わけがわからない。
小さいが小さいなりに満員となったラーノノスタジアム対戦場をピッピにんぎょう片手に歩きながら、男はやはり戸惑っていた。
基本的に、ジムミッションではジムのスタッフの意見は聞かなければならないし、それに逆らうようなことがあれば最悪の場合失格となることもある。
だが、基本的に彼はこれまでスタッフに理不尽なことを言われたことはなかったし、人間として、トレーナーとしての倫理に伴った行動さえしていれば問題がなかった。たまにされる注意に関しても、それを変だと思ったことはない。
だが、ピッピにんぎょうを抱えたままジムリーダーとの対戦を行えとは何事か。さっぱり意味がわからない。
対戦場の中央には、すでにジムリーダーであるノマルが待ち構えていた。黒いリボンにまとめられたポニーテールは全く揺れること無く、直立不動で相手を待ち構えている。当然、ピッピにんぎょうなどは抱えていない。
観客に気圧されていないその様子を、男は特に不思議には思わなかった。新人のジムリーダーかもしれないが、ガラルのすべてが注目したと言っても過言ではないカブの降格戦の相手をきっちりと務めた彼女を、彼は見くびってはいない。
「ラーノノジムへようこそ、私がジムリーダーのノマルです」と、ノマルは男が真正面に立ったことを確認してから告げる。そこに笑顔はなく、小さな体から目いっぱいに男と目線を合わせている。
何人ものジムリーダーとジムチャレンジとして手を合わせてきた男は、その目線の異質さにすぐに気づいた。
なんて怖い目なんだ。
ジムリーダーというものは、チャレンジャーよりも遥かに強いものだ。ジムチャレンジの中で、彼らはその強さからくる慈愛を持って、チャレンジャーに胸を貸す。ジムチャレンジというものはそういうものだ。
だが、この少女の目はどうだ。まるで自分自身を敵であるかのように突き刺すような目だ。
男はピッピにんぎょうを抱える腕に力が入ったことに気づいていた。
それを知ってか知らずか、ノマルは不意に目をぎゅっとつむって、今度は笑顔のようなものを作りながら続ける。
「私との対戦では、特殊なルールで戦ってもらいます。もちろん、すでにリーグには許可をとっている公式なものです」
男はそれに頷いた。特殊なルールでのジム戦は前例がないわけではない、例えばアラベスクジムのポプラなどはバトル中にクイズを出してくるが、それを咎める存在など無い。
男の無言を了承だとしてノマルが続ける。
「私とのバトルでは、二つのバッジ取得条件を設定しています。一つは、私に勝利すること」
そして、と続ける。
「もう一つは、そのピッピ人形を投げることです」
ノマルの目線が男の腕が抱えるものに向けられる。
「え?」と、男は思わずつぶやいた。
「投げる? これを?」
「はい、そのとおりです」
「しかし、これは野生のポケモンから逃げる道具のはずで……」
「特殊なルールです、あまり気になさらず」
男は戸惑った。まるで想定していないことだった。
「どのような状況でもいいんですか?」
「はい、どのような状況でもピッピにんぎょうを投げればバッジを贈呈します」
「例えば、僕のポケモンがほとんど瀕死の一匹だけで、あなたの陣営には無傷のダイマックスしたポケモンがいたとしても?」
「はい、大丈夫です」
「例えば、僕のポケモンが猛毒状態で、数秒後に瀕死になるような状況でも?」
「はい、大丈夫です」
「なら、今投げても?」
あまりにも信じられなくて、つい口からそのような皮肉めいた軽口が飛び出してしまった。男はしまったと表情を歪める。
だが、ノマルはそれにも頷いて答えた。
「問題ありません。賢明な判断だと、私はその意志を尊重します」
捉えようによっては、それは挑発めいた悪意のあるユーモアに聞こえただろう。だがその返答には、真っ直ぐに目線を合わせるノマルの表情からは、悪意やユーモアなどはないように思えた。
投げられるものか。
ぐるりと満員の観客席を見回しながら、男はピッピにんぎょうを抱える腕に力を加えた。
それを投げることは、敗北を認めることだ。
トレーナーとして、対戦相手に背を向けることは恥ずかしいことだと学んできた。それこそがトレーナーとして生きる者が持つ数少ない倫理の一つだ。
これだけの衆人環境の中で、そんな事をしている自分を想像できない。
「記録はどうなるんです?」
結論を先延ばししたいように、男は不意に浮かんだ質問をノマルに投げかけた。
その問いに、ノマルは少し目を伏せて答える。
「申し訳ありませんが、記録の上では私の勝利となります。しかし、バッジの贈呈には問題がありません」
別に不思議な解答ではなかった。そりゃそうだろうな、と男は頷く。
「他の質問はありますか?」
「いえ、ありません」
問いたいことはまだまだあった。だが、その全てに納得の行く解答があるわけでもないだろう。
その特殊なルールについて、男は「とにかく勝てばいいのだ」と理解した。
「それでは、対戦を行いたいと思います」
一つ頭を下げてから、ノマルは男に背を向けて距離を取る。背番号の『60』番と、黒いリボンにまとめられたポニーテールが揺れるのが印象的だった。
☆
「動くべきは今! 戦いにセオリーなどありません!!!」
それは突然であった。
男のポケモンを一体戦闘不能にしたタイミングで、ノマルはフィールドのイエッサンをボールに戻した。
それが何を意味するのか、観客たちは感覚では理解していたが、それを受け入れるよりも先に、彼女が正解を提示する。
巨大化したモンスタボールを、彼女は無言で後方に放り投げる。
現れるのはダイマックスしたイエッサン、規定の高さギリギリであったラーノノスタジアムからはみ出しそうになった彼女は、対戦相手の男を見下ろす。
宣言通り、セオリーにない行動だ。
ダイマックスはラストを任せることのできるエースにこそ必要な戦術であるというのがガラルでのセオリーであった。
それをこの、試合で言えば中盤に切るというのは、例えば彼女がジムリーダーという立場になく、それを裁くのが頭でっかちな批評家であれば、即座に否定され、ともすれば彼女のトレーナー歴や性別、生まれなどの人格を否定される可能性すらあるような行動であった。
しかもそのダイマックスしたポケモンもセオリーにない。
彼女の出世試合であるカブとの入れ替え戦において、彼女がダイマックスさせたのはヨルノズクだった。それを見ていたものは彼女のエースが彼であることを疑っていなかったし、そのような紹介の仕方をしたテレビ番組もあった。
男は入れ替え戦で彼女が試合中盤にダイマックスをしたことを研究して知っていた。故にそれ自体に驚くことはなかったが、ダイマックスされたポケモンがイエッサンであったことは予想の範囲外であった。
だが、大丈夫だ、と、男は頷く。
ノーマルタイプへの対策はしている。岩タイプと格闘タイプは他のポケモンよりも集中的に鍛えているし、もしものときのために鋼タイプのポケモンもパーティに組み込んでいる。
だが、イエッサンというポケモンがほのお、エスパー、くさタイプの技を操ることのできる『アンチアンチノーマル』戦術を扱えることを、彼はまだ知らなかった。
☆
ラーノノジムを後にした男に、数人の記者がインタビューを試みていた。
珍しくない光景だ、新人ジムリーダーのミッションを初めて経験したトレーナーに、その程度の注目を受ける権利はある。
例えばそれがまだ年端も行かぬ少年少女トレーナーであれば記者たちも遠慮をしたかもしれないが、それが顔なじみの成人であればその遠慮も薄れる。
「ミッションは難しいです。ポケモンのレベルやバトルの能力は問われませんが、それよりも根気が必要です……いえ、頭脳は必要ありません、ミッション自体は根気があれば子供でもクリアできるでしょう」
それらのインタビュに―答えながら、男はやはりどこか腑に落ちないような感覚を覚えていた。
彼の腕にピッピにんぎょうはなく、その代わりにジムバッジがある。それはつまり、ジム戦において勝利したのはノマルであったことを意味する。
屈辱的な体験でなかったと言えば嘘になるだろう。あれだけの衆人環境の中、明らかに不利な状況から、ほとんど負けを認めるようにピッピにんぎょうを投げることに抵抗はあった。
だが、男はそれを投げた。
戦いの途中で相手に背を向けること、それはトレーナーの倫理観に反した行為ではあろうが、男にとって、それはジムバッジ取得という目的を反故にしてまで守るべき倫理ではなかった。あるいはすでに成熟していた彼の打算的な考えというものがそれを可能にしていたのかもしれない、数回ジムチャレンジに挑戦するにあたり、彼は少し考え方に、よく言えば柔軟なところがあった。
観客たちも、それを受け入れていた。明らかに彼は負ける寸前であったし、その特殊なルールについてはすでに説明されていた。気の難しい観客はブーイングを送ったかもしれないが、それはかき消されていただろう。
「あなたの判断を、私は誇らしく思います」
バッジを手渡されるときに投げかけられたその言葉が、強く印象に残っていた。
挑戦者に負けを認めさせる、考えようによっては非常にサディスティックな選択をさせたにもかかわらず、彼女はその選択を心から受け入れ、祝福しているようだった。
「不思議なジムでした」と、男は記者の質問に答える。
「なんというか……勝たなくてもいいと言うのは……これまでの人生で初めての経験だったかもしれません」
感想、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
ここまで読んでいただけたらぜひとも評価の方をよろしくおねがいします!!!
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