SIREN2(サイレン2)/小説   作:ドラ麦茶

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第九十四話 『失われた世界』 阿部倉司 夜見島灯台 24:45:55

 

 

 

 繰り返す潮騒と海の匂いで、阿部倉司は意識を取り戻した。

 

 

 

 そこは、海にせり出した堤防の上だった。どれくらい意識を失っていたのだろうか? 目の前に広がる暗い海の水平線がわずかに明るくなっており、周辺にもうっすらと光が射し始めていた。陽が昇るようだ。赤い津波にのみ込まれたのは日付が変わるか変わらないかという頃だった。単純に計算すると五時間ほど経っていることになるが、感覚的にはそれほど長い間意識を失っていたとは思えない。一時間程度仮眠を取ったかのような気分だった。

 

 阿部は上半身だけ起こし、周囲を見回した。堤防の先には古い灯台が建っているが、その手前が崩れており、向こう側へ行くことができない。反対側は地下へ続く階段が見えた。すぐ近くには岩肌の洞窟も見える。覚えのある場所だった。占い女と一緒に島から脱出する船を求めて訪れた夜見島港の灯台だ。赤い津波にのみ込まれ、ここまで流されてきたのだろうか? だが、微妙な違和感がある。すぐにその正体に気がついた。海が、赤くないのだ。目の前に広がる海は、黒と青が入り混じった色――陽が昇る前の空の色をしていた。異界の血のような赤い海とは、明らかに違う。

 

 阿部は悟った。()()()()()()()()のだと。

 

 しかし、素直に喜ぶことはできなかった。

 

 無事に()()()()()()()()ことができた。鉄塔は破壊したから、闇人共が地上へ侵攻することはできないだろう。あの最後のサイレンは、闇人共を束ねる異形の生物の断末魔の叫びのようにも思える。恐らく、誰かがあいつを倒したのだ。闇人や屍人の脅威は去ったはずだ。

 

 だが、そうなったところで、柳子はもう戻って来ない。

 

 夜見島を調査して判った。阿部のアパートで見つかった顔の無い死体は、やはり、同棲相手の柳子だったのだ。

 

 柳子は異形の生物が飛ばした鳩の一人だったが、使命を捨て、阿部と生きることを選び、その結果、裏切り者として処分された――夜見島を訪れて判ったことはそれだけだ。ハッキリ言ってどうでもよいことだった。阿部が夜見島を訪れたのは柳子の正体を探るためではない。彼女が生きているという可能性に賭けたのだ。その可能性は、もう無い。

 

 そして、占い女や作家先生の行方も知れないままだ。いかに能天気な阿部でも、これで喜べるはずがなかった。

 

 それに。

 

 胸に、大きな喪失感があった。心にぽっかりと穴が空いてしまったかのような感覚。それは、柳子が死に、占い女や作家先生が行方不明だから、とは、微妙に違うような気がした。阿部自身にもうまく説明できないが、彼女たちは死んだのではなく消えた――そんな感覚なのだ。

 

 階段の方からツカサがやってきた。阿部同様、大きな喪失感を抱いたような顔をしている。

 

 そして、阿部の悲しみに寄り添うようにそばに座り、鼻を摺り寄せてきた。

 

 阿部はツカサを抱きしめ、泣いた。

 

 二度と戻らない柳子と、占い女と、作家先生と、そして、夜見島に関わり、不幸な結末を迎えた全ての人たちを思い、泣いた。

 

 陽が昇り、温かな光が阿部とツカサを包んでも、ずっと泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 ――どれくらい泣き続けていたか。

 

 

 

「――おおい。ここは立ち入り禁止だ。勝手に入っちゃいかんぞ」

 

 

 

 階段の方から声をかけられた。そちらを見ると、警官姿の年輩の男が、ライトで阿部たちを照らした。

 

 ――やべぇ。そう言えばオレ、柳子を殺した容疑で指名手配されてるんだった。

 

 異界での戦い続きですっかり忘れていた。残念ながら、柳子殺しの容疑を晴らすのは極めて困難だと言わざるを得ない。真犯人は闇人共の仲間だ。戸籍上は存在しない者であり、異界に帰ってしまったのですでにこの世界にも存在しない。すなわち、柳子殺しは怪異が引き起こした殺人事件なのである。物の()や妖怪たちの知恵の神に相談しなければならない案件だ。とにかく今は逃げるしかないが、ここは海にせり出した堤防の上だ。一人ならともかく、ツカサと一緒では海に飛び込んで逃げるわけにもいかない。

 

「まったく。こんなところでなにをやっとるんだ」年配の警官は、ライトで阿部の顔を照らし、しげしげと見つめた。「……見ない顔だな。本土から来たのか?」

 

「あ、いや、オレはその……」

 

 阿部がしどろもどろになっていると、警官はライトを消し、「まさか、祭りを見に来たのか?」と言って、肩を揺らして笑った。「残念だったな。祭りと言っても、漁師が広場で酒盛りしてるだけの、小さなものだ」

 

「……祭り?」

 

「まあ、とりあえず一度戻ろう。そこの灯台は、もう長く使われてない。ずっと手入れされてないから、この堤防もいつ崩れるかわからん。ここら辺は潮の流れが速いから、もし海に落ちたら、あっという間に流されてしまうぞ」

 

 そう言うので、阿部とツカサは警官と共に一度地下道を通り、資材倉庫がある広場まで戻って来た。

 

 警官は丘の上へ続く道を指さした。「この道を真っ直ぐ行けば、祭りをやってる集落に着く。まあ、せっかく本土から来たんだ。ゆっくりしていきなさい。退屈だったら、北の地域へ行ってみるといい。遊園地や、古い遺跡があるから」

 

 そう言って立ち去ろうとする。

 

「ちょっと待てよ。あんた、オレのこと逮捕しなくていいのかよ?」

 

 阿部がそう言って呼び止めると、警官は振り返って目を丸くした。「逮捕? バカなこと言っちゃいかん。いくら立ち入り禁止の場所に入ったからって、逮捕まではせんよ。でも、もう二度とするんじゃないぞ?」

 

「いや、そうじゃなくて、オレ、指名手配されてるだろ? 阿部倉司だよ。多河柳子を殺した犯人の。いや殺してねぇけどよ。指名手配犯をこんな堂々と見逃したら、あんた始末書ものだぞ? 降格の上地方の寂れた交番に左遷されるぞ?」

 

「ここより寂れた交番があるなら行ってみたいものだな」警官は一度笑ったが、すぐに真顔に戻る。「しかし、指名手配だって? そんな話は聞いとらんが……待ちなさい」

 

 警官は肩に取り付けてあった無線機を取り、どこかに問い合わせた後、また阿部を見た。「本署に確認したが、やはりそんな話は無いそうだ。まあ、何日か前に東京の方で殺人事件があって、その容疑者が指名手配されているみたいだが、被害者も容疑者も、さっき君が言った名前とは全然違う。悪い冗談はやめたまえ」

 

「指名手配されてないって……どういうことだよ? というか、お巡りさん、あんた、そもそもなんでここにいるんだよ? 祭りってなんだよ? ここは、二十九年前に島民全員失踪した、呪われた島だろ?」

 

 警官は怪訝そうな顔になる。「さっきから君は何を言っとるんだ。本官をからかうと、ホントに逮捕するぞ?」

 

 本当に阿部が言っていることが判らないという表情だった。

 

「……どういうことだよ……?」

 

 訳が判らず、阿部は小さくつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 警官の案内で、阿部とツカサは夜見島港隣の蒼ノ久集落へやってきた。昨日阿部が訪れたときはひと気の無い廃村だったが、警官の言う通り、集落は小さいながらも祭りでにぎわっていた。何本もの幟が立てられ、軒下には綱で繋がれた紙垂(しで)が吊るされ、通りには浴衣や法被(はっぴ)を着た人が笑顔で行き来している。

 

 海から丘の上へ続く曲がりくねった道を上ると、小さな(やしろ)がある広場に出た。タコ焼きや金魚すくいなどの出店がいくつかあり、奥では漁師たちが集まって酒を飲んでいた。

 

「こちらが、この島と、周辺の海を守る神様だ」警官が、社に手を向けた。丘の下に広がる集落と海を望むように建てられたその社には、『蛭子命』という扁額(へんがく)が掲げられてあった。

 

蛭子命(ひるこのみこと)って、イザナギとイザナミの間に生まれた最初の子供だけど、醜いから(あし)の船に乗せられて流された、ってやつだよな?」

 

 阿部がそう言うと、警官は感心したように頷いた。「詳しいな、君」

 

「偉大なる先人の知恵だな」

 

「君の言う通りだよ。流された蛭子様が流れ着いたという伝承は日本各地にあるが、この島の蛭子様もそんなひとつだ。ただ、ここの蛭子様の伝承は少々変わっていてな。海から流れ着いたのではなく、大昔、四鳴山の山頂に、御神木と共に降臨されたんだ」

 

「大昔って、一三〇〇年くらい前か?」

 

「いや、もっと前だよ。正確な記録は残っとらんからわからんがな。ちょうど、長く時化(しけ)が続き、漁に出られなかったときだそうだ。このままでは島民全員飢えてしまうと思っていたら、蛭子様が降臨され、島長(しまおさ)に一本の刀を授けられたんだ。島長がその刀を一振りすると、たちまち時化は静まり、島民たちは漁に出られるようになった。以来、島の民は蛭子様を島の守り神として祀り、御神木を崇めた。また、授かった刀は荒れ狂う海を()ぎさせたことから『潮凪(しおなぎ)』と名付けられ、今でも島の網元である太田家の宝物庫に収められているそうだ」

 

「太田家?」

 

「あのひとだ」

 

 警官は広場の隅に手を向けた。大勢の村人に囲まれて、片目に眼帯代わりの黒い布を巻きつけた老人と、着物姿の年配の女性が、上機嫌で酒を飲んでいた。

 

「眼帯をかけているのは、先代の当主・太田常雄さんだ」警官が説明する。「現当主は娘さんの方・ともえさんだ。みんなからは『姐さん』と慕われておるよ。なかなか革新的な当主でな。最近では観光業に力を入れ、島外から人を呼ぼうとしているんだ。わしらみたいな古い人間は、こんな何も無い島に人が来るのかと疑問だったが、古い遺跡や鉱山跡を見学したがる人が結構やってきて、ここ十年ほどで、随分と島もにぎやかになったよ」

 

「屍人や闇人みたいな化物が現れ、頻繁に島民が失踪したり船が消失したりするから『呪われた島』と呼ばれ、周囲の船乗りから避けられてるんじゃなかったのか?」

 

 阿部がそう言うと、警官は不快そうに表情を歪めた。「だから君は何を言っとるんだ。そんなこと、冗談でも漁師たちの前で言うんじゃないぞ? みんなこの島に住んでることを誇りに思っとるんだ。海の男は気が荒い。バカにすると、袋叩きにされるぞ」

 

 真剣な表情で忠告する。阿部としては、冗談を言ってるつもりも、バカにしているつもりも無い。だが、警官は本当に島民の失踪事件も大型客船の消失も知らないようだし、実際に島民は目の前に存在している。

 

「……なんなんだよこれは。ほんと、どうなってんだよ……」

 

 訳が判らず、阿部はそうつぶやくだけだった。

 

 不意に、ツカサが顔を上げた。大きく一声鳴くと、広場の入口の方へ駆けて行く。

 

「おい、どこ行くんだ?」

 

 阿部が追いかけると、ツカサは、坂を上がって来た二人組の男女に駆け寄った。二人のまわりをぐるぐると回ると、嬉しそうな声で鳴き、尻尾をちぎれんばかりに振りたくる。やって来たのは、年配の女性と三十代くらいの男だった。突然大型犬がじゃれついて来て、男は驚きと困惑が入り混じった声を上げた。

 

 その、男の顔を見て、阿部も「あ!」と声を上げた。「先生! 先生じゃねぇか! あんた、無事だったのか!!」

 

 阿部も駆け寄る。現れた男は、異界で一時的に阿部と行動を共にした作家先生に間違いなかった。

 

 だが、男はツカサから阿部に視線を移し、ますます困惑したような顔になった。「……失礼、どちら様でしたか?」

 

「なに言ってんだよ先生。俺だよ。阿部倉司だよ。先生と一緒に遊園地に行って、地獄みたいなところに下りて行ったじゃねぇか?」

 

「……ひとちがいではないですかね。私は東京にある城聖(じょうせい)大学で講師をしている三上脩ですが?」

 

「大学の……講師?」

 

「ええ。そこで、考古学を教えています。今日は、ひさしぶりに休みを取り、実家に帰省したんです」

 

 今度は阿部の方が困惑した表情になる。「なに言ってんだよ、あんた、作家の先生だろ? ほら、『人魚の涙』って小説がメチャクチャ売れて、テレビや雑誌とかにいっぱい出てたじゃねぇか」

 

「本はいくつか執筆していますが、学説に関することです。小説は書いていないですね。私には、そんな才能は無いですよ」

 

「なに言ってんだよ、姉と慕う女性の影響で小説を書いたって、インタビューされるたびに言ってただろ」

 

「やはり人違いですね。私に、姉はいません。家族から影響を受けたとしたら、それは父です。父は世界的に名の知れた考古学者で、私は父に憧れて、今の職に就きました。小説を書こうと思ったことは、一度もありません」

 

「知らないっていうのか……だったら、この犬はどうだ?」阿部はツカサのそばにしゃがむ。「先生の飼犬……先生の目の代わりになってた犬だよ」

 

「それは盲導犬ということですか? 私は、目は見えますが」

 

 三上は当然のように答えた。確かに、三上はずっと阿部と目を合わせて話をしている。以前のような目が見えない様子は、少しも感じない。

 

「なんだよそれ……いったいどうなってんだよ……」

 

 もはや阿部の思考は追いつかず、ただ「どうなってんだよ」と繰り返すしかできなかった。

 

「コラコラ、君、おかしなことを言って、脩君を困らせるな」警官もやってきて、混乱する阿部をいさめた後、三上たちを見た。「すまないね、脩君。彼は、本土から来たらしいんだが、ずっとおかしなことばっかり言ってるんだ」

 

 そして、警官は三上から隣の女性に視線を移した。「弥生さんも、気を悪くせず、久しぶりに母子(おやこ)水入らずで、祭りを楽しんでください」

 

 警官がそう言うと、女性は、「いえ、私は何も気にしてませんよ」とほほ笑んだ。

 

 その、女性を見て、阿部はまた、はっとする。

 

「……柳子……じゃ、ねぇよな……?」

 

 その女性は、阿部と同棲し、闇人の仲間に殺された柳子に()()()()だった。ただ、柳子が十八歳だと言っていたのに対し、その女性は六十代くらいだ。年代が違いすぎる。それでも()()()()だと思ったのは、その女性が、柳子がそのまま歳を重ねたとしか思えない姿だったからだ。

 

「……何だよこれ……もうわけわかんねーよ……いったい、なにがどうなってんだよ……」

 

 混乱のあまり、阿部は自慢のリーゼントの頭を掻きむしる。本当に訳が判らなかった。まるで()()()()()()()()に迷い込んだ気分だった。

 

「何か、特別な事情がありそうですね」最初は困惑していた三上だったが、阿部のただならぬ様子に、冗談を言っているわけではないと気付いたようだ。「詳しく話していただけませんか?」と、真剣な表情で訊いてきた。

 

 阿部は大きく深呼吸をして混乱した気持ちを落ち着かせると、アパートの部屋で柳子が死んでいたところから、ゆっくりと話し始めた。占い女の助言で夜見島へ向かったこと、夜見島にまつわる様々な怪異の話、その夜見島に向かう途中の船で三上と知り合ったこと、高波で船が沈み、流れ着いた島で赤い津波に襲われて異界に飲み込まれたこと、異界の夜見島で屍人や闇人という化物と戦ったこと、など、全て。

 

 話を聞いた三上は、「ふうむ」と重い声で唸り、顎に手を当てて考え始めた。その間、柳子に似た女性――三上の母親は、そばにしゃがんだツカサの背を撫でながら、警官とおしゃべりをしている。警官は「今日の昼の船で、娘が孫を連れて帰って来るんです」と、上機嫌で笑っていた。

 

 しばらく考えていた三上が顔を上げた。「大体の事情は判った。いまの話から推理すると、君は、赤い津波にのみ込まれるたびに、それまでとは異なる世界に移動しているんじゃないかと思う」

 

「異なる世界……?」

 

「そう。八月二日の夜十一時、君は、島民が全員失踪したという夜見島にいた。でもその直後、赤い津波にのみ込まれ、気がついたら偽りの夜見島にいたんだろう?」

 

「ああ、確かにそうだ」

 

「そして、八月四日の〇時にもう一度サイレンを聞き、また赤い津波にのみ込まれた。君はまた別の世界に移動したわけだが、ここは、君が元々いた世界とは微妙に違う、いわば、並行世界なんだよ」

 

「並行世界……じゃあ、ここは本当にパラレルワールドなのかよ!?」

 

「そうなるな。君が元いた世界と比べるなら、ここは『怪異が存在しない世界』とでも言うべきかな。君の世界での夜見島に関わる奇妙な噂――全島民失踪や、大型客船の消失、そして、屍人や闇人に関する話や伝承は、この世界の夜見島には存在しない。かつて光の洪水に追われて地の底や海の底に逃げたっていう闇の住人は、この世界では最初からいなかったんだ。だから、それにまつわる怪異も発生していない。島の住民は誰一人失踪していないし、大型客船も消失していないんだよ」

 

「じゃあ、柳子はどうなったんだ!? 占い女は!?」

 

「君の話によると、その柳子という少女の誕生には怪異が関わっているようだから、あるいは――」

 

 三上は最期を言い淀んだが、阿部にも何が言いたいのかは判った。阿部は、慌てて財布を取り出した。その中に、柳子とのツーショット写真を入れ、いつも持ち歩いている。阿部のアパートで撮ったものだ。カメラに向かっておどけて笑う阿部と、フラッシュを嫌ったのか暗い表情で顔をそむけている柳子。彼女が写っている写真は、この一枚だけ。阿部の、大切な思い出の一枚だ。

 

 だが――。

 

 取り出した写真に写っていたのは、阿部一人だけだった。

 

 柳子が写っていたはずの場所には、誰も写っていない。まるで写真から抜け落ちてしまったかのように、部屋の様子が写っているだけだ。

 

「じゃあ、みんないなくなったってことか……柳子も……占い女も……みんな……」

 

 阿部は膝をつき、泣き崩れた。写真がくしゃりと握りつぶされたが、もはやどうでもよかった。柳子と写った唯一の写真だったから大切にしていたのだ。自分一人で写っている写真など、持っていても意味が無い。阿部は泣き続ける。自分は、とんでもない世界に飛ばされてしまった。これまで築いた柳子との思い出が消えた。この世界には、絶望しかないのかもしれない。

 

 ――――。

 

「……まてよ?」

 

 阿部は、けろりとした表情で顔を上げた。

 

「先生が小説を書いてないってことは、あの話を俺が書けば、先生の代わりに俺が大人気作家になれるってことだよな?」

 

 突然の話に三上は目を丸くしていたが、やがて呆れた表情になる。「いや、それはどうだろう? 小説なんてそんな簡単なモノじゃないと思うし、仮に人気作家になれたとしても、それはまぎれもなく盗作だ」

 

「そっか。まあそれは冗談だけどよ、でも、あの化け物どもがいなくなっても、先生がいるんだから、柳子や占い女も、どこかにいるってことだよな?」

 

 三上は一度うーんと唸った後で言う。「確かに、その可能性は高いが、柳子という娘も、占い師の女性も、君と出会うきっかけが無くなっているから、二人とも君のことは知らないはずだ。残念だが、君との接点がないんだよ」

 

「だったらそれでもいいや。もう一回柳子と出会うところから始めればいいだけだからな」

 

「しかし、歩んだ人生が違えば性格も違うし、同じところに住んでいるとも限らないから、出会えるかどうかも判らない」

 

「大丈夫だって。そこは、気合でなんとかなるさ」

 

 阿部はそう言って、手のひらに拳を打ち付けた。

 

「き……気合で、かい?」

 

 三上は呆れた顔になったが、やがておかしそうに笑った。

 

 阿部も、同じように笑う。

 

 ――そうだ。

 

 自分は、この世界の何に絶望していたのだろう? 改めて思う。

 

 この世界に、絶望なんて無い。

 

 柳子が殺され、もう二度と会うことができない世界――どうあがいても絶望なのは、元いた世界の方だ。

 

 それに比べ、この世界に、柳子はいる。

 

 たとえ阿部のことを知らなくても、たとえ性格が違っていたとしても、たとえどこに住んでいるか判らないとしても。

 

 柳子はどこかで生きている――その希望を持てるだけで、世界は輝いて見えた。

 

 阿部は、鼻の下をこすって立ち上がった。「こうしちゃいられねぇ。お巡りさん、本土に帰るには、どうしたらいい?」

 

 三上の母親に娘と孫の話をしていた警官は、「なんだ、祭りはこれからなのに、もう帰るのか?」と、呆れ声で言った。「そこの港に、もうすぐ昼の定期船が来る。でも、それを逃してもまだ夕方の便があるから、ゆっくりして行けばいい」

 

「そんなヒマねぇよ。早く帰って、柳子を見つけてやらなきゃ。アイツだって、きっと俺のこと待ってるはずだからな!」

 

 そう言うと、阿部は走って港へ向かおうとした。

 

「おい、阿部君! この犬はどうするんだい!?」

 

 三上が呼び止めた。ツカサは三上の母のそばに伏せたままだ。阿部を追う様子は無い。

 

 阿部は振り返ると、「先生の犬だろ? 大事にしてやってくれよ?」と言った。

 

「しかし……」困った顔でツカサを見る三上。

 

「いいじゃない?」と、三上の母が言い、ツカサの頭を撫でた。「私、このワンちゃん気に入っちゃったわ」

 

 ツカサは舌を出し、嬉しそうに三上の母を見た。ツカサにとっての飼い主――この場合はパートナーというべきか――は三上であり、阿部ではない。ツカサがここに残るのは当然と言えた。

 

「じゃあな、先生! ツカサも、元気でな!」

 

 阿部は大きく手を振ると、全力で坂を駆け下りた。もう振り返ることはない。ただ、前に向かって走る。

 

 

 

 ――待ってろよ、柳子! どこにいたって、絶対オレが見つけてやるからな!!

 

 

 

 阿部は拳を振り上げ、喜びの声を上げて飛び跳ねた。

 

 

 

 

 

 

 夜になり。

 

 

 

 祭りが終わり、家に戻った三上脩は、突然増えた家族に困惑していた。居間のちゃぶ台を囲んで、寝間着姿の三上と母、そしてツカサが座り、寝る前のひとときのくつろぎを楽しんでいる。ツカサは、ずっと三上のそばを離れようとしない。それも仕方ないかもしれない。()()が元いた世界の三上は目が見えなかったらしく、ツカサは盲導犬なのだ。逆に、ツカサの方も、自分に頼らず一人で行動している三上に困惑しているかもしれない。

 

 やれやれ、と、三上は肩をすくめた。明日、本土に渡ってケージや餌など、必要な物を買ってこなければならない。犬なんて今まで飼ったことはないから、飼い方も勉強しなければならない。思った以上に大変だろうが、ツカサの嬉しそうな顔を見ていると、まあ、頑張ってみるか、という気持ちになってくる。

 

「しかし、変な人だったな、彼は」

 

 家に帰っても、考えることは昼間出会った阿部倉司という男のことばかりだ。あのときは、彼の話を真剣に聞き、自分なりに仮説を立てて話をしたが、いま考えると、彼の話が本当だったのか嘘だったのかは判らない。警官の言う通り、ただからかわれただけのような気もしてくる。

 

「でも、きっといい人よ」母は、阿部の笑顔を思い出すような表情で言う。「明るくて、前向きで、温かくて――まるで、太陽みたいな人だったわ。柳子ちゃん、だっけ? 会えるといいわね」

 

 柱時計が、ポーン、ポーン、と十一回鳴った。夜の十一時。テレビはニュースに切り替わり、三日前に東京都新宿区の古いアパートで発生した殺人事件の続報を伝えていた。被害者は中島一郎三十三歳で、顔を何度も殴られた状態で発見された。警察は事件以降行方が知れない同棲相手の木船倫子三十三歳を殺人容疑で指名手配をしているが、現在も行方はつかめていない、という。

 

「さて、僕はそろそろ寝るよ」

 

 三上は立ち上がると、二階の自室へ向かおうとした。

 

「あら、久しぶりの帰省なんだから、ここで寝ればいいじゃない。昔は、暗い部屋が怖いって、一緒に寝たでしょ? 母さんが、どんなに“勇気を出して頑張って”って励ましても、泣いてきかなかったんだから」

 

「もう子供じゃないんだから」子供の頃の話を持ち出され、三上は照れ隠しの苦笑いを浮かべる。

 

「親からしたら、子供はいつまでたっても子供よ。いいじゃない、たまには」

 

 そう言うと、母はテレビを消し、ちゃぶ台を片づけ、押し入れから布団をふたつ引っ張り出して敷いた。父の布団だが、父はこのところ仕事が忙しく、今回は帰省できなかった。

 

「まったく、しょうがないな」

 

 三上は仕方なく布団に入る。ツカサはその隣で伏せた。

 

 母も布団に入った。

 

「――おやすみ、脩」

 

 母が笑顔で言う。

 

 なぜだろう――そのとき三上は、母のその笑顔を、聖母のようだ、と感じた。

 

 三上も笑顔を返した。

 

「おやすみ、母さん」

 

 そして、電気を消す。光が失われた部屋は、闇に包まれる。

 

 三上は、安らかな闇と、優しい母の愛に包まれ、ゆっくりと、まどろみの世界へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

『SIREN2(サイレン2)/小説』 終わり

 

 

 

 

 


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