SIREN2(サイレン2)/小説   作:ドラ麦茶

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第七十八話 『不測』 阿部倉司 夜見島金鉱採掘所 22:57:33

 この世の楽園――そう聞いて、人は何処を思い浮かべるだろうか? 二十六の環礁と千を超える島からなる国・モルディブ? インド洋の真珠と呼ばれる常夏の島・セーシェル? その美しい白砂からカリブの宝石と称されるサンブラス諸島? 多くの海外リゾート地が思い浮かぶだろうが、そのような遠方の地まで行かずとも、もっと身近に、金もかからず行ける楽園が存在する。そう、トイレである。太古より、人はトイレ、あるいは便所、(かわや)手水場(ちょうずば)後架(こうか)にてクソを垂れ、そして、生きていることの幸せをかみしめてきたのだ。

 

 人生最大の危機に陥っていた阿部倉司にとって、そこはこの世の楽園であった。例えその世界が化物どもが次々と襲い来る異界であろうと、もはや絶滅危惧種の和式トイレですらない地面に穴を掘って板を張っただけのものであろうと、長年間放置され熟成されたナニがこの世のものとは思えぬ異臭を放っていたとしても、今の阿部にとって、そこはまぎれもなくこの世の楽園だったのだ。

 

 全てを成し遂げた阿部は、上機嫌でこの世の楽園を後にした。人生最大の危機を乗り切った彼は、この数時間でひと回りもふた回りも成長していた。さっきまで化物が蠢くこの異界の島が、今はぱらいそのように思える。外に出れば、空にはオーロラのような光のカーテンがはためき、周囲には光の鱗粉を撒いて羽ばたく蝶のような姿の天使様が舞い踊っているだろう。

 

 しかも、幸運なことに、深夜にどこかで落としてしまったライターが、ついさっき見つかったのだ。朝からずっと煙草が吸えず困っていたところだ。良いことは続くものである。阿部はジャケットの胸ポケットから煙草を取り出し、闇人から奪還したライターで火を点けた。大きく吸い込み、肺の中を煙で満たし、そして吐き出す。ふむ。やはり大仕事を成し遂げた後の一服は格別だ。

 

 休憩室の前に待機していたツカサが、一声鳴いた。

 

 おっと、のんびりしている場合ではない。最大のミッションはクリアしたが、残念ながらこれでエンディングというワケではない。阿部の最終的な目的はこの島からの脱出だ。そのためにまず行方不明になったあの占い女を探さないといけないが、それに加え、ツカサと出会ったことで、あの異形の生物に飲み込まれた作家先生の救出という小目標も加わった。だが問題はない。人生最大の危機を乗り切り、大きく成長した阿部にとって、そのようなミッションはもはや小事。ハナクソをほじりながらでも達成できるだろう。

 

「――よし、行くか、相棒」

 

 阿部は煙草を消そうと思ったが、休憩室内を見回しても灰皿は見つからない。その辺にポイ捨てしていくのはポリシーに反する。さてどうしたものかと振り返ると、開けっ放しの扉の向こうに、先ほど利用したこの世の楽園があった。その距離、約7メートル。バスケの3ポイントシュートのラインほどだが、今の阿部にとっては小事だ。落とす気がしねぇ。もうオレにはリングしか見えねぇ。阿部は吸いかけの煙草を頭上に構え、わずかに屈んだ後、膝から肘、そして、煙草へと力を伝え、この世の楽園に向けて煙草を放った。そのシュートは、今までよりも高く、美しい弧を描いた。ツカサがけたたましく吠えている。静かにしろい。この音が、オレを何度でもよみがえらせる……何度でもよ!

 

 煙草の吸い殻は、吸い込まれるようにこの世の楽園へと消えた。

 

「――っよおぉし!!」

 

 と、ガッツポーズを決めた瞬間。

 

 阿部が聞いたのはゴールが決まる音ではなく、耳がはじけ飛ぶかと思うほどの凄まじい爆音だった。

 

 同時に、熱風と強い衝撃が阿部を襲う。

 

 トイレという名のこの世の楽園(ぱらいそ)は、一瞬にして灼熱の地獄(いんふぇるの)と化したのだった。

 

 

 

 

 

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