それが事件と言えるほどの規模かどうかはともかくとして、それまでそれなりに順調に進んでいたはずの初心者教室に少しばかりのアクセントが生まれたのは『こうげき』訓練の最中であった。
「一体どうしたんです? あなた達のペアならばもっと質の高い『こうげき』ができるはずですよ」
順番待ちをしている子供とポケモンたちから少し離れ、ビートはある一人の子供と向き合っていた。
その男の子は『こうげき』訓練に入るまではとても優秀でおとなしい子供だった。手持ちのプリンも見るからに才能あふれる雰囲気を持っていたし、男の子の指示をすんなりと理解することができる賢さも持ち得ている。
故にビートは『こうげき』訓練になった途端にいきなり息が合わなくなったそのペアを不可思議に思ったのだ。
彼は子供たちの列をノマルとブリムオンに任せ、その原因を探ろうとしていた。
しかし、子供の返答は要領を得ない。
「ごめんなさい……」
彼は先程からそのような言葉を繰り返すのみである。
「いえ、僕は君を責めているわけではありません。何か気になることがあるのなら言ってみなさい、僕が答えられることなら答えてあげますよ」
ビートはできる限りの笑顔を浮かべてそういったつもりであったが。それでも子供の表情は曇ったままだ。
その子のパートナーであるプリンはその状況の理解が出来ないらしく、オロオロとビートと子供を交互に見比べている。
しばらく沈黙があった後に、ビートは彼なりに優しく語りかける。
「黙っていても何もわかりませんよ」
その言葉に悪意があったわけではないだろう。
むしろビートは、アラベスクジムリーダーとして、この初心者教室の責任者として、一人でも多くの子供に何かを掴んで帰ってもらおうとしているのだ。それはエリートであることの責任感でもあっただろうし、才能ある彼らをなんとか導きたいという指導者としての自覚もあったのかもしれない。
だが、結果としてはその言葉が引き金だった。
「ごめんなさい……」
男の子はやはり一言そう言ってうつむいた後に、今度は息を殺すようにしゃくりあげながら涙をこぼし始めたのだ。
無理もないことだ、まだほんの子供である彼にとって、黙ることは彼なりの謝罪であり、償いであったのだ。それすらも否定され、彼はどうして良いのかわからなくなった。涙を流すことが正解だと思っているわけではない、むしろそれは間違いだとわかっている。だが、何もできなくなったいま、彼にできる感情表現はそれしかなかったのだ。
パートナーの涙に、プリンはやはり動揺し、やがて、その原因であるビートを責めるような視線を投げかけた。
「ちょっと……」
それに混乱したのはビートも同じだ。彼が泣いたことを責めてはいけないことはわかっている。だが、どうしても最初にでてくる感情は、泣く彼を責めるものだった。
自分より幼い子供の涙に対する耐性というものがビートには無かった。物心ついた頃から、大人を見上げてばかりだったから。
どうにかせねばと彼は思った。今この状況が間違いであることはわかっている。
だが、どうしようも出来ない。男の子を慰めなければならないという優しさはある、だが、そのためにどうすれば良いのかというノウハウがない。
やがて、彼は助手の存在を思い出した。子供相手の初心者教室によく慣れた助手だ。
だが、彼女を呼ぶことが本当に良いことであるのか、それはアラベスクジムリーダーとしての責任を放棄することではないのか、人に頼って良いのか、その行為によって、前任のジムリーダーポプラの顔に泥を塗ることになりはしないのか。
少しだけ彼は考えた、そして、両手を顔に当てて無理にその涙を引っ込めてしまおうとしている男の子を見て、彼はすぐにノマルのもとにかけていった。
「よしよし、どうしたの?」
ビートからのヘルプを受け付けたノマルは、すぐさまにその男の子のもとに歩み寄り、しゃがみこんで彼と目線を合わせるように努めた。だが、もともとビートより身長の低い彼女がしゃがみこんでしまったものだから、その男の子を下から覗き込むようになっていた。
彼女の後ろに立つビートは、己の不甲斐なさに顔を真赤にしながらそれを眺めている。
『こうげき』訓練の列に並ぶ子供たちは、なにかのっぴきならない状況が起きている空気を敏感に察知しているのか、自分たちを見守るのがブリムオンと新たに繰り出されたサーナイトだけになっても隊列を崩すことはなかった。
それを抑え込もうとしても感情の高ぶりを抑えられない男の子は、やはり「ごめんなさい」と彼女に漏らすだけだ。
「いいよいいよ」
そう言って、彼女は男の子の頭を胸に抱いた。背中を擦りながら「ビート先生も私も怒ってないからね」と語りかける。
男の子が泣くことに疲れるまで待ちながら、彼女は空いた手でそばにいたプリンを撫でる。
ふにふにとやわらい体を揉まれながら、プリンは一旦彼女への警戒を解いたようだった。
しばらく、ノマルは男の子の嗚咽を胸に受け続けた。
数分ほど涙を流した後に、男の子は泣き止んだ。
ノマルは彼の顔をハンカチで拭いてあげた後に問う。
「どうして泣いちゃったの? 怖かった? 悲しかった? 悔しかった?」
「……わからない」
「そうかあ、わからないから泣いちゃったんだね」
ノマルはそれを不思議に思わなかった、その男の子位の年齢ならば、自分の感情がわからないことだってあるだろう。
「それじゃあ、泣く前はどんな気持ちだった?」
その質問には答えられるようだった。
「……イヤだった」
その返答に、ビートは少し驚く。
「嫌だったんだね。何が嫌だったの?」
男の子は少し考え込んでから答える。
「……攻撃するの、イヤだった」
「そうかあ、攻撃するのが嫌だったんだね。どうしてかわかるかな?」
「……あのね、プーちゃん僕のいう事聞かなくなるの。僕、プーちゃんに嫌われたくない」
プーちゃん、とはパートナーのプリンのことだろう。
「でもプーちゃんとは触るときとかキズぐすりの時とかはすごく仲良しだったよね」
「うん、でもね『こうげき』になると僕のいう事聞かなくなるんだ、もういいって言ってもやめないの。いつもそうなんだ」
ビートは、自分が抱いていた違和感の正体がそれであることに気づいた。そして、おそらくノマルがいなければ、これに気づくことは出来なかっただろうと思う。
「そうかあ」といいながら、ノマルはそばにいるプリンことプーちゃんに目をやる。
心配そうに男の子を見上げるそのプリンが、彼に懐いていないとは思えない。
それから考えられることは。
「プーちゃんはね」と、ノマルが男の子を見上げながら続ける。
「プーちゃんは『こうげき』になると張り切っちゃって君に褒められようとしちゃうんだね」
「僕に?」
「うん、たしかに君の言うことを聞かなくなるかもしれないけど、それはプーちゃんが君のことを嫌いなんじゃなくて、君を守ろうとしたり、君に褒められようとしてるんだよ」
「……そうなの?」
「そうだよ。だって、君は嫌いな人と一緒に寝たり、体をなでてもらったりしたい?」
「ううん」
「そうでしょ? プーちゃんも同じだよ。プーちゃんは君のことが好きだし、君もプーちゃんのことが好きなんだよね?」
「うん、僕プーちゃん好き」
ぎゅっ、と、男の子はプリンを抱きかかえた。プリンもそれに答えて彼の胸に顔を埋める。
ノマルの言うことに間違いはなさそうだった。
「でも」と、ノマルは男の子とプリンが抱擁を終えたのを確認してから言う。
「いくら褒められたいからって、プーちゃんが君の言うことを聞かなくなるのは良くないよね?」
「うん」
「だからね、今度からはプーちゃんが『こうげき』の時に勝手なことをしたりしないように、君の考えていることをもっとわかってもらえるように、一緒に訓練しないといけないね?」
「うん」
「だから、ビート先生にお願いしようか?」
「うん」
男の子は、プリンを抱えたまま一歩前に出てビートに頭を下げる。自らを泣かせた相手だという事は一旦置いているようだ。
「ビート先生、僕に『こうげき』を教えて下さい」
少しだけ沈黙を挟んでから「ええ、わかりました」と、ビートは赤い顔のまま笑って答える。
今日全てを教えることは出来ないかもしれないが、残された時間、彼らは全力を尽くすだろう。
☆
「マイナーに落ちるわけにはいかないようですね」
初心者教室が終了し、ビートとノマルは子供たちを見送った。
子どもたちのほぼ全てはそれに満足していたようで、彼らは皆笑顔でビートとノマルに手を振ってそこを後にしていた。当然、その中にはあの男の子とプーちゃんもいた。
だが、ビートは少し皮肉げに笑いながらそう言ったのだ。
「エリートである僕には、この役割は向いていないようです」
「どうして?」と、ノマルは振り返りながらそう問うた。
「どうしてって……見ていたでしょう? 僕はあの子を泣かせてしまった」
「泣くわよ、子どもは」
「でも、僕はその後の対処ができませんでしたし、そもそも、あの子が泣いた理由もわからなかった」
「最初からできることじゃないよ」
一泊置いてからノマルが続ける。
「あの年頃のペアにはよくあることなのよ、トレーナーの認識とポケモンの認識が一致しないことはね……ビートくんには無かった?」
「ええ。正直、今でも彼の言うことがあまり理解できていません」
「そうか、でも、そんなものよ」
彼女は微笑んで続ける。
「私なんて、あの子くらいの頃ポケモンに触ったことすら無かったもの」
その言葉には説得力があった。
更に彼女は続ける。
「自信なくなった?」
ビートはそれに頷く。
「ええ、元々あまりなかったんですがね」
「いいのよ、それで、ビートくんはそれでいい」
ノマルは頷いて続ける。
「ビートくん頑張ってるもの」
「頑張ってる?」
「うん。だってそうでしょ? 今日ビートくんはあんなに資料を用意してプログラムを組んだんだから」
ノマルが言っているのは、彼が小脇に抱えるバインダーのことだろう。
「それに、ビートくんと私があの子につきっきりになった時に、ブリムオンとサーナイトが『こうげき』訓練を仕切れたのも、あなたが今日のリハーサルをしっかりとやって、ポケモンたちと考えを共有していたからでしょう?」
ビートはその褒め言葉に反応を返さなかった。代わりにまた顔を赤くさせる。
「あと、あの子のことが自分にはわからないと思ったら、すぐに私に頼ってくれたよね。私、あれすごく良いと思った。きっと、初めてあったときのビートくんなら出来なかったと思う」
「あれは……彼の手持ちのプリンがノーマルタイプを複合していたからですよ」
「いいよ、そういうことでも」
ビートの照れ隠しを、ノマルは受け入れて続ける。
「ビートくんは初心者じゃないかもしれないけど、今日は子供たちのためにいっぱい考えてた。すぐにいい先生にはなれないかもしれないけど、頑張ることを積み重ねていけば、きっといい先生になれると思う。今日はよく頑張ったね」
ノマルは少し手を伸ばして彼の頭をガシガシとなでた。ビートはそれに反抗しない。
「それじゃあ、片付け始めようか」
まだまだ元気なノマルを、ビートは少しの間じっと眺めていた。
☆
「いい先生になると思いますよ」
アラベスクジム、ジムリーダー室。
助手は先に上がってください、と、ビートに言われ、彼女は一足先にシャワーと着替えを終えてポプラの茶会にお呼ばれしていた。
本来ならば、助手がリーダーより先に上がることなどありえないと彼女は考えるのだが、今日に限っては、彼が一人になることができる時間を尊重しようとした。
きっと彼は今、よく考えているのだろう。
「そうかい、そりゃあよかった」
カップを傾けながら、ポプラが嬉しげに言った。その表情を、ビートくんにも見せてあげればいいのにとノマルは思う。
「あの子は少しひねくれたところがあるから、どうなるかと思っていたんだよ」
「流石に子供相手にそんな事はありませんでしたよ、それに、彼なりに子供たちを理解しようと頑張っていました。あれなら、この後のアラベスクジムも立派にやっていけるはずです」
「そうかい」
くるくると紅茶にミルクが渦を作るのを楽しんでいるノマルに、ポプラが言う。
「あの子と、あんたを引き合わせて正解だった」
その言葉にノマルが表情を上げて自身と目を合わせたのを確認してから続ける。
「似てるところがあると思ったんだよ、あの子と、あんたは」
ふふっ、と、ノマルはそれに微笑む。
だが、角砂糖を二つほど紅茶に放り込んでから、彼女はそれを否定した。
「ポプラさん、それは違いますよ」
スプーンでそれをかき回しながら続ける。
「『あの事件』の時、彼はまだティーンエイジャー。特殊な出自で、ほとんどローズ委員長の手駒だった」
『あの事件』とは、ビートがラテラルタウンの壁画を破壊したセンセーショナルな事件のことを指しているのだろう。
複雑な話になるが、ビートはかつてのポケモンリーグ委員長ローズの推薦でジムチャレンジを行っていた際に『ねがいぼし』と呼ばれる鉱石を集めていた。彼はその使命感から歴史を軽視し、ラテラルタウンの壁画を破壊し『ねがいぼし』を採集しようとした。
幸いなことに、壁画はレプリカであったし、壊した先にはガラル全土を揺るがす歴史的資料があったから良かったものの、当然それは批判にさらされるような行為だ。ちなみに余談ではあるが、彼はこの功績により『トレーナーとしてよりも考古学者としての実績のほうがまだ上』とも言われている。
ポプラは、彼のそのような過去と、ノマルの過去とを照らし合わしたのだろう。そして、いまのノマルが優れたトレーナーであり教育者であることを前提として、ビートの未来に期待している。
だが、だからこそノマルはそれを否定したかった。それを認めることはつまり。
「私は、かつての私が間違っていたとは思っていませんし、あの時、私は自分の意志であそこに立っていました」
そう。
ノマルとビートの、最も大きな差はそこだったと彼女は思っている。
ローズ委員長に認められようと、半ば意味などわからず『ねがいぼし』をかき集め、「あの頃はどうかしていた」と過去の過ちを認めることができるのがビートであるのならば、自分はその逆だと彼女は思っている。
「今でも、私の根本には『あの思想』があります。ただ、私は負け、今ではそれを押し通す力もない」
その明確な否定にも、ポプラは動揺しなかった。
ただケーキを切り分け「そうかい」と、つぶやいた。
「似ている、と思ったんだがねえ」
再びそれに微笑みながら、ノマルはカップを傾ける。砂糖が少なかったか、もう少し甘いほうが好みだった。
「……導いてくれる人がいた。という点においては似ているかもしれませんね」
その言葉に、やはり「そうかい」と、ポプラは目細める。
「フッツに、よろしく言っといてくれ」
「ええ、わかりました」
その後、この部屋にビートが飛び込んでくるまで、彼女らは言葉をかわさなかった。
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