夜見島のほぼ中央、鳩の形で例えると背中から尾羽にかけての地域に、島で最も高い山・四鳴山がある。標高約百メートル、島のどこからでも見えるこの山は、古くより神が住む山とされてきた。島民は、朝目覚めた後と夜眠る前、あるいは、一日の仕事を始める前と終えた後など、山に向かって祈りを奉げることが多い。皆、四鳴山に畏敬の念を抱いて暮らしてきたのだ。
山頂にはかつて『
もっとも、現在の四鳴山に滅爻樹はない。その存在を確認できるのは古文書の中だけだ。それによると、今から約一三〇〇年前、突如山頂から消えてしまったそうだ。消えた理由は定かではないが、神の世界へ戻った、人の目には見えない存在となった、そもそも我々人間の住む世界の存在ではなかった、など、様々な解釈がされている。
現在は存在しない滅爻樹だが、神の世界から流れてくるのか、枝だけは現在でも落ちている。枝には邪気・不浄を浄化する力があるとされ、島民は一人一本必ず所持していた。島で赤子が生まれた際、太田家の当主が枝を取りに行き、銘を刻んで授けるのである。そして、島民が死を迎えると、死者の身体には各々の枝が刺されて葬られる。死者の身体を穢れから護り、安心して神の世界へと旅立ってもらうための儀式だ。
このように、長きに渡り島民から聖地とされ、特に滅爻樹が生えていた山頂付近は太田家の当主以外は決して足を踏み入れてはいけないとされてきたが、昭和三十年代、島に金脈が発見されると、インフラ整備のため山頂付近に巨大な鉄塔が建てられることになった。離島線4号基鉄塔である。本土より遠く離れたこの島に電力を供給するため、その高さは約二百メートルと山よりも高い。当然、聖地とされる四鳴山にそんなものを建てることを、島民たちが許すはずもない。建設当時は怪我人や死者が出るほどの反対運動が行われたが、阻止することはできず、建設は強行された。元々島民は外部との接触を嫌い、閉鎖的な生活を送ってきたが、この鉄塔建設を境に、島民の余所者へ対する感情は憎しみへと変わった。鉄塔建設から四十年以上。金鉱は閉鎖され、ほとんどの余所者が去った現在も、その憎しみは消えていない。
蒼ノ久集落で一樹守と別れた木船郁子は、四鳴山の頂上付近に来ていた。すぐ目の前に鉄塔がある。あまりにも巨大なこの鉄塔は、真下から見上げると、はるか天空の彼方から見下ろされているような威圧感があり、それだけで郁子の心は委縮してしまいそうだった。
夜見島の上空は、相変わらず厚い雲に覆われている。しかし、鉄塔の周囲だけは丸く穴が空いており、周辺の雲はその穴に吸い込まれるように消えていた。穴の向こう側には、逆さまに浮かぶ夜見島がわずかに見えている。現実的にはあり得ない禍々しい光景だ。さらには、遠くから見ている時は気付かなかったが、この場に立ってみて、鉄塔がいくつもの建物や大きな木と一緒に存在していることに気がついた。鉄塔と接触するほどの近さに大きなビルが建ち、木は鉄塔に絡みつくように生えている。上の方にはいくつか家屋も見える。鉄塔と巨木と建物が融合し、ひとつの存在となったかのような姿だった。
なぜこのような状態になったのか、郁子には判らない。恐らく考えなくてもよいことだろう。今の郁子にとって重要なのは、この忌まわしき島から脱出することだけだ。
暗くなるにつれ、島中に散らばっていた闇人が鉄塔に集まりつつあった。蒼ノ久からこの四鳴山に来るまでの間、郁子は多くの闇人に感応を使い、ヤツらの心の中に入り込んだ。その結果、判ったことがある。ヤツらは陽が落ちるのを待っていた。この鉄塔を使い、現実世界へ侵攻しようとしているのだ。つまり、鉄塔は現実世界の夜見島へと繋がっている。あの逆さまに浮かぶ夜見島こそが本物なのだ。だから、鉄塔を登れば、元の世界へ帰れるはずだ。
背後で土を踏む音がした。振り返ると、生まれて一度も陽の光を浴びたことがないかのような真っ白な肌の少女が立っていた。
――岸田百合!
とっさにゴルフクラブを構える郁子。一樹守を誘惑して地の底へと連れて行き、異形の生物をよみがえらせた女だ。
だが、郁子がゴルフクラブを構えても、相手は敵意を見せなかった。郁子に対して身構えるわけでもなく、逃げるでもなく、ただ静かに郁子を見つめる。そう言えば、敵意を持った相手が近くにいる際の警告を促すような鼓動も無い。それに、どうも岸田百合とは雰囲気が違うように思う。現れた少女はネックレスやブレスレッドをたくさんつけた派手な格好をしている。それは、三上脩と一樹守を夜見島へ案内する際、無理矢理船に乗り込んできた女と同じ服装だ。郁子のセンスでは理解できない浮ついた格好だが、にもかかわらず、少女の佇まいにはどこか成熟した雰囲気がある。見た目は郁子と同年代だが、一回り以上年上の女性と対峙しているかのようだ。
「あなただれ? 岸田百合じゃないの?」警戒は解かず、ゴルフクラブを構えたままキツイ口調で言う郁子。
「……それはたぶん、あたしの
「妹……それは、鳩の一人ってこと?」
強くゴルフクラブを握る郁子。地の底に潜んでいた異形の生物は、地上の様子を探るため、鳩と呼ばれる使いを何度も飛ばしたという。その最後の一人が岸田百合だ。それを妹と呼ぶからには、この少女は鳩の一人ということになる。
「そうね」と少女は頷いた。「でも、あたしはあなたの敵ではないわ。少なくとも、
そう続けた少女。敵意はなさそうだが、だからと言って友好的でもない、そんな、静かで冷たい口調だった。
「今は?」郁子は首を傾けた。
「ええ。あなたがあたしの邪魔をしない限り、あたしもあなたをどうこうするつもりはない。まあ、たぶんあなたは大丈夫。もうしばらく
「なにを言ってるのか判らないんだけど?」
「判らないなら判らないままの方がいいわ」少女は一瞬目を伏せたあと、鉄塔を見上げた。「それより、鉄塔を登るつもり?」
「ええ」
「そう……なら、これを持っていきなさい」
そう言って少女が差し出したのは、長さ三十センチほどの木の枝だった。ところどころコブのように膨らんで太くなっているが先端は鋭い。端には、藤田茂という名が書かれた札が付いていた。
「それって、滅爻樹ってやつ?」
郁子が訊くと、少女は「そうよ」と頷いた。死者に神木の枝を刺して弔う風習があることは郁子も知っていたが、実物を見るのは初めてだ。
少女は続ける。「これを刺せば、その身体には屍霊も闇霊も憑りつくことはできない。名前が書いてあるけど、基本的には誰に使っても同じよ。ただし、二度は使えないから、刺す相手は慎重に選んでね」
差し出された枝を、郁子は困惑しながらも受け取った。
少女は「じゃあ、頑張ってね」と言い、去ろうとする。
「ちょっと待って」と、郁子は止めた。「あなたはどうするの?」
少女は振り返った。「あたしは、脩を助けないといけない」
その瞬間、何の感情も読み取れなかった少女の瞳に、初めて感情が宿った。それは、強い決意。
「脩って、三上脩のこと?」
「ええ。あたしの大切な存在。
「…………?」
少女が言うことは相変わらずよく判らないが、そこには微妙な違和感がある。郁子はこの少女のことも三上脩のこともよく知らない。二人がどんな関係なのかは判らないが、少女が「大切な人」というからにはそうなのだろう。だが、どう見ても二十歳に満たない少女が、十歳以上年上であろう三上脩のことを「あの子」と呼ぶのには、どうにも違和感を覚える。
「あなたも、大切な人が見つかるといいわね」
そう言って、少女はほほ笑んだ。ずっと敵か味方か判らない口調だったが、初めて優しさが宿った気がした。
「さあ、早く行きなさい。もうすぐ
少女の言うことは要領を得ない。鳩であることは間違いないさそうだが、三上脩を助けるというからには、あの異形の生物と敵対するつもりなのだろう。それは、子が親に逆らうようなものだ。なぜそこまでして三上脩にこだわるのか。なぜ郁子に滅爻樹を授けたのか。判らないことだらけだ。
だが、それでも。
少なくとも今は敵ではない――その言葉は、信じていいように思えた。
郁子はゴルフクラブを下ろした。「判った。ありがとう」
少女はもう一度優しく微笑むと、郁子の元から去っていった。その姿が森の中に消えるまで、郁子はずっと見つめていた。
――よし。
決意を新たに、鉄塔へ向かう。
鉄塔を登るためには内部の階段を使わなければならないが、鉄塔の周囲は鉄条網付きのフェンスに囲まれている。そのままでは入ることができない。ただし、現在は鉄塔に密接するほどの位置に高い建物が建っている。まずは建物を登り、途中から鉄塔に渡ることは可能だ。建物には、『夜見島金鉱鉱業所』という看板が掲げられている。本来は瓜生ヶ森の金鉱採掘所から少しの東に行った場所にある建物で、地下深くの金を採掘・加工するための施設だ。主に、『鉱業所』『
階段は、鉱業所建物の外壁に沿って続いている。全七階建ての建物だが、残念ながら四階より上は階段が崩れ落ち、それ以上は登れなかった。非常階段には鉱業所内部に入るためのドアもあるが、向こう側から鍵が掛けられているため開かない。どうしたものかと周囲を調べる。南側から下を覗くと、少し下に竪坑櫓の屋上が見えた。高さは一・五メートルほど、幅は数十センチもないので、充分跳び降りることができるだろう。郁子は竪坑櫓の屋上へ飛び降りた。
竪坑櫓とは、巨大なケージを上げ下げするための建物で、地下深くの鉱脈へ鉱員を下ろしたり、鉱脈から金を運び上げたりするために使用されたものだ。これも、本来は瓜生ヶ森の金鉱採掘所にある建物で、鉱業所と併設する形で建っている。そのため、この屋上から連絡橋を渡れば鉱業所に行くことができた。郁子は連絡橋を渡って鉱業所へ移動する。
鉱業所内部に入るための扉は鉄格子製のもので、外側から南京錠で閉ざされていた。それ自体はかなり錆びついているため、ゴルフクラブで何度か叩けば壊れそうだ。しかし、扉の向こう側に大きなロッカーが置かれてあり、出入り口を塞いでいた。郁子の力では動かせそうにない。ここから入るのは無理なようだ。他に道は無いだろうか? さらに周囲を調べると、竪坑櫓のさらに隣に事務棟があり、そこへも連絡橋を使って渡ることができるようだ。郁子はそちらの方へ向かった。
だが、びくん! と身体が震える。同時に、竪坑櫓の屋上にいる自分を、別の建物の屋上から見下ろす視点が見えた。闇人に見つかった。見上げると、事務棟の屋上に人型の闇人が立っているのが見えた。事務棟の屋上はここからさらに二階分の高さだ。少し安心する郁子。ここから見る限り闇人が何の武器を持っているのかは定かでないが、少なくとも狙撃用の大きな銃は持っていない。事務棟内を通ってここまで来るとしてもかなり時間がかかるはずだ。その間に移動しよう。郁子は気にせずそのまま行こうとした。
しかし、どさり、と音がして、さっきの闇人が目の前に現れた。十メートルはある高さを飛び降りたのだ。闇人は勢い余って倒れたが、すぐに起き上がり、郁子を見てニヤリと笑った。
「張り込みも楽じゃねぇよ」
そう言って拳銃を取り出し、構える。その声と姿に見覚えがあった。一樹守と遊園地の石碑を壊した際、花壇広場にいた警官の闇人だ!
ぱんっ、と、運動会の徒競走でよく聞く乾いた音がした。それほど大きな音ではなかったが、音の大きさからは想像もつかないほどの強い衝撃が郁子の左肩を貫いた。あまりの衝撃に後ろに吹き飛んで倒れる。左肩に、内部から小さく爆発したかのような穴が空いていた。そこから、どろりと血が流れ出る。さらにもう一度銃声がして、今度は右足に鋭い痛みが走った。これは腿を掠めただけだったが、それでも肉が大きく
「逃げられたら始末書ものだからなぁ」
銃を構えたまま近づいて来る警官闇人。このままではやられる。だが、足を撃たれて思うように逃げられなくなったし、そもそもこの屋上には逃げるような場所がない。もはやゴルフクラブで戦えるような状況でもない。感応を使うしかない。郁子は目を閉じ、警官闇人の心の中に入り込んだ。
――止まって!
指示を出すと、警官闇人はすぐに立ち止まる。感応に成功した。しばらくの間この警官闇人を自由に操ることができる。この場から追い払うことは簡単だ。しかし、どうやらこの警官闇人はかなり郁子に執着しているようだ。遊園地で殴り倒したのを根に持っているのかもしれない。だとしたら、たとえ追い払ったとしてもしつこくつけ狙われる可能性がある。どうするべきか……。
――これを刺せば、その身体には屍霊も闇霊も憑りつくことはできない。
鳩の少女が言ったことを思い出す。彼女から貰った滅爻樹の枝を刺せば、そいつはもう復活することはできない。枝は誰にでも有効だ。少女は、刺す相手は慎重に選ぶよう言っていたが、慎重になるあまり機会を逃しては意味が無い。いや、恐らく今がそのときだ。
――後ろを向いて!
警官闇人に指示を出す郁子。言われた通り、警官闇人は郁子に背を向ける。
郁子は感応を解くと、滅爻樹の枝を取り出した。足の傷から血を流しながら立ち上がり、警官闇人が振り向くよりも早く、その背中に枝を振り下ろした。枝は先端こそ尖っているものの、細くて古いものだ。それでも、枝はほとんど抵抗なく警官闇人の背中に刺さった。金属をこすり合わせるような甲高い悲鳴を上げる闇人。枝から根のようなものが生え出し、闇人に絡みつく。闇人の全身から青い炎が燃え上がった。同時に、枝が成長してゆく。細い枝が太い幹となり、いくつも枝が伸び、葉が茂る。やがて、枝は一メートルほどの高さに成長した。
警官闇人は郁子の方を見て、すがるように左手を伸ばし。
「……そうか……あんたが……あの……」
謎の言葉を残して、警官闇人は燃え尽きた。
呆然とその光景を眺めていた郁子だったが、やがて我に返る。闇人の身体は消滅し、一本の木と化していた。人間の身体も、その身体に憑りついていた闇霊も、完全に消滅してしまった。これが、滅爻樹……神の力宿りし樹の力。
ふと、郁子は思う。この滅爻樹を授ける『神』とは、いったどのような存在なのだろう? 闇人や屍人などの闇の住人と敵対するかのような存在だ。ひょっとしたら、太古の昔、闇に閉ざされていた世界に光の洪水を起こし、闇の住人どもを地上から追い払ったとされる創造主と、同じ存在なのかもしれない。
考えを振り払う郁子。そんなことを考えている場合ではない。今は鉄塔を登ることが最優先だ。
傷の状態を確認する。左肩と右腿を撃たれたが、幸いこの島では不思議な力で傷が治るのが早い。肩の傷はかなりの重傷なので少し時間はかかりそうだが、腿の傷はもう血が止まり、塞がりつつある。ゆっくり歩くくらいなら問題ない。郁子は足を引きずりながら事務棟へ向かった。
ぐしゃり、と。
背後で、なにか大きな物が潰れたような音がした。
振り返ると。
――え?
すぐ後ろに、人が倒れていた。
さっきまで、この竪坑櫓の屋上には郁子以外誰もいなかった。事務棟から跳び降りてきた警官闇人は木と化したままだ。いったい、どこから現れたのだろう。
その人は、奇妙な格好をしていた。服装がおかしいという意味ではない。手足が、あり得ない方向に曲がっているのだ。右腕の関節は通常と反対側に曲がり、左腕はねじ曲がっていた。右足は関節など存在しないはずの脛の部分から折れ曲がり、左足に至っては根元からちぎれかけている。操り人形の糸を切断したらこんな姿になるのだろうか――そんなことを思う。
胴体は、さらに奇妙なことになっていた。内部から、白く細長いものが何本も飛び出しているのだ。白いとは言っても、どれも、赤くドロドロとした液体にまみれているのだが。
頭部だけは、特に変わった点は無い。地面に赤くドロリとした液体が輪になって広がっているのと、その顔に見覚えがあるということを除いては。
――一樹君?
それは、蒼ノ久集落で別れた一樹守の
「……一樹君……どうした……の……?」
郁子は、まるで思考が停止したかのごとく状況を理解できなかった。恐る恐る声をかけてみる。一樹は、郁子の声になんの反応も示さなかった。ただ、かっと見開かれた瞳が、虚空を見つめているだけだ。
「……一樹君……」
少しずつ。
停止していた郁子の思考が、動き出す。
「……一樹君……返事……してよ……」
少しずつ、状況を理解しはじめる。
「……一樹君……返事してってば……」
郁子と別れた後、一樹も鉄塔の先にあるのが本当の夜見島だと気付き、登ろうとしても、おかしくはない。
「一樹君! 返事して!!」
だが、それを、闇人に阻まれた。
「一樹君! 一樹君!!」
そして――鉄塔から、突き落とされた。
「……一樹……君……」
郁子と別れた一樹は、一人で鉄塔に登り、闇人に阻まれ、そして、鉄塔から落とされたのだ。
「……いや……一樹君……いやぁ……」
それが一樹守の姿だと認めたくなくて、郁子はぐるぐると首を振る。そうすることで、これが偽りの光景となることを願って。もちろん、どんなに激しく首を振って否定しようとも、冷たい肉塊と化しつつある一樹の身体は、そこにある。
「……いやああぁぁ!!」
叫んだ。叫ぶことで、全てを否定したかった。もちろん、どんなに叫んでも、なにも変わらない。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう? 一樹が一人で鉄塔を登らなければこんなことにはならなかったのだろうか? 蒼ノ久集落で一樹と別れなければこんな結果にはならなかったのだろうか? 三逗港で彼が夜見島へ向かうのを止めておけばこんなことにならなかったのだろうか? 判らない。判ったところで、もうやり直すことはできない。
郁子は泣いた。叫んだ。泣いて、叫んで、一樹の身体にすがりつき、抱きしめた。抱きしめて、泣いた。泣き続けた。
不意に。
――俺に構わず――君だけでも――逃げるんだ――。
一樹の声が聞こえた。
顔を上げ、一樹の顔を見る。一樹の目は相変わらず虚空を見つめている。唇が動いた様子もない。だが、確かに今、彼の声が聞こえた。いや……聞こえたという感じではなかったように思う。それは、心の中に響いたような声。一樹の心の声が、郁子の中に流れ込んだかのような声だった。
それで気がついた。一樹を抱きしめたとき、肌と肌が直接触れてしまったのだ。肌が触れることで、彼の心の声が流れ込んできたのだ。
つまり、彼はまだ生きている!
「一樹君! しっかりして! 一樹君!!」
あらん限りの声で呼びかける郁子。反応は無い。だが、希望はある。この偽りの夜見島では傷の治りが早い。どんなに酷い傷でも、時間さえあれば治ってしまう。一樹が死んでいないのであれば、まだ大丈夫なはずだ。呼びかけ続け、彼の命を繋ぎ止めれば、時間はかかるかもしれないが、きっと完治する。
そう信じて。
郁子は、彼の名を呼び続ける。
びくん、と、身体が震え。
遥か頭上から、郁子と一樹を見下ろす視点が見えた。
――こんなときに!
ゴルフクラブを持ち、立ち上がる郁子。何としても、一樹を護らなければならない。たとえ相手が銃を持っていようとも、絶対に、彼を護ってみせる。
強い決意と共に、相手の方を振り返った。
大きい――あまりにも大きな身体が、空を舞っていた。
海洋生物を思わせる巨体に、岸田百合と同じ顔――地の底から蘇った、異形の生物。
《見つけたぞ、
異形の生物は、美しい岸田百合の顔を醜く歪め、忌々しげに声を発した。《分裂体の分際で、よくも我の邪魔をしてくれたな》
ゆっくりと下りてくる異形の生物。最悪のタイミングで、最悪の相手に見つかってしまった。ゴルフクラブなんかで戦える相手ではない。それでも、逃げるわけにはいかない。一樹守を護らなければならない。郁子は、ためらうことなく感応を使った。異形の生物の心の中に入り込もうとする。
だが、即座に弾き返された。郁子の身体は見えない力に吹き飛ばされた。
《そのような小賢しい技が、何度も通用すると思うな》
激しくコンクリートの床に叩きつけられても、それでも郁子は立ち上がる。彼を護るために。
《ふん。
異形の生物が横を向いた。視線が郁子から外れ、別のものを捕らえている。
《……子らよ、その不完全品を始末しておけ》
よそを向いたままそう言い残すと、異形の生物は飛び去って行った。
代わりに。
ビルから、鉄塔から、あるいは階段から、大勢の闇霊や闇人が現れ、集まってきた。人型の闇人の他に、四足歩行をする闇人や、巨体の闇人もいる。あっという間に、何十体もの闇人達に囲まれた。数が多すぎる。ゴルフクラブはもちろん、例え銃を持っていたとしても太刀打ちできる数ではない。感応は一人にしか使えないし、感応中は郁子自身が無防備になってしまう。
郁子を囲んだ闇人達は、ニヤリと笑うと。
一斉に、襲いかかってきた。
同時刻――。
暴言と共に上官の元を去り、一人、夜見島をさまよっていた永井頼人は、蒼ノ久集落で三沢岳明に見つかり、説教されていた。憎らしい相手だが、今は我慢するしかない。三沢の元を去り、一人で行動してみたものの、どこに向かえばいいか、何をすればいいか、まったく判らなかったのだ。自分一人では何もできない。そのことを悟った永井は、極めて不本意ではあるが、もう一度、三沢と共に行動することにした。忌々しいことではあるが、それでも、この得体の知れない島を一人で行動するよりはマシだろう。
潮降浜の学校の大道具倉庫に逃げ込んだ矢倉市子は、今もそこに隠れていた。学校内から化物どもがいなくなるのを待っていたのだが、いなくなるどころか、かえって多くなっている。それも、ずっと市子を襲ってきたゾンビのような化物・屍人ではなく、全身に黒い布を巻きつけた青白い顔の化物だ。このままでは身動きが取れない。誰かが助けに来てくれるのを待つしかないのだろうか? しかし、いったい誰が助けに来てくれるだろう? 希望は、無い。
一人で勝手にどこかへ行ってしまった喜代田章子を探す阿部倉司は、瓜生ヶ森にある夜見島金鉱採掘所の休憩室から上機嫌で出てきた。たった今、人生最大の危機を乗り切ったところだ。実にすがすがしい気分である。鼻歌を歌いながら煙草を取り出して咥えたが、ライターを落としていたことを思い出した。舌打ちをして、煙草を戻す。朝からずっと煙草を吸っていない。これは、占い女を探すより、まずライターを探すべきだろう。どこかに百円ライターでもないだろうか? あるいはマッチでも、最悪ガスコンロでも構わない。とにかく火だ。阿部は煙草を吸う手段を求め、採掘所内を探索し始めた。
四鳴山の山頂にある離島線4号基鉄塔のふもとで、加奈江は彼女が母と呼ぶ存在と対峙していた。加奈江の手には、三上家の庭の物置で見つけた謎の骨が握られている。骨は、その姿を微妙に変えていた。先端が鋭くなり、骨身が刃のようになっている。それは小太刀のような形だ。加奈江は本能的に悟る。これを使えば、たとえ母と言えどただではすまない。その証拠に、小太刀と化した骨を見た瞬間、母の表情は明らかに変わった。小太刀を恐れているように見える。一定の距離を保ち、ずっと加奈江を睨んだままだ。警戒し、手が出せないのだ。ただ、手が出せないのは加奈江も同じだった。脩が、まだ母の体内に取り込まれたままだ。仮にこの小太刀を使って母を倒せたとしても、脩がどうなるかが判らないのだ。母の地上侵攻を阻止できても、脩を救えないのでは意味が無い。
加奈江の迷いに気付いた母は、唇の端を吊り上げ、不敵に笑った。空に向かって甲高い声で鳴く。
その声に応じるかのように、空から光の刃が落ちてきて、加奈江の身体を貫いた。
昭和八十年八月四日、深夜零時。
闇の住人達の、地上への侵攻が始まる――。