SIREN2(サイレン2)/小説   作:ドラ麦茶

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第七十一話 『苦悶』 阿部倉司 夜見島金鉱採掘所 19:28:17

 八月三日、夜七時二十八分。

 

 

 

 阿部倉司は、二十四年の人生で最大の危機を迎えていた。

 

 物心ついたときからワルだった彼は、これまで多くの修羅場を潜って来た。小学生の頃は近所のガキ大将と呼ばれるヤツにはたとえ年上だろうと片っ端からケンカを挑んで負けたし、中学では入学式の日に番長グループから目つきが気に入らないと因縁を付けられ袋叩きにされたし、高校では暴走族同士の抗争を遠くから眺めていた。特に、ここ数日の間に訪れた危機は、彼の身を滅ぼしかねないほどだった。同棲相手の殺人容疑を掛けられ全国に指名手配された。この島に上陸してからは鈍器や刃物や銃を持った化物に何度も襲われた。だが、そんな過去など穏やかで平和で静謐(せいひつ)で天下泰平で鼓腹撃壌(こふくげきじょう)な毎日だったと思えるほど、今の阿部は崖っぷちの窮地に立たされた絶体絶命の危殆(きたい)に瀕した焦眉(しょうび)の急なのである。

 

 阿部は前かがみになって腹に手を当てた。少し前に下腹部が痛み出し、それがいま、堪え難いものになっている。ただしその痛みは、鈍器で殴られたわけでも、刃物で刺されたわけでも、銃で撃たれたわけでもない。屍人や闇人共との戦いで何度かそういった攻撃を受けたが、それらの傷は、島の不思議な力ですぐに治ってしまうのだ。それに対し、この痛みは島の力をもってしても治ることはないだろう。この痛みを取り払う方法はただひとつ、トイレに行くことだ。

 

 そう! 阿部はいま、猛烈に○ンコがしたいのである!!

 

 なぜ、彼は突然このような危機に陥ってしまったのか? 思い当たる理由はひとつだ。深夜、腹が減った阿部は、社宅近くの金網に絡みついていた果実を食べた。非常に美味だったので三つほどまとめて食べた。赤い表面に黄色い斑点という毒キノコのような見た目だったが気にせず食べた。アレが原因だ。島に来て以降あの果実以外は何も口にしていないから間違いない。もっとも、今さら原因が判ったところで何の解決にもならない。この危機を乗り切るにはトイレに行くしかない。急いでトイレを見つけないといけないが、急いで移動するとケツを閉める力が緩み危険という大いなる矛盾を抱えつつ森の中を探したものの、当然トイレなどあるわけもない。その辺ですることも考えたが、それは彼のプライドが許さないし、紙が無いのでは結果的に悲劇は避けられない。結局一時間ほど森の中をさまよい、ようやく『夜見島金鉱採掘所』という看板が掲げられた建物を見つけたのだ。前に占い女が『むかし島では金が採れた』と言っていたから、その鉱山だろう。ここならトイレがあるだろうと駆け込んでみたものの、そこはむき出しの地面に線路が敷き詰められ、たくさんのトロッコの車両が放置された車庫で、全体的な広さは郊外のショッピングモールにも匹敵しそうだ。そのくせ案内板など無いからどこにトイレがあるかも判らない。一度希望を持たせておいてまた絶望の淵に追い込むとは、この島の神様はなんと底意地が悪いのだろう。

 

「くそすぎだろっ! このままじゃよぉ……」

 

 腹立ち紛れに壁に拳を打ち付ける阿部。それが大きな間違いだった。拳の衝撃は腕を伝い肩を伝い胸を伝い、そして腹に伝わる。衝撃に驚いた腸が、ここは危険だから早く逃げろと言わんばかりにウ○コを押し出そうとする。逃げろと言われたウン○も、早くここから出せと言わんばかりに内側から激しく門を叩く。彼の愚かな行為は、ここに来て最大の波を呼び寄せたのだ。乗るわけにはいかない! このビッグウェーブには!!

 

 人は、普段潜在能力の一〇パーセントから三○パーセント程度しか使うことができないが、本当の窮地に陥った時、リミッターが解除され、一〇〇パーセントフルに能力を発揮できるようになるという。

 

 今の阿部が、まさにそれだった。彼は、潜在能力限界マックスモードへ突入したのだ!

 

 阿部の脳は今までにない早さで回転しはじめた。現状を的確に分析し、この危機を乗り切る最適解を導き出そうとする。便意には波がある。大きな波が来た後は、その波が引く時が必ず来る。一刻も早くトイレにたどり着きたいが、今は動くのではなく耐える時だ。全ての力をケツに集中して耐えろ。そう判断した阿部はその場にうずくまった。その瞬間、建物内に銃声が鳴り響き、同時に頭の上を鋭い風が駆け抜け、目の前の壁に小さな穴が空いた。狙撃された!

 

「ああもう! どうしろってんだよ!!」

 

 叫ぶ阿部。ヤケになったわけではない。ハンマー投げの選手が競技中大声を出して瞬間的に筋力を高めるがごとく、今の彼もまた、大声を出すことでケツの筋力を高めたのだ。これなら少し動いても大丈夫だ。阿部はダッシュし、近くに停めてあったトロッコの陰に身を隠した。これで狙撃手の視界からは外れた。阿部は再びうずくまり、全神経をケツに集中させる。そのまましばらく待つと、ゆっくりと波が引いてきた。よし。油断は大敵だが、これなら行動できそうだ。だが阿部は知っている。大きな波が来た後はその波が引く時が必ず来るが、同時に波が引いた後はさらなる大きな波が来るということを。そして、次の大波を耐えることができるかは判らない。つまり、次の波が来るまでに決着をつけなければならないのだ。

 

 阿部は素早く幻視を行い、狙撃手の居場所を探った。車庫を進んだ先に鉄製の階段があり、それを上がった先の細い通路、ライトブリッジとかフライングブリッジとかユニテージとかキャットウォークとか呼ばれている足場に、狙撃用の小銃を持った闇人がいる。常に車庫の方を向き、阿部が隠れているトロッコ付近を重点的に警戒している。幸い、車庫には放置されたトロッコの車両が多いため、それに身を隠しながら進めば、階段の手前までは行けそうだ。ただし、その先には身を隠す物が無く、進むためには狙撃手を倒さなければならない。こちらは銃を持っていないため、倒すためには階段を登って通路を進み殴るしかない。狙撃手の腕前にもよるが、間違いなく途中で撃たれるだろう。何か策を用いなければならない。幸いなことに、こちらにはいくつかの秘密兵器がある。それら使えば、狙撃手など恐れるに足りない。阿部は幻視をやめる。驚くべきことに、幻視をして狙撃手を見つけ状況を確認し策を練るまでの時間、わずか0.3秒。潜在能力限界マックスモードの阿部だからなせる業である。

 

 阿部はトロッコの車体に身を隠しつつ階段の手前まで進んだ。狙撃手に見つからないようそっと顔を出し、敵までの距離を目測する。階段までは二歩、階段は十段、階段を上がって狙撃手のいる場所までは七歩だ。狙撃手は相変わらず車庫側を警戒しているため、姿を見せた瞬間狙撃されるだろう。何かで注意を引く必要がある。阿部はジャケットの右ポケットを探った。中には、金属製の六角ナットを詰め込んでいる。夜見島港の廃ビルで占い女と休憩を取った際、ビル内に大量に置いてあったので、何かに使えると思い持ってきたのだ。阿部はナットをひと握り取り出すと、トロッコの陰から手だけ出して正面に投げた。ナットは狙撃手が立つライトブリッジの下に、派手な音を立てて散らばる。狙撃手の注意が真下を向いた。阿部はその瞬間跳び出し、階段へ向かって走った。0.8秒で階段まで到達し、駆け上がる。もちろん、鉄製の階段はカンカンと激しく音をたてる。地面に散らばったナットに気を取られていた狙撃手も阿部に気が付いた。もちろんそれは計算済みだ。狙撃手がこちらに気づき、振り向くまでに1.2秒、それだけの時間があれば十段ある階段の五段目までは上がれる。狙撃手がこちらの姿を確認し、銃を構えて照準を合わせるまで2.41秒。その時間で階段を上がってフライングブリッジを三歩進める。だが、狙撃手が引き金を引くまでの0.294秒の間に、残り四歩の間合いを詰めるのは不可能だ。そこで二つ目の秘密兵器が炸裂する。阿部はライトを取り出し、光を闇人の顔に当てた。顔を抑え、悶え苦しむ闇人。秘密兵器と言いながらこれまで何度も使った技だが、そんなことは気にしない。闇人の目がくらみ復活するまで3.7127秒、それだけの時間があれば四歩の間合いを詰め、武器を振り下ろすことができる。阿部が愛用している木製バットで闇人を倒すのに四発。その間に反撃される可能性84.21541%。阿部が通常の状態なら、銃での殴り攻撃はもちろん銃弾を一発喰らうくらいは大丈夫なので、そのまま連続攻撃で倒してしまえばいい。しかし、今は平手打ち攻撃一発喰らうのですら致命的になりかねない危機的状態だ。反撃を許すわけにはいかない。問題ない、三つ目の秘密兵器を使えば! 阿部はバットを大きく振り上げて突進すると、ケツの力を緩めない程度の渾身の力で闇人の頭部に打ち付けた。よろめいた闇人に、今度はバットを下から上に振り上げる。そのわずか二発の連続攻撃で、闇人は甲高い悲鳴を上げて倒れた。どうだ、と闇人を見おろす阿部。通常の半分の攻撃で倒したことになる。そう、阿部のバットは、今までより大幅にパワーアップしているのだ。バットには、夜見島港の廃ビルで見つけた大量の釘を打ち付けてある。その名も釘バット。阿部の天才的ネーミングセンスによりそう名付けられたこの武器は、その威力、なんと通常のバットの3.14159倍。天才・阿部倉司の最高傑作である。

 

 狙撃手は倒した阿部は小銃を拾う。これを奪っておけば、この闇人が復活した時の脅威は格段に減るし、潜在能力限界マックスモードの阿部ならば使いこなすことも可能だ。もちろん、これで終わりというワケではない。いま阿部の終了条件は『トイレへの到達』であり、『狙撃手を倒す』は小目標にすぎないのだ。そして、いまだトイレの場所は不明だ。危機的状況は何も変わっていないのである。阿部はユニテージの上から周囲を見回した。車庫を進んだ先は、アルファベットのSの字を描くように、緩やかに右、そして左へと曲がっている。また、それとは別に、左側には地下へ続く階段とインクラインも見えた。その下には恐らく坑道があるのだろう。この場から下を見る限り、トイレらしきものは見当たらない。では、このキャットウォークを進んだ先には何があるのか。見ると、通路の先は連絡橋を渡って外に出るようになっており、そこに木造の小さな建物があるのが見えた。いかにもトイレがありそうな雰囲気である。阿部は迷うことなくそちらへ進んだ。

 

 建物に鍵はかかっていなかった。中に入ると、そこはいくつかの操作パネルが置かれた部屋だった。普段の阿部ならなんの機械か判らないところだし、そもそも気にもしないところだが、潜在能力限界マックスモードの阿部は、そこがインクラインの制御室だと判断した。もちろん、制御室だろうが分娩室だろうが今の阿部には関係ない。いま必要なのはトイレだけである。阿部は二階建ての建物をくまなく探したが、トイレを発見することはできなかった。だが、悲観はしていない。こういう場所には何かある。一見無意味で理解不能な行為が後に重大な意味を持つことになるのはこの世界の(ことわり)だ。阿部はすでに気付いている。壁にある大きな丸ボタンが怪しい。ためらうことなくそれを押す阿部。ガコン、と、遠くで機械が稼働する音が聞こえた。通常ならば聞こえるはずがないほどの小さな音だったが、潜在能力限界マックスモードの阿部は、それがインクラインの稼働した音だということまで判る。戻ってみよう。

 

 阿部はインクライン制御室を後にし、連絡通路を通って階段を下りる。インクラインのところまで進むと、思った通り、そこにはさっきまでなかったトロッコの牽引車があった。地下に停めてあったものが、さっきのスイッチで上昇して来たのだろう。トロッコの線路は建物の奥へと続いている。これに乗れば早く進めるだろうし、歩かなくていいから腹への刺激も少ない。これは使えそうだ。阿部は早速トロッコに乗り込もうとしたが、ふと横を見ると、地下へ下りるインクラインの横に、送風機管理室と書かれた小さな部屋があった。地下の坑道へ空気を送る装置を管理する部屋だ。トイレなどありそうもないが、すぐそこだから一応確認してみても大した時間のロスにはならない。いや、そのわずかな時間のロスが、後に致命的になる可能性もある。

 

 このとき、潜在能力限界マックスモードの阿部は、本能的に悟る。ここは、我が人生最大の分岐点だ。ここですぐにトロッコに乗るか、送風機管理室を調べるか――その選択によって、この後の人生が大きく変わる。正解はひとつしかない。一方は生で一方は死、一方は天国で一方は地獄、一方は歴史を動かし一方は歴史に埋もれる、そんな究極の分かれ道なのだ。もちろん、潜在能力限界マックスモードの阿部をもってしても、どちらが正解なのかは判らない。

 

 阿部は――。

 

 

 

 

 

 

 今はわずかな時間も無駄にはできない。このまま先へ進む方が賢明だろう。阿部はトロッコの牽引車に乗り込んだ。阿部には電車的な乗り物の運転知識など無いが、潜在能力限界マックスモードの彼は、運転席に立っただけで瞬時に操縦方法を理解した。レバーを回して速度を調整する単純なものだ。阿部はレバーを停止から走行へ回す。ゆっくりと動き出す牽引車。あまり早く走行すると腹への刺激が強くなるので、速度は十キロ程度にとどめておく。歩くよりも少し早い程度だが、今はこれで充分だ。トロッコはSの字を描いた線路上を進んだ。

 

 だが、しばらく進んだところでビクンと身体が震え、接近する電動トロッコに向けて小銃を構える視点が見えた。瞬時に阿部は電動トロッコから跳び降りる。その刹那、銃弾が阿部の自慢のリーゼントを掠めた。危ないところだった。潜在能力限界マックスモードでなければ、確実に脳天を打ち抜かれていただろう。どうやらこの狙撃手はかなりの腕前のようだ。

 

 操縦士を失った電動トロッコは自動でレバーが停止位置に戻り、やがて停止した。阿部はトロッコの陰に身を隠し、幻視で狙撃手の気配を探った。少し進んだ先に、狙撃用の小銃を持った闇人の視点を見つけた。迷彩服を着ているため、元は自衛官だったのだろう。休日のサラリーマンが自慢のゴルフクラブをピカピカに磨き上げるかのような手つきで銃身を撫で、「あっち側もこっち側も関係ない」と、意味ありげな独り言をつぶやいている。だが、阿部が注目したのは、その視界の左隅にわずかに映っているものだった。引き戸があり、そこに『休憩室』というプレートが貼られているのだ。潜在能力限界マックスモードの阿部は、瞬時のその意味を分析する。休憩室とは、従業員が休憩するための部屋だ。炭鉱で金の採掘をしていた鉱員、インクラインや送風機室の機器類を操作していた技師、採掘された鉱石を選鉱する技術者、それらの者たちがひととき身体を休め、食事をとり、談笑をし、あらためて仕事に取り組むための活力を得るための部屋である。そこは従業員にとって安らぎの場所でなければならない。安らげない場所で休憩などできるはずがない。ならば! その部屋にはトイレがある確率が高い、いやトイレがあるはずだ、いや絶対にトイレがある、いやトイレが無ければ困る、いやある! 絶対確実一〇〇パーセントあるはずだ!! ならばならば!! あの狙撃手をどうにかすれば我の勝利、つまりこれは、阿部倉司の人生最大一世一代乾坤一擲(けんこんいってき)天下分け目の天王山である!!

 

 はやる気持ちと便意を抑えつつ、阿部は冷静に狙撃手の様子を探る。狙撃手は、阿部が身を隠しているトロッコに銃口を向けたまま動こうとしない。背を向けた隙に攻撃して倒すという戦法は使えそうにない。距離が離れているため、ライトを当てて目をくらませる技も効果が低いだろう。恐らくナットを投げて気を引くという作戦も無駄だ。あの狙撃手は騙されない。こちらも銃を使うべきだ。さっき倒した狙撃手から奪っておいたから、銃はある。潜在能力限界マックスモードの阿部ならば使いこなすことは可能だ。それでも、あの狙撃手相手に撃ち勝つことは困難であろう。恐らくヤツは、自衛隊でもトップクラスの腕前だ。

 

 幻視をやめる阿部。ダメだ。状況を分析すればするほど、極めて勝ち目が低い戦いだと認めざるを得ない。必勝法が無い戦いの策を考え続けるのは座して持つのも同じだ。そして、時の経過は確実に阿部を追い詰める。こうしている間にも少しずつ時は進み、腸の中の○ンコも少しずつ進んでいる。次の波が来るまでもう幾ばくの猶予も無いだろう。こうなればウンを天に任せるしかない。フン砕覚悟で特攻だ! 阿部がヤケクソで突撃しようとした時。

 

 ――道を見失ったら、原点に戻りなさい。

 

 不意に、何かのマンガで読んだいや天の神からのお告げが聞こえた。

 

 原点……? この場合の原点とはなんだ? 時間は無いが、考えてみる価値があるように思えた。闇人と戦う原点……言うまでも無く、それは光だ。ヤツらは光に追われて地の底に逃げた。ヤツらは光に弱い。ヤツらには光こそ最大の武器。そう、小銃も釘バットもトラバサミもナットも、すべてサブウェポンにすぎない。メインウェポンは光。手持ちのライトで足りないのなら、ライト以上の光を用意すればいい。そして、もうひとつの原点。一見ワケの判らない行動がどこかで誰かの役に立つ。阿部がインクライン制御室でボタンを押しトロッコの牽引車を稼働させてこの場まで来たのにも意味があるはずだ。周囲を見回す阿部。そして見つけた! なんという偶然なんという幸運なんという僥倖(ぎょうこう)なんという有卦(うけ)なんというご都合主義! すぐそばの壁にブレーカーがあるではないか!!  スイッチは切られた状態なので、入れれば明かりが点くはずだ!! しかもあの狙撃手の頭上にちょうど電球がある!! もはや神の導きとしか思えない状況ではないか!! ああ! 神よ! さっきは底意地が悪いとか言ってスミマセンでした! おめでとうございます、恵みに満ちた方よ。全ての祝福は、御身のもの。さあ、楽園の門が開かれる!! 阿部はブレーカーのスイッチを入りにした。薄暗い建物内の明かりが全て点灯する。休憩室前の狙撃手は、身体中から煙を上げて悶え苦しみ始めた。もはや隙だらけだ。銃で撃つのも釘バットで殴るのもトラバサミで足を挟むのもナットを投げつけるのもやりたい放題だ! 阿部は一気にケリをつけようとした。

 

 だが!

 

 しかし!!

 

 なんということだ!!

 

 潜在能力限界マックスモードの阿部をもってしても予想できなかった事態が起こってしまった!!

 

 光を浴び苦しむ狙撃手は、あろうことか、そばの休憩室に逃げ込んでしまったのだ!!

 

 …………。

 

 …………。

 

 …………。

 

 しばらく呆然とその場に立ち尽くす阿部。狙撃手は休憩室に閉じこもって出てこない。外は明るいから当然だろう。これでは中にある(と思われる)トイレに入れないではないか!!

 

 腹から野獣が唸るかのような音が聞こえた。中に鉛の玉を仕込まれたかのような重さを感じる。全身から脂汗がにじみ出る。来る。海の底に住む混沌と仇をなす巨大な海龍が大いなる尾を打ち振るい天を曇らす光を発すかのごとく、災いの波が来る!! こうしてはいられない! あの休憩室に入れないのであれば、他を探すしかない!! 阿部は小銃も釘バットも投げ捨て走り出した。今の状況で武器はもはや荷物でしかない。休憩室の前を走り抜け、建物のさらに奥へと進んでいく。闇人に出会わなかったのは幸運か、それとも建物内を光で満たした彼の功績か、もはやどちらでもいい。とにかく阿部は敵と対峙することはなかったものの、トイレらしきものも見つけられないまま建物の最深部までたどり着いてしまった。そこには左の壁に引き戸があるだけだ。プレートはついていない。その先に何があるのかは開けてみないと判らない。そこにトイレがあることを祈るだけだ。阿部は引き戸を開けた。

 

 目の前には、降り続く雨と、広大な森が広がっていた。そう、阿部は、建物の反対側に出たのだ。

 

 ここまで阿部は、潜在能力限界マックスモードを駆使し、建物の一階は隅から隅まで塵ひとつ見逃さないレベルで探索したが、トイレがありそうな場所はさっきの休憩室のみだった。もしかしたら地下の坑道や、唯一探索していない送風機管理室の中にあったのかもしれないが、なんにしてもこの広大な建物内にトイレが休憩室にひとつ(その休憩室も未確認なのであったとも言い切れないが)しかないなど、欠陥物件もいいところだ。よく従業員はこんなところで働いていたな。そういう時代だったと言えばそれまでなのだが、いったい何人の者がここでウ○コを洩らしたのだろう。彼らに同情を禁じ得ない。

 

 などと、そんなことはどうでもいい! ここまで来てトイレが無かった! いったいどうすればいいのだ! もはや限界だ!

 

 ……落ち着け、阿部倉司。そう、落ち着くんだ。潜在能力限界マックスモードでも乗り越えることができなかったこの窮地を乗り越える方法はただひとつ。そう! 限界突破モードへ移行するのだ!!

 

 

 

 ――――。

 

 

 

 言葉は、単なる記号ではない。それ自体に意味があるものだ。

 

 例えば、極めて困難な状況に挑むとき、「俺はできる!」とつぶやくことで、通常は成し遂げることができないことでも達成できることがある。あるいは、人から「ガンバレ」「負けるな」と言われることで、くじけそうな心が支えられることがある。

 

 また、結婚式の場において、「切れる」「終わる」「もう一度」などという言葉は忌み嫌われる。別れや再婚などを連想させるからだ。言葉がそれらを引き寄せると信じられているからである。

 

 言葉には、それほどの力があるのだ。いわゆる『言霊』である

 

 この『言霊』という考えは、古くから日本に根付いている。良いことを言えば良いことが起こり、悪いことを言えば悪いことが起こる。誰もがそう信じてきた。この国は、言葉が全てを支配すると言っていい。

 

 つまり、何が言いたいのかというと。

 

 このとき阿部は、決して思い浮かべてはいけない言葉を思い浮かべてしまったのだ。

 

 

 

 ――限界突破。

 

 

 

 その言葉が、阿部に悲劇をもたらしたのだ。

 

「……ぁ……」

 

 阿部は、それまでの自信に満ちた姿からは想像もつかないほどの弱々しい声を上げた。

 

 

 

 

 

 

 昭和八十年八月三日、夜八時――。

 

 阿部倉司は、『どうあがいても絶望』という言葉の意味を知った。

 

 

 

 

 

 

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