SIREN2(サイレン2)/小説   作:ドラ麦茶

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第九十二話 『収束する世界』 一樹守 四鳴山/離島線4号基鉄塔 24:44:44

 

 

 

 頬が、ひどく冷たかった。

 

 いや、頬だけではない。全身のほとんどが冷たい。まるで、冬山で凍えるかのような寒さ。夜見島へ向かう途中で船が転覆し、港に流れ着いたときと同じだ。

 

 だが、あの時とはひとつだけ違うこともあった。

 

 全身が凍えるような冷たさだが、右手だけは、心地よい温かさに包まれていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 一樹守が目を覚ましたのは、古いビルの屋上だった。そばには鉄塔が建っている。見上げても先端が見えないほど高いその鉄塔は、まぎれもなく、夜見島の山頂に建つあの鉄塔だ。

 

 郁子はどうなった? その心配はすぐに消えた。郁子は、一樹のすぐそばに倒れていた。その左手で、しっかりと一樹の右手を握っている。意識は無いが、一樹が左の手で頬に触れると、「んん……」と小さく声を出し、くすぐったそうに顔をほころばせた。それで、一樹はようやく安堵の息をついた。

 

 一樹は、郁子を起こさないようそっと手を離すと、立ち上がって周囲を見回した。ビルの正面には、山の頂から見下ろす格好で森が広がり、その先には赤い海が広がっていた。写し世の夜見島に戻って来たのだろうか? そう思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。頭上を見上げる。この場から見ると、天まで届くと錯覚しそうなほどの巨大な鉄塔。ここが写し世の夜見島なら、鉄塔は謎の爆発により崩壊したはずだ。いま一樹が見上げる鉄塔は崩壊などしていないし、大樹や多数の建物とも融合していない。

 

 そして、何より。

 

 鉄塔から正面の赤い海へ視線を移した。写し世の赤い海は血のような色をしていたが、いま目の前に広がっている赤い海は、同じ赤でも全く異なる赤――燃え上がる炎のような色だった。そして、水平線のすぐ上に、写し世の海よりも、血よりも、炎よりもなお赤い太陽が、ゆらゆらと揺らめいていた。朝日が昇り、その燃え上がる色が海に映っているのだ。陽の光は一樹にも降り注ぎ、海の上に光の道をつくり出していた。

 

 一樹は確信した。現実の夜見島に戻って来たのだと。

 

 一樹は郁子のそばに腰を下ろすと、膝を抱えて朝日を眺めた。

 

 郁子が小さな声を上げた。意識を取り戻したようだ。上半身を起こし、周囲を見回して、すぐに状況に気がついたのだろうか――なにも言わず、一樹と共に朝日を眺めた。一樹も何も言わず、そのまま二人、朝日を眺めつづけた。写し世の夜見島に飲み込まれていたのは一日程度のはずだが、何年振りかに太陽を拝んだような気分だった。

 

「綺麗だな――」

 

 一樹は朝日を見つめたまま、郁子に言った。

 

 郁子は――。

 

 

 

 

 

 

 木船郁子は、複雑な思いで太陽を眺めていた。ようやく元の世界に戻って来られたのに、素直に喜ぶことができない。ようやく本物の太陽を拝むことができたのに、その光を酷く眩しく感じる。右手を顔の前に広げ、()()()にしても、その眩しさは変わらない。太陽を忌々しくさえ思っていた。こんな感情は初めてだった。この気持ちはなんなのだ。郁子は、心の奥では、その正体に気がついていたのかもしれない。自分が、闇に飲まれつつあるということに。

 

 だが、そのとき。

 

 一緒に太陽を眺めていた一樹が、そっと、郁子の左手に右手を添えた。

 

 そして。

 

 

 

 ――君は大丈夫だ。

 

 

 

 そう、言われた。

 

 いや、それは言葉だったのか、肌が触れたことで思いが流れ込んで来たのか、それは判らない。判らなくてもいい。ただ、一樹のその言葉で。

 

 

 

 ――あなたも、大切な人が見つかるといいわね。

 

 

 

 加奈江から言われたことを、思い出した。

 

 郁子は目を閉じ、ひさしにしていた右手をおろし、一度大きく息をして、そして、再び目を開けた。

 

 郁子を照らす光は、やはり眩しかった。

 

 だが、そこに、さっきまでの忌々しさは感じない。

 

 それは、一樹が言う通りの――綺麗な光だった。

 

 二人は手を繋いだまま、朝日を眺めつづけた。

 

 やがて。

 

「――一樹君」

 

 郁子は、視線を一樹に移し、名を呼んだ。

 

「なに?」と、一樹が振り返る。

 

 視線が合う。見つめ合う形になった。

 

 郁子は。

 

「……いつまで手握ってるのよ、キモいんだけど」

 

 わざと、低い声でそう言った。

 

 一樹は驚いたように目を丸くし、慌てて手を離した。「ごめん、君が、『絶対に離さないでね』、って言ったから」

 

「はぁ!? あたしがそんなこと言うわけないでしょバカじゃないの!?」

 

 身体中の血液が顔に集まったような気分だった。赤い津波にのまれる前、確かにそう言ったが、それを認めるのは何かに負けるような気がした。

 

「照れるなよ。確かにそう聞いたぞ」

 

 勝ち誇ったような顔で笑う一樹。このままでは、この先ずっとマウントを取られかねない。反撃しなければ。

 

 郁子は腕を組み、挑発するようにあごを上げた。「ははーん。あんた、岸田百合にフラれたもんだから、今度はあたしを口説くつもりね? おあいにく様。あたしはあんたみたいな誰彼かまわずナンパしまくる男が大キライなんです」

 

「バ……バカをいうな! 俺は、そんな軽い男じゃない!」

 

「どうだかね? あたし、知ってるんだからね。鼻の下伸ばして『百合ちゃん百合ちゃーん』なんてデレデレして、ほいほい言いなりになって。キモいったらなかったわよ」

 

「ち……違う! あれは、あいつらの妖力みたいなものに操られて――」

 

 必死に言い訳を始める一樹の姿に満足した郁子は、「わかったわかった、そういうことにしておいてあげるから」と、その話を打ち切って、お尻に付いた土埃をはらいながら立ち上がり、「それより――」と話を変えた。「これからどうするの? あたしたち、どうやって帰るの?」

 

 一樹も立ち上がり、そして首を傾けた。「どうやって帰るって、もう元の世界に帰ってるだろ?」

 

 危機感の無い一樹に、郁子は大きくため息をついた。「違うわよ。あんた、ここをどこだと思ってるの? 夜見島よ? 定期船なんて来ない上陸禁止の島なんだよ? 近くを航行する船も無い呪われた島なんだよ? 二十九年前間放置されてまともな船なんて無い島なんだよ? これで、どうやって本土に帰るのよ?」

 

「ああ、そうか。確かに、それは困ったな」一樹は急に冷静な口調でそう言うと、顎に手を当てて考え、そして、ぽん、と手を打った。「そうだ、いい考えがある」

 

「なに?」

 

「泳いで帰るんだ。ちょっと時間はかかるが、これなら本土に帰れる」

 

「…………」

 

「…………」

 

 郁子は、渾身の力を込め、一樹のお尻を蹴り上げた。

 

「痛った! なにするんだ!」

 

 鉄塔の先端まで届きそうな勢いで飛びあがった一樹を、郁子は、あっかんべーと舌を出して挑発する。「へへーん、ここまでおいで」

 

「待て! この暴力女!」

 

 追いかけてくる一樹から、郁子は逃げる。アオハルかよ、と、思わず自分でツッコミを入れた。こんな気持ちになったのは、いつ振りだろうか。

 

 子供のような追いかけっこをしながら、郁子は。

 

 

 

 ――帰ったら、おじいちゃんおばあちゃんに会いに行こう。高校のクラスのみんなにも。そして……お母さんにも。

 

 

 

 そう、心に決めていた。

 

 

 

 

 

 

 太陽が海から離れる。炎が消えた海と空は、どこまでも広がり、どこまでも深い夏の色に、その姿を変えようとしていた。

 

 

 

 

 

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