その日、藤田茂は警ら用の自転車に乗り、三逗港近辺を巡回していた。この地区の交番員となって、間もなく三ヶ月。事件や事故と呼べるものは、一件も発生していない。港と言っても、近隣の島を巡る小さな定期船が一日数便発着する程度のもので、あとは小さな漁港が点在するだけの寂れた地域だ。強盗や殺人・誘拐などの凶悪事件など皆無で、空巣やひったくりといった犯罪も、少なくとも十年以上発生していないそうだ。主な仕事は、こうして街を巡回することである。それも、一人暮らしの老人を訪ねたり、定期船に乗り遅れて困っている人がいないかを確認するのが目的だ。あとは、自転車の二人乗りをする中学生や、駐車禁止の場所に車を停めている住人を注意するくらいである。ほぼ毎日その繰り返しで、この三ヶ月で発生した最も大きな事件は、酒に酔って喧嘩を始めた漁師を仲裁したことだろう。三ヶ月前まで県警の三課で大いに手腕を振るっていた藤田にとっては、考えられないほど退屈な毎日だった。
藤田が警察官となってから、もうすぐ四十年になる。そのほとんどを、県警の三課に勤めていた。三課で扱うおもな事件は、窃盗・スリ・ひったくりである。事件が発生しない日はほぼ無く、多くの事件を解決し、数えきれないほどの手柄を立ててきた。三課で扱う犯罪は再犯率が高い。逮捕した犯人が有罪となり刑期を終えても、また同じ罪を犯して服役し、それを繰り返す者が多いのだ。そのため、出所した後の面倒を見て、二度と罪を犯すことの無いよう更生させるのも重要な仕事だ。多くの犯人を逮捕してきた藤田は、同時に多くの犯罪者を更生させた。その働きが認められ、現場一筋のノンキャリアながら、警部補になることができたのだ。
しかし、三ヶ月前、藤田は護送中の窃盗犯を逃亡させてしまうという失態を犯した。
この、たった一度の失態で、彼はそれまで築き上げてきたものをすべて失った。警部補から巡査部長へ降格され、この寂れた港街の交番へ左遷されたのだ。今は家族とも離れて暮らしている。同い年の妻と、高校三年になる一人娘は、藤田と一緒にここで暮らすことを拒んだ。それは単身赴任ではなく、別居状態と言っていい。ずっと仕事ばかりして家族を顧みることなどなかったから、それも当然と言えた。家事や子育ては妻に任せきりだったし、結婚記念日や誕生日を祝ったこともない。娘の授業参観や運動会、入学式・卒業式などの学校行事に顔を出したこともない。四年前、妻は病に倒れ入院したが、ほとんど見舞いに行くこともなかった。その入院は三年にも及び、手術・入院・リハビリの費用は、それまで藤田ががむしゃらに働いて貯めた貯金をほぼ使い果たすほどであったが、それを知ったのは左遷が決まった後だ。それが原因で娘が大学進学を諦め就職を希望していると知ったのもそのときだ。妻がなんの病気だったのかは、今も知らない。
――私たちは、お父さんには頼らないで生きていきます。
あのとき娘から言われたその一言は、今も、藤田の胸の奥に刺さっている。
藤田は、職場にも、家庭にも、居場所を無くしたのだった。
巡回を終え、交番へ戻った藤田。あとは日誌を書き、夜勤の者に引き継いで、今日の勤務は終了である。机に向かい、日誌を開く。今日も事件と呼べるほどのことは起こっていない。まず日付を記入すると、一行目に、いつもと同じ言葉を書いた。
――地域をパトロール。異常なし。
ペンを止める藤田。この言葉を書くたびに、藤田は思う。はたしてこの地域に、警察官は必要なのか、と。
重大な犯罪など起こるはずがない。酔っ払いの喧嘩を仲裁するのが関の山だ。住人は出かける時にも鍵を掛けない。それどころか、玄関や窓さえ開けっぱなしだ。それでも、十年以上空巣も窃盗も無い。交通量が少ないから事故も起こらない。二人乗りや駐車違反をしたところで、その行為に迷惑している人などいないのが本当のところだ。
この地域は、警察官などいてもいなくても変わらない――三ヶ月の勤務で、藤田はそう確信した。
藤田は大きく息をつくと。
「――――」
さらに、ペンを走らせる
――本日は一日中晴天。ただし、昼過ぎから風が強くなり、波もやや高くなった。東の空にはやや雲が多い。天気予報によると、明日は午後から雨になるという。漁師たちには、明日海に出るとき注意するよう告げた。
ペンを止め、藤田は小さく笑う。海の知識は彼らの方がよほど豊富だ。自分のような素人が口出しするまでもないだろうが、それでも彼らは、藤田の注意を嫌な顔ひとつせず聞いてくれた。
さらにペンを進める。
――三丁目の鈴木のおばあちゃんは、最近体調が良いようだ。食欲もあり、朝夕の散歩を楽しむまでになっている。ただ、明日は雨が降るから、またひざが痛みだすかもしれない。先日渡した湿布が効いたと言っていたから、また持って行ってあげよう。
――子供たちが神社でかくれんぼをしていた。その際、やんちゃ坊主が一人、社の屋根にあがっていたので、バチが当たるぞと注意しておいた。もっとも、私も子供の頃は境内で爆竹を鳴らしたり立小便をするなどしょっちゅうだったので、人のことは言えないのだが。
藤田のペンは止まらない。事件は皆無だが、書くことは山ほどある。
県警に勤めていた頃は、書類仕事などする暇がないほど忙しかった。事件は後を絶たず、それを次々と解決していくことを誇りに思っていた。
それに比べ、ここでの勤務は退屈そのものだ。事件は何も起こらず、警察官がいる必要もない。
だがそれは、この地域の治安が良いことを意味している。
なにも事件が起こらず、警察官が暇を持て余す。それこそが地域と警察の理想の形ではないか――藤田は、そのことに気がついた。
降格され、左遷され、家族にも見捨てられ、あの日、藤田は全てが終わったと思った。事件が発生しない地域の交番に勤務することに何の意味があるのかと、投げやりな気持ちになった。がむしゃらに働いた結果がこんな何も無い地域での暮らしなのかと、惨めな気持ちになった。
しかし。
この交番に来て、藤田は知った。
目の前に広がる海の広さを、藤田は知った。
見上げた空の、どこまでも広がる青さを、藤田は知った。
藤田の生まれ故郷の島も、ここと同じくらいの小さな漁村だ。景色も、こことほぼ変わらない。若い頃はそれが当たり前で、なんとも思わなかったが、それこそがこの地域の財産であると、藤田は今になって知った。
そして。
「お巡りさん、今日もパトロールご苦労様です。どうぞ、上がってお茶でも飲んでいってください」
「お巡りさん、今日はええ鯛がとれたけぇ、帰りにうちによってくだせぇ。うまい酒用意しときますわ」
「お巡りさん、昨日は酔っぱらってケンカしてすんまへんでした。アイツは頑固で気が
「お巡りさん、うちのバカ息子がまた迷惑かけたようで、ホンマすみません。今度なにかやらかしたら、遠慮のう逮捕して、二・三日牢屋にぶち込んだってください」
「お巡りさん、いつもありがとうございます。お巡りさんがいてくれるおかげで、この辺は事件や事故が無くて、ホント、助かってます。これからもよろしくお願いしますね」
地域の人々の温かさに、藤田は涙した。
確かに、この地域の治安は良く、警察官がいなくとも、犯罪など起こらないであろう。
だが、ここには、間違いなく藤田の居場所があった。
ここは、藤田が心から住みたいと思う場所だった。
いつかこの街で、妻と娘と、一緒に暮らしたい――そう思える場所だった。
先日、藤田は非番の日を利用して、久しぶりに家族の元へ帰った。嫌がる娘をなんとか言い聞かせ、一緒に夕食を食べた。そのとき藤田は、この街の海の広さを、空の青さを、そして、人々の温かさを話した。妻も娘も終始無言で、話を聞いているのかどうかも判らなかった。食事が終わり、家を出た時も、見送りはなかった。
ただ。
忘れ物をしたことに気付き、家に戻ると、娘が妻と話す声が聞こえた。
――お父さん、なんか明るくなったね。
その一言で、藤田は泣いた。
その一言で、藤田は家族への愛を思い出した。
その一言で。
もう一度、必ず、家族三人で暮らす――そう、胸に誓った。
――しかし。
その、彼のささやかな望みは、叶うことはなかった。
夜見島北部にある古い要塞跡で、藤田は血まみれになって倒れていた。そばには、藤田に包丁を突き立てる矢倉市子がいる。狂ったように笑いながら、包丁を振り下ろす。執拗に、何度も何度も、藤田の胸を、腹を、包丁で刺す。少し前までは、まるで冬空の下に放り出された子猫のように怯え、震えていた少女が、今は悪鬼のような形相で、藤田の身体を引き裂く。なぜ、市子は突然豹変したのか。藤田には思い当たることがあった。
「そうか……あんたがあの……姿を盗む化物か……」
藤田は、市子の禍々しい笑みを見つめ、つぶやいた。
夜見島には、『海で死んだ者が帰って来ても、決して家にあげてはいけない』という言い伝えがある。海に住む穢れは死者の姿を盗み、その姿を模して現れることがあるのだ。市子は、遭難したブライトウィン号の乗客だと言っていた。おそらく、本物の市子は海に落ちて死んだのだ。いまここにいる市子は、海に住む穢れが姿を模した姿なのだろう。
やはり、自分はとことん運が悪いようだ。
がむしゃらに働くことが家族のためと思っていたが、それが原因で家族を失った。
良かれと思って窃盗犯を母親に会わせたが、それが逃走を許す結果になってしまった。
そして。
上陸禁止の島に謎の女がいるという話を聞き、管轄外だが調べることにした。自分の手に負えることではないと判っていたが、島の穢れについて調べようとした。
その結果。
偶然保護した少女が穢れそのものであり、命を落とすことになった。
全ての行為が悪い方向へ進んでしまったように思う。何かひとつでも違った行動をしていれば、こんな結果にはならなかったかもしれない。思えば、昔からずっとそうだった。余計なことに首を突っ込んで厄介ごとに巻き込まれる性格は、やはり死ぬまで直らなかった。
執拗に包丁を振り下ろす市子の姿が、娘と重なる。これは、家族を顧みなかった自分への罰なのだろうか。娘も、父親のことを殺したいと思うほど憎んでいたのだろうか。
――すまんなぁ、朝子。
最後の娘への詫びの言葉は、もはや声とも呼べないわずかな吐息となり、市子の狂笑に飲み込まれて消えた。
我に返った矢倉市子は、血まみれで息絶えている藤田茂と、返り血を浴びた自分と、そして、手に持った血まみれの包丁を見て、悲鳴を上げて包丁を投げ捨てた。ちがう! これはあたしがやったんじゃない! これはあたしじゃない!! だって、あたしはあのとき死んだ!! あたしは、あたしじゃない――。
そのことに気がついた市子は。
「――いやああぁぁ!!」
絶叫と共に、その場を走り去った。