高波により大きく傾いたブライトウィン号から投げ出され、矢倉市子は海の底へ沈もうとしていた。転落してから、すでに数分が経過している。意識は薄れ、もはや、もがくような力はない。なすすべもなく、ただ沈んでいくだけだった。まぶたを閉じる力さえ無い。うっすらと開かれた眼には、血のように真っ赤に染まった海が映っていた。意識がもうろうとしているから、こんな風に見えるのだろうか。その不吉な色に、地獄へと堕ちているような気分になる。
――ああ、あたし、死ぬんだ。
自分でも意外なほど冷静に、そう悟っていた。怖い、という気持ちは、あまりない。怖さよりも、寂しさや悲しさが勝っていた。こうしてひとりで海の底に沈んでいくことが寂しい。何日か後、近くの海岸に流れ着き、誰かが見つけてくれるのなら、まだいい。海の底に沈んだまま、永遠に誰にも見つけてもらえない可能性だってある。そうなったら、もう二度と大好きな人たちに会えない。お父さんやお母さんと、おじいちゃんやおばあちゃんと、中島君や先生ら学校のみんなと、そして、ノリコと……みんなと会えなくなることが、ただ悲しい。
市子は、わずかに残った力で右手のブレスレットを握りしめた。これだけは、手放すわけにはいかない。碧色の石があしらわれたそのブレスレットは、市子のものではなかった。市子のブレスレットは朱色の石があしらわれたものだ。この碧石のブレスレットは、同じテニス部で親友のノリコのものだった。以前、二人の友情の証にと、お揃いで買いそろえたものである。市子のものである朱石のブレスレットは、今は持っていない。そう言えば、あれはどこにあるのだろう? 薄れゆく意識の中で記憶を探る。昨夜、船室のベッドで外し、枕元に置いて眠ったことを思い出した。目覚めた直後に怪異に巻き込まれたから、恐らくそのまま置いてあるはずだ。ノリコはまだ船に残っている。彼女が見つけ、形見に持っていてくれればうれしい。ノリコのブレスレットは、市子が壊してしまったから。
市子の手の中の碧石のブレスレットは、リングが大きく湾曲し、留め具もちぎれていた。市子が船から投げ出された際、ノリコは市子の手首を掴んでくれた。同時に市子もノリコの手首を掴んだのだが、ノリコの手首にはブレスレットがされてあり、うまく掴むことができなかった。
そして、ノリコの手が滑った。
市子が掴んだブレスレットに、彼女を支えるほどの強度はない。ブレスレットはちぎれ、市子は海へと転落したのだ。
――ごめんねノリコ。大切なブレスレットを、壊しちゃって。
胸の内で謝る。ブレスレットは、決して高価なものではない。それでも、二人の友情の証として買い揃え、何かあるたびに、「ずっと友達だよね?」と、永遠の友情を誓い合った。もちろん、ブレスレットが壊れたことで二人の友情も壊れるなんてことがあるはずもない。そう信じている。でも、どうしても、不安になってしまう。あたしは、ノリコに見捨てられたのではないか、と。
遠くで、サイレンが鳴っていた。
壊れたスピーカーで鳴らしているかのような、濁った音のサイレンだった。海の中にいるから、そう聞こえるのだろうか?
その音を聞いていると、なぜだろう? 海の底に一人沈む孤独感が大きくなる。大切な人に見捨てられた絶望感が膨らむ。負の感情が、抑えられなくなる。
――あのとき、ノリコの手は、本当に滑ったのだろうか?
そんなことを考えてしまう。そんな訳はない、と、否定することは、もうできない。
あの一瞬、ノリコの手の力が緩んだような気がした。
それはつまり――ノリコが手を離した。
船から投げ出された市子の手を、ノリコは咄嗟に掴んだものの、自分も海へ落ちるのを恐れ、ノリコは手を離したのではないか。
あたしは、ノリコに見捨てられたのではないか。
考えを振り払う市子。あたしは、なんて醜いことを考えるのだろう。ノリコがあたしを見捨てるなんてこと、あるはずがない。それに、手を掴んだとはいえ、宙にぶら下がった状態の市子を引き上げる力が、ノリコにあったとは思えない。ヘタをすれば二人とも海へ落ちてしまう。だから、万が一ノリコが本当に手を離したのだとしても、それを恨むのは筋違いだ。
それが判っていても。
――ノリコ……どうして、あたしを見捨てたの……?
海に沈むごとに、意識が遠のくごとに、その負の感情は強くなり、やがて、揺るぎない確信へと変わる。
濁ったサイレンは、鳴り続けている。
その音は、海の中にいるとは思えないほど、はっきりと聞こえていた。しかも、徐々に大きくなっているようだ。それは、海の上からではなく、反対側――海の底から聞こえてくるように思う。どんどん大きくなり、市子に近づいて来る。それにつれ、市子の胸に湧いた負の感情も大きくなる。
《なぜ……我を見捨てた……》
やがて市子は、意識を失い。
そして、その