かしゃり、と、カメラのシャッターを切る音がした。
早朝から続いた仕事を終え、道具を片づけている時だった。木船郁子は作業を中断して顔を上げると、カメラを向けている若い男を睨みつけた。さっきから船着き場をウロウロしては、特に誰かに許可を取るでもなくデジタルカメラで撮影をしている。半袖のシャツにジーンズという軽装から、釣り客ではないだろう。もちろん船や港で働いている人でもない。見ず知らずの男に勝手に撮影されるのは、良い気分ではない。
「ちょっと、勝手に撮らないでくれますか?」
郁子は語気を荒らげて男に詰め寄った。男はファインダーから目を離すと、「あ、すみません」と恐縮した顔で言った。
「いま撮った画像、消してください。いますぐ」
カメラを指さす郁子。元々郁子は写真が嫌いだ。男が何者かは知らないが、インターネット上のホームページやブログなんかにアップされたのではたまらない。男は「いや、でも……」と歯切れが悪い様子だったが、郁子が「肖像権の侵害ですよ?」とさらに詰め寄ると、渋々という顔でカメラを操作しはじめた。郁子は自分が写った画像が消去されるのを確認すると、ふん、と鼻を鳴らして作業に戻った。明日も早朝から仕事だ。早く片付けて帰らなければならない。郁子が魚を入れるクーラーボックスを片づけていると。
「あの、すみません」
と、さっきの男が声をかけてきた。「僕、夜見島に行く方法を探しているんですけど」
ああ、そういうことか、と、郁子は納得した。釣り客でも漁師でもない人がこんな寂れた港に何をしに来たのかと思っていたが、それが目的だったのか。
この三逗港には、時折こういう人が来る。一晩で全島民が失踪したり、航行中の大型フェリーが突如消息不明になるなど、不可解な事件が多発している島だ。興味本位であの島に渡りたがる人は少なくない。
「船は出ませんよ」郁子は作業の手を止めず、顔も上げることもなく、そっけなく答えた。「あの島は、上陸が禁止されてるんです」
現在夜見島への定期船は出ていない。向かうなら船をチャーターするしかないが、この地域の船乗りたちは誰もがあの島を忌み嫌い、上陸はおろか近くを航行することさえ避けている。どんなにお金を積もうが、請け負う人は
「なんとかなりませんかね。どうしても、あの島に渡りたくて――」男はそう言うと、ポケットを探り、名刺を取り出した。「すみません。僕、『超科学編集社』という雑誌社に勤める、一樹守という者です。『アトランティス』という雑誌を担当しています」
郁子は差し出された名刺をちらりと見ただけで、受け取ることなく作業に戻った。男は困った顔で名刺を持て余していたが、やがて名刺入れに戻した。
「あの島が上陸禁止なのは承知しています。でも、今回の取材、どうしても成功させたいんです。誰か、船を出してくれる人に心当たりはありませんか?」
「無いですね」と、郁子はキッパリと言った。「連れて行ったりしたら、あたしたちまで罰せられることになるんで。ヘタをしたら業務停止にされかねません。仕事を失うリスクを負ってまで、あなたを案内するメリットがありますか?」
「確かに、それはそうですが……船が無理なら、何か他の方法はないですかね……?」
「船じゃなくてもいいのなら、良い方法がありますよ?」
「ホントですか? ぜひ教えてください」
「泳いで行くんです。ちょっと時間はかかりますけど、これなら、あの島まで行けますよ?」
「泳ぐ……それはちょっと難しいですね。もっと、別の方法はないでしょうか?」
「泳ぐのが難しいのなら、空を飛ぶとか、海の上を走るとかですね。まあ、頑張ってください」
突き放すようにそう言うと、男は「そうですか、困ったな……」と、腕を組んだ。「空を飛んだり海の上を走るのは現実的に無理だから、やはり泳ぐしかないか……夜見島までは約三十キロ。泳ぎが得意な者なら不可能な距離じゃないけど、僕は苦手だし……潮流や水温を考えた場合、僕の体力じゃ無理だけど……どこかで浮き輪を手に入れれば、あるいは……」
男はあごに手を当て、ぶつぶつと独り言をつぶやきはじめた。冗談で言ったのだが、まさか本当に検討し始めるとは思わなかった。変なヤツだ。もうちょっとからかってやろう。そう思った郁子は、「あ、そうだ」と言って、ポンと手を打った。「これ片づけるの手伝ってくれたら、船長に相談してあげてもいいですよ?」
郁子は目の前に積み上げられた大量のクーラーボックスを指さした。客が釣った魚を持ち帰る時に使う予定だったものだ。今日の客は十名の団体だったため多めに用意したのだが、釣果が悪くてほとんど使われず、一人で倉庫にしまうのに苦労していたところだ。
郁子の提案に、男は「ホントですか? ぜひお願いします」と目を輝かせると、すぐにボックスを運び始めた。うまくいった、と、郁子はほくそ笑む。郁子は船長に相談すると言っただけで、連れて行くと約束したわけではない。相談したところで船長が請け負うとは思えない。手伝ってもらって早く帰ろう。郁子は、一樹と二人で片づけを始めた。
「――やっぱり、駄目だったか」
男――一樹守は、そう言ってガックリと肩を落とした。作業を終え、約束通り郁子は船長に相談してみたが、案の定とりつく島もなく断られたのだ。
「残念でしたね。まあ、船長がダメだって言うのなら、あたしにはどうにもなりません。諦めてください」
イジワルな口調で言う郁子。船長が断るのは最初から判っていたことだ。悪いことをしたような気もするが、まあ、上陸禁止の島へこっそり渡ろうとするような不届き者だ。気にすることはないだろう。
「手伝ってもらって助かりました。これはお礼です」
郁子は近くの自動販売機で買ってきた缶コーヒーを一本渡した。一樹が手伝ってくれたおかげで、郁子一人だと一時間はかかる作業が半分以下の時間で終わった。さすがに何かお礼をしないと気の毒だ。
「あの重労働に対する報酬としては、割に合わないな」
一樹は苦笑いした後、「でも、ありがとう」と言って受け取り、栓を開けておいしそうに飲んだ。郁子も自分の分の缶コーヒーを飲む。
夕方前の港には海鳥の鳴き声と潮騒だけが響いている。早朝から漁に出た船が帰港し終え、夜の漁に出る船が準備を始めるまでのこの時間帯、港はひとときの静けさに包まれる。一樹は、のどかな雰囲気に癒されたのか、海を見つめながら穏やかな笑みを浮かべた。それを見て、郁子もフフッと笑う。仕事が終われば放っておいてそのまま帰るつもりだったが、少し興味が湧いてきた。
「えっと、雑誌の記者さんでしたよね」コーヒーを半分ほど飲んだところで、郁子は一樹に話しかけた。「担当は、『アトランティス』でしたっけ? それって、どういう雑誌なんですか?」
担当誌に興味を持ってもらえたのが嬉しかったのか、一樹は目を輝かせて「様々な超常現象を解明する雑誌なんだ」と言った後、ウエストポーチからその雑誌を取り出し、郁子に差し出した。
雑誌を受け取った郁子は、表紙をひと目見ただけで眉をひそめた。赤文字で『アトランティス増刊号』と書かれたその表紙には、『総力特集・分裂・増殖する無限個の宇宙!! 驚異の多世界解釈!!』だの、『地球は我々だけのものではなかった!! 太古の地球に先住者は実在した!!』だの、見るからに怪しげな見出しが並んでいる。試しにその総力特集のページをざっと読んでみたが、我々が住む宇宙の外側にはこことは異なる別の宇宙があり、それが可能性の数だけ無数に存在することが物理学的に証明されている、というような内容だった。ただし、どう物理的に証明されているのかは詳しく書かれていない。他の特集記事も、宇宙人の仕業やら呪いの影響やらと非科学的な結論で締めくくられており、いろんな意味で頭が痛くなるような内容だった。要するに、UFOやオバケなどのオカルトを扱った雑誌だ。
「……なるほど。それであの島を取材したいんですね」腹の底から納得する郁子。あの島で発生した様々な怪現象は、このテの雑誌にはピッタリだ。
「夜見島にまつわるウワサ話は、実に興味深いよ」一樹はさらに目を輝かせる。「可能なら、その謎のひとつでも、僕の力で解明したいんだ」
宇宙人や呪いと結論付けてどう謎を解明したことになるのか郁子には全く理解できないが、まあ、こういうオカルトだの都市伝説だのという話は、テレビとかでも頻繁に取り上げられるし、好きな人は好きなのだろう。
「……そんなに張り切るほどのことじゃないですよ? ウワサ話なんて、なんでもない出来事に尾ひれがついただけかもしれないじゃないですか」
島民失踪事件やフェリー喪失事件以外にも、夜見島には様々な怪現象の噂がある。だだ、そのほとんどが信憑性に欠けるものばかりで、二足歩行する大型の山猫や姿を盗む化物など、子供だましのものも多い。確かに、夜見島では奇妙な事件が頻発しているし、郁子自身もあの島には不吉なものを感じているが、ウワサ話の大半は、人から人に伝わるうちにどんどん誇張されていったのではないかと思う。完全にデタラメな話も少なくないだろう。
郁子がやんわりと否定しても、一樹は表情を変えることなく話を続ける。「そうかもしれない。でも、確かな調査もせずに否定するのは思考の放棄だと思う。ちゃんと調べてと検証すれば、真実が見つかるかもしれない。僕は、どんなに非現実的なことでも頭ごなしに否定せず、きちんと調査して結論を出したいんだ」
真剣な表情で言う一樹。郁子がこの港で働きはじめてからも、夜見島へ渡ろうとした人は何人かいたが、誰もが興味本位や面白半分だった。ここまで熱意を持って訪れた人はいない。
ますます一樹に興味が湧いてきた郁子は、「なんでそんなに真剣になるんですか?」と、さらに質問してみる。
すると、それまで子供のように爛々と輝いていた一樹の目が、不意に暗くなった。視線を落とし、両手で持った缶コーヒーをじっと見つめる。
……何かマズイことを訊いてしまったのだろうか? そう思ったが、いまの質問のどこがどうマズイのか、郁子には判らない。
しばらく気まずい沈黙が続いたが、やがて一樹は「昔、幼馴染の女の子がいたんだ」と、つぶやくように言った。「ちょっと変わった子でね。
「特殊な能力?」
「――他人の心が読めるそうだ」
どきりとした。他人の心が読める――郁子と同じだ。郁子もまた、誰かに触れることでその人が考えていることが判る能力がある。そのことで家族やクラスメイトとうまくいかず、今は実家からも学校からも離れたこの寂れた港町で働いている。
一樹は郁子の困惑に気付くことなく話を続ける。「僕は、子供の頃からオカルト好きだったから、その子の言うことを信じていた。でも、周りの人は誰も信じなかった。その子は、自分はウソなんかついていない、と、ムキになって証明しようとした。話を疑う人の心を次々に読み、言い当てていったんだ。当然、言われた方はいい気分じゃない。気味悪がられ、疎まれて、段々孤立していって、ついには、いじめられるようになったんだ。僕は、そんな彼女のことをずっと守っていたんだけど、そのうち、それに疲れてきてね。いじめられる原因を作ったのは彼女の方なんじゃないか、彼女が心を読まなければ、能力のことを隠していれば、いじめられることはなかったんじゃないか。彼女がもっとうまくやれば、僕も苦労せずにすむのに……って、段々、彼女の存在が疎ましくなってきたんだ。そして、十四歳の時、耐えられなくなった僕は、生まれて初めて彼女のことを否定したんだ」
一気にそこまで話した一樹は、「そうしたら――」と言った後、言葉を切った。缶コーヒーを持つ手が小さく震えていた。それを抑えるように大きく息を吸い、そして吐くと、決意したように言葉を継いだ。
「彼女は、僕の前からいなくなってしまった」
「――――」
「団地のベランダから飛び降りたんだ。幸い命は取り留めたけど、それが原因で引っ越してしまって、今はもうどこにいるかも判らない。彼女にとっては僕が唯一の理解者だったのに、僕はそれを裏切ってしまった。いまでは、すごく後悔している」
船着き場でエンジンがかかる音がした。夜の漁に出る船が準備を始めたようだ。音に驚いた海鳥が一斉に飛び立ち、断続的に続くエンジン音で潮騒はかき消される。また、港はにぎわい始めるだろう。
一樹は「それでね――」と言って伏せていた顔を上げると、重くなった空気を入れ替えるように笑顔を浮かべた。「もしかしたら、彼女と同じ悩みを持っている人が、他にもたくさんいるのかもしれない。僕は、そういう人の力になりたくて、この仕事を選んだ」
一樹は残ったコーヒーを一気に飲み干すと、「ごめんね、一人で変な話をして」と、照れたように笑った。言いたいことが言えてスッキリした、というような、どこか満足げな顔でもあった。
その顔を、その時の郁子は、妙に腹立たしく思った。
だから。
「――バカじゃないですか?」
突き放すように、冷たく言った。
そして、困惑する一樹に、雑誌を押し付けるようにして返すと。
「そんな話をして同情を引こうとしたって、無駄ですよ。騙されませんから」
そう言い捨て、郁子は一樹を残して立ち去った。
――あの時。
一樹の話を聞いて、彼に惹かれたのは、間違いない。
でも――真実を知るのが怖かった。
彼の話が、本当なのか、嘘なのか。
それを知るのが怖かった。
だから。
――掴まれ!!
夜見島へ向かう途中、赤い高波により船から投げ出され、海へ落ちそうになった郁子は、一樹が伸ばした手を握ることができなかった。
その手に振れたら、彼の心の声が聞こえてしまう。
真実を知るのが怖くて、彼を信じることができなくて。
その手を握ることが、できなかった。
でも、今は――。
「――掴まれ!!」
鉄塔が崩壊し、宙に投げ出された郁子は、なんとか階段の手すりを掴んで落下を免れた。だが、郁子の腕力ではそう長くはもたないだろう。郁子を救うべく、一樹は上から手を伸ばした。
郁子は――。
「――一樹君!!」
差し出されたその手を、今度はしっかりと握った。
一樹は、郁子の手を強く握り、なんとか引き上げようとする。
しかし、崩壊は止まらない。階段はさらに崩れ落ち、一樹が立っている場所も地上へ落下していった。同時に、一樹も、その手に支えられた郁子も、地上へと落下していく――はずだった。
だが、次の瞬間、完全に逆の力が、二人の身体を包み込んだ。
一樹と郁子は地上とは逆――空へと落下する。空に浮かぶ現実の夜見島へ落ちていくように。
だが――。
二人が写し世と現実世界の狭間に触れた瞬間、その存在は、どちらの世界からも消えた。