逃げた化物女を追ったものの、結局見失ってしまった太田ともえは、瓜生ヶ森を離れ、西の蒼ノ久集落へ来ていた。化物女を探さなければならないのだが、ともえは、いつの間にか髪飾りを一つ落としていることに気がついたのだ。よそ者の男に突き飛ばされた時かと思い、戻って探してみたが見つからなかった。そうなると、今から三時間ほど前、蒼ノ久集落から夜見島港へ向かう道で、化物女と揉み合いになった時かもしれない。……いや、あのとき髪飾りはあったように思う。いったい、どこで落としたのだろう? 他に心当たりは無いので、今夜通った道をくまなく探すしかなかった。かなり広範囲を移動したので探し出すのは大変だが、絶対に見つけなければいけない。高価な品であることはもちろんだが、花弁に施された美しい細工模様がともえのお気に入りであり、なによりも、あの髪飾りは二十歳の誕生日に父が買ってくれた、とても大切なものなのだ。
「髪飾り……お父様の髪飾り……」
足元を懐中電灯で照らしながら歩くともえ。高台の社から漁港まで続く急な下り坂だ。斜面に張りつくように造られた道は幅が狭く、腰よりも低い手すりの向こうは崖のような状態だ。少し足を滑らせただけでも転落しかねない。雨の降る夜、着物と草履で歩くのは避けた方がよい場所だが、あの髪飾りを見つけるためなら、危ないなどと言ってはいられない。ともえは、道を隅々まで照らしながら坂を下る。左右に振られる懐中電灯の光は、砂利以外なにも照らし出さない。そのまま坂を下りていくと、道は途中から階段になる。その手前で、懐中電灯の光が、黒くくすんだものを照らした。漁師が履く長靴だった。誰か立っている。ゆっくりと懐中電灯を上げる。ボロボロの作業着にねじり鉢巻き、血の気の引いたどす黒い顔色に白く濁った目、頭部が大きく陥没し、右腕は関節が逆に折れ曲がり、左手の肉はこそげ落ちて骨がむき出しだ。死体に穢れが憑りついた化物・屍人だ。
「……なによ……なんなのよ……あたしは太田常雄の娘よ? あたしに手を出したら、お父様が許さないから!」
強がり、声を張るともえ。父の名を出せば誰もが震えあがるし、そもそも太田家の娘に手を上げる者などこの島にはいないのだが、もちろん、そんなことが屍人に通じるはずもない。屍人が一歩近づいた。だが、二歩目を踏み出したところで足ががくんと折れ、派手に転んだ。かなり身体の損壊が激しいから、骨が折れていたのかもしれない。これなら襲われることはないだろう。安心し、せせら笑うように唇の端を吊り上げたともえだが、その表情が凍りつく。屍人の身体から、もやもやとした黒い煙のようなものが抜け出したのだ。屍霊が身体を離れた。ともえに近づいて来る。損壊の激しい身体を捨て、新たな身体を求めているのだ。流動する煙のような姿が何かの模様のように見える。それが一瞬、人が笑っている顔に見えた。
「ひぃっ!!」
短い悲鳴を上げ、ともえは懐中電灯を投げた。でたらめに投げた懐中電灯は屍霊にかすりもしない。走って逃げるともえ。もちろん、着物と草履ではうまく走れない。
「誰か! 誰か来て! 化物が! 化物がここにいるわ!!」
叫び、助けを呼ぶが、誰も応えてくれない。ともえは明かりもない斜面の細道を、がむしゃらに走る。
どん、と、背後から強い衝撃があった。
屍霊に体当たりをされた――そう思った瞬間、ともえの身体は奇妙な浮遊感に包まれる。それも一瞬だった。背中から腹を貫く鋭い痛みと共に、背骨がへし折れるかと思うほど身体がのけ反る。あまりの痛さに体勢を変えようとしたが、さらなる痛みが全身を駆け巡り、思わず悲鳴を上げた。痛みから逃れようともがけばもがくほど、さらに強烈な痛みが襲う。どれほどもがいても、体勢を変えることができない。腹を見ると、太い鉄の棒が身体を貫いていた。崖から落下したともえは、民家の屋根のアンテナに、背中から突き刺さったのだ。
「痛い! 誰か! 誰か助けて! 痛い! 痛い!」
気が狂いそうなほどの激痛だった。叫び、助けを求めても、誰も応えない。次第に呂律が回らなくなる。発する言葉は意味をなさないものとなり、声もかすれてくる。さらに大きな声を出そうとしたら、声ではなく血を吐いてしまった。やがて、身体も思い通りに動かなくなった。同時に、痛みも感じなくなる。意識も薄れる。
「た……す……け……」
ついに、声は出なくなり、もがいていた手足が、だらんと垂れ下がる。目がかすむ。何も考えられなくなる。
意識が途絶える寸前、ともえは、近づいて来る屍霊を見た。
やがて。
屍人としてよみがえったともえは、大きく身体を振ってアンテナを折った。勢いで屋根から転げ落ち、全身を強く打つ。が、何事もなかったかのように立ち上がり、身体を貫いていた鉄の棒を抜き取った。
「髪飾り……化物女……かみかざり……ばけものおんぬわ」
呪文のように、ふたつの言葉を繰り返し口にするともえ。南東の方角を見た。森が広がる瀬礼洲地区だ。そこに、あの女の気配を感じる。
「ばけもぬぉ……おんんうら……ぶわけむぉのおんぬわぁ……」
ともえは、瀬礼洲方面へ向かった。