ブライトウィン号の調査を終え、四鳴山の山頂にやってきた永井頼人と一樹守は、そびえ立つ鉄塔の姿に言葉を失い、思わず立ちすくんでしまった。一樹の話によると、山の標高約百メートルに対し、鉄塔の高さは二百メートルと、山よりも高い。日本でも数基しかない巨大鉄塔だ。その大きさに圧倒されたのもあるが、現在の鉄塔は、樹木や巨大な廃ビル、家屋などと融合するように存在しているのだ。廃ビルは『夜見島金鉱鉱業所』という建物で、本来は島中央の瓜生ヶ森という場所にあるらしい。それがなぜ、この場に転送され、鉄塔と融合してしまったのか。それは一樹にも判らないという。もっとも、それはさほど重要な問題ではないだろう。いま重要なのは鉄塔の先端だ。空は相変わらず厚い雲に覆われているが、鉄塔の周囲だけはぽっかりと穴が空いており、周囲の雲は、まるで排水溝に水が流れるかのごとく穴に吸い込まれている。鉄塔の先端もその穴の中に消えているのだが、向こう側には、まるで鏡に映したかのような逆さまの夜見島がわずかに見えている。永井は少し前にもあれを見た。昼間、雲が途切れて陽が射す時間が何度かあったのだが、その時も、空には逆さまの夜見島が浮かんでいたのだ。あれはいったい何なのだろう。
「恐らく、あれこそが本当の夜見島だ」一樹が、全てを悟ったような顔で言った。
「じゃあ、いま俺たちがいるここは、なんなんだよ?」
「ここは、二十九年前の夜見島をコピーしたものだ。岸田百合はこの島のことを『うつしよ』と言っていたが、あれは『
一樹の話によると、岸田百合はあのニヤケ顔の化物・闇人達の仲間で、地の底に封じられていた
「……そうか……そういうことだったのか……」鉄塔の先端を見ていた一樹が、大きく目を見開いた。
「なんだよ? 何か判ったのか?」
「船で俺が言ったことを覚えているか? この島では、何か行動を起こすたびに、事態が悪い方向へ進むってやつだ」
「……忘れたくても忘れられねぇぜ」
小さく舌打ちをする永井。元上官である三沢も、死の間際に同じことを言っていたから、忘れるはずがない。
「あの理由が判ったんだ」と、一樹は続けた。「これは、『シュレディンガーの猫』なんだ」
「シュレ……なに?」永井は首をかしげた。この男は、急に何を言い出すのだろう?
戸惑う永井に、一樹は続ける。「全ての事象は、観測者が確認するまで複数が重なり合って存在している。そして、観測された瞬間に確立するんだ」
「……また語りはじめちゃったよ、この人」永井は呆れてため息をついた。「すまねぇが、俺はお前と違って国語が苦手なんだ。判るように言ってくれないか」
「例えば、不透明な箱の中に、一匹の猫と、五〇パーセントの確率で毒ガスが放出される装置を入れたとしよう。箱を閉じ、一時間待つ。観測者からは箱の中は見えないから、中の猫が生きているのか死んでいるのかは判らない」
「まあ、そうだな」
「このとき、箱の中では、猫が生きている状態と、猫が死んでいる状態、そのふたつが重なって存在しているんだ」
「はぁ?」
「そして、観測者が箱を開けた瞬間、そのどちらかが決定される。猫が生きているか、死んでいるか、ふたつの可能性は、箱を開けた瞬間に確立されるんだ」
一樹の話を考える永井。中学高校共に、体育以外の成績は下から数えた方が早い永井にとって、今の話は少々難しいが、それでも、それがおかしいことだけは判った。
「……ちょっとなに言ってんのかわかんねぇけどよ、そんなのあり得ないだろ? 猫が生きているのか死んでいるのかは、箱を開ける前から決まってるんじゃねぇのか?」
永井がそう指摘すると、一樹は「その通り、よく気付いたな」と、どこか上から見るような顔でうなずいた。その態度が気に入らないが、一樹が話を続けるので、永井はひとまず怒りを抑える。
「これは、エルヴィン・シュレディンガーという物理学者が、量子力学の基本である『コペンハーゲン解釈』を皮肉ったものなんだ。お前の言う通り、これはあり得ない。だが、この偽りの夜見島では、あり得ないというのは思考を停止することに等しい。全てのことは、あり得るんだ」
「だから、俺は歴史が苦手なんだって言ってるだろ。判るように話してくれ」
「例えば、俺とお前はあのブライトウィン号の操舵室で再会した。しかし、もし俺が早々に船を立ち去っていたら、出会うことはなかった。そこに、ふたつの世界が存在することになる。『並行世界』とか『パラレルワールド』と呼ばれているものだ。あの瞬間、箱の中には俺とお前が『出会う』世界と『出会わない』世界が存在していた。そして、観測者が箱を開けた瞬間、『出会う』という世界が確立された。しかし、『出会わない』という世界もまた存在していたんだ」
「…………」
「この夜見島という箱の観測者は、箱を開ける前から中身が見えていて、自らの意志でどちらか一方に確立することができるのかもしれない。あるいは、箱を開けて自分の望む結果でなければ、箱を閉じもう一度開けることができるとも言える。どちらにしても、観測者の望む方へ事態を進めることができるんだ」
「……そうだな。お前がそう言うんなら、たぶんそうなんだろう」
「そんなことができるのは、この偽りの夜見島を創った者……あの異形の生物以外に考えられない。事態が悪くなる一方のはずだ。俺たちは、観測者である異形の生物の意のままに操られていたんだ」
「そだな」
「だが、俺たちは猫じゃない。猫よりもはるかに知能の高い人間だ。猫にはできないことを、俺たちならやれる。観測者の意に反することもできるはずだ。いや、俺たち自身が観測者になるんだ。その方法が、この鉄塔にある。つまり――」
一樹は鉄塔を見上げ、歌劇の舞台にでも立ったかのような大げさな仕草で指さした。
「あの先に、俺という観測者がたどり着いた時、可能性はひとつに収束する」
長い話がようやく終わったようなので、永井は大きくため息をついた。「……お前、わけわかんないことを一人で熱く語って周りにドン引きされることないか?」
「いや、そんな経験は無いな」一樹は真面目な顔で首を振った。
「そうか……まあ、別にいいけどな。それより、お前は頭が良いワリに空気が読めないってことは判ったから、今の話と市子ちゃんが、どう関係するんだよ?」
永井と一樹は、ブライトウィン号失踪事件の生存者である矢倉市子の痕跡を探るため、森の中に座礁した船を探索した。乗客が持ち込んだ8ミリカメラや船内カメラの映像から、船が消息を絶つ直前、船内を岸田百合と同じ顔の女がうろついていたことが判った。それが何を意味するのかは永井には判らなかったが、一樹はなにかを悟っている様子だった。
「ブライトウィン号の失踪に
「…………」
一樹の話を無言で聞く永井。今度の話は、理解できなかったわけではない。矢倉市子は屍人の勢力は放った化物……市子は闇人達から集中的に狙われていた。そして、どんなに銃弾を浴びても死なず、それどころか、たちどころに傷が治ってしまった。人間ではないと考えるのは、妥当なように思う。
だが、それでも永井は。
「俺はそんな話は信じない。市子ちゃんは、催眠術か何かで屍人共に操られてるのかもしれないだろ? なら、その術を解けば、元に戻るはずだ」
「本気で言ってるのか? その女は不死身だったんだろ? 人間であるはずがない」
「それも化物どもの力かもしれないだろ。とにかく俺は認めない。市子ちゃんは、俺が助けてみせる」
頑なに一樹の話を否定する永井。受け入れるわけにはいかなかった。永井は、上官である三沢を射殺してまで市子を助けたのだ。それが化物どもの仲間だったなどと、どうして受け入れることができるだろう。
一樹はさらに何か言いたげだったが、その言葉を飲み込み、別の言葉を継いだ。「……まあいい。今は言い争ってる場合じゃない。陽が暮れたら、闇人共はこの鉄塔に押し寄せてくる。ヤツらは、ここから地上へ侵攻するつもりなんだ。ヤツらよりも先に、鉄塔の先端部にたどり着かなければ」
「……判ってるさ」
頷く永井。一樹の話を全て信じているわけではない。そもそも大半が永井の頭では理解できないことだが、闇人共が地上へ侵攻しようとしているのは間違いなさそうだ。この国と国民の安全を守る自衛官として、それは何としても阻止しなければならない。それに、恐らく市子もこの鉄塔に来るだろう。
永井は小銃を、一樹は拳銃を手に、鉄塔へ向かう。いま二人がいるのは鉄塔の北側だ。鉄塔の周囲は鉄条網付きの金網に囲まれているが、北側には出入口があり、そこの鍵は外されていた。闇人共が中に入るため外したのかもしれない。そこから中に入れば、鉄塔内部の階段を登って上へ行くことができる。ただ、現在鉄塔は樹木や廃ビルなどと融合しており、階段を登ってもすんなり上層へ行けるかは疑問だ。ここから見上げただけでも、階段が崩れていたり、障害物で塞がれていたりする場所が、何ヶ所も見える。
「そっちからも行けるかもしれないな」
一樹が鉄塔の東側に建つ建物を指さした。鉱業所という看板が掲げられたその建物は、鉄塔と密接するように建っている。全七階建ての建物で、外壁には非常階段があり、そこから鉄塔へ飛び移ることもできそうだ。
「道がふたつってわけか。どうする?」永井は一樹を見た。
「二手に分かれよう。俺はこっちを行く」
一樹は永井の返事も待たず、鉄塔の方へ歩きはじめた。
「待てよ」と、永井が止める。「俺はいいけど、あんたは大丈夫なのか?」
一樹は海外で射撃の訓練をしたことがあるらしいが、それでも、本格的な戦闘訓練を受けた永井とは違う。鉄塔にはすでに何体かの闇人が侵入しているようだし、闇人の中にはかつて自衛官だった者もいる。素人が一人で相手をするのは荷が重いだろう。
一樹は振り返ることなく言う。「もし行き止まりだったとしても、戻るような時間は無い。どちらか一人でもたどりつけばいい。俺がダメだった場合は、お前がなんとかしてくれ」
そして、一樹は一人、鉄塔へ向かって行った。
「……たく、どいつもこいつも好き勝手言いやがって。勝手にしろっつーの」
永井は鉱業所へと入った。
鉱業所は、地下の坑道から金を運び上げ、選鉱や運搬などの各種作業をするための施設だ。広い建物内に大型の掘削機が出入りすることもあるため、一階から七階までが吹き抜け状態になっている。壁には明かり取りの窓が無数にあるため、吹き抜け部分はかなり明るく、闇人や闇霊の姿は見えない。もちろん、通路や階段、事務作業の部屋や従業員用の休憩室などもあるので、そこに潜んでいるだろう。幻視で建物内の様子を探ると、何体かの闇人の気配があった。
永井は鉱業所内を見回す。西と東の壁際に階段があり、それで三階までは上がれるようだ。永井は西側の階段を使い、上を目指した。途中、窓から射し込む光を避けて闇霊どもが襲いかかってきたが、動きが鈍いため、ライトで照らしたり銃で殴るだけで簡単に迎撃できた。
吹き抜けにある階段は三階までで、それより上の階へあがるためには作業所や休憩所がある区画へ行かなければならないようだ。そこへ向かう扉を開けると、細く薄暗い通路が続いていた。広い吹き抜けから急に狭い通路へ入ったので、妙な息苦しさを感じる。明かりは点いていないし、ところどころにある窓は、黒い布で覆ったり、棚などを移動させて塞いであった。ここから先は、充分警戒しなければならない。永井は小銃を構え、慎重に進む。すぐに、正面から五体の闇霊が襲ってきた。幸い通路が狭いため一斉に襲われることはない。先頭の闇霊はライトで照らして消滅させ、光をかわして回りこもうとする闇霊は銃で殴り、なんとか無傷で撃退する。
だが、少し進んで角を曲がると、今度はやや開けた通路に出た。そこには十体ほどの闇霊が待ち構えていた。何体かはライトで照らし、銃で殴って倒したものの、その隙をついて別のヤツが背後に回り込み、噛みつこうとする。数が多い。仕方なく永井は小銃を撃ち、残りの闇霊を倒した。
やや広めの通路は南から北へと続いており、やはり明かりは点いていないため真っ暗だ。間違いなく闇霊どもが潜んでいるだろう。小銃を使えば簡単に撃退できるものの、銃弾には限りがある。鉄塔はあまりにも高く、多くの闇人が待ち構えているだろうから、できれば闇霊ごときに弾は使いたくない。何か良い方法はないものか。周囲を見回す永井。南側の壁にはロッカーがあるが、その後ろ側がわずかに明るくなっているのに気がついた。調べてみると、ロッカーの後ろには鉄格子状の出入口があり、連絡通路を使って隣のビルの屋上へ移動できるようだ。残念ながら外から南京錠で閉ざされているためこちらから開けることはできそうにないが、ロッカーを移動させれば、通路を明るくできるかもしれない。永井はロッカーを押し、横へ移動させた、外の明かりが射し込み、通路を照らす。すでに陽は西へ沈もうとしているため、その明かりは決して眩しいものではないが、それでも通路に潜んでいた闇霊を消滅させるには充分だった。奥の方へ逃げた闇霊もいるが、かなり弱っていることだろう。永井は明るくなった通路を進んだ。
奥まで進むと上へと続く階段があったが、下部が崩れており、登ることができなかった。他に道は無く、なんとかここを進むしかない。幸い、崩れ落ちた瓦礫を足場にして手を伸ばすと踊り場の部分に手が届いたので、そこから懸垂の要領でよじ登ることができた。一樹がこちらに来なくて正解だった。いかにも腕力が無さそうなあの男では、登ることができなかったかもしれない。
そのまま階段を上がる永井。何度か闇霊の群れに襲われたものの迎撃し、そのまま屋上まであがることができた。
鉱業所の屋上からは、鉄塔からはみ出した通路を通って鉄塔の東側内部へと進むことができるようになっていた。そこからさらに上層へと進むことができる。とは言え、まだ先は長い。ここまでかなりの階段をあがったが、七階建ての建物ならば高さはせいぜい二十メートル。まだ鉄塔の十分の一しか登っていないのだ。このペースでは先端部へ到達するのにどれほど時間がかかるだろう。しかも、ここまでは運良く闇霊のみで、闇人には襲われていないのだ。この先、銃を持った闇人や、巨体闇人に四足闇人なども待ち構えているだろう。先が思いやられるが、弱音を吐いてなどいられない。永井は通路を通って鉄塔へ渡ろうとした。その瞬間、銃声が鳴り響き、永井の足下の床の一部が弾けとんだ。狙撃された。瞬時にそう判断し、建物内に戻る。再び銃声が響いたが、銃弾は壁を貫いただけだった。安全な場所まで戻った永井は、幻視で様子を探る。この場から三階分ほどの高さを上がった場所に、狙撃用の小銃を構えた闇人の視点を見つけた。永井の小銃でも狙撃はできるが、その腕は決して高いとは言えない。その上、狙撃手は永井が隠れた場所にじっと狙いをつけている。顔を出した瞬間狙撃されるだろう。これでは先へ進めない。どうしたものか……。
永井頼人と別れた一樹守は、鉄塔の階段を駆け上がっていた。階段は、内部をぐるりと回りながら上層へと続いている。その構造は、遊園地の地下の冥府への階段を思わせた。そう言えば、あの時共に階段を登った少女・木船郁子は、いまどうしているだろう? 彼女は一樹には無い特殊な能力を持っている。そうそう闇人共にやられはしないだろうが、それも状況によるだろう。闇人共は、あの時より戦闘に適した形態へと進化している者もいる。心配だが、引き返して探すわけにもいかない。ここでヤツらよりも先に先端部にたどり着かなければ、どの道全て終わりなのだ。今は彼女の無事を祈るしかないだろう。一樹は階段をあがり、上層を目指す。
しかし、三階ほどの高さをあがったところで、階段は引きちぎられたように寸断されており、それ以上あがることはできなかった。周囲を見回す一樹。ここは鉄塔の南西部で、すぐ南には鉄塔建設時に作業員が利用した事務棟が建っている。外壁に非常階段のようなものはないが、一メートルほど跳んだ先に大きくせり出した梁があり、そこを伝って移動すれば、開けっ放しとなっている窓から中に入れそうだ。一樹は勢いをつけてジャンプし、外壁の梁の上に渡った。梁から窓までは少々高いものの、なんとか手が届いたのでよじ登り、中へ入った。
そこは作業員の休憩室だった。折り畳み式の長机とパイプ椅子がいくつも並び、湯呑やコップが入った棚や冷蔵庫などがあるが、一樹の目を引いたのは壁に飾ってある絵だった。西の壁の一角に、十枚ほどが額に入って飾られているのだが、どれも、鉄塔と巨大な樹が融合し、天へと伸びていく状態を描いたものだ。絵のタッチがすべて異なるため、恐らくすべて異なる人間が描いたものだろう。
――これは、シンクロニシティの絵か。
シンクロニシティとは、『共時性』『意味のある偶然』『虫の知らせ』などとも呼ばれる心理学用語だ。よくある例としては、電話しようとした相手から電話がかかって来たり、しばらく会ってない友人のことを不意に思い出し連絡したら亡くなっていた、などの現象がある。これらの出来事は単なる偶然の一致で説明がつくが、中には単なる偶然では説明がつかないものもある。この鉄塔の絵も、そんなシンクロニシティのひとつだ。この絵は、描き手が示し合わせて同じイメージで描いたわけではない。絵を描く趣味さえない従業員たちが、まったく同じ日、同じ時間帯に、存在しないはずの大木と融合した鉄塔の絵を描いたのだ。これも、夜見島にまつわる都市伝説のひとつだ。島民失踪やブライトウィン号消失事件などと比べるとインパクトが弱いためあまり語られることはないが、一樹は島を取材する前の調査でこの話を知った。その時はあまり重要視しなかったが、今は違う。この、巨大な樹と鉄塔が融合した絵は、今まさに一樹がいる鉄塔の状態を表しているのだ。そして、その巨大な樹に関しても思い当たることがある。かつてこの四鳴山の山頂には、『滅爻樹』と呼ばれる神木が存在した。その高さは、鉄塔の高さと同じ二百メートルだったと、古文書に記されているのだ。現在その滅爻樹は存在しないが、島民の間でこの地は禁足地とされ、鉄塔建設時には死者が出るほどの反対運動が起こったらしい。そんな禁断の地に無理矢理鉄塔を建てたのだから、作業員たちは神の怒りを感じとり、罪の意識にさいなまれた結果、このような絵を描いたのかもしれない。
絵を眺め、考え巡らせる一樹。そんなことをしている場合ではないのだが、何かが引っ掛かった。そして、それはこの先非常に重要なことのように思えるのだ。考える。鉄塔に書かれた大木・滅爻樹。神の力が宿りしこの樹には、不浄を浄化する力があるとされている。現在滅爻樹は存在しないものの、枝だけは落ちており、島に赤子が生まれた際には、島の名家である太田家の当主が枝を取りに行き、名を刻んで授けるという。島では葬儀の際、この枝を死者の身体に刺して弔うのだ。夜見島に古くから伝わる風習のひとつである。事前の調査でこの話を知った時には変わった風習だとしか思わなかったが、今ならその理由は明白だ。滅爻樹は、穢れから死者を守るためのもの。穢れとは、言うまでもなく屍霊や闇霊だ。つまり、滅爻樹の枝を刺した死体には、屍霊や闇霊は憑りつくことができないのだ。もしかしたら、何度倒してもよみがえる闇人共を、その枝一本で、文字通り滅することができるのかもしれない。
びくんと身体が震え、鉄塔の絵を見る自分の背中が見えたので、一樹は考えを中断する。振り返ると、四足闇人が鬼相を浮かべて睨んでいた。
しかも。
「……返せ……お父様の髪飾り……返せ……」
恨みがましい声で言うその四足闇人は、ブライトウィン号で執拗に追いまわされたあの着物女の闇人だった。まさか、ここまで追って来たのか!?
「……返せぇ!!」
叫ぶと同時に突進してくる四足闇人。一樹は素早くライトを向け、四足闇人の顔を照らした。悶え苦しんでいる間に駆け出す。船で散々追い回されたから、あの四足闇人の特徴は嫌というほど判っていた。正面からの攻撃は効かないが、背後からの攻撃には弱い。動きは素早いものの小回りが利かず、階段を苦手としている。一樹は室内の長机や椅子を使ってうまく四足闇人の進路を遮りつつ逃げ、休憩室の外へ出た。狭い通路がまっすぐ続き、すぐ左手側に作業室と書かれた扉があった。素早く中に入る。四足闇人が休憩室から勢いよく飛び出してきたが、一樹を見失っており、通路を真っ直ぐ進んだ。一樹はすぐに外へ出て、背を向ける格好の四足闇人に拳銃を撃つ。五発中三発命中させて倒したものの、この闇人は復活が異常に早い。すぐにこの場から離れなければ。一樹は四足闇人の死骸を跳び越え、走って通路を進む。少し進むと通路は左に折れ、その先に階段が見えた。背後で四足闇人がよみがえる気配があったが、なんとか見つかる前に角を曲がり、階段を駆けあがった。四足闇人は階段が苦手だ。このまま階段をあがっていれば、追いつかれることはないだろう。一樹はそのまま階段をあがり、屋上へ出た。幻視で確認すると、四足闇人は一樹の姿を見失ったようで、休憩室と作業室の間をうろうろしていた。
だが、安心したのもつかの間、また身体が震え、屋上で幻視する自分の姿が見えた。同時に銃声がして、足元の床の一部が弾けとんだ。屋上に別の闇人がいたのだ。
「……居場所が無いってのは、切ないなぁ」
その闇人は警察官の格好をし、リボルバー式の拳銃を構えていた。見覚えがある。遊園地で木船郁子と石碑を破壊した際、園内にいた警官の闇人だ。
さらに引き金を引こうとする闇人。隠れる隙はない。一樹は咄嗟にライトを向けた。悲鳴を上げ、両目を抑える闇人。その隙に銃を撃つ。先ほど四足闇人に五発撃ったから、残りは四発。全て当てれば倒せるはずだが、とっさの射撃では狙いが定まるはずもない。命中したのは半分の二発。警官闇人は大きくのけ反ったものの、倒れない。一樹は銃を振り上げて走った。他に武器は持っていないから、もうこれで殴るしかない。体勢を整えて拳銃を構える闇人の顔に向けて打ち下ろす。三度殴りつけると、警官闇人は倒れた。
なんとか倒したものの、銃に装填していた弾をすべて使ってしまった。予備の玉は九発。まだ鉄塔の四分の一の高さにも到達していないのに、半分を使ったことになる。これでは銃弾が持たない。拳銃の殴り攻撃だけで進むにはあまりにも危険だろう。一樹はとりあえず警官闇人の拳銃を奪おうとしたが、つりひもで結び付けられてあり奪えなかった。その上、弾は一樹が使っている銃の口径とは違うもので使えない。結局、銃弾を補充することはできなかったが。
――うん?
警官闇人の懐から、木の枝のようなものが覗いていた。それだけならただのゴミか焚き木くらいにしか見えないのだが、その枝にはお札や
――まさか、あれが滅爻樹。
一樹は木の枝を取った。長さは三十センチほど。先端は鋭く、ところどころコブのように膨らんでいる。それが、二本。一方には太田常雄、もう一方には太田ともえという銘が刻まれていた。初めて見るが、恐らくこれが不浄を祓う神木の枝・滅爻樹だろう。これを刺せば、何度でもよみがえる闇人を滅することができるはず。
しかし、枝はその二本しかない。島の伝承では、赤子が生まれるたびに当主が新たな枝を取りに行くという。ならば、枝は一度しか使えないのだろう。この先も多くの闇人が待ち構えているはずだ。使いどころは慎重に選ばなくてはならない。
滅爻樹を手に入れた一樹は進路を探す。事務棟と鉄塔は密接するほど近い位置に建っており、屋上の北側から鉄塔の通路へ跳び移れそうだ。一樹は鉄塔へ飛び移り、再びらせん状の階段をあがった。
鉄塔の中層まであがった一樹。中層は、いたるところに巨大な樹木が絡みついている他、ところどころに古い家屋やアスファルトの道路、さらには街灯や電柱まで存在していた。集落が丸々融合してしまったかのようだ。おかげで身を隠す場所は多いものの、逆に言えば闇人共がどこに潜んでいるか判らないということでもある。より慎重に進んでいかなければならないだろう。
頭上で銃声が鳴り、一樹は身を屈めた。幸い弾は一樹には当たらず、近くに着弾した様子もない。もう一度銃声がしたが同じだった。一樹を狙っているのではないのかもしれない。幻視で様子を探ると、ここから二階分あがったところに、小銃を構えた闇人の視点を見つけた。思った通り、鉄塔内にいる一樹ではなく、東にある鉱業所の屋上に銃口を向けている。永井が入った建物だ。幻視で永井の気配を探ると、屋上の出入り口付近に身をひそめていた。狙撃手に狙われ、身動きが取れないのだろう。こちらで狙撃手の注意を引けば、その間に移動できるはずだ。
一樹は幻視をやめると、手のひらをメガホンのようにして口に添え、「こっちだ!」と叫んだ。身体が震え、狙撃手の銃口が永井から一樹へ向く視点が見えた。うまくいった。すぐさま走り、鉄塔と融合している家屋の陰に身を隠す。銃声が響いたが、なんとか当たらずにすんだ。幻視で永井の様子を確認すると、「なんだよ、余計なことすんじゃねぇよ」と文句を言いつつ、屋上から鉄塔へと飛び移った。幻視をやめる一樹。助けてやったのに恩知らずなヤツだ。一樹は苦笑いをしつつ先へ進む。さらに階段をあがると、コンクリート製のビルに挟まれた細い通路に出た。雑居ビルの裏通りといった雰囲気だ。とても鉄塔の内部とは思えない構造である。
その先の通路は崩れていたので、一樹はビルの中へ入ることにした。『夜見島林業事務所』という看板が掲げられている。鉄塔建設時に森の木を伐採した業者の事務所だろう。中に入ると、倉庫らしき部屋にのこぎりや斧などの伐採道具が置いてあった。これは使えそうだ。一樹は様々な伐採道具の中から、比較的軽くて使いやすそうな鉈を持っていくことにした。銃と比べると頼りなさは否めないものの、銃弾が乏しい状態では頼らざるを得ないだろう。
倉庫を出た一樹は奥へと進み、内部の階段を使って二階へあがる。そこの窓から外へ出て再び鉄塔の通路へ戻ることができた。やれやれ、と、小さくため息をつく。これではまるで迷路だ。この調子では、本当に先端部へたどり着けるかどうか、判ったものではない。
「――おい、一樹、一樹!」
一樹を呼ぶ声が聞こえた。永井の声だ。足元から聞こえる。通路から顔を出して下を覗くと、三メートルほど下に足場があり、そこに永井がいた。
「手が届かないんだ。他に道も無い。引き上げてくれ」
一樹に向かって左手を伸ばす永井。一樹が上から手を伸ばせば充分届く高さだが。
「人にものを頼むときは、お願いします、だろ?」
子供に言い聞かすような口調で言う一樹。さっき狙撃手の気を引いて助けた時に、文句を言った仕返しだ。
永井は一瞬目を丸くしたが、すぐに顔を伏せ、めんどくさそうな様子で頭を掻き、そして、右手の小銃を一樹に向けた。
「――おい!」
とっさに身を引く一樹。永井は引き金を引く。甲高い悲鳴が、一樹の背後で聞こえた。振り返ると、すぐ後ろで小銃を持った闇人が倒れるところだった。鉱業所屋上の永井を狙っていた狙撃手だ。そう言えばこいつの姿が無かった。一樹や永井が来ることを見こして、身を隠していたのかもしれない。
下を見ると、永井がしてやったりと言わんばかりの顔をしていた。「……なにビビってんだよ? 助けてもらったときは、なんて言うのかな?」
苦笑いを返す一樹。それはこっちのセリフだ、と言いたいところだが、油断していたところを救ってもらったのは間違いない。
「……ありがとう、助かったよ」
しぶしぶではあったが、一樹は礼を言った。
永井も苦笑いで返すと、再び手を伸ばした。「引き上げてくれ、頼む」
一樹は手を伸ばし、永井の手を握った。二人でタイミングを合わせ、永井を引き上げた。
永井は左手を拳にして、一樹の肩を小突いた。「さっきは助かったぜ、ありがとよ」
そして、笑った。
思わぬ言葉と、そして笑顔に、一樹は思わず目を逸らす。「……いや、礼なんて、いいさ」
永井は眉をひそめる。「なに照れてんだ? 気持ち悪りぃ」
「べ……別に照れてなんかない! それより、かなり時間を喰ってしまった。急ぐぞ」
先を歩く一樹。もう少しで先端部だ。先に続く通路や階段は、相変わらず家屋やビル・樹木などが融合している。身を隠す場所は多いが、ここから見える限り、進路は途切れたり分岐したりはしてはいない。このまま先端部まで永井と共闘していけるだろう。気に入らないヤツだが、やはり自衛隊で訓練を受けているだけのことはあり、銃の腕は確かなようだ。この先、頼りになるだろう。
――そうだ。銃弾。
一樹は拳銃の弾が不足していることを思い出した。永井が持っている小銃は一樹の拳銃と同じ弾を使う。予備があるなら分けてもらおう。一樹は振り返り。
「永井、銃弾が余ってたら、分けて――」
そして、言葉を失う。
永井の後ろ。一樹が通ったビルの窓から、ツインテールの髪型にセーラー服姿の少女が出てきたのだ。
直接顔を見るのは初めてだが、一樹は瞬時に、それが矢倉市子であると悟る。右手に機関銃を、左手にコンバットナイフを持ち、そして、顔に、背筋が凍るほど恐ろしい狂人の笑みを浮かべていたから。
「永井! 後ろ!!」
一樹が叫び、永井が振り返るよりも早く、市子は、機関銃の引き金を引いた。リズムの良い銃声に合わせるかのように、永井の身体がびくびくと震えた。胸から、腹から、血飛沫が飛び散り、刹那の間の後、永井はゆっくりと倒れた。
「永井!!」
駆け寄ろうとした一樹の肩を、腕を、腹を、足を、市子が放った銃弾が貫いた。運よく急所は外れたが、身体が大きく弾かれ、尻餅をつく。そこへさらに銃弾を撃ち込もうとした市子だったが、弾切れを告げる音がする。市子は機関銃を大きく振る。それだけの動作で弾倉が外れた。そして、ナイフを持ったままの左手でポケットから弾倉を取り出し、一切手間取ることなく装填した。再び銃口を向けるが、一樹はなんとか這って物陰に身を隠した。
「永井! 無事か!!」
一樹は叫ぶ。返事は無かった。だが、わずかに顔を出して確認すると、永井は首を動かし、後ろの市子を見ようとしていた。
「市子……ちゃん……そんなの……持っちゃ……危ないよ……」
永井は銃を構えることもなく、逃げることもなく、説得するかのような口調でそう言った。あれは絶対に矢倉市子ではなく、屍人の勢力がつくり出した化物だが、永井はまだそれを信じていないのだろうか。
永井は残された力を振り絞って仰向けになると、右手をポケットに入れ、何かを取り出した。ふたつのブレスレットだった。一方には朱色の石が、もう一方には碧色の石があしらわれている。市子と、彼女の親友の木船倫子が、友情の証としてお揃いで買い揃えたブレスレットだ。
「……ほら……市子ちゃんと……友達のブレスレット……見つけたよ……」
すでにそんな力は残されていないはずなのに、永井は首を上げ、右手を上げ、市子にブレスレットを差し出す。
市子が、銃口を下げた。
ゆっくりと、永井に近づく。
永井が、小さく笑った。
「……良かった……これで……元の市子ちゃんに……」
永井のそばに立ち、ブレスレットを見つめる市子の目には――何の興味も宿っていなかった。
永井が差し出した手を、市子は蹴り飛ばした。ふたつのブレスレットは、はるか鉄塔の下へと落ちていく。
市子は、永井に銃口を向け。
「……市子ちゃ……」
狂笑を浮かべたまま引き金を引き、永井の額に銃弾を撃ち込んだ。
「永井!!」
一樹の叫びに、今度こそ本当に、永井は応えない。瞳は見開かれたまま虚空を見つめ、肌は急激に色が失われる。永井は、冷たい
――と、市子が、大きく口を開けた。
そこから、黒いもやもやとした煙のような塊が溢れ出る。黒い塊はまるで生き物のようにうねうねと蠢き、躯と化した永井の体内へ消えた。まさか、あれは屍霊か!?
虚空を見つめたままの永井が、血の気を失った肌の永井が、ゆっくりと起き上がり。
「……いひこつゃんぬ……たふけなひと……」
呂律の回らない口調で言い、小銃を構えた。
屍人としてよみがえった永井を、市子は満足げな表情で見ていた。
一樹の頭上で銃声がした。同時に、銃弾が市子の胸を貫く。鉄塔の上部に、闇人の狙撃手がいる。銃弾は確実に市子の急所を撃ち抜いている。
だが、市子はわずかに怯んだだけだった。驚くべきことに、瞬時に傷がふさがりはじめる。わずか数秒で、傷も、セーラー服に開いた穴も、完全に塞がっていた。
屍人と化した永井が小銃を構え、鉄塔上部の狙撃手に向かって撃った。何発か外したものの、銃弾は狙撃手を捕らえた。狙撃手は鉄塔から投げ出され、地上へ落下する。
《行くぞ!!》
市子が号令をかけるように言った。その声は、およそ十四才の少女のものではない。恐ろしく低い、闇の底から響くような声だった。それも、複数の声が重なり合い、ひとつになったような、奇妙な声。
その声に応じ、市子の後に永井が続く。
そして――。
永井の背後から、小銃を持った屍人が、拳銃を持った屍人が、包丁を持った屍人が、アイロンを持った屍人が――多数の屍人が現れ、市子の後に続いた。中には、永井が撃った狙撃手の屍人や、事務棟の屋上で一樹が倒した警官の屍人の姿もある。闇人が地上に現れて以降姿を見なかった屍人が、矢倉市子の力で勢力を取り戻したのか。
通路の奥から、かちゃかちゃと犬が走るような音が聞こえた。四足闇人が突進してくる。その後ろには、機関銃や拳銃を持った人型の闇人もいる。
市子は狂笑を深めると、突進してくる四足闇人に向かって走る。そして、四足闇人の目前で跳躍し、すぐ横の家屋の壁を蹴ってさらに高く跳ぶと、空中で身体を反転させながら四足闇人の背中に銃弾を撃ち込んだ。静かに着地する市子。その背中に、拳銃闇人が銃弾を撃ち込む。市子は倒れない。振り向きざまにナイフを投げた。ナイフは闇人の額に突き刺さる。倒れた闇人の屍を乗り越え、機関銃を乱射しながら向かって来る闇人。市子はスカートをひるがえし、太もものホルスターに挿してあった拳銃を抜き取ると、機関銃闇人に銃弾を撃ち込んだ。倒れた機関銃闇人の後ろからも、さらなる数の闇人が迫ってくる。
「ぬおぉゆやぶんんんいとぅるぅくれぇ!!」
屍人たちも奇声をあげ、闇人達と戦う。屍人共の動きは鈍いが、市子が先頭に立って戦うことで、次々と闇人を蹴散らしていく。
《雑兵どもがいくら集まろうと無駄だ!! さっさと
市子が吠えた。すでに数十体もの闇人を倒している。同時に、口から屍霊を吐き出し、倒した闇人を味方としてよみがえらせる。屍人たちは、どんどん勢力を強めていく。
と、巨石で鋼鉄の壁を叩いたような音がして、屍人が数体まとめて吹っ飛んだ。一体は壁にぶつかり、二体は後方の仲間の頭上に落ち、残りは鉄塔の下へ落下する。
通路の奥から巨体闇人が現れたのだ。巨石のような拳を振るい、屍人共をなぎ倒す。下腹部の巨大な顔の左目に、眼帯代わりの黒い布を巻きつけていた。この辺りの闇人のボスだろうか。
「劣化種ごときがほざくな!! その薄汚い
ボス格の闇人の登場で、その後ろからもさらに巨体闇人が姿を現す。屍人も市子を中心に迎え撃つ。鉄塔の上層は、闇人と屍人で溢れ、混乱状態だ。
ふいに。
物陰に隠れていた一樹のそばに、覚えのある気配が現れた。
「……か……み……くゎぁ……ざ……るぃい……か……え……せ……」
それは、あの着物女の屍人――姿は四足闇人のままだから、四足屍人というべきか。
着物女の四足屍人は、巨大な口を開けた。
――俺は屍人としてよみがえるのか、それとも、闇人としてよみがえるのか。
意識が途切れる寸前、一樹は、そんなことを考えていた。
数時間後――。
屍人の勢力を率いて鉄塔に攻め込んだ矢倉市子は――いや、矢倉市子の姿を模した者は、ひとり、鉄塔の先端部に立っていた。右手に日本刀を、左手には機関銃を持ち、地上を見下ろす。彼女の眼下では、鉄塔で、あるいは森の中で、漁港で、要塞跡で――島のいたるところで、屍人と闇人が戦いを繰り広げていた。戦況は五分五分だ。最終的にどちらの勢力が勝つのかは、自分にも、そして、恐らく母にも、まだ
市子の姿を模した者は、唇の端を吊り上げて笑った。ようやく、待ち人が来たのだ。
機関銃を投げ捨てた。両手で刀を持ち、頭上に振り上げ、鉄塔から跳ぶ。
そして。
凄まじい速さで上昇してくる母の顔に向かって、刀を振り下ろした。
蒼ノ久集落で一樹守と別れた木船郁子は、鉄塔そばの竪坑櫓に身をひそめ、途方に暮れていた。鉄塔は現実世界と繋がっており、登れば元の世界へ帰れる――そう思ってここまで来たのだが、鉄塔は闇人と屍人が激しく争っており、混乱状態だ。到底郁子一人で登れるような状況ではない。さらには、つい先ほど、闇人達を束ねるあの異形の生物が現れ、宙を泳いで鉄塔の先端へと向かって行った。闇人と屍人、どちらが勝つかは判らないが、どちらにしても、勝ち残った勢力が地上へと侵攻するだろう。阻止するためには、この鉄塔を破壊するしかない。しかし、爆弾でもない限り、この巨大な鉄塔を破壊するのは不可能だ。それに、鉄塔を破壊すれば、郁子自身は島に取り残されてしまう。どうすればいいのか、郁子には判らない。
人生最大の危機を乗り切ることができなかった阿部倉司は絶望していた。どうあがいても絶望だった。とにかくひたすら絶望だ。絶望しか存在しないのだ。もはや生きる資格は無い。生きていても無意味だ。だから、何もせず、ただ大の字になって横たわる。化物どもに見つかればなすすべもなく殺されるだろうが、知ったことではない。いや、それこそが今の彼の望みだった。一刻も早くこの世界から消えてなくなりたかった。だが、化物どもは遠巻きに阿部を見守るだけで、一向に襲ってくる気配はない。どうやら化物どもにまで見捨てられたようだ。情けなくて涙が出る。
母に取り込まれた脩を救うべく奔走する加奈江は、鉄塔の中層で闇人及び屍人と戦っていた。彼女の手には、三上家の物置で見つけた骨が握られている。小太刀のような姿となったそれは、たった一振りで、屍人や人型の闇人はもちろん、巨体闇人や四足闇人さえも両断してしまうほど強力な武器だった。それでも、いまの混乱状態の鉄塔を登るのは容易ではない。見上げると、鉄塔の上層では、母と、屍人の勢力が放った鳩の女が、激しい戦闘を繰り広げている。どちらが勝つかは加奈江にも判らない。自分もあそこに到達し、母と戦って脩を救わねばならないが、今の状態では困難だと言わざるを得ない。
さらには。
加奈江は、もうひとつ異なる気配を感じていた。南西の方角、潮降浜という地域から、邪悪な気配が近づいて来るのだ。それは、母に匹敵するほど大きな存在だ。おそらくこれは、屍人たちを束ねている者。
これが母と接触したとき、いったい何が起こるのか、加奈江にも想像がつかない。
昭和八十年八月四日、深夜〇時。
ふたつの闇の勢力はひとつとなり、地上へと侵攻する――。