太古、光の洪水に追われ、現世から虚無の世界へ逃れた
鉄塔の先端部に到達したものの、謎の爆破による崩壊に巻き込まれた一樹守と木船郁子は、この特異な世界の接点に飲み込まれていた。目覚めた一樹がまず見たのは岩の荒野だった。地面には草の一本も生えておらず、土の一粒も無い。ごつごつとした赤色の岩肌がどこまでも続き、ところどころで隆起して岩山のようになっていた。空を見上げると、一面に赤い海が広がっていた。まるで上空から海を見下ろすかのような光景。重力の働き方が違うのか、海水は滴の一粒も落ちて来ない。海面は、その不吉な色以外は、
「……なに……ここ……?」
一樹のそばに倒れていた郁子も意識を取り戻し、目の前に広がる光景に戸惑いの声を上げた。
「少なくとも、元の世界ではなさそうだな」
一樹がそう答えると、郁子は目を細めて一樹を睨んだ。「鉄塔を登れば元の世界に戻れるんじゃなかったの? どういうことよ?」
「可能性がひとつに収束すると言ったんだ。元の世界に戻れるとは言っていない」
「訳の判らないこと言ってごまかさないで。これからどうするのよ?」
一樹は改めて周囲を見回した後、肩をすくめた。「なんとかここから脱出する手段を探るしかないだろうな」
「脱出手段ねぇ」郁子も周囲をぐるりと見回し、そのあと空に広がる赤い海を見て、一樹に視線を戻した。「……あの海の底まで潜れば世界がひとつに繋がるとか言わないわよね?」
一樹は小さく笑う。「どうだろうな? その可能性を否定する根拠は今のところ無いよ。試してみるかい?」
「今度はあなた一人でやって。あたしはここで見てるから」
「泳ぎは得意じゃないんだよ。まあ、それも手段のひとつとして考えておくよ。とりあえず、辺りを調べてみよう」
「まったく……いつまでこんなことが続くのよ」
ぶつぶつと文句を言う郁子を、一樹はどこか頼もしい気持ちで見つめる。いつ命を落としてもおかしくない状況が続き、ようやく元の世界へ戻れると思ったらこのありさまだ。とっくに心が折れてもおかしくないはずだが、あの様子ならまだ大丈夫そうだ。よほど強い精神力を持っていなければ無理だろう。
二人で周囲を調べようとしたとき、寒気がするほどの禍々しい瘴気を感じた。郁子も両肩を抱いて震える。あの、闇人共を束ねる異形の生物の気配が近づいて来る。それに合わせ、穏やかにたゆたっていた海が波立ち始めた。暴風にさらされたかのごとく荒れ狂う赤い海の中を、異形の生物が身体をくねらせて泳いでくる。そして、一樹たちの頭上まで来ると、海面から上半身を出し、美しい岸田百合の顔を歪ませて、一樹たちを睨み下ろした。
《よもや人間ごときに
その言葉に、一樹は違和感を覚えた。
だが、それが何かを考える前に異形の生物が動いた。異形の生物は海へ潜ると、今度は下半身を出した。龍の落とし子のような下半身が海面から垂れ下がり、表面のうろこが剥がれ落ちる。それが岩の地面に達すると、うろこは急激に伸びあがり、巨大な芋虫の化物と化した。大量の闇霊を産み落しているのだ。
「くそ。やるしかないか」
一樹は身構えた。闇霊の数は多いが、幸い産まれたばかりで身体に黒い布を巻きつけておらず、白い素肌を晒した状態だ。ライトで照らせば簡単に消滅するだろう。そう思い、ライトのスイッチを入れたが、なぜか点灯しなかった。故障かと思ったが、郁子のライトも同様に点かない。そう言えば、そもそもここはライトが無くても昼間のように明るいのだが、黒い布を全身に巻きつけた状態でも強い光で消滅していた闇霊たちが、ここではまるで消滅する気配がない。
「……光という概念が存在しない世界なのか」一樹はそう推測した。
「訳の判らないこと言ってる場合じゃないでしょ! 来るわよ!」
郁子は武器を構えた。その手には、いつの間に奪ったのか、着物姿の四足闇人が持っていたあの刀が握られていた。本当に頼もしい限りだ。一樹も鉈を構えた。
うねうねとうねりながら向かって来る闇霊を、一樹と郁子はそれぞれの武器で斬り捨てていく。ライトが使えないとはいえ所詮は闇霊。ここには憑りつくべき死体も無いので、大した脅威ではない。
だが、半分ほど始末したところで、一樹たちの少し後方の海面から再び異形の生物が下半身を出し、新たな闇霊を産み落とした。群れとなって後方から迫って来る。一樹は前方の闇霊を郁子に任せると、後方の闇霊に鉈を振るった。二体、三体と続けざまに倒すが、四体目に体当たりをされ、体勢を崩した所に五体目が牙を剥いて襲ってきた。なんとか体勢を立て直して返り討ちにしたものの、さらに別の闇霊に体当たりをされる。再び体勢を崩したところを襲われかけたが、駆けつけた郁子が闇霊を斬り捨てた。二人は協力し、周囲の闇霊を倒す。
だが、また異形の生物が海面から下半身を出し、闇霊を産み落とす。
一樹は鉈から拳銃に持ち替えると、異形の生物に向かって撃った。装填されている弾の半分を撃ち込んだものの、巨体闇人や四足闇人のように弾を弾いたのか、あるいは矢倉市子のように瞬時に傷が治ったのか、ともかく傷ひとつつけることはできなかった。そうしているうちに、闇霊たちが襲ってくる。再び鉈に持ち替え、闇霊たちを倒すが、ある程度倒すとまた異形の生物が新たな闇霊を産み落とす。一樹はもう一度異形の生物に向けて拳銃を撃ってみたが、やはり結果は同じだった。これではキリが無い。
「――ああ! もう! なにこの刀! ぜんぜん斬れないんだけど!?」
郁子が大声で悪態をついた。見ると、刀を振るったものの、刃は闇霊の身体を両断することなく途中で止まっている。闇霊を絶命させるにはそれでも充分なのだが、刃が刺さったままで抜けなくては次の攻撃に移れない。郁子は闇霊の身体を前蹴りで突き飛ばして刀を抜くと、横から襲いかかってきた闇霊に刀を振るった。だが、やはり刀は途中で止まってしまう。不死身の矢倉市子を斬り裂き、コンクリートのビルの一角をも削ぎ落した刀とは思えないほど
「まあ、そんなものでもゴルフクラブよりはましだ。少し時間を稼いでくれ。どうすればいいか考えてみる」
再び刺さって抜けなくなった刀を前蹴りで抜くと、郁子は一樹を振り返った。「はぁ? あんた、またあたし一人を戦わせるつもり?」
「俺が戦って君が考えてもいいが、何か良い考えが浮かびそうかい?」
そう言うと、郁子は苦いコーヒーでも飲んだかのように渋い顔をした。考えるのは得意ではないのだろう。
「判ったわよ。その代わり、ちゃんと考えてよね!」」
また異形の生物が下半身を出し、闇霊を産み落とした。郁子はそれを迎え撃とうと刀を構えた。
「ああ、そうだ」闇霊へ向かって行こうとする郁子を、一樹は呼び止める。「ひとつ、君に訊きたいことがあったんだ」
「なに?」と振り返った郁子の姿を頭から足元まで眺めた後、一樹は言った。「君のファッションセンスにケチをつけるつもりはないんだが、その格好、暑くないのか?」
真夏だというのに、郁子はずっと黄色のパーカーを着ている。恐らく、他人に触れたら心が読めてしまうから、不意に触れないよう極力肌を隠しているのだろう。
予想外の質問だったのか、郁子は目を丸くしていたが、やがてフフッと笑った。
そして。
「……暑いに決まってるでしょうが! こんなもん、好き好んで着てるわけないでしょ!!」
地面に叩きつけるようにパーカーを脱ぎ捨て、ノースリーブのサマーニット姿になった。両腕の肌を露出しただけで、ずいぶん印象が変わって見える。
「その方が似合ってる。可愛いぞ」
「……やめて、気持ち悪いから」
郁子は軽蔑するような目を一樹に向けた後、迫って来る闇霊に向かって刀を振るった。
一樹は小さく笑ったが、気を取り直して考える。どうすればこの状況を打開できるか……。闇霊を産み落とす異形の生物を倒さなければ終わらないだろう。異形の生物は海中に隠れており、闇霊を産み落とす時だけ姿を現す。攻撃のチャンスはその時しかないが、拳銃では歯が立たなかった。恐らく機関銃や小銃でも同じだ。人の手で作られた武器では掠り傷ひとつ負わせられないだろう。滅爻樹ならどうだろうか? 巨体闇人の正面の装甲さえも貫き、瞬時に樹に変えてしまう神器だが、滅爻樹は人の身体に屍霊や闇霊が憑りつかないようにするためのものだ。異形の生物に効果があるかは怪しい。郁子が持つ刀が本来の力を発揮すれば異形の生物さえも斬り裂いたかもしれないが、あの様子では期待できそうにない。あとは、郁子が「ものすごい力を秘めている」と言った、あの魚の骨、あるいは
――待てよ。
一樹は、異形の生物が海を泳いで現れた時の言葉を思い出した。
《よもや人間ごときに
あの言葉に違和感を覚えたが、その理由が、いま判った。
地上世界の奪還を目論む異形の生物は、現世へと繋がる鉄塔を足掛かりに侵攻しようとしていたのだ。
しかし、何者かによって鉄塔は破壊され、闇人共は地上侵攻の足掛かりを失った。鉄塔の崩壊とともに、異形の生物の野望も崩壊したのだ。
一樹たちが何か行動を起こすたび事態が悪い方向へ進むのは、この偽りの夜見島という箱を観測する者がいて、その者には箱を開ける前に中身が見えるから、あるいは、箱を開けて望む世界でなければ箱を閉じもう一度開けることができるから、と考えていた。己の望み通りの世界を決定できる力があるのだ。一樹は、その観測者とは異形の生物だと考えていた。偽りの夜見島は異形の生物が創り出したものだ。異形の生物こそが創造主であり、島ではヤツの思いのままに未来を決定できる。だから、何か行動を起こすたびに事態が悪い方向へ進む――そう思っていたのだ。
だが、その考えは間違いだったのかもしれない。
事態がすべて悪い方向に進んだと思えるのは、悪いことばかりが強く印象に残っているだけではないのか? 中には、良い方向に進んでいたこともあるのではないだろうか?
そう考えると、思い当たることもある。
遊園地で岸田百合と共に七つの鍵を解放した際、一樹は敷地の外に落ちていた貝殻のようなもの――いま思うと、あれは異形の生物の鱗だ――を取るために、正門を開けた。その結果、後から遊園地を訪れた郁子は速やかに中に入ることができたはずだ。もし、門を閉ざしたままだったら、郁子は中に入るのに手間取っただろう。そうなると、地の底で郁子が一樹を救出することはできなかったかもしれない。
ブライトウィン号での件もそうだ。執拗に襲ってくる着物姿の四足闇人を倒すのに時間を取られたため、鉄塔へ向かうのが遅れ、闇人達が好む夜になってしまった。だが、その結果、船で永井と再会し、二人で協力して鉄塔を登ることができた。もし永井と出会わず、一樹一人で鉄塔を登っていたら、闇人共に倒されていたかもしれない。
事態は悪い方向ばかりへ進んでいた訳ではない。悪い方向へ進んでいることもあれば、良い方向へ進んでいることもある。いや、結果的には良い方向へと進んでいたのだ。現に、鉄塔が崩壊したことで、闇人共は現実世界へ侵攻する手段を失った。だから、異形の生物は激怒しているのだ。これは、異形の生物が望む世界ではなかったのだ。
つまり。
この世界を観測し、未来を決定していたのは、異形の生物ではない。
では、それは誰だ?
思い当たるのは、かつて闇に包まれていた地上世界に光の洪水を起こし、闇の住民どもを地の底や海の底へ追いやった者。神のごとき力を持つ異形の生物さえも手玉に取るほどの存在。それはすなわち、
「――ちょっと! いつまで考えてるつもり!?」
闇霊と戦っていた郁子が悲鳴を上げるように言った。一樹が考えている間にも異形の生物は何度も闇霊を産み落とし、郁子一人では手に余る数になっている。
一樹は考えを中断すると、郁子の元に駆け付け、闇霊どもに鉈を振るった。
「どう? 何か思いついた?」
闇霊を二体続けて斬り捨て、一樹の背をかばうように背後に立った郁子が訊く。
一樹は苦笑いをして首を振った。「わからん。とにかく、このまま戦い続けるしかない」
「……あんた、サイテーね」
郁子は疲れ果てた声でそう言うと、声に反して鋭い一閃を闇霊に振るった。
「その元気があれば大丈夫だ」
一樹も鉈を振るう。郁子には投げやりなことを言ったものの、決してあきらめたわけではない。一樹の考えが正しければ、戦い続けるということには勝算があった。偽りの夜見島を観測し、未来を決定していたのが異形の生物でないのなら、奴に勝ち目など無いだろう。この戦い、異形の生物が敗北することはすでに決定しているはずだ。
ただ、異形の生物の敗北が、必ずしも一樹と郁子の生存とは限らない。どちらか一人が倒れる可能性もある。ともかく今は、油断せず戦い続けるしかない。
異形の生物が闇霊を産み落とし、一樹と郁子がそれを倒し続ける攻防が続いた。異形の生物の敗北が確定しているとはいえ、戦いが長引くと疲労は蓄積していく。郁子の振るう刀からは鋭さが失われつつある。一樹も鉈を振るう腕に力が入らない。拳銃に持ち替えたところで、すぐに弾が尽きてしまうだろう。このままではじりじりとやられるだけだ。神頼みのような戦い方をしたのは間違いだったのだろうか。あるいは、考え方そのものが間違っていたのか。
もう何体目か判らない闇霊を一樹が斬った瞬間、右から闇霊が体当たりをしてきた。体勢を崩した一樹の背後から、さらに別の一体が襲ってくる。大きく弾き飛ばされた一樹は、激しく地面に叩きつけられた。
「一樹君!! 大丈夫!?」
郁子の心配する声に、一樹は「大丈夫だ」と答えて立ち上がる。
その時、一樹のポケットからメダルがこぼれ落ちた。夜見島へ上陸し、岸田百合と共に夜見島灯台へ向かおうとした途中の岩場で拾った物だ。
こぼれ落ちたメダルはしばらく地面を転がり、やがて円を描くようにくるくると回って倒れる。
その瞬間、頭上の海面が、大きく波打った。
また異形の生物が闇霊を産み落とすのかと思ったら、下半身ではなく全身が現れたのだ。その身体が海面から離れた瞬間、重力が逆に働いたかのごとく落下し、異形の生物は大量のしぶきと共に岩の地面に叩きつけられた。
「――なんだ!?」
突然の出来事に、一樹も、郁子も、闇霊さえも、戦うことを忘れて立ち尽くす。
《……おとなしくしていろ!!》
誰に向けた言葉なのか判らないが、異形の生物は首をもたげてそう言うと、宙へ舞い上がり、再び海へ潜っていった。あまりに予想外のことに、攻撃することさえ忘れていた。
「……いまの、なんだったの?」我に返った郁子が訊く。
「判らない。俺は、あのメダルを落としただけだが……」
地面に落ちたメダルを指さす。岩場で拾ったときに調べたが、一九七〇年に開催された『土器と平和』という博覧会で販売されたと思われる、何の変哲もない記念メダルだった。しかし、異形の生物があのメダルに動揺したのなら、なにかの神器なのかもしれない。もっとよく調べよう。そう思ったとき、突如、メダルが転がっている付近の
「あなた、どうやってここへ!?」郁子が驚いた声を上げた。
「知っているのか?」
一樹が訊くと、郁子は「ええ」と頷いた。「鉄塔を登る前に会ったの。鳩の一人だと思うけど、いろいろ助言してくれたから、悪い人じゃないと思う」
鳩の少女は郁子の声に応えることはなく、足元に落ちていたメダルを拾った。そして、愛おしそうに胸に抱いた後、空に広がる赤い海を見上げた。
「脩! そこにいるの!? 加奈江お姉ちゃんよ! いるなら出てきて!」
幼い子供を探すように叫ぶ。脩とは、三上脩のことだろうか? 遊園地の地下に広がる冥府にて、三上脩はよみがえった異形の生物の体内に取り込まれた。彼を探してここへ来たということか? だが、三上と鳩の少女に、何の接点があるのだろう?
加奈江と名乗った少女が呼び続けると、それに反応したのか、先ほどの謎の転落以外はずっと海中に身を隠していた異形の生物が浮上してきた。海面に上半身を出し、これまで以上の恐ろしい目で加奈江を睨みつけた。
《そなた……我の
加奈江は、その恐ろしい眼光にも臆することはない。「お願い、脩を返して。その子は、あたしの大切な存在なの」
異形の生物は表情をさらに歪めた。沸々とわき上がる怒りを少しずつ注ぐように言う。《我が命に背いたことを詫びに戻ったのかと思えば、
異形の生物の怒りを、加奈江は即座に「違う!」と叫んで否定した。「あたしは脩を愛してる! この気持ちは偽りなんかじゃない! あたしは惑わされてない! あたしはあんたなんかの言いなりにはならない! あたしはあたしの意思で脩を取り戻す!!」
《どうやらそなたは
そう言うと、異形の生物は海面から全身を出した。《そなたのようなものを生み出したのは恥ずべきこと! 我が手で始末してくれるわ!!》
異形の生物は水平に弧を描いて舞った後、加奈江に向かって凄まじい早さで突撃した。その巨体に弾き飛ばされた加奈江は、まるでゴルフボールのように岩の地面をはね転がった。
だが、加奈江はすぐに立ち上がる。頭や腕などから血を流しながらも、決意の宿った目で異形の生物を睨みつけた。
「脩……お姉ちゃんが……必ず助けるからね……」
その言葉が、さらに異教の生物の怒りを誘う。
《まだ言うか!!》
再び突撃され、今度は加奈江の身体は高く跳ね飛ばされた。そして、隆起した岩山にぶつかり、岩肌を転げ落ちる。普通の人間なら、即死してもおかしくはない。
それでも、加奈江はまた立ち上がる。
全身から血を流している。左腕は脱臼したのかだらんと垂れ下がっている。右足は関節がおかしな方向へ曲がっている。加奈江が鳩であることは間違いなさそうだが、個体によって能力が違うのか、岸田百合や矢倉市子のように、瞬時に傷が治る様子はない。
それでも。
「……脩は渡さない、脩はあたしが護る! 脩を返せこの化物!!」
強い意思が宿る目を向け、叫んだ。
《その醜き人間の姿で我を化物呼ばわりするか……》怒りが頂点を超えたのか、あるいは加奈江のその言動がよほど滑稽だったのか、異形の生物は肩を揺らして笑った。《戯言は終わりだ! 二度とよみがえらぬよう粉々に打ち砕いてくれるわ!!》
もう一度、さらに速さを増し、異形の生物は加奈江へ向かって飛んだ。
そのとき、加奈江が何かを取り出した。
それを見た瞬間、加奈江へと突撃する異形の生物は急激にその動きを変えて上昇し、海面のすぐ下に身を留めた。
《そ……それは……!?》
表情が歪む。さっきまでの怒りに満ちた顔ではない。なぜそれを持っている、と言いたげな、驚愕の表情だ。
加奈江が取り出したのは、
異形の生物は宙に留まったまま動かず、加奈江を睨み続けている。その骨のような物を警戒しているようにも見えた。だがそれはやはりただの骨にしか見えず、一樹には何の力も感じない。
だが。
加奈江が手にしたその骨のような物から、突如炎が噴き出した。勢いよく燃え上がり、全体を包み込む。燃え上がった骨のような物は、その形が微妙に変化してゆく。全体がやや短くなり、幅も狭まった。代わりに、片側が刃となり、先端が鋭くなる。それは、ちょうど小太刀のような形だ。炎はますます燃え上がり、刀身は燃焼する石炭のごとく漆黒と深紅が入り混じる。炎の小太刀だった。
異形の生物が、ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほど奥歯を噛みしめた。
《ええい! 誰か! そやつからその
闇霊たちに命じる。怒りに任せた声の中には、明らかな怯えが混じっていた。
異形の生物の命令に応じ、闇霊たちは一斉に加奈江へ向かっていった。もう、一樹たちには見向きもしなかった。
「大変、あの娘を助けないと……」
郁子は加奈江の元へ向かおうとしたが、足がもつれて膝をついた。ずっと闇霊たちと戦い続け、もはや体力はほとんど残っていないだろう。そして、それは一樹も同じだった。
「少し休もう。今のうちに、体力を回復させるんだ」一樹は呼吸を整えながら言った。
「そんな!? あの娘を見捨てる気?」
「そんなつもりはない。あの様子なら、恐らく大丈夫だ」
向かって行ったものの、闇霊たちは加奈江をぐるりと取り囲んだだけで、襲いかかろうとしない。異形の生物と同じく、あの小太刀に脅えているのだ。よほど強力な武器に違いない。
「俺たちが持っている物も、あんな風になればいいんだが……」
一樹は、鉄塔上層の樹に刺さっていた魚の角のような物を取り出した。見つけた時と同じで、形に変化は無い。郁子もそれを取り出す。一樹が持っている角と少し形が違い、長さはやや短いが、太い円錐で、全体が刀のようにわずかに湾曲している。それは、骨というよりは
《ええい! なにをしている! 早くせぬか!!》
異形の生物が苛立った声を上げた。闇霊どもは覚悟を決めたのか、十体ほどが一斉に襲い掛かった。
「――危ない!」
郁子が声を上げたが、加奈江が小太刀を横薙ぎに一振りすると、襲いかかった十体全てが胴体から真っ二つにされた。加奈江は左腕を脱臼しており、小太刀は右手で握っているだけだ。右足も折れているため踏ん張りもきかない。その小太刀の一閃は決して鋭いものではなかったはずだが、まさに一刀両断であった。
《おのれぇ!!》
さらなる苛立ちと共に、異形の生物は闇霊を産み落とす。闇霊たちはさらなる数で襲い掛かるが、やはり加奈江の小太刀の一振りで一掃された。
「……あれが、あの化物を倒す唯一の方法かもしれないな」一樹は加奈江の持つ小太刀の威力を見てそう言った。「今がチャンスかもしれない。感応で、あの化物を操れるか?」
拳銃では掠り傷ひとつ負わせられなかったあの異形の生物も、加奈江が持つ小太刀ならば斬ることができるかもしれない。だがその刀身は短く、宙に留まった異形の生物には到底届かないだろう。異形の生物もそれが判っているからこそ距離を取り、闇霊どもに任せているのだ。だから、感応を使って異形の生物を操り、小太刀が届く範囲まで下ろせば、ヤツを倒せるかもしれない。
だが、郁子は異形の生物をしばらく見つめた後、首を振った。「無理だと思う。あいつに、感応は通じない」
確かに、地の底で初めて異形の生物と対峙したときも郁子の感応は弾かれていたし、屍人が放った鳩である矢倉市子にもほとんど通用しなかった。屍人や闇人を操るようにはいかないだろう。
「油断しているときを狙えば、一瞬動きを止めるくらいはできるかもしれないけど……」
郁子はそう付け加えた。もちろん、異形の生物もそうそう油断などしないだろうし、動きを止めても宙に留まられては、こちらからは手出しできない。
闇霊の悲鳴が響いた。加奈江の小太刀が、全ての闇霊を斬り捨てたのだ。
《……どいつもこいつも使えぬ者ばかりだ!! 我の手を煩わせるでないわ!!》
異形の生物は吠えるように言うと、天に向かって――いや、頭上の赤い海に向かって甲高い声で鳴いた。その鳴き声に応じるように海面が大きく盛り上がった。それが渦を巻いて鋭い槍となり、加奈江に襲い掛かる。加奈江は息を飲むと同時に横へ跳んだ。跳ぶと言っても片足は折れているのでほとんど倒れただけだったが、なんとかその水流の槍をかわすことができた。水流の槍は加奈江の背後の岩山に突き刺さり、簡単に貫いていった。あれをまともに受けたら、治癒能力の無い加奈江はひとたまりもない。
異形の生物がもう一度鳴き声を上げる。再び水流が槍となり、倒れた加奈江に襲い掛かる。加奈江は身をよじってかわそうとしたが、槍の方がわずかに早かった。槍は左の二の腕を掠め、その肉を斬り裂く。迸った鮮血が、岩の地面に散らばった。
その瞬間だった。
異形の生物の左の二の腕に相当する部分も同時に斬り裂かれ、血とも体液ともつかぬ白い液体が飛び散ったのだ。
だが、異形の生物はその傷を気にした風もない。見る間に塞がり、何事もない白い肌に戻った。
また異形の生物が鳴き、水流の槍が加奈江を襲う。今度もかわしきれない。槍は左の腿を貫いた。加奈江が苦痛の悲鳴を上げると同時に、異形の生物の身体も傷つく。異形の生物に足は無いが、腰に相当する部分のやや下に穴が空き、白い液体が吹き出した。その傷も、すぐに塞がってしまう。
――感覚が繋がっているのか?
一樹はそう考えた。加奈江が傷つくと、異形の生物も傷ついているように見える。そう言えば、異形の生物は加奈江のことを「我が身体から生まれた分裂体」と言っていた。つまり、異形の生物と加奈江は元々ひとつの存在だったのだ。だから、加奈江が傷つくと異形の生物も傷つくのだろう。だが、加奈江と違い、異形の生物の傷はすぐに塞がる。ゆえに、異形の生物は躊躇なく攻撃できる。
度重なる攻撃を受け、全身傷だらけで岩の地面に横たわる加奈江の姿を、異形の生物は満足げな表情で見つめた。
《我に逆らうことの恐ろしさを思い知ったか。いまさら詫びても許しはせぬが……》
異形の生物は、視線を加奈江から一樹たちに移した。《その人間どもを始末すれば、それ以上苦しまずに消滅させてやっても良いぞ》
邪悪な提案をする。
加奈江は傷ついた右足をかばいながら左足だけで立ち上がり、右手だけで小太刀を構えた。
一樹たちも身構えた。このまま加奈江と戦闘になれば、いかに相手が深い傷を負っているとはいえ、あの武器は脅威だ。闇霊同様一振りで両断されてしまうだろう。幸い拳銃の弾はまだある。近づかれる前に倒すしかない。一樹は鉈から拳銃に持ち替えようとした。
だが。
「……あんたなんかにはわかんないでしょうね……」
加奈江はうつむいたまま、それでも言葉は頭上の
《なに……?》
不快そうに目を吊り上げた異形の生物に、加奈江は顔を上げて叫ぶ。
「
《ならば下等な人間として滅びるがいい!!》
異形の生物がさらに高い声で鳴く。海面がふたつ同時に盛り上がり、二本の槍となって同時に加奈江に襲い掛かる。
だが、その槍が加奈江を貫くよりも早く、加奈江は小太刀を逆手に持ち替えて振り上げた。
「脩! 出ておいで!!」
そして、その先端を、一切の躊躇いを見せることなく、己の腹に突き刺した。
悲鳴を上げたのは異形の生物の方だった。水流の槍をつくり出す時の鳴き声とは違う、苦痛に満ちた声。腹から大量の体液がこぼれ落ちた。そして、その傷は、今度は塞がらない。
「――脩!!」
加奈江が小太刀を横に払い、腹を斬り裂いた。異形の生物の腹も、同様に斬り裂かれる。さらに悲鳴を上げる。もしかしたら、どのような傷も瞬時に塞がる異形の生物は、これまで痛みを感じたことがないのかもしれない――そんなことを思わせるほどの、悲痛な叫びだった。
その、異形の生物の腹から。
まるで帝王切開で子を取り出すかのように、三上脩が姿を現した。
三上が岩の地面に落ちた。身体の一片も動く様子はない。生きているのか死んでいるのか、一樹たちには判らない。
三上に続き、腹を裂かれた異形の生物も地面に落ちた。己の腹を斬り裂いた加奈江もまた、崩れ落ちるように倒れた。手放した小太刀が岩の地面に転がった。噴き上がる炎が消え、火が点いた石炭のような刀身は、骨のような表面に戻った。
それと入れ替わるように。
一樹が持っていた魚の角のような物が、加奈江の持つものと同じように燃え上がった。
同時に、郁子の持つ牙のような物も燃え上がる。炎は一樹と郁子を包み込むほどの勢いで燃え上がるが、熱さは感じない。
炎は角と牙を包み込んで燃え上がると、その姿を変化させた。一樹の持つものは、細長い円錐の形はほぼそのままだが長さが二メートルを超え、先端はより鋭くなり、騎兵槍のような形になった。郁子の持つものは湾曲した円錐が平らになり、片面に刃が付き、幅広の刀の形になる。どちらも加奈江の小太刀同様激しく燃え上がり、表面は石炭のように赤と黒に染まった。
二人が突然の変化に戸惑っていたら。
「……脩……やっと……」
加奈江が、岩の地面を這いながら脩へ向かっていた。腹から流れ出た血が、画板に絵の具を乱暴に塗りつけたかのごとく広がっている。腹を小太刀で斬り裂いたのだ。そんな状態で岩の地面を這えば傷は広がるだけだ。元々深い傷を負っていた加奈江には致命傷になりえるが、それでも、加奈江は脩へ向かって這い続け、その手を伸ばす。
《……おのれ……》
異形の生物が首をもたげた。苦痛と怒りが入り混じった目で、脩へ手を伸ばす加奈江を見た。
そして。
《――脩は渡さぬ!!》
吠えた。
その叫びは、脩を救おうと異形の生物に立ち向かった加奈江の叫びと、同じだった。
だが、次の瞬間、異形の生物は大きく目を見開いた。
《……我は……いま……何を……》
自分が口にした言葉が信じられない、そんな表情。
加奈江が伸ばした手が、脩に届いた。
異形の生物の動揺が怒りへと変わる。その怒りの矛先を、加奈江と脩に向けた。
《下賤の生物が我を惑わすなぁ!!》
右腕を振り上げ、加奈江と脩に振り下ろそうとした。
その、右腕に。
「……ああぁぁ!!」
絶叫と共に、郁子が炎の刀と化した牙を振り下ろし、一刀で斬り落とした。
異形の生物はさらなる悲鳴を上げ、地面をのた打ち回る。その動きで鞭のようにしなった尾が、郁子を弾き飛ばした。倒れた市子は刀を手放してしまう。
異形の生物はのた打ち回りながらも宙へ舞い戻り、怒りと憎悪の目で郁子を睨みつけた。
《おのれおのれおのれぇ!! 不良品共がぁ!! 許さぬ! 許さぬぞ!!》
異形の生物が、高速で郁子に突撃する。
立ち上がった郁子は、右の拳を握り、その手首を左手で握った。
異形の生物が郁子を弾き飛ばそうとした刹那、その身体が、見えない鎖に縛られたかのように、郁子の寸前で急停止する。
「――一樹君!!」
郁子の声と同時に。
一樹は、咆哮と共に、異形の生物の顔に炎の槍を突き刺した。