一樹守と岸田百合は、瓜生ヶ森の中を北へ向かって歩いていた。雨は強さを増し、足元はさらにぬかるんで歩きづらくなっている。すでに三時間近くこの森の中を歩いていた。道に迷ったのだろうか? いや、道はずっと一本だった。迷ってはいないはずだ。しかし、ここは謎の失踪事件が多発している夜見島だ。常識では考えられない出来事が起こっても不思議ではない。ひょっとしたら、一度足を踏み入れたが最後、二度と抜けられない迷いの森なのかもしれない。
大きく首を振り、考えを振り払う。そんなのは、あまりにも非現実的だ。
オカルト雑誌『アトランティス』の編集者である一樹だが、彼自身はオカルト現象を何でもかんでも肯定しているわけではなかった。信じていないわけではないが、信じるからには徹底的に調査する必要があるとは思っている。今の段階で、ここが迷いの森だなどと考えるのは早計だ。島の大きさと不慣れな山道を考えれば、三時間程度で森を抜けられなくても、なんら不思議ではない。このまま進めば、きっと碑足地方へ着くはずだ。そう結論付けた。
「――きゃ!」
後ろで百合が悲鳴を上げた。振り返る一樹。足を滑らせ、転びそうになった百合を支える。
「大丈夫?」
百合は、無言で頷くと、一樹の胸に顔を寄せてきた。まるで一樹の心臓の音を聞くかのように、そのまま顔を添える。
「ちょっと、百合ちゃん……?」戸惑う一樹。
「温かい……」
「え?」
「少し、このままでいさせて? こうしてると、安心するから」
「……うん」
一樹は百合に言われるまま頷く。
「ずっと一人だった……一人で寂しくて、つらかった。でも、今はあなたがいる」
「あ……ああ」
「お願い、守。全てが終わったら……あたしと、ひとつになって?」
「え?」
一瞬なにを言われたのか判らず、一樹は何度も瞬きをする。
百合は顔をあげ、潤んだ瞳を向けた。
「ずっと守と一緒にいたいの。いつまでも、一緒に」
吐息のような声で、ささやく。
「…………」
「……嫌?」
悲しげな表情になる百合。その顔を見ていると、なんとも言えない罪悪感を覚える。彼女を悲しませてはいけない。それは、男として最大の罪だ。そう思えてくる。
だから。
「……ううん、嫌じゃないよ。僕も、君と一緒にいたい」
一樹はそう答えた。
「ありがとう」
百合は、また一樹の胸に顔をうずめた。「抱きしめて、守。二度と離れないくらい、強く」
一樹は言われるまま、百合を抱きしめた。ほんの少し力を入れただけでも崩れ落ちてしまいそうな、まるでガラス細工のような華奢な身体だった。彼女を護らなければならないと思った。なんとしてでも。
突然、強い光に照らされた。目を焼かれるかと思うほどの、眩しい光だった。
「――嫌!」
光から逃れるように、一樹の背後に隠れる百合。
「誰だ!!」
一樹は光に向かって叫んだ。百合が嫌がっている。百合を護らなければと思う。自然と、感情がむき出しになる
「君こそ誰?」
一樹とは対照的に、抑揚のない無感情な声だった。「この島、立ち入り禁止だよ? なにやってるの?」
光が足元へ下がった。目が慣れるのに少し時間がかかったが、なんとか、相手が迷彩服を着た二人組の男だということが判った。一人はかなり大柄な男で、もう一人は一樹と同じくらいの体格の男だ。二人は両手に小銃を持ち、
一樹は社員証を出し、声を改めた。「超科学編集社という雑誌社に勤める、一樹守です。船が転覆して、たまたまこの島に流れつきました」
大柄な男はライトで社員証を照らした。こちらが身分を明かしても、向こうは身分を明かそうとしない。訝しげな表情も変わらなかった。
「そちらは、自衛隊の方ですか?」
一樹が訊くと、大柄な男は、「ああ」と、そっけない返事を返した。
相手の態度は気に入らなかったが、とにかく自衛官だということが判り、一樹は安堵の息を洩らした。「良かった。さっきのヘリ、やっぱり救助隊のものだったんですね」
「…………」
大柄な男は何も答えなかった。随分と無愛想な男だが、まあ、こういう気難しい人間はどこにでもいるだろう。誰であろうと、救出してくれるのならそれでいい。
一樹は百合を振り返った。「助かったよ百合ちゃん、ほら」
「嫌!」
百合は一樹の背後に隠れたまま、男の前に出ようとしない。それで一樹は気がついた。そうか。光がまぶしいんだ。
「……そっちの人、どうしたの?」
大柄な男が、百合にライト向ける。
「嫌! やめて!!」
百合は光から逃れるため、一樹の背後に隠れる。
「やめてください。この
「光が苦手……? なに? 幽霊や妖怪みたいなもの?」
大柄な男はさらに百合を照らそうとする。一樹には、百合が嫌がるのを楽しんでいるように見えた。いくら救出に来てくれたとはいえ、あまりに失礼な態度に、さすがに腹が立ってきた。
「やめろよ! 嫌がってるだろ!」
思わず叫ぶ。同時に、不信感も湧き上がってきた。こいつらは、本当に自衛官なのか? 考えてみたら、船が一艘転覆したくらいで自衛隊が出動するのもおかしな話だ。もちろん、一樹に事故の詳細は判らない。もしかしたら転覆したのは一樹の船だけでなく、多数の船が転覆・行方不明になるほどの大きな災害だったのかもしれない。しかし、災害派遣に銃を所持するなど、明らかにおかしい。
「あんたら何なんだよ! ホントに自衛隊か!?」
一樹は男を突き飛ばそうとした。だが、男はびくともしない。一樹とその男では、あまりにも体格が違い過ぎた。それでも、百合を護らなければならない。男として、それが使命だと思った。
突然。
島の北部から、サイレンが聞こえてきた。
あの、海の上で聞いた濁ったサイレンとは違う、美しいサイレンだった。まるで、永遠の命を持つ鳥の鳴き声のような、澄み切った音色。思わず聞き惚れてしまうほどに、そのサイレンは美しい。
だが、サイレンとは、本来危険を知らせるものだと、一樹はすぐに思い出す。
「三沢三佐……あれ……!!」
若い方の自衛官が、北の空を指さした。
一樹もそちらを見る。
北の空を覆うかのように、巨大な赤い壁がそそり立っていた。
それは、ものすごい速さでこちらへ向かって来る。動く壁……いや、あれはまさか、津波か!? 血のように深い赤――深紅の津波。山をはるかに越える高さだ。あんなものが押し寄せれば、島は丸ごと飲み込まれてしまうだろう。あり得ない。そのような津波など、あるわけがない。
一樹は、ただその場に立ち尽くす。あまりにも大きすぎて、現実味がないのだ。恐怖さえ感じない。思考が追いつかないとも言える。
サイレンは、鳴り続ける。
ふと、一樹は、そのサイレンが北の方角からではなく、足元から――地の底から聞こえてくることに気がついた。
サイレンが鳴り、赤い津波が迫る。
一樹たちは、赤い波に飲み込まれた。
昭和八十年八月三日、深夜〇時。
島に、サイレンが、鳴り響く――。