異形の生物が上げた断末魔の叫びは、一樹たちがいる特異な世界の接点だけでなく、
世界が崩壊し始めた。空に広がっていた赤い海から、海水が流れ落ちている。岩の荒野はすぐに海水に覆われはじめた。まるで、赤い津波が押し寄せようとしているかのごとく。
だが、一樹と郁子は、その赤い津波を恐れはしなかった。しっかりと手を握り合い、運命を受け入れるかのごとく、その場に立ち続ける。きっと大丈夫だ――根拠などなにも無いが、そう信じる。
郁子が一樹の顔を見た。そばに立つと、郁子が一樹を見上げる格好になる。
「絶対に離さないでね」
郁子は、さらに強く手を握りしめた。
「――ああ」
一樹は力強く応え、言葉よりも強く手を握り返す。
加奈江と三上脩を見た。二人は岩の地面に伏したままだ。ともに意識は無い。息があるのかないのかも判らないし、もう確かめようもない。
それでも。
加奈江は三上の手を握り、三上も加奈江の手を握り返し、互いに幸せそうな笑みを浮かべていた。きっとあの二人も大丈夫だ。そう信じることにした。
赤い海が完全に崩壊した。無限に広がっていた海が、岩の荒野に降り注ぐ。荒野は瞬く間に海水で溢れた。
赤い津波が、一樹と郁子を飲み込もうとおしよせる。
二人は、目を閉じた。
一樹と郁子が目を閉じた刹那。
周囲の空間が歪み、波紋が生じ、赤い津波よりも先に二人を飲み込んだのだが。
そのことには、一樹も郁子も気がつかなかった。
――同時刻。
海から現れた顔の怪物を倒した永井頼人は、崩壊した鉄塔へ向かおうとして、そのサイレンの音を聞いた。同時に、地面がわずかに揺れ始める。ちょうど二十四時間前、これと同じことがあったのを思い出した。いやな予感がしたので、海の方を振り返る。赤い海が、永井の背丈をはるかに超す高さまで盛り上がり、島を飲み込むほどに広がって、向かって来る。あのときと同じ、赤い津波。
永井は、なすすべもなく飲み込まれた。
偶然にも異形の生物の野望を打ち砕き、自分でも知らぬ間に人類の救世主となった阿部倉司は、三上脩の愛犬ツカサと共に、上機嫌で森の中を歩いていた。人生最大の危機を乗り切った彼にとって、もはや恐れるものは何も無かった。彼はこの数時間で最強の戦士と化したのだ。そんな彼を恐れたのだろうか、もうずっと、闇人共の姿を見ていない。せっかくの腕を振るうチャンスが無いことに、阿部は物足りなさを感じていた。
「おいおいどうした化物共! 阿部倉司様はここだぞ! どんな武器や術を使ってもいいから、かかってきやがれってんだ!」
周囲へ向かって自信に満ちた声で言った。無論、最強の戦士に立ち向かう勇気のある者などいるはずもない。声は夜の森に響き渡っただけだ。
ただ。
ツカサが、何かを察したかのように顔を上げた。
しばらく前を見ていたツカサだったが、突然くるりと向きを変えると、阿部を残して一目散に走り去った。
「おい、どこに行くんだよ?」
阿部がツカサを追いかけようとしたとき、どこからともなくサイレンの音が聞こえてきた。同時に、地面が振動しはじめる。覚えのある展開だ。まずい。どんな術を使ってもいいと言ったが、それだけはやめろ。サイレンは大きくなり、揺れも大きくなる。傲慢な人間に対し神が怒りの声を上げたかのような轟音が、背後から迫る。振り返りたくはなかったが、振り返らずにはいられない。振り返った阿部が見たものは、予想通りのものだった。
赤い津波は最強の戦士に叫ぶ間も与えず、島ごと全てを飲み込んだ。
昭和八十年八月四日、深夜〇時。
島に、最後のサイレンが、鳴り響く――。