矢倉市子を保護した永井頼人は、海辺の集落を離れ、古いマンションが建ち並ぶ地区へ来ていた。何かの会社の社宅のようだ。小さな児童公園のそばに、外壁にイ棟・ロ棟と書かれたふたつの建物が並んでいる。そこから少し離れた丘の上にも、もうひとつハ棟が建っていた。幻視を使い、丘の上のハ棟に闇人がいないことを確認した永井は、鍵がかかっていなかった102号室へ入り、少し休むことにした。
「――それで、大会の帰りに三逗港行きのフェリーに乗りました。そこで、なにか、すごく怖いことがあったんですけど……あまり、覚えていません」
奥の部屋に腰を下ろし、市子がこの島に来た経緯を聞く永井。どうやら、永井と三沢が深夜に探索した森の中の座礁船――ブライトウィン号という名前だったか――の乗客だったらしい。昨日、夜見島の近くを航行中に怪異に巻き込まれ、気がつくと、船は森の中にあったそうだ。昨日は永井が搭乗した輸送ヘリも原因不明のトラブルに巻き込まれたから、あの時間、なんらかの未知の力が働いていたのかもしれない。
「それで、結局あたしとノリコだけが助かって、二人で、救命ボートを使って逃げ出そうとしたんです」
市子は右手首をさすりながら言った。そこには、碧色の石があしらわれたブレスレットがされてある。リングが大きく歪み、留金も壊れているためぶら下げているだけだが、親友とお揃いで買った大切なものだそうだ。
「でも……」と言った後、市子は少し言いよどんだが、やがて続けた。「……高波で船が傾いて、あたしは海に投げ出されて……死んじゃったんです」
「え? ちょっと待って」永井は市子の話を止めた。「市子ちゃんは、こうして生きているじゃないか?」
市子は大きく首を振る。「違うんです……あたし、ノリコから聞いたことがあるの。夜見島の海の底には、姿を盗む化物がいるって」
それは、戦時中にこの島で起こった話だという。
岩場に海藻を採りに行った少女が、夜になっても戻って来なかった。家族を始め村人たちは必死で捜索したが、見つからない。高波にさらわれたのだろうと、皆が言った。流れの早い引き潮にのみ込まれたら、泳ぎの達者な者でもまず助からない。
結局少女の遺体は見つからぬまま、数日後、葬儀が行われることとなった。
家族が準備をしていると、玄関の方が騒がしい。何事かと母親が向かうと、死んだと思われていた少女が、玄関先に立っている。母親は喜び、少女を家に招き入れようとしたが、祖母が止めた。海で死んだ者が戻って来ても、決して家にあげてはいけない。海には、死者の姿を盗む化物がいるから、と言う。
祖母がその話をした途端、少女は、狂ったような笑い声をあげ、溶けるように消えてしまった。
あとには、水溜りだけが残っていたという。
「……その少女が、あたしなんです」
市子は、虚ろな表情で、最後にそうつぶやいた。
部屋が沈黙に包まれる。永井は、なんと言っていいか判らなかった。その少女があたし――どういう意味だろう? いまの話は戦時中に起こったことだと言っていた。その話に出てくる少女が、市子であるはずがない。そもそもこの話は友達から聞いた話だ。その友達も、恐らく友達から聞いたとか、本などを読んで知ったのだろう。言わば都市伝説的な話であり、真実だという根拠は何も無い。だが、これを馬鹿げた怪談話だと否定することは、今の永井にはできなかった。この島に上陸して以降、死体がよみがえったり、森の中に突然大型フェリーが現れたり、怪談話のようなことが現実に起こっている。今の話が真実だったとして、戻って来た少女は何者だったのだろう? 海には死者の姿を盗む化物がいる。あの化物どもは、海からやって来るのだろうか? ならば、海にはいったい何が潜んでいるのだ。
「今のあたしは、あたしじゃない」沈黙を、市子が破った。声が震えていた。身体も震えている。その震えを抑えるように、自分で自分の肩を抱いた。「だってあたしは、あのとき死んだもの。あのとき海の底から声が聞こえて、それで意識を無くして、でもあたしはここにいる。あたしはあの声がつくり出した化物なのよ――」
「落ち着いて、市子ちゃん」
堰を切ったように話す市子の両肩に手を置き、永井は、「大丈夫だから」と、力強く言った。「そんなの、ただの怪談話だよ。君はこうして生きている。大丈夫。僕が必ず、家まで送り届けてあげるから」
「……はい」
まだ表情は虚ろだが、とりあえず落ち着きを取り戻した市子は、小さく頷いた。「ごめんなさい、変な話をして」
「いや、いいんだ。ずっと一人でいて、怖い目にあったんだから、変なふうに考えても仕方ないよ。少し横になって休むといい。僕は、あいつらが来ないよう、見張ってるから」
「判りました」
言われた通り横になった市子は、すぐに小さな寝息を立て始めた。少し精神的に参っているようで心配だが、少し眠れば落ち着くだろう。今は、とにかく休ませた方がいい。
市子が眠ったのを確認した永井は、ポケットからパスケースを取り出した。自衛隊の証明書が入ったパスケースだ。永井自身のものではない。この部屋に入った際、押し入れの前に落ちていたのだ。それは、永井の元上官・三沢岳明の物だった。あいつもこの部屋に来たのだろうか?
パスケースには、手紙が一通挟み込まれていた。たどたどしい字で、所属基地の住所と三沢の名が書かれてある。子供が書いたもののようだ。消印はごく最近のもので、開封はされていない。まだ読まれていないようだ。
永井は、封筒を裏返した。
差出人は、三隅郡羽生蛇村の、四方田春海となっていた。
永井が、証明書と手紙をどうしようかと考えていたら。
突如、窓を突き破り、天井に頭が届くほどの巨体が突入してきた。驚いて市子が飛び起きる。永井は機関拳銃を構えた。
突入して来たのは、闇人の中でも最も厄介な種類・巨体闇人だ。下腹部の顔で部屋の中を見回し、市子の方を見た。永井は機関拳銃を撃つ。全て顔に命中したが、弾は全て弾き返され、傷ひとつついていない。
「ダメだ! 市子ちゃん! 逃げて!!」
永井が叫ぶのと、巨体闇人が岩のような拳を振るって来たのは、ほぼ同時だった。永井はなすすべもなく拳を喰らい、障子を突き破って隣の部屋まで弾き飛ばされた。壁に頭をぶつけ、意識が飛んだ。
意識を取り戻すと、部屋には誰もいなかった。畳の上に碧石のブレスレットが落ちている。それを拾う永井。どれくらい意識を失っていたのだろう。市子はどうなったのか。すぐに幻視で周囲の様子を探ったが、ハ棟内には誰の気配も無かった。幻視の探索範囲を広げ、丘の下のイ棟・ロ棟方面も探った。こちらは、多くの闇人達が、社宅内や屋上、建物の周辺を警戒していた。その中に、ここと同じ間取りの部屋にたたずむ視点を見つけた。肩で大きく呼吸をし、わずかに聞こえる声は市子のものだった。良かった、無事だった。だが、そこも安全とは言えない。また窓を突き破って巨体闇人が突入してくるかもしれないし、社宅内を巡回している人型闇人もいる。すぐに迎えにいかなければ。
市子は窓際に立ち、外を眺めていた。部屋の場所は高く、左下の方に小さな公園が見える。その景色から、市子がいるのはロ棟の301号室だと判断した永井は、幻視をやめ部屋を飛び出した。
ハ棟を出て丘の階段を下りると、ロ棟は目の前だ。出入口の前まで移動しようとした永井だが、社宅の角を曲がったところで足を止めた。出入口付近を二体の闇人が警戒していた。いずれも小銃や機関拳銃を持っている。その二体だけならば不意を突いて倒すこともできるだろうが、敵は目の前の二体だけでなく、隣のイ棟の屋上やベランダにもいる。こちらも小銃や猟銃を持っており、出入口前の闇人と戦闘になれば、背後から狙撃される危険性が高い。だからといって、幻視で様子を見つつタイミングを計って一体ずつ倒す、というような余裕もない。ロ棟内を巡回している闇人が三階へ上がろうとしている。もたもたしていると間に合わない。強行突破するしかないだろう。
永井は自衛隊支給の発煙筒を取り出した。先端のキャップを外して火を点けると、花火のような眩しい炎が燃え上がる。それを、出入口前の闇人に向けて投げた。発煙筒は強烈な光を発し、闇人は両目を抑えて苦しみ出す。永井は闇人に向かって走り、機関拳銃を乱射した。でたらめな射撃だが何発かが命中し、倒すことができた。だが、びくんと身体が震え、高所から狙撃銃を構える視点が見えた。イ棟の狙撃手に見つかったのだ。永井はそのまま走り、立ち上る煙の中に身を投じた。背後で銃声が響くが、弾は永井の背後の土を弾き飛ばしただけだった。この煙の中、走っている者を狙撃するのはまず無理だろう。二発、三発と銃声がしたが、弾が永井を捕らえることはなく、なんとか無事に社宅内に入ることができた。すぐさま階段を駆け上がる。三階にたどり着いたが、社宅内を巡回していた闇人の姿は無く、301号室のドアは開いていた。市子が玄関のドア開けっ放しで中に隠れるとは考えにくい。闇人が中に入ったのだ。室内から甲高い悲鳴が聞こえた。間に合わなかったか!? 永井は部屋の中に飛び込んだ。
だが、部屋の中は、永井の想像とは違っていた。
部屋の中央に倒れていたのは闇人だった。その首がぱっくりと斬り裂かれ、流れ出した血が、畳一面に広がっている。そばには機関拳銃が落ちていた。
市子は、幻視で確認したときと同じく窓際に立ち、外を眺めていた。永井に背を向ける格好だ。その右手には、出刃包丁が握られていた。刃は、ねっとりとした血にまみれている。
市子は、永井に背を向けたまま動かない。
市子の右手も血にまみれていた。それが包丁の柄を伝い、刃を伝い、刃先から、糸を引いて、ぽたり、ぽたり、と、滴り落ちる。
首を斬り裂かれ、倒れている闇人。これは、市子がやったのだろうか? 状況から判断すると、そうとしか思えない。機関拳銃を持った闇人を、包丁一本で倒した? 信じられない。もちろん、物陰に身を隠すなどして、不意を突いて喉を斬り裂けば、いかに相手が銃を持っていようと倒すことはできる。だが、それには高度な技術が必要だ。素人がテレビや映画などを真似て簡単にできるものではない。
ぽたり、と、また、包丁から血が滴り落ちた。
我に返る永井。経緯がどうあろうと、とにかく、市子は無事なようだ。
「市子ちゃん、無事で良かった」
永井は声をかけたが、市子は無言で窓の外を眺めている。
「……ゎ……」
いや、わずかに声が聞こえた。ひどく低く、小さい声で、何かつぶやいている。口の中にこもるような、淀んだ声だ。それが、ずっと、途切れることなく続く。呪いの言葉をささやくような、そんな声。
「市子ちゃん、大丈夫かい? まさか、怪我をしたのかい?」
市子は応えない。低い声でささやき続ける。ぽたり、と、血がしたたり落ちる。ぽたり、ぽたり、と、何度も。奇妙なほどに規則正しく、奇妙なほどに大きな音で、血が滴る。その音が、市子のささやき声と混じり合う。
「市子ちゃん」
永井は、市子の肩に手を置いた。
市子のささやきが止まった。
その瞬間、ぞくりとした感触が永井の身体を駆け抜けた。まるで海の底に沈んだかのように、全身が凍える。思わず手を離した。触れたのはほんの一瞬だが、それだけで手が凍りついてしまったかのような錯覚を覚える。
「……どうして、私たちをおいて行ったの?」
それまでずっと聞き取れないささやきを続けていた市子が、突然、はっきりとした声を上げた。
「……え?」
思わず聞き返す永井。
「淋しかったよ……ずっと、海の底で」
背は向けたまま、市子はそう続けた。
永井は答えることができない。意味が判らなかったのだ。私たちをおいて行った、ずっと海の底、いったい、何を言っているのだろう?
「ねえ……仲間はずれにしないで……」
とまどう永井に構わず、市子は言う。誰かに話しかけているような声になった。誰に? 判らない。部屋には永井しかいないが、市子は背を向けたまま、こちらを見ようともしない。ずっと、窓の外を見たままだ。もちろん、窓の外にも、誰もいない。
「早く……みんなといっしょになりたい……いっしょになりたいよ……」
その声が、徐々に弾んでくる。笑っているように思えた。感情の変化がおかしい。気が動転しているのだろうか? 恐怖で混乱しているのかもしれない。
「落ち着いて、市子ちゃん。もう大丈夫だから」
ごとん、と、音を立て、包丁が畳に落ちた。あまりにも大きな音だったので、永井は思わず身を竦めてしまう。
「あは……あはは……」
市子は、笑い始めた。
「市子……ちゃん……?」
振り返った。笑っていた。狂人が浮かべる笑みだった。笑いながら、闇人のそばに落ちている機関拳銃を拾った。
「市子ちゃん、そんなの拾っちゃ、危ないよ。そこに置いて」
市子は、永井の声など聞こえないかのように、笑いながら拳銃を持ち。
「あは……あはは……あははは!!」
銃口を、永井に向けた。
とっさにその場に伏せる永井。たたん、と、銃声が響いた。同時に、市子の身体は銃の反動で倒れた。銃弾は当たっていない。永井は市子が倒れている隙に部屋を出た。階段を下りようとして、びくんと身体が震える。階下から、拳銃を持った闇人が上がって来たのだ。永井は素早く機関拳銃を構えて引き金を引くが、からからと空回りをする音がする。弾切れだ。社宅に入る前に銃を乱射し、そのまま再装填していなかった。闇人が拳銃を向ける。引き金が引かれる前に、永井は屋上へと向かう階段へ走った。
「――あはははは!!」
笑い声をあげながら、部屋から市子が出てきた。玄関の前で闇人と遭遇する。ちょうど、闇人が拳銃を構えたところだ。そのまま引き金が引かれた。四度、銃声がした。そのすべてが、市子の身体に命中した。市子の笑い声が途絶えた。
「市子ちゃん!」
叫ぶ永井。
市子は、よろよろと数歩あとずさりをしたが。
「……あははははははは!!」
再び狂笑が響く。笑いながら、闇人に機関拳銃を向け、引き金を引いた。闇人の身体が踊るように震えた。銃声が止むと、闇人も倒れる。市子は満足そうに倒れた闇人を見ていた。やはり笑っている。四発の銃弾を受けたはずだが、まるで痛みを感じていないかのようだ。傷跡を見ると、みるみるうちに塞がっていく。この島では不思議な力で傷が治るのが早いが、それでもあり得ない早さだ。その上、身体の傷だけでなく、服に開いた穴まで塞がっていくではないか。
階下から、もう一体闇人が上がって来た。市子と同じ機関拳銃を持っている。市子も銃を構えるが、闇人の方が早かった。十数発の銃弾が、市子に撃ち込まれた。それでも、市子は倒れない。逆に、機関拳銃を撃ち返す。闇人は、簡単に倒れた。
「あははははははは! たーのしい!!」
歓喜の声を上げ、市子は階段を下りていった。
永井は――。
永井は機関拳銃の弾倉を交換し、市子の後を追った。
社宅の出入口前の闇人はよみがえっていた。先に外に出た市子に向けて、小銃と機関拳銃を撃つ。だが、やはり市子はものともしない。反撃して倒した。イ棟の屋上やベランダの闇人も狙撃してきたが、それでも市子は倒れず、逆に撃ち返す。
いったいどうなっている? 市子はすでに何十発も銃弾を受けているが、わずかに怯むだけで、痛みを感じる様子もなく、傷もすぐに塞がってしまう。あれでは、どちらが化物か判らない。
市子はそのまま北東へ向かって走った。出会う闇人は、手当たり次第に撃ち殺していく。弾が切れたら相手の武器を拾い、また撃つ。闇人を倒しながら、やがて市子は敷地内の北東部へ着いた。フェンス製の扉から敷地の外に出ることができる。道の先には、高い山と、その頂に建つ巨大な鉄塔が見える。
「お母さん! もうすぐ会えるね!」
鉄塔を見ながら嬉しそうに言う市子。そのまま走り、やがて姿が見えなくなった。
永井は後を追おうとしたが、行く手を闇人に阻まれた。すぐに機関拳銃を撃って倒したものの、北東のフェンス扉付近には、市子を追って来た闇人が多数集まっている。それぞれが小銃や機関拳銃を持ち、中には巨体闇人の姿も見える。永井が持つ機関拳銃の弾倉は、いま取り付けてあるものが最後だ。他の武器は拳銃しかなく、こちらは予備の弾も無い。発煙筒などの装備もさっき使ったのが最後だ。これであの闇人共を倒し、市子を追うのは不可能だろう。
仕方なく、永井はその場を離れた。南東へと向かう。そこにもフェンス製の出入口があり、外に続く道は、大型のフェリーが座礁した森へと続いている。
永井は敷地から脱出すると、森へ向かって走った。