巨体闇人の不意打ちにより鉄塔から落下した永井頼人は、夜見島西端の潮降浜へ来ていた。海から丘へ続く緩やかな上り坂の先に、かつて島の子供たちが通っていたという夜見島小中学校跡がある。暗闇の中にぼんやりと見える校舎は、火事でもあったのか全体が焼け焦げた状態だ。校庭には、ゆっくりとした動作で徘徊する人ならざる者の影が見える。化物共が蠢く夜の廃校……子供じみた怪談話のような状況だが、それは空想でも見間違いでもなく現実だ。学校の敷地内には多くの闇人の気配がある。幻視で確認する限り、そのすべてが迷彩服を着た巨体闇人か銃器で武装した人型の闇人だ。ヘリ墜落で死亡した自衛隊員の闇人――すなわち、かつては永井の先輩や上司だった者たちだ。永井よりも経験が豊富で、訓練や競技大会でも優秀な結果を残している。まだまだ未熟な永井が単身で挑むのはあまりに無謀だろう。永井は小銃と機関拳銃を持っているものの、銃弾は決して多くない。誰かに助けを求めるか、もっと装備を整えてから来るべきだった……そう思い始めていた。
だが、不意に。
――永井、根性出せよ。
先輩の沖田が、訓練の際よくかけてくれた言葉を思い出した。
ひたすら運動場を走り回されたとき、夜中にたたき起こされて明け方近くまで筋トレをさせられたとき、三十キロの荷物を背負って三日三晩歩き続けたとき――あまりの厳しさに永井がくじけそうになったとき、沖田は、いつもこの言葉をかけてくれた。決してマジメな性格ではなかった永井が、日々繰り返される厳しい訓練を投げ出すことがなかったのは、沖田のこの言葉があったからだ。
永井は持ち物の中からドーランケースを取り出した。女性がよく使うファンデーションのようなものだが、その色はOD色というくすんだ緑色に黒と茶の三色だ。永井は塗料を指ですくい取ると、それぞれの色を斜めのストライプに塗り、迷彩柄のフェイスペイントを施していった。それは、カモフラージュ効果を期待してではなく、強い決意を表すためのものだった。今の永井には、なんとしても成し遂げなければならないことがある。どんなに危険であっても、逃げ出すわけにはいかない。
ペイントを終えた永井は、顔を上げ、鋭い目で校内を見つめる。
そして。
「……健康優良日本男児をなめんなよ……
強い決意を胸に、中へ足を踏み入れた。
鉄塔から落下したときはさすがに死を覚悟した永井だったが、気がつくと、何故か無傷で地上にいた。永井が突き落とされたのは鉄塔の中層だから、その高さは百メートルほどだ。そんな場所から落ちて無傷でいられるなど常識ではありえない。夢でも見ていたのかと思ったほどだ。
永井のそばには
永井はあまり闇人のことを知らない。百合の正体や鳩については一樹から聞いただけで、その話が本当かどうかの判断もつかない。とりあえず、目の前の少女が永井に危害を加えるつもりが無いなら、永井としては戦う理由は無かった。それよりも一樹のことが心配だ。恐らく一人で鉄塔を登っているだろう。今から追いつけるかは判らないが、とにかく追わなければ。そう思い、再び鉄塔を登ろうとした永井を、加奈江が止めた。島の西端にある潮降浜という地域へ向かえと言う。そこに、あなたの大切な人がいるから、と。
大切な人――そう言われ、永井が真っ先に思い浮かべたのは沖田だった。沖田はヘリの墜落で死亡し、遺体は遊園地に残したままだ。当然、化物どもが憑りつき、屍人や闇人として行動しているだろう。恩人である沖田が化物どもに乗っ取られ、操られている。放ってはおけない。沖田が命を落としたのは、ヘリ墜落時に永井をかばったからだ。永井の身代わりになったとも言える。その結果沖田が化物と化したのならば、永井自身の手でケリを着けなければならない。
こうして永井は鉄塔を離れ、潮降浜へとやってきたのである。
正門から校庭内に入った永井は周囲を見回した。校門の右隣には大きな木があり、その向こうには花壇が見えた。反対側には鉄棒や滑り台などの遊具もある。どちらも闇人の姿は無いが、校庭の奥の方、校舎の手前に朝礼台が置かれてあり、その近くに闇人の姿が見えた。永井は一旦木の陰に身を隠す。朝礼台の近くにいる闇人は、巨体闇人が一体と、小銃を持った人型の闇人が一体だ。どちらも校舎の周辺を警戒しており、まだ永井の存在に気付いていない。永井は木の陰から銃を構え、スコープを覗き込み、巨体闇人へ照準を合わせた。巨体闇人は永井に背を向けた状態で遠ざかっている。永井は引き金を引いた。三発放った銃弾は全て背中に命中し、巨体闇人はのけ反って倒れた。以前巨体闇人と戦ったときは正面からの銃撃が効かず苦戦したが、背後から不意を突けば案外あっけないものだ。
永井はそのまま銃口を移動させ、今度は人型の闇人に照準を合わせた。闇人はこちらの方を向いているが、距離が離れているので狙われていることに気がついていない。そのまま引き金を引き、頭を打ち抜いた。
一度銃を下ろし、幻視で周囲を確認する。校庭内に闇人の気配はもう無い。残りは別の場所だ。永井は校舎裏へ移動しようとしたが、不意に心臓の鼓動が激しくなったため足を止めた。近くに敵がいる時の警告だ。周囲を見回すと、最初に狙撃した巨体闇人が立ち上がろうとしていた。見つかる前に、再び木の陰に身を隠す。幸いよみがえった巨体闇人は永井の方には見向きもせず、再び校舎の周りを巡回し始めた。続いて人型の闇人もよみがえり、周囲を警戒し始める。
闇人は不死身ではないものの、倒してもその死体に新たな闇霊が憑りつくことで何度でもよみがえる。復活を阻止するためには、まず闇霊を殲滅しなければならない。闇霊は一体一体は極めて貧弱な存在で、銃や鈍器を使えばもちろん、懐中電灯程度の光でも照射し続ければ倒すことができる。ただ、数が多いのが問題だった。鉄塔では、光が当たらない場所には必ずと言っていいほど複数の闇霊が潜んでいて、四方八方から襲ってくるためかなり手を焼いた。一体一体倒すのはかなりの手間がかかるし危険だ。
だが、永井はここに来る前、加奈江から策をひとつ聞いていた。
この潮降浜の海辺の岩場には、夜見島に建つ二基の灯台の内のひとつ、潮降浜灯台が建っている。加奈江の話によると、四十年以上前に何者かがヒューズを盗んで以降稼働していないらしいが、そのヒューズがこの学校内にあるそうだ。どうやらヒューズを盗んだのは島の子供たちで、ほんのイタズラのつもりだったのだが思った以上の大騒ぎになり、怖くなって隠したそうなのだ。それを見つけて灯台を起動すればこの地域一帯を照らすことができ、光に弱い闇霊を一掃できるだろう。
永井は木のそばを離れ、闇人共に見つからないよう警戒しつつ花壇の奥へ進んだ。その先に、海亀の銅像が立っている。加奈江が言うには、その銅像が隠し場所の目印になっているそうだ。亀の尻尾から前に三歩、左に五歩、右に二歩進んだ場所。そこにヒューズが埋められているらしい。永井は言われた通り尻尾の先から進み、行き着いた場所を自衛隊支給の折り畳み式スコップで掘り返してみた。二十センチほど掘るとスチール製の箱が出てきた。ふたを開けると、スポーツカー型の消しゴムや火薬銃などの安物のおもちゃにまぎれて、明らかにおもちゃとは違うガラス製の大きな筒が入っていた。五〇〇ミリリットルのジュース缶ほどの大きさで、中に針金のようなものが一本通っている。一般的なヒューズとは比べかなり大きい。これが灯台のヒューズで間違いないだろう。
ただ、これを使って灯台を起動できたとしても、校内の闇霊を一掃できるかは疑問だった。
永井は校庭から丘の下を見下ろした。海沿いにドラム缶や木箱などが放置された荒れ地が広がっている。灯台はその向こうの岩場に建っているのだが、その照射部の高さは、丘の上のこの学校よりも低い位置にあるのだ。校庭まで光が届くかは微妙な高さだ。仮に届いたとしても、校舎裏まで照らすことはできないだろう。校内の闇霊を一掃するためには、別の手段を探った方が良いかもしれない。
永井はヒューズをしまうと、先ほどと同じ要領で闇人を狙撃し、復活する前にその場を離れた。
校舎の南側へ移動すると、学校の敷地を囲う金網製の柵に小さな出入口があり、その前に軽トラックが停められていた。しめた、と思う永井。灯台の光には及ばないだろうが、あの軽トラのヘッドライトを使えば広範囲を照らすことができる。ハイビームで走行すれば校内の闇霊を一掃できるかもしれないし、走行中は例え巨体闇人といえどそう簡単に手出しできないだろう。
しかし、運転しようと軽トラックに近づいた永井は落胆せざるを得なかった。軽トラックは停車しているのではなく、フェンスに衝突した状態で放置されていたのだ。よく見るとタイヤがパンクしており、周辺にはたくさんの釘がばら撒かれていた。恐らく走行中この釘でパンクし、フェンスに突っ込んだのだろう。軽トラックの荷台の後部にはスペアタイヤが積まれているが、取り替えるためのフロアジャッキや工具などは積んでいなかった。もしそれらをどこから調達したとしても、取り替えるのは時間がかかるし、走行するためには地面にばら撒かれた釘も回収しなければならない。多くの闇人が徘徊している中、それだけのことをやってのけるのは現実的ではない。この方法もダメだ。永井は軽トラックを諦め、その場から移動しようとした。
――うん?
立ち去ろうとしたとき、ふと目をやった軽トラックの助手席に、とんでもないものを発見した。長さ二十センチほどの長方形のブロック状の物。水色に塗装された表面には爆発物を示すマークがペイントされている。訓練で見たことはあるが、まさかそれがこんな所に無造作に放置されているはずがない。永井はドアを開け手に取って確認してみたが、残念ながらそれは間違いなく本物だった。自衛隊の物資のひとつ・TNT火薬だ。代表的な軍用爆薬のひとつで、世界中の軍隊やテロリスト集団が使用している。なぜ、TNTがこんな所に……永井がすぐに思い出したのは、不時着直後の遊園地で見つけた沖田のバッグだった。沖田は装備品としてTNTと起爆装置を持っていたはずだが、バッグの中からTNTは無くなっていた。これがあのとき無くなったTNTだとしたら、沖田は近くにいる。永井がそう確信したとき。
びくん、と身体が震え、校舎裏の階段上から永井へ向けて小銃を構える視点が見えた。
すぐにトラックの陰に身を隠そうとしたが、それよりも早く銃声が響いた。間を置かず、永井の左の二の腕に鋭い痛みが走る。銃弾は掠めただけだったが、それでも腕が引きちぎられるかと思うほどの衝撃に、思わず尻餅をついて倒れてしまう。それが幸いだった。すぐさま二発目の銃声が響いたが、倒れたことで永井の身体は軽トラックの荷台の陰に隠れることになり、銃弾は土の地面を弾いただけだった。
運よく狙撃手から身を隠すことができた永井は傷の状態を確認する。衝撃こそ強かったものの、傷自体は大したことはない。これならばすぐに治るだろう。問題なのは狙撃手の腕前だ。永井を見つけた瞬間銃を構え、隠れるよりも早く引き金を引き命中させる。かなりの腕前でないと不可能だ。永井が所属する隊の中でそれほどの腕前を持っているのは、アジア大会のバイアスロン競技で優勝したことがある三沢と、それに匹敵するほどの腕前と言われる沖田、この二人だけだ。
「永井! 俺だよ俺!」
狙撃手が叫んだ。その声は間違いなく、永井が尊敬する先輩・沖田のものだ。
「永井、お前も冷てぇよなぁ! ずっと面倒見てやった俺を置いていくなんてよぉ! そんな薄情なヤツだとは思わなかったよ!」
永井の心臓が大きく音を立てて鼓動した。ずっと心の奥に押しとどめていた罪悪感がよみがえる。ヘリの墜落後、遊園地で息を引き取った沖田を、永井はその場に残して去ったのだ。そのことを、沖田が恨んでいてもおかしくはない。
隠していた罪を掘り起こすように、沖田は続ける。「覚えてるか? お前が入隊した日のこと? 初日からいきなり脱走しようとしたお前を引き止めたのは誰だ? 教官にブチ切れて殴りかかろうとしたこともあったよな? あの時お前をなだめたのは誰だった? 行軍訓練のときはどうだ? お前が脱落しなかったのは誰のおかげだ?」
無論、全て覚えている。入隊初日、式典が終わるとすぐに訓練が始まった。教官の命令で昼過ぎから夜まで永遠と運動場を走らされた永井は、こんなのやってられるかと、その夜脱走を図ろうとした。それを引きとめてくれたのは、当時副教官の一人だった沖田だ。候補生時代、夜中眠っている所を理由もなく叩き起こされ、朝まで筋トレさせられたこともある。あまりの理不尽さにブチ切れ、命じた教官に殴りかかりそうになった永井をなだめてくれたのも沖田だ。候補生期間を終え、正式に自衛官となった永井は、沖田と同じ隊に配属され、訓練を共にするようになった。三十キロの荷物を背負い一〇〇キロの距離を行軍する訓練の際、脱落しそうな永井を、沖田はずっと励まし続けてくれた。永井のスピードに合わせたおかげで、沖田自身も脱落扱いになるところだったのに。
忘れるはずがない。高校卒業後、他に行くところが無かったからという理由で入隊した永井に、沖田は自衛隊員の知識と技術を教えてくれた。なんの熱意も無かった永井が、今では若手の中でも頭角を現すほどの隊員になれたのは、全て沖田のおかげだ。恩人という言葉だけでは到底足りないほどの存在。そんな沖田を、永井は見捨てたのだ。上官である三沢の命令だから仕方なかった……とも言えない。その後の不審な行動を見る限り、三沢には上官の資質が無かった。あのとき三沢の命令を無視してでも沖田を連れていくべきだったのだ。恨まれて当然だ――そう思った。
……いや。
惑わされるな! 永井は自分に言い聞かせる。あれは沖田の死体に闇霊が憑りついたものであり、沖田本人ではない。一樹の話によると、闇霊が憑りついた死体――闇人達が『殻』と呼ぶもの――には生前の記憶が残っており、闇霊はそれを読み取って行動するそうだ。生前と同じ顔で、生前の記憶を持ち、生前と同じように行動することもあるが、断じて本人ではない。今の沖田の言葉は、闇人が永井を動揺させるために言っているだけだ。そう考えると、罪悪感は消え、ふつふつと怒りが湧きあがってくる。化物ごときが沖田の身体を乗っ取っているだけでも許し難いのに、その記憶を勝手に覗き見て、こちらを動揺させるために使うとは。二人の思い出を汚された気分だった。
ただ、あの闇人は沖田本人ではないものの、沖田と同等の射撃の腕前を持っているのは確かだ。まだまだ未熟な永井が撃ち合って勝てるような相手ではない。何か策を用いなければならないだろう。すぐに思いつくのは、闇人が苦手とする光を利用することだ。灯台や軽トラックのライトを利用するのは無理でも、消えている街灯を点けるなどして一瞬でも目をくらませれば、勝機は生まれる。しかし、そう都合よく消えている街灯の下に闇人が立つような状況などあるわけもない。校舎裏に街灯は無く、今すぐ使える光は永井が持っているライトだけだ。距離が遠いため、ライトの光では効果は薄いだろう。こうしている間にも、声を聞きつけた別の闇人が集まって来れば、状況はますます悪くなる。早く何とかしなければ。永井は打開策を求めて沖田を幻視した。沖田は小銃のスコープを覗き込み、永井が隠れている軽トラック付近に照準を合わせている。少しでも顔を出せば、すぐさま撃ち抜かれるだろう。沖田本人ではないのに沖田と同等の射撃の腕前を持っている。闇人とは、本当に憎らしい存在だ。
――闇人?
不意に思い直す。そう、いかに沖田と同じ射撃の腕をしていても、相手は所詮闇人なのだ。人間と同じようにはいかない。ならば。
永井は沖田の視点から方向と距離を読む。肩に取り付けてあるライトを取り外し、車体の陰から手だけ出して光を向けた。沖田はすぐにその手を撃とうとしたが、光に目を焼かれ悲鳴を上げる。距離的にはかなり遠く、通常ならば目をくらませるほどではないが、小銃のスコープを覗いている闇人には致命的な光だ。
永井はトラックの陰から姿を出し、銃を構えた。そして、両手で目を抑え苦しむ沖田に素早く照準を合わせ、引き金を引く。五発連射した銃弾の全てが命中した。闇人の悶え苦しむ声が甲高い悲鳴に変わり、その場に倒れた。
銃口を下ろす永井。沖田の闇人は倒したが、これで終わりではない。倒れた死体に新たな闇霊が憑りつけば、またよみがえる。その前になんとかしなくては。
永井が懸念した通り、校舎裏を見ると、窓から闇霊が一体飛び出して、階段上の沖田の死体に向かって行った。すぐに小銃を撃って倒したものの、もう一体飛び出す。それを撃っても、さらに一体飛び出した。それで、永井は気がついた。さっきから校庭や校舎裏に闇霊の姿は無かったものの、倒した闇人が復活するのがやたらと早かった。ヤツらは校舎の中に潜んでいるのだ。永井がライトを向けると、校舎の窓という窓に、巨大な蛆虫のような姿が蠢いている。そのうちの一体がまた窓から飛び出したので、銃を構え引き金を引いた。だが、銃はからからと虚しい音を立てる。弾切れだ。
――くそ。
銃弾をリロードしている暇はない。そう判断した永井はとっさに駆け出した。階段を上がる闇霊を追うものの、闇霊の方が早かった。永井が階段を上がった時、闇霊の姿は沖田の中に消えた。沖田の身体が、陸に打ち上げられた魚のように跳ねた。復活する!
このとき――。
沖田のそばには、拳銃のようなものが落ちていた。拳銃よりも銃身が太く、丸みを帯びているそれは、自衛隊の装備品である信号拳銃だった。
永井は――。
永井はそんなものには目もくれず、起き上がろうとする沖田に馬乗りになった。もがいて逃れようとする相手の両腕を両膝で押さえつけ、動きを封じる。
そして、先ほど軽トラックで見つけたTNTを取り出した。
闇人は、倒しても何度でもよみがえるが、それは倒れた死体に新たな闇霊が憑りつくからであり、決して不死の存在ではない。よって、闇霊が憑りつくことができなくなるほど死体を損壊させれば、二度とよみがえることはない。
TNTを見た沖田も、永井の意図を理解したのだろう。元々青白い顔をさらに青くし、嫌がって首をぐるぐると振る。さらには、「永井! 俺だよ! 沖田だよ! 判らないのか? 散々お前の面倒を見てやっただろう? 覚えてるか? 去年の演習の時のことを? ヘマをして上官に叱られそうになったお前をかばってやったのを忘れたのか? お前はそんな恩知らずなヤツだったのか?」と、また殻の記憶を利用する。
もちろん。
「……うるせぇぞ」
もう、永井が惑わされることはない。
永井は、沖田の口に無理矢理TNTをねじ込んだ。導火線とライターを取り出す。起爆装置が無くとも、これで火を点ければ爆破は可能だ。TNTに導火線を取り付けた。沖田が悲鳴を上げるが、口にねじ込まれたTNTのせいで、声にすらならない。
「じゃあな、化物」
ライターのスイッチを押し、導火線に火を点けた。すぐさま横っ飛びで地面に伏せる。
その、数瞬後。
凄まじい爆音と熱風が、永井の身体の上を駆け抜けた。伏せているにもかかわらず身体が吹き飛ばされそうになり、爪を立てて地面にしがみつく。永井は訓練で何度も手榴弾を投げたが、その数十倍はあろう爆音と熱風だった。周辺の木々が揺れ、朽ちかけの校舎をぎしぎしと揺らす。それを見たわけでも、あるいはそのような音を聞いたわけでもない。顔を伏せていても目が眩むほどの閃光と、瞬時に耳がダメになるほどの爆音から想像しただけだ。地面がピリピリと音を立てて揺れ、崩れ落ちるのではないかと思ったほどだ。
やがて。
熱風と地面の揺れが消え、永井は、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、沖田の姿はもう無かった。焼け焦げて大きく窪んだ地面と、いくつかの肉片が飛び散っているだけだ。バラバラに吹き飛んだ沖田。申し訳ないことをした、とは思わなかった。これで、もう二度と化物なってよみがえることはない。沖田にとっても、それが本望のはずだ。
身体に残る痛みに耐えつつ、永井は立ち上がった。全身が痛むが、この程度ならば少し休めばすぐに治るだろう。視力はすでに回復した。聴力もそのうち回復するだろう。
永井は校舎に視線を移す。元々倒壊寸前の上、凄まじい爆風をまともに受けたはずだが、それでも校舎は変わらずそこに建っていた。窓に闇霊の姿も見える。爆発時の強烈な閃光で何体かは消滅したかもしれないが、それも、せいぜい窓際にいたヤツだけだろう。どんなに強烈な光であっても、外から照らすだけでは限界がある。校舎内の闇霊を殲滅するためには、内部から強烈な光を浴びせなければならない。
もっとも、今の永井にそこまでやる理由は無かった。彼がここへ来た目的は沖田を倒すことだ。それはすでに果たした。危険を犯してまで中に侵入し、奴らを殲滅する必要はないだろう。永井は階段を下り、他の闇人に見つからないように身を隠しながら移動し、正門から外へ出ようとした。
その時。
周辺の景色が、不意に、完全な闇に包まれた。
銃を構え、周囲を見回す。光が消えた? いや違う。ライトの光は消えていない。それに、今は幻視の能力の影響で、光が無い状況でもうっすらと見ることができるはずだ。それは、光が消えたのではなく、閉ざされたのだ。周囲に、黒くもやもやとした煙のようなものが立ち込めている。
その、煙の中から。
「……あんなに苦しんでいたのが、嘘みたいだよ」
低く、それでいてどこか弾むような声が聞こえた。永井の右側だった。すぐに銃口を向けたが、そこには黒煙しか存在しない。
「久し振りに最高の気分だ」
さらに声が響いた。今度は左だ。銃口を向けるが、やはり、そこには黒煙しかない。だが、確かにそこから聞こえた。永井は引き金を引いた。銃弾が煙の中に消える。それだけだった。悲鳴も、何かに当たったような音も、なにも聞こえない。虚空を撃っただけとしか思えない。
「悪い夢は、早く醒めないとな」
また聞こえた。銃を向け、撃つ。反応は無い。もはやどこから聞こえてくるのかも判らない。まるで声が煙に反響しているかのように、前から、あるいは後ろから、右から、左から、あらゆる方向から聞こえてくる。
ただ、確かなのは。
「お前も、いらない殻を脱げ」
その声が、少しずつ近づいているということだ。黒煙にまぎれ、永井を狙っている。永井は弾倉の弾が切れるまで銃を乱射したが、それでも、手応えは無い。素早く弾倉を取り換え、さらに撃つべく銃を構えた。
不意に。
「……諦めが肝心だよ、何事もね」
耳元で囁かれた。
反射的に振り返る。
這いつくばるほど地面すれすれの場所に、巨大な顔があった。目線は永井と変わらない。それほど巨大な顔。その顔の上に、身体と腕、そして、顔の無い頭がある。何度も永井の前に立ち塞がり、彼を苦しめてきた巨体闇人。
だが、その姿が見えたのは一瞬だけで、すぐにまた黒煙の中に消えた。
「さあ、遊ぼうか」
また、声が聞こえる。どこにいるのかは判らない。黒煙にまぎれて、永井を狙っているのかもしれない。
しかし。
永井は、もう恐れはしなかった。恐怖よりも、別の感情が上回っていたのだ。その巨大な顔は、永井のよく知る顔だったのだ。隊員の誰もが怯える上官の顔。理解不能な言動で永井を苛立たせた顔。常軌を逸した行動で永井を怒らせた顔。そして、背後から撃たれたにもかかわらず、怒りや恨みや悲しみといった全ての感情を無くし、ただ永井を見つめていただけの顔。
「なぁがいくぅん! いっしょにあそびましょぉ!!」
おどけて挑発する声が、周囲に響き渡った。
永井は、これまでの怯えと苛立ちと怒り、そして、わずかな罪悪感、それらすべての感情を込め。
「……みいいぃぃさああぁぁわああぁぁ!!」
忌々しい元上官が消えた黒煙の闇に向かって叫んだ。