崩谷は、夜見島が金鉱発掘でにぎわった時代に、鉱員とその家族向けに建てられた社宅がある地区だ。揉子は敷地内を走って逃げるが、このままでは追いつかれるかもしれない。揉子ら屍人は人間の死体を『殻』として乗っ取って行動するため、概ねどこかしらの部位を損傷している。揉子が乗っ取っている殻は比較的損傷が少ないものの、それでも、小さな損傷が影響して全体的に動きは鈍い。それに対し、闇人共は屍人と比べ格段に動きが早い。どうやら高い治癒能力を持っているようで、殻の損傷した部位をたちどころに治してしまうのだ。追いつかれるのは時間の問題かもしれない。揉子は、イチかバチか社宅内に逃げ込むことにした。敷地内の中央に建つロ棟に入り、階段を駆け上がる。社宅は三階建てで、各階四部屋ずつ。どこかに隠れてやり過ごそう。揉子は三階まで上がると、三〇一号室の中に入った。ドアを閉め、他人の視界を覗き見る能力『幻視』を使い、追って来る闇人の様子を探る。闇人は二階の廊下を走り、三階へ続く階段を上がろうといた。揉子が三〇一号室に入るところは見られていない。そのまま三階を通り過ぎて屋上まで行けば、その隙に下へ逃げることができる。そう思ったのだが、闇人は三階の廊下を少し進んだところで立ち止まり、何か違和感を覚えたか周囲を見回しはじめた。そして、三〇一号室の扉に近づいて来る。部屋に隠れたのがバレたのだろうか? 揉子は慌ててドアから離れた。玄関を上がった先はキッチンで、その奥がリビング、さらに奥が寝室だ。隠れる場所は押し入れくらいしかなく、そんなところではすぐに見つかってしまうだろう。揉子は押し入れには隠れず、リビングの掃き出し窓からベランダへ出た。ほぼ同時に玄関のドアが開き、闇人が侵入してきた。
「ああ……手間かけさせてくれるねぇ」
闇人は台所からリビングへ移動する。揉子はベランダで息を殺し――もっとも、屍人である揉子は元々息などしていないが――運よく見つからないことを祈った。だが、その祈りは届かず、窓の向こう側に闇人が立つ気配がした。がらがら、と窓が開けられる。これまでか……と思ったと同時に、室内に銃声が響いた。闇人が甲高い悲鳴を上げ、どさり、とベランダに倒れ込んできた。
そして。
「おおぉじぃょよおぉおすううぅんわんんぬぐおぅぶずるういどうぇえぇつるくるたらぁ!?」
呂律の回らない間延びした声がして、揉子は、危機一髪助かったと悟った。今の言葉は屍人語だ。同じ屍人である揉子には、ちゃんと「お嬢さん、ご無事ですか!?」と聞こえている。仲間が助けに来たのだ!
揉子は倒れた闇人を踏みつけてリビングへ戻った。玄関先に、大きな銃を持った迷彩服の屍人が二人立っていた。先頭の男は揉子の姿を確認すると、「ぁあああぁ、ぐぅおるぶうぅふずいりいどえをぬわぬういぃゆおぉういぃ」と言い、のろのろとした動作で姿勢を正した。今のは、「ああ、ご無事で何より」と言ったのだ。これ以上は面倒なので屍人語ではなく人間の言葉で書くが、男たちは揉子に向かって敬礼をすると、「自分たちは、自衛隊
「鍋島揉子と言います。おかげで助かりました」揉子は深く頭を下げた。
「鍋島殿! ケガはありませんか!」と、隊長。
「死体を乗っ取っているのでケガが無いと言うとウソになりますが、まあ、大きな損傷はないです」
「それは何よりです。鍋島殿。この地区は、ほぼ敵に制圧されています。西の
潮降浜は、島を鳩の形で例えると頭部にあたる地域だ。小高い丘の上に、かつて島民の子供たちが通った学校があり、昔から緊急時の避難場所に指定されていた場所だ。
「判りました」と、揉子は頷いた。
「要救助者確保! これより崩谷地区を脱出し、夜見島港を抜け、潮降浜の避難所へ向かう!」
隊長がそう言うと、後ろにひかえていた部下は「了!」と声をあげて応じた。
「あ、すみません」と、揉子は隊長に言う。「途中、できれば、あたしの家に立ち寄ってほしいのですが……」
「家ですか? それは、どこでしょう?」
「隣の棟の、一〇二号室です。そこに、大切なものを置いてきてしまって」
「一〇二号室……那須三曹! 地図を!!」
隊長が命じると、部下の人はノロノロとした動きでバッグから地図を取り出して広げた。隊長もノロノロとした動きで確認する。敷地内にはイ棟・ロ棟・ハ棟の三棟がある。いま三人がいるのがロ棟で、揉子の部屋があるイ棟はすぐ東だ。すぐとは言っても、出入口は向こう側なので、大きく回り込まなければならない。避難所がある潮降浜へ向かう道とは逆になってしまう。
「隊長!」と、那須三曹。「イ棟は、ほぼヤツらに制圧されています! 向かうのは危険かと思われます!」
那須三曹の発言に、隊長は目を閉じた。幻視でイ棟内の様子を探っているのだろう。揉子も幻視を使う。那須三曹の言う通り、イ棟内には複数の闇人の気配が見つかった。そのうちのひとつは、揉子の部屋である一〇二号室のリビングで銃の手入れをしていた。隊長は幻視をやめると、「ううむ」と唸った。揉子も幻視をやめる。かなり厳しい状況だ。無用な危険は冒さず、すみやかにこの地区を去った方が良いだろう。
それでも、
「お願いします。本当に大切な……母の形見なんです」揉子は、もう一度頭を下げた。
「お母さまの形見……」隊長は視線を揉子へ移すと、魚が死んだような目をきらりと輝かせた。「判りました。国民の命と財産を守るのが我々自衛官の務め……俺に任せろ!!」
揉子に向かって力強い声でそう言った後、今度は那須三曹へ指示を出す。「那須三曹! これより、我らは東のイ棟一〇二号室へ向かう! 油断するなよ!」
「イエッサー!!」
隊長の声に敬礼で応じる那須三曹。なんて頼もしい人たちだろう……と、揉子が思ったのも束の間。
「…………」
「…………」
「…………」
移動し始めた二人を見て、揉子は愕然とした。のろい。あまりにものろいのだ。隊長は右足を、那須三曹は左足を引きずって歩いている。どうやらそれぞれの足が折れているようだ。それだけで充分のろいが、隊長は左の手首も折れているのか玄関のドアノブを握るのも手間取り、那須三曹は左肩を脱臼しているようで右手で銃を持った状態ではノブすら握れずドアを閉められない。なんとか廊下を進んで階段を下りるが、一段一段しっかりと踏みしめて下りている。それでも、時折踏み外して転げ落ちそうな危なっかしさだ。
「あの、大丈夫ですか?」思わず心配になる揉子。これではどちらが要救助者か判らない。まだ揉子の方が動けるだろう。
「申し訳ありません、この殻も、かなりガタがきておりまして」と、隊長。「いかんせん、我が隊がこの島へ上陸したのは、ヘリが墜落したからですから」
大丈夫かこの人たちは、と、揉子は心の中で思う。イマイチ不安だが、いまはこの人たちに頼るしかない。
どうにかこうにか階段を下り、揉子たちはロ棟を出た。イ棟はすぐ正面だが、出入口は向こう側だ。普段ならベランダから入ることもできるのだが、誰がそんなことをしたのか一〇二号室のベランダの前には密着するように軽トラックが停められている。動かせば部屋の中の闇人に気づかれる可能性が高いし、気付かれないようにうまく動かせたとしても、ベランダに出入りする掃き出し窓には内鍵がかかってあり、開けるために窓を割れば結局気づかれてしまう。時間はかかるが、入口側に回り込むしかないだろう。三人は北回りでイ棟の入口側へ回り込む。途中、闇人の狙撃手に見つからないかハラハラしたが、幸い何事も無く入口側に回り込むことができた。
しかし、イ棟の出入口前には銃を持った闇人が立っていた。三人は見つかる前に身を隠す。闇人はその場で周囲を警戒しており、動きそうにない。このままでは棟内に入れない。
「鍋島殿、ご安心ください」と、隊長。「敵が持っているのは、9mm機関拳銃です。連射力は高いですが、弾道のブレが激しいため、遠距離射撃には不向きです。対して、我々が持っている89式小銃は狙撃機能を持っています。この距離で撃ちあえば、我らの方が圧倒的に有利です。なので、近づかれる前に排除します」
「まあ、戦い方は、プロの方の判断にお任せします」
「よし。那須三曹! 出入口前を占拠する闇人を排除だ!」
「了!」
隊長の命令に応じた那須三曹は、物陰から出て小銃を構える。といっても、左足は折れ、左肩は脱臼している状態だ。ほぼ片足立ちの片腕で銃口を向けるのでは、身体から銃身から全てがガクガクと揺れている。そんな有様で引き金を引けば、弾道がブレるどころの話ではない。那須三曹が放った銃弾は滅茶苦茶な方向に飛んで行き、危うく後ろに隠れていた揉子たちにも当たるところだった。もちろん、そんな射撃で闇人に当たるはずもない。銃声に気づいた闇人は、ニヤケ顔で機関銃を構え、こちらへ向かって走って来る。これはマズイ。揉子は戦闘に関しては素人だが、さっきの隊長の話だと、距離を詰められると闇人が持つ機関銃の方が有利なのだろう。というかそんなレベルの話ではないような気もするが、とにかくこのままではマズイ。
「鍋島殿! ご安心ください! 我らには、最強の武器があります!」
そう言うと、隊長は物陰から出て、肩に取り付けてあるライトのスイッチを入れた。
「ぎゃぁ!」
その光をニヤケ顔に浴びた闇人は、悲鳴を上げ、目を抑えて悶え苦しむ。
「かかったな闇人め!」
隊長は銃を構えて引き金を引いた。隊長も身体中の部位が欠損しているものの、那須三曹と比べると銃弾が正面に飛んだだけまだましだった。それでも、弾倉の弾を全て撃ちつくして数発当たるというレベルだったが、なんとか闇人を倒すことができた。
「いかがですか鍋島殿。作戦通りでしょう」
「作戦は、近づかれる前に排除する、だったはずでは?」
「それは敵をおびき出すためのワナです。ヤツは、こちらのワナにまんまと引っかかったのですよ」
「そうなのですか? まあ、あたしは戦闘の素人なのでよく判りませんから、そういうことにしておきましょう。なんであれ、形見の品さえ回収できればいいですから。では、行きましょう」
「お待ちください。次の戦闘に備えて、弾を再装填しますので。――那須三曹! リロードだ!!」
「了解であります!」
二人は小銃から弾倉を取り外すと、新しい弾倉を取り出して取り付けた。もちろん、二人とも片手がまともに動かないので、見ていてイライラするのろさだ。もしかしたら素人である揉子がやった方が早いかもしれない。
二人がどうにか弾倉を交換し、揉子は気を取り直して一〇二号室へ向かおうとしたのだが。
さっき倒した(といってもリロードしている間にだいぶ時間が経ってしまったが)闇人がもぞもぞと動き出したかと思うと、ゆっくりと立ち上がり始めた。闇人も、屍人と同じく人間の死体を殻にしている。倒しても、新たな闇霊が憑りつけば、何度でもよみがえるのだ。
「危険です! 鍋島殿、お下がりください! 那須三曹! 闇人を排除だ!」
「サー!」
声だけは立派だが相変わらずのろのろとした動きで銃を構える二人。幸い闇人も殻に憑りついたばかりで動きが鈍く、機関銃を拾うのに手間取っている隙になんとか倒すことができた。もちろん、弾倉の弾は全て撃ちつくしてしまったが。
「那須三曹! リロードだ!!」
「了解であります!」
号令で、隊長と那須三曹はまたのろのろとした動きで弾倉を取り換え始めた。これが悪名高いループの呪いというヤツだろうか。二人に任せていては自分も呪いの輪の中に取り込まれてしまいそうなので、揉子は二人から銃を取り上げると、弾倉を取り換えて返した。
「おお! 鍋島殿、どこでリロードを覚えたのですか?」
「あれだけ時間をかけて取り換えてるのを見てたら誰だって覚えますよ。それより、早く行きましょう」
揉子は一〇二号室に向かおうとしたが、隊長はその場に立ったままだ。なんだと思って振り返る。「隊長さん、どうかしましたか?」
「いえ、こいつをこのままにしておくと、また復活する恐れがあります。鍋島殿の部屋に行っている間に復活されると面倒です」
面倒なのはお前らだ、という言葉は、どうにか飲み込んだ。確かに、隊長の言う通りではある。
「よし! 那須三曹! 君はここに残り、この闇人を見張れ! 復活しようとしたら阻止するのだ!」
「了であります!」
と、いうことで、いまいち不安ではあるが那須三曹をその場に残し、揉子は隊長と二人で部屋へ向かうことになった。
入口からイ棟内に入ってすぐに一〇一号室があり、その反対側が一〇二号室だ。ドアの前に立った二人は、幻視で中の様子を伺う。部屋の中の闇人は、まだ銃のチェックをしていた。玄関側に背を向ける格好なので、気付かれないように部屋に入って背後から撃てば簡単に倒せるだろう。もちろん、この隊長ではその『簡単に倒せる』が簡単ではないのだが。
揉子は幻視をやめ、隊長に作戦を提案する。「隊長さん。部屋に入ったら、まず銃ではなくライトを向けてください。それで闇人の目をくらませて、その隙に撃つんです」
隊長も幻視をやめて揉子を見た。「奇遇ですね鍋島殿。私も、その作戦で行こうと思っていたところです」
「では、行きましょう」
揉子は音を立てないよう慎重にドアを開ける。が、古い社宅だ。残念ながら、どんなにゆっくり開けても軋む音がしてしまう。中の闇人が気づいた。振り返り、銃を構えようとする前に、どうにか隊長が中に入り、ライトを向けた。悲鳴を上げて苦しむ闇人に銃弾を撃ち込む。大半の弾は闇人に当たらず、部屋は壁から畳から穴だらけになってしまったものの、なんとか予定通り倒すことができた。
「すばらしい。鍋島殿、この作戦を使えば、闇人など恐れるに足りませんね」
自信に満ちた顔の隊長。この自信はどこから出てくるのだろうか。揉子的には恐れるに足りないどころかこの作戦を使っても冷や汗ものだったのだが。まあ、あれほど動きの鈍い隊長でも闇人を倒せるのだから、確かにこの光で目をくらませて撃つ作戦はかなり有効だ。これからも、積極的に使っていくべきだろう。
と、思っていたら。
隊長の肩に取りつけていたライトが、まるで深夜に咲いて明け方にはしぼむ儚げな花のように、静かに消灯した。
「…………」
「…………」
「……電池が切れたようですね」と、隊長。「もう、光で目をくらませて撃つ作戦は使えません」
大きくため息をつく揉子。ホント、どこまでも役に立たないなコイツらは。
まあいい。いや良くはないが、とにかく形見を回収しなければ。揉子は奥の寝室へ移動する。部屋の隅にアイロン台があり、形見の品は、いつもその上に置いてある。
「良かった。無事だった」
揉子は台の上にいつも通りアイロンがあるのを見て安堵した。しかし、誰かが武器として使って壊れている可能性もある。手に取って確認するが、幸い誰も手を付けていないようだ。アイロンなんかわざわざ武器として使うヤツなんていない……とは言えない。世の中には、包丁やツルハシなど他に良い武器になりそうなものが山ほどあるにもかかわらず、火掻き棒やラチェットスパナなど、武器としては頼りない物を好んで使う物好きがいるのだから。
「鍋島殿」隊長が後ろから覗き込んだ。「まさか、それがお母さまの形見ですか?」
「そうです。変なものだと思ってるでしょ?」
「いえ、そんなことは」
と、隊長は否定するものの、困惑しているのはその顔を見れば判る。
「いいんです。変な物だと思われても、仕方ありません。でも、本当に大切なものなんですよ、このアイロンは」
揉子はアイロンを我が子のように抱いた後、部屋を見回した。台所・居間・寝室。どの部屋にも、棚やタンス、ちゃぶ台といった最低限の家具しか置いておらず、高価な電化製品は何も無い。テレビや電話はもちろん、洗濯機や冷蔵庫さえ無いのだ。
「見ての通り、子供の頃は貧しい暮らしをしていました」揉子は、当時を懐かしむ口調で言う。「このアイロンは、我が家で一番高価なものなんですよ」
揉子の話に、隊長は首をかしげた。「そう言えば、鍋島殿は、今もこの社宅で暮らしているのですか?」
「そうです」
「しかし、ここは、島が金鉱発掘で栄えた時代、鉱員とその家族向けに建てられた社宅だと聞いております。金鉱は昭和四十八年に閉鎖され、鉱員は皆、島から去ったはずでは?」
「そうなんですけど、あたしたち家族には、ちょっと事情がありまして」
「事情……?」
「はい。実はあたしたち一家は、元々夜見島の住人なんです」
「なんですと?」
驚いた顔の隊長。無理もないだろう。夜見島の住人は、外部との接触を極端に嫌い、外から人が移り住んでくることに強く反発していた。インフラ整備のために四鳴山山頂に鉄塔建設をしていた頃など、死者さえ出るほどの激しい反対運動をしていたのだ。鉄塔が建った後も、金鉱発掘所や港・社宅・遊園地などの建設計画が持ち上がるたび、金鉱会社との衝突が繰り返された。島民は、網元の
だが、島民全員が反対運動に参加していたのかといえば、実のところそうではない。
島民の中には、太田家の
「仕方なかったんですよ」と、揉子は説明する。「この島は、もともと外部との接触がほとんどありませんでしたから、仕事といえば、海で魚を獲るか、畑で作物を育てるか、山で狩りをするか……それくらいしか、生計を立てる術はないんです。当然、生活はとても貧しいものでした。それに比べ、金鉱で働いていた人たちは、とても豊かな生活をしていたんです」
金鉱での作業は危険を伴うため、賃金は高い。生活水準は島民たちとは比べ物にならないほど高かった。当時、三種の神器と言われたテレビ・冷蔵庫・洗濯器は、島民たちには夢のまた夢という代物だった。網元である太田家にさえ無かったのである。それに対し、鉱員の家庭への普及率は、ほぼ一〇〇パーセントであったと言われている。これは、東京や大阪などの大都市より高かった。
だから、島での貧しい生活を疎み、鉱員になる者がいても、仕方がなかったと言える。
揉子の父は漁師をやめ、金鉱で働き始めた。当然、他の島民からは裏切り者扱いされる。鍋島家は
「初めの頃は良かったんです。父はお給料をたくさんもらい、あたしたち一家は、それまでからは考えられないほどの豊かな生活を送ることができました。島の人たちからは裏切り者扱いをされましたけど、鉱員の家族は鉱員の家族でひとつの共同体がありましたから、父には仕事仲間が、母には社宅の主婦仲間が、あたしも、鉱員の子供たちのお友達が、沢山いました」
揉子はそこまで笑顔で話したが、「でも……」と言って、表情を一転させる。「一年ほどして、父が金鉱の落盤事故で亡くなってしまい、状況は一転しました」
「――――」
息を飲む(ような仕草をする)隊長に、揉子は話を続ける。
父が死んでも、保険金などは出なかった。金鉱での仕事は常に危険と隣り合わせの為、どこの保険会社も契約してくれなかったのだ。金鉱会社も鉱員に生命保険などかけていない。当時としては、特別珍しいことではない。父が金鉱で働いたのはわずか一年。貯金もあるにはあるが、その額はわずかだ。生活の為、母が働きに出ることになったが、男女差別の厳しい時代、女が金鉱で働くことは許されなかった。その上、鉱員となった鍋島家は島民からは裏切り者扱いされており、漁師や農家をすることもできない。金鉱会社に頼み込み、どうにか鉱山でのまかないの仕事を得られたものの、賃金は安く、元の貧しい生活に戻る――いや、まえ以上の苦しい生活となるのに、そう時間はかからなかった。
「――小学校高学年から、中学にかけてが、特に辛かったですね。学校の制服とか、体操着とか、給食着とか、一着しか買ってもらえなくて……」
そこまで話した後、揉子はもう一度「でも」と言い、暗く落ち込んだ空気を入れ替えるように明るい声で続ける。「母は、その一着の服を、毎回丁寧に洗濯をして、丁寧にアイロンをかけてくれたんです。制服も、体操着も、給食着も、確かに古かったけど、いつも綺麗にしてくれました。だから、母が使っていたこのアイロンは、あたしにとっては、何よりも大切な物なんです」
話を終え、揉子はもう一度、今度は老いた母をいたわるように、そっとアイロンを抱きしめた。
「そうだったんですか……」隊長は、揉子の話を噛みしめるように何度も頷いた。
「隊長……素晴らしいお母さまですね……」その後ろで、那須三曹が涙を流していた。
「…………」
「…………」
「…………」
「那須三曹!」
「イエッサー!」
「闇人を見張る任務はどうなった!」
「…………」
「…………」
「申し訳ありません! 忘れておりました!」
那須三曹はのろのろとした動きで敬礼をした。
またまた深くため息をつく動作をする揉子。まあ、仕方がないかもしれない。屍人は元々物忘れが激しいのだ。例えば、逃げる人間を追いかけたとする。その人間がどこかに隠れたので探していたが、探しているうちに自分が何をしているのかを忘れてしまい、元の場所へ帰る、ということは、屍人界ではよくある話だ。
揉子は幻視で外の様子を確認する。思った通り闇人はよみがえり、また出入口前を見張っていた。ライトでひるませる攻撃は電池切れで使えないので、これでは迂闊に出られない。ベランダから出るのも、すぐ前に軽トラックがピッタリと横付けされているため無理だ。
「そうだ。逆に軽トラックを利用しましょう」
揉子が提案する。戦闘のプロである隊長たちに作戦立案をするのは身の程知らずかもしれないが、どうせコイツらではロクな作戦を立てられない、いや、この社宅の構造については二人より揉子の方が詳しいのだ。
「一度二階に上がって、二〇一号室へ行きましょう。そこのベランダに出れば、ちょうど下に軽トラックがありますので、屋根と荷台を伝って下りられるはずです」
「鍋島殿。それはナイスな名案です。さっそく実行しましょう」
ということで、三人は二階へ上がって二〇一号室に入る。先頭の隊長がベランダに出た。
が、向かいのロ棟から銃声が響いたかと思うと、手すりの一部が弾け飛び、隊長は慌てて室内へ戻った。どうやらロ棟に狙撃手がいるらしい。幻視で確認すると、ロ棟屋上から二〇一号室のベランダに向けてスコープを覗き込んでいる視点が見つかった。ずっと照準を合わせたままで動かさない。これでは、ベランダからも出ることができない。
「お任せください、鍋島殿」と、隊長。「敵は、ずっと二〇一号室のベランダを狙っています。今のうちに我らは屋上へ上がり、逆に敵を狙撃します」
「言うのは簡単ですが、大丈夫ですか?」不安しかない揉子。隊長の鈍い動きとデタラメな射撃では、期待できそうにない。
しかし、やはり隊長は自信に満ちた顔で、「大丈夫です」と言い切る。「自分は、こう見えても、狙撃では隊の中で3・4を争う腕なんです」
「1・2を争う腕ではないんですね」
「そうですね。残念ながら、1位と2位は他の者になります。なにせ、うちの隊にはアジア大会のバイアスロン競技で優勝するほどの優秀な隊員がおりますので」
「いま屋上から狙っているのがその人でないことを祈ります」
どうにも不安はぬぐえないが、他に良い作戦は思いつきそうにない。揉子たちは屋上へ上がった。鈍い隊長たちの早さに合わせているので当然時間はかかったが、幸い、敵の狙撃手はまだ二〇一号室に照準を合わせたままだ。
隊長が感心したように頷いた。「どうやら、敵はよほど優秀な狙撃手のようですね」
「そうなのですか?」
「ええ。真の狙撃手は、ターゲットを仕留めるまで、ああして何時間何十時間でも同じ体勢で待ち続けることができるものなんですよ」
「なるほど。戦闘の素人のあたしから見たら隙だらけにしか見えないんですけど、プロの人にはそう見えているんですね」
「もちろんです。素人とプロでは、見える世界が違います」
さすがプロだ。皮肉さえ通じない。まあいい。と、揉子は思い直し「では先生、お願いします」と、時代劇の悪代官のようなセリフで促した。
うむ、と、これまた時代劇の用心棒のように頷いて前に出た隊長は、相変わらずのろのろした動きで銃を構え、スコープを覗き込む。片手だから銃身はフラフラし、なかなか照準が合わないが、敵もさる者、やはり二〇一号室に照準を合わせたままで、一切周囲を警戒していない。隊長が照準を合わせるのが先か、敵が周囲を警戒するのが先か……実に手に汗握る激戦だ。
「……いまだ!」
ついに均衡が破られた。隊長が引き金を引く。構えるだけで銃身がふらついていた小銃から放たれた銃弾は、やはりデタラメな方向ばかりに飛んで行ったが、偶然にもその内の一発が敵に当たり、幸運にも当たった場所が脳天で、奇跡的にも倒すことができたのである。
隊長は狙い通りと言わんばかりの顔をした。「いかがですか、鍋島殿」
「ノーコメントです。それより、早く行きましょう」
揉子は二〇二号室に向かおうとしたが、隊長はその場に立ったままだ。なんだと思って振り返る。「隊長さん、どうかしましたか?」
「いえ、あいつをこのままにしておくと、また復活する恐れがあります。二〇二号室に行っている間に復活されると面倒です。よし! 那須三曹! 君はここに残り、あの闇人を見張れ! 復活しようとしたら阻止するのだ!」
「了であります!」
隊長の命令に、那須三曹は声は勇ましく、動きは鈍くで敬礼する。
「…………」
「…………」
「隊長さん、その作戦は、さっき失敗したじゃありませんか。まさか、忘れたんですか?」
「ぎく。いえ、そんなわけないじゃないですか。上官たるもの、部下に挽回のチャンスを与えるのも重要ですので」
不安この上ないが、だからこそ急がなければ、と思い直す。那須三曹が持ち場を離れようが離れまいが、要は狙撃手が復活する前に脱出すれば良いのだ。
ということで、那須三曹を屋上に残し、揉子と隊長は急いでゆっくりと二〇二号室へ戻る。ベランダへ出たが、幸い狙撃手は復活していない。恐らく周囲に闇霊がいないのだ。揉子と隊長はベランダの柵を乗り越え、一〇二号室の前に停めてある軽トラックの屋根に乗り、荷台を伝って下へ降りた。
「よし! ではこれより、避難所がある潮降浜へと向かいます! 鍋島殿! しっかりとついて来てください!」
完全に反対方向である瓜生ヶ森方面へ向かおうとする隊長の手を引き、揉子は先頭に立って潮降浜がある西へ向かう。謎のアリクイ像がある小さな児童公園のそばを通り、社宅の敷地から外へ出た。そのまま海沿いの道を少し進めば、かつて金鉱会社が金を出荷する際に使っていた港・夜見島港があり、目的地の潮降浜はその先だ。逃避行はまだ続くが、これでひとまずは終了条件
と、揉子は思っていたのだが。
後方から、突如銃声が鳴り響いたかと思うと、隊長が大きくのけ反った。うめき声をあげて倒れる。
「……劣化種がぁ。さっきはよくもやってくれたなぁ」
その声に振り返ると、ロ棟の入口前にいた機関銃を持った闇人が、不快なニヤケ顔で銃口を向けていた。
「……鍋島殿……逃げてください……」
隊長はなんとか起き上がると、揉子を守るようにして立ち、小銃を構えようとした。やはりその動きは鈍い。隊長が銃を構えるよりも前に、再び闇人が引き金を引いた。今度は前面に弾を浴びる隊長。
「劣化種は哀れだねぇ。銃ひとつまともに構えることができないとは」
闇人は、顔をさらに不快な笑みに歪めて迫る。
隊長は片膝をついて耐え、もう一度銃を構えようとする。もちろん、闇人の方が早い。だが、闇人の銃は、今度は空回りの音を奏でるだけだった。弾切れだ。今がチャンス! と、思ったのも束の間。
「――ほらよ!」
隊長が銃を撃つよりも早く、闇人は走って間合いを詰めると、勢いを殺さず隊長の胸に前蹴りを喰らわせた。大きく吹き飛ばされる隊長。それでも銃は手放さず、倒れたまままた構えようとする。
その手を、闇人が上から踏みつけた。
「お前ら劣化種ごときに、銃弾を使う必要もねぇか」
倒れた隊長の手を踏んだまま、闇人は隊長の顔に銃床を叩きつけた。ごぎ、と、肉が潰れ、骨がきしむ音がした。闇人は、もう一度叩きつけた。何度もたたきつける。『殻』は、所詮人間の死体だ。殴られたところで痛みを感じるわけではないが、その嫌な音に、本能的な嫌悪感を覚える。
何度も殴りつけた後、それにも飽きたのか、闇人は手を止めた。「なんだぁ? 劣化種は、傷ひとつ治すことができねぇのかぁ? そんな汚ぇ面で、
闇人は踏みつけていた隊長の手を解放すると、その足で、まるでサッカーボールでも蹴るかのごとく、隊長の顔を思いっきり蹴り飛ばした。また大きく弾き飛ばされた隊長は、遂に銃を手放してしまう。
「……鍋島殿……逃げてください……」
隊長は、もはや親が見ても誰か判らぬかもしれないほど傷ついた顔を向け、揉子に訴えた。
「でも、それでは隊長さんが……」
「私はいいんです。国民の命と財産を守るのが自衛官の務め……鍋島殿と形見のアイロンさえ無事なら、私は喜んで――」
最後の言葉は、闇人の蹴りによって阻まれた。
「ケッ。なーにが自衛官の務めだ。それは、『殻』の記憶だ。お前の記憶じゃない。そんなものに惑わされるなんて、やっぱしょせん劣化種は劣化種だな。ぎゃははっ!!」
笑いながら、闇人は隊長を蹴り続ける。
「鍋島殿……逃げてください……」
蹴られながら、隊長は揉子を逃がそうとする。
「逃げてもいいぜぇ、別に」闇人が、その不快なニヤケ顔を揉子に向けた。「どうせ、この島はもうすぐオレらの仲間が制圧する。どこに逃げたって同じだ。ぎゃーっはっはっはー!!」
さらに笑い声をあげながら、闇人は隊長をいたぶり続ける。
「隊長さん! 待っててください! すぐ、誰か呼んできますから!」
揉子は夜見島港方面へ走る。隊長は、潮降浜に避難所があると言っていた。つまり、そこに屍人の仲間がいるはずだ。今の揉子にできることは、そこへ助けを求めることだろう。もちろん、いくら揉子が屍人の中では素早く動ける方であっても、この崩谷地区から潮降浜へ行って戻って来るまで、隊長が無事でいるなんて考えられない。運よく、途中で仲間と出会うことに賭けるしかない。
「……揉子殿……申し訳ありません……!!」
その声に、ふと振り向くと。
隊長は、涙を流しながら、揉子を見ていた。
その姿が、不意に。
――揉子……ごめんねぇ。
アイロンをかける母の姿と、重なった。
たった一枚しかない制服に、体操着に、給食着に、泣きながら、アイロンをかける母の姿が、胸に浮かんだ。
もちろん。
闇人の言う通り、これは『殻』の記憶だ。
それでも――記憶はどんどんよみがえる。
――鍋島ぁ、相変わらず、汚ぇ格好してんなぁ。ぎゃはは!
クラスの男子の声が、よみがえる。
母がどんなに丁寧に洗濯しようと、アイロンをかけようと、何年も着ていれば、どうしても落ちない汚れが出てくる。痛んでもくる。揉子の制服は、薄汚れて、つぎはぎだらけだった。
――揉子ちゃん、スカートからパンツ見えそうだねぇ。そういうのって、『
クラスの女子の声がよみがえる。
成長期のことだ。すぐに服は小さくなる。母がどんなに繕っても、身体に合わなくなってしまう。小学校も高学年になると、男子からの視線も、たまらなく嫌だった。
――鍋島さん。今度の運動会、あなたは欠席してください。太田家の当主様が、娘さんの玉入れを見に来られます。あなたがいたら、当主様の目障りです。
クラスメイトばかりではない。島民が一体となって鉄塔や採掘所の建設に反対していた中、揉子の父は金鉱で働き始めた。担任の教師は太田家当主に
――おい! バイキンが給食当番やるんじゃねぇよ! 食えなくなるだろ!
当然、給食着にも汚れは蓄積する。煮沸消毒しているから大丈夫だ、などと、子供に通用するはずもない。バイキンと呼ばれ、みんなから笑われた。
学校に行くのが嫌だった。貧乏な暮らしが嫌だった。島にいるのが嫌だった。
社宅の友達は、金鉱事業が縮小するにつれ、次々と本土へ戻って行った。揉子も島を出て行きたかった。なぜ、ロクな仕事も無いこの島に、母が留まり続けるのか、あの頃の揉子には、判らなかった。
今なら判る。
外から来た人は、仕事が無くなれば、元の家に帰ればいい。
でも、この島の住人である母と揉子には、帰る場所が無い。
島から出て行こうとも無駄だ。近隣の島や、あるいは本土の
鍋島は汚い。揉子ちゃんは売女、鍋島さんは目障り、鍋島はバイキン。
クラスの男子から、女子から、先生から、住人から、毎日、笑われ続けた。
揉子は、その怒りを、悲しみを、憤りを。
――なんで新しい服買ってくれないのよ!
母に、ぶつけた。
服が汚いからいじめられるのだと思った。服さえ新しければ仲良くしてくれると思った。そんな訳はないのに。
金鉱事業が縮小すると、まかないだった母は真っ先に解雇された。その後、金鉱が完全に閉鎖するまでの数年間、母がどうやってお金を稼いでいたのか、揉子はいまも知らない。知りたくもない。
母は朝から晩まで働き、割に合わない安い金を受け取り、家に帰れば、洗濯機も掃除機も電子レンジも冷蔵庫も無い中で家事をする。父が死んで以降、揉子は母が寝ている所を見たことがない。いつも揉子が起きたときには朝食の用意をしており、揉子が寝た後も家事を続けている。
そんな母を。
――お母さんなんてだいっきらい! もう死んじゃえ!!
揉子は、傷つけた。
そのことに対し、揉子が母に叱られたことは、一度も無い。ただ揉子に詫びながら、時に涙を流しながら、仕事と家事を続けた。
朝には、ちゃんとご飯が用意されている。
夜には、ちゃんとご飯をつくってくれる。
そして。
揉子が登校する際には、丁寧に洗い、丁寧にアイロンをかけた、綺麗な制服を、綺麗な体操着を、綺麗な給食着を。
絶対に、用意してくれている。
中学を卒業すると、揉子は太田家のお手伝いとして働くことが許された。島のしきたりを破ったのは父親であり、娘にまで罪はない、という、当主からの恩赦だった。給金は決して多くはなかったが、それでも、母子二人、充分に暮らしていくことができる額だった。そのはずだった。
なのに。
母は、娘が一人前に働けるようになったのを見届けて安心したのか――この世界から去った。
子供の頃の言葉を謝る機会は、無かった。
――――。
――なぜ。
あたしはあのとき、母に怒りをぶつけてしまったのだろう。
誰よりもつらい思いをしていたのは、母だったのに。
あるいは。
もしも、あたしが強ければ。
あの頃の怒りや、悲しみや、憤りを。
母ではなく、クラスの男子に、女子に、先生にぶつける強さがあれば。
母は、死なずにすんだのだろうか?
判らない。
今のあたしにできることは、今いるこの世界を生きることだけだ。二度と同じ後悔をしないために。
揉子は、全力で走ると。
「――おいおい! 汚ぇなぁ劣化種! パンツが見えてんぞ! そんなんじゃ母の目障りだ! 飯がマズくならぁ! ぎゃはは!!」
隊長を
「――笑うなああぁぁ!!」
母の形見のアイロンを――思いっきり、打ち付けた。
闇人はものすごい勢いでぶっ飛んで行き、ばたんきゅーと動かなくなった。なんだ。大したことないじゃないか。
揉子は、肩で大きく息を(する動作を)し、隊長を振り返った。「隊長さん、無事ですか?」
「……揉子殿……」隊長は、見る影も無く痛めつけられた顔を、申し訳なさそうに伏せた。「私は大丈夫ですが、母殿のアイロンが……」
渾身の力で闇人に撃ちつけた形見のアイロンは、取っ手のみを残し、バラバラに壊れてしまっていた。
それでも、揉子は朗らかに笑う。
「いいんです。隊長さんが無事なら。母もきっと、判ってくれます」
「……面目ありません。国民の命と財産を守る自衛官として、恥ずかしい限りです」
「いいんですってば。それより、隊長さんの治療をしなきゃ。はやく、避難所のお仲間のところへ行きましょう」
揉子は、隊長に肩を貸し、夜見島港方面へ向かおうとした。
その、背後で、闇人が立ちあがった。
揉子と隊長は振り返る。死んでいなかったのか、それとも別の闇霊が憑りついたのかは判らない。ともかく、その手には隊長が落とした小銃が握られていた。
「――危ない!!」
向けられた銃口と、揉子の間に、隊長が割って入った。
敷地内に、銃声が鳴り響き。
――――。
倒れたのは、闇人だった。
「隊長殿! 大丈夫でありますか!!」
闇人の後ろには、銃を構えた那須三曹が立っていた。
「…………」
「…………」
「…………」
「那須三曹!」
「イエス一佐!」
「狙撃手を見張る任務はどうなった!」
「…………」
「…………」
「申し訳ありません! 忘れておりました!」
那須三曹はのろのろとした動きで敬礼をした。
その様子に、揉子は吹き出してしまう。つられて隊長が笑い、そして、那須三曹も笑った。三人で、しばらく笑い合っていた。
「……おや?」隊長が驚いた顔になった。「揉子殿! アイロンが!!」
言われ、取っ手だけとなったはずのアイロンを見ると、すっかり元の形に戻っていた。
「……どういうこと?」
三人で首をかしげて考えるが、屍人が三人集まって考えてもなんとやらだ。判るはずもない。
「まあ、ここは異界ですから、なんでもかんでも
「そうですね」揉子は頷くと、「だとしたら、隊長さんの顔も、元のイケメンに戻るかもしれませんね」と言って、片目を閉じた。
「いえ! 自分はイケメンなんて! めっそうもありませんでございます!!」
隊長は腫れて真っ赤な顔をますます赤くして、なぜか敬礼をした。
「隊長! いちゃついている場合ではありません! 間もなく、闇人が復活するものと思われます!」
那須三曹の言葉に、隊長はコホンと咳払いの動作をすると。
「よし! では那須三曹! これより、鍋島殿を潮降浜の避難所へ送り届ける! 敵はまだどこにいるか判らない! 油断するなよ!!」
「はいであります!」
「では! 我に続け!!」
そのまま
鍋島揉子と、一藤二孝(と、そのお供)。
この数時間後、潮降浜で闇人に殻を奪われ、翌日には某異界ジェノサイダーによって殲滅させられる運命を、彼女たちはまだ知らない――。