高校の寮で暮らすことを選んだ。決して祖父母との仲が悪いわけではない。むしろ、祖父母は実の親以上に愛情を注いでくれた。だが、他人の心が読める郁子には、その愛情が苦痛だった。祖父母の心の奥底には、郁子のことを「母親に捨てられたかわいそうな子」という思いが、確かにあったのだ。
祖父母の家を離れ、高校の寮で暮らし始めた郁子だったが、そのころから、肌が触れただけで他人の心が読めるようになった。それが原因で、次第にクラスから孤立していく。結局、高校生活もうまくいかなかった。卒業はできたものの、進学はせず、三逗港の近くに小さなアパートを見つけ、港でアルバイトをして生計を立てた。そのまま極力人との接触を避け、一人で生きていくつもりだった。
だが、昨日船で夜見島へ向かう途中、怪異に巻き込まれる。高波により海へ転落し夜見島に流れ着いた郁子は、他人の心に入り込み、自在に操る能力を身に付けていた。
亀石野を離れてから三逗地域での寮暮らし、そして、この夜見島への上陸――島へ近づけば近づくほど、郁子の特殊能力はより強くなっているように思う。一連の特殊能力は、この島と深い関わりがある……そういう気がしてならない。この島には、他人の視界を覗き見る、他人の心を惑わす、死体に乗り移る、死者の姿をまねる、といった、不可思議な伝承が数多くあるのだ。郁子の能力も、そのひとつかもしれない。
不意に、背後から左肩を掴まれた。
反射的に振り返り、手を払いのけた。幸いパーカーの上からだったため、心の声が聞こえることはなかった。
「いってぇな。そんなに嫌がらなくてもいいだろ。悪かったよ、驚かせて」
右手を押さえてそう言ったのは、リーゼントの髪型にデニムジャケットの男だった。見覚えがある。一樹守と三上脩を夜見島へ案内する際、無理矢理船に乗り込んできた男女二人組の一人だ。地の底で異形の生物と対峙した際にもいた。
男は痛そうに右手をさすりながらも、頬を緩めた。「あんた無事だったんだな。良かった。もう一人の、韓国のイケメン俳優みたいなヤツは、どうしたんだ?」
「……安全な場所にいるわ」顔にはっきりと不快感を表し、そっけない言葉を返す郁子。
男はそんな郁子の態度を気にした風も無く、「そうか、なら良かった」と答え、そして続けた。「ところで、オレの連れの女、知らないか? ネックレスやブレスレッドをじゃらじゃらつけたハデな女。鉄塔に行くってメモ残して、いなくなっちまったんだ」
「……知らない」
「そうか……アイツ、いったいどこ行きやがったんだ」男は腰に手を当て、ため息をついた。「ホントに鉄塔に行ったとは思えねーんだよな。オレを置いて一人だけで逃げるヤツじゃないし……いや、いざというときは容赦なく見捨てて逃げるヤツなんだけど、そういう状況になるまでは、オレのこと利用するだけ利用すると思うんだ。そういうヤツなんだよ、あの女は」
郁子がはっきりと拒絶感を表しているにもかかわらず、冗談交じりで話す男。人懐っこいのか、空気が読めないのか。どちらにしても、人と関わることを避けている郁子が最も苦手とするタイプだ。
戸惑う郁子に構わずぺらぺらと喋り続ける男だったが、突然、はっとした表情になった。「そういやあんた、なんか、どこかで会ったことあるな?」
「船で会ったでしょ」
「いや、そうじゃなくて、なーんか、誰かに似てんだよな……」
男はぐいっと顔を近づけ、まじまじと郁子の顔を見る。後退りして距離を取る郁子。男は郁子の顔を見ながら顎に手を当てて考えた後、ぽん、と手を叩いた。
「そうだ。柳子だ。柳子に似てんだ」
「――――!」
地の底から黒い手が伸びてきて、郁子の心臓を掴んだ――そんな気がした。
柳子――その名前を、郁子は忌まわしく思っていた。忘れたかったが、決して忘れることはできない名前だ。例えば子供の頃、夜中に目覚め、トイレに行こうとすると、居間で祖父母が柳子のことを話している。例えば定期的に届く母の手紙に、柳子がどこどこの中学に通っている、とか、なに部に入った、など、知りたくもない情報が書かれてある。例えば戸籍を見た際、郁子の近くにはその名が記されている。実際に会ったことは数えるほどしかないのに、その名は常に郁子に付きまとう。祖父母の家を出て、その名を聞くことはもうほとんど無いだろうと思っていたのに、なぜ、昨日会ったばかりの人から、その名を聞かなければならないのか。
男は、まるで郁子の心に土足で踏み込むかのごとく続ける。「いや、顔は全然違うんだけど、雰囲気というかなんというか、全然似てないけど、めちゃくちゃ似てるんだよな。ひょっとして、姉妹かなんかじゃねぇの?」
地の底からさらに黒い手が伸びてきて、郁子を掴み、地の底へ引きずり込もうとする――そんな錯覚を抱く。柳子と似ている。柳子と姉妹。母は柳子を引き取った。
それでも、その名はしつこく付きまとう。
「いやああぁぁ!!」
郁子は悲鳴を上げると、耳をふさぎ、男を置いて駆けだした。