その空間は、『時空ののりしろ』と呼ばれていた。
写し世の夜見島が存在するのは虚無の世界だ。太古、光に追われた闇の住人が逃げ込んだその世界では、あらゆるものが形をとどめることができない。全てが抽象的な存在であり、概念的なエネルギーの集合体でしかない。
だが、二十九年前に写し世を生み出した
しかし、母がどんなに強い力で均衡を保とうとしても、端々で綻びは生まれる。砂の城の先端が崩れて砂玉になるかのごとく、写し世の周辺には様々な世界が生まれては消えていた。虚無の世界とは逆に、あらゆるものが形をとどめ、決して崩壊しない世界や、全てが元に戻る世界、時間が完全に止まった世界、あるいは、現世と虚無の世界の狭間という、本来は存在しえない世界さえも存在していた。
時空ののりしろは、そうした綻びによって生まれた世界のひとつだ。そこは現在であり、過去でもあり、未来でもある。時間は過去から未来へ流れるし、未来から過去へも流れる。あらゆる事象が存在し、あらゆる事象が存在しない。完全に時間が破綻した世界だった。
地の底で異形の生物の体内に取り込まれた三上脩は、時空ののりしろを漂っていた。現在であり過去であり未来であるこの世界では、三上の失われた時間をもよみがえらせる。それは夢でもあり、現実でもあった。本当の出来事でもあり、偽りの出来事でもある。自分の記憶でもあり、他者の記憶でもある。あらゆる事象が入り混じった、彼と彼女の記憶。
夜の闇が消え、光が満ちはじめた海の上で、幼い脩は小さな舟にゆられていた。舟の縁に両手を掛け、じっと、海面を見つめる。海面には、彼が姉と慕う少女・加奈江が浮かんでいた。舟は小さいが、少女と子供の二人くらいなら充分に乗ることができる。だが、加奈江は舟に乗ることを拒んだ。乗ったところで運命は変えられない。もう、崩壊を止められない。
水平線から陽がのぼる。世界はさらに眩しい光に包まれる。遮るもののない海の上で、闇は、決して存在することができない。
陽がのぼるにつれ、明るくなるにつれ、加奈江の身体は崩壊してゆく。抗う力は、もう加奈江には残っていない。写し世へと連れ去ろうとする赤い津波に逆らうため、脩を救うため、加奈江は全ての力を使い果たしていた。崩壊は止められない。それは、海に放り込まれた泥人形のようだった。手足の末端から崩れ、海に溶けてゆく。手が溶け、足が溶け、腕が溶け、脛や腿が溶け、やがて、胸や腰が溶けはじめる。
「……脩……見ないで……見ちゃ駄目……」
加奈江を見つめる脩に向かって、最期の力で訴えた。崩壊する姿を見られたくないし、見てほしくない。
脩は無言で頷くと、目を閉じた。加奈江に言われた通り、決して、見ないように。
陽がのぼる。世界はさらに明るくなる。加奈江の腰から下はすでに存在しなかった。崩壊はさらに進む。腹が崩壊し、胸が崩壊し、首が崩壊し、そして、顔にまで及ぶ。
加奈江は、海の中へ沈んでゆく。脩は目を閉じ、決して、見ようとはしない。
「さよなら、脩」
最期に発した言葉は、いくつもの海の泡となり、脩の耳に届くことはなかった。
海の底に沈みながら、加奈江はふと。
――脩を残して海に沈むのは、
そんなことを思った。