その会合は、決して世に悟られてはならないものだった。
ガラルから遠くはないが、かといって近いとも言いづらい地方だ。発展途上というわけではないが、かといってガラルやカロスと比較はできない程度の町並み。
その地方のある街に存在するその地方の基準で言えば高級とされているホテル、不相応に荒れくれ者たちがガードマンとして高給を得ているそこは、ある二つの団体によって貸し切られていた。
「悪いことは言いません、考え直したほうが良いでしょう」
一つのテーブルを挟み、二人の人間が対峙していた。もちろんその側にはそれなりの数のモンスターボールをベルトに装着したトレーナー達がいたが。
「ワタクシ達の理念は同じはずです。それに、我々が提携を結ぶことは、双方にとって有益なはずだ、後悔することになりますよ」
片方の男、マントに身を包み右目に特徴的な片眼鏡を装着した中年の男は、対面の老婦人を説得するように、それでいて彼女の選択を嘲るような口ぶりであった。
中年、とは言うが、ところどころに見える肌のシワから、もしかすれば見た目よりも年齢を重ねているのかもしれないし、肩まで伸びたブロンドは染めているかもしれない。
そのような男と、彼を護衛する黒尽くめの三人の男を目の前にしながら、その老婦人、ガラル遺族協会会長、マツムは、男が手を付けることができなかった紅茶を一つも警戒することなく味わった後に答える。
「サー・ゲーチス。確かに、私達の思想は非常に近いところにある。それ故に、今日この日まで私達は交流を続けていました」
それに対するゲーチスの反論がないことから、それは事実なのだろう。
彼女はゲーチス陣営を一睨みしてから続ける。
「しかし、近年の『プラズマ団』の活動は、少なくとも私達の理念からは離れている」
「いったい、我々の何が気に入らないというのですか」
「イッシュの協会員から、話は聞いています」
彼女はため息を吐いて続ける。
「近頃は『人間からのポケモンの解放』を理念にされているとか」
ゲーチスはそれを否定しなかった。
否、否定などできるはずもない。その理念は、彼の野望をカモフラージュするための方便そのものなのだから。
「そのとおりです。しかし、それは貴女がたの考えとも近しいはず」
「いいえ、そうではありません。我々は決して人間からポケモンを解放したい訳ではありません」
彼女は指でカップの縁をなぞって続けた。
「私達が目指すのは、貴方がたの言葉を借りるのであれば『ポケモンからの人間の解放』です。貴方がたはまるでポケモンが人間に操られるだけの無力な存在であるように吹聴されていますが、その本質は逆です。人間こそが、常にポケモンの恐怖にさらされる側にある」
ゲーチスはマツムの言葉に唇を噛んだ。
あまりにも巨大な倫理で固められた団体、手は出せない。資金力だけではない、この老婦人が語る思想は、悲劇という誰にも否定しようのない事実の上に成り立っている。下手に手を出せば、こちらが「人の心ない悪」として断罪されかねない。
ゲーチスは噛みしめていた唇から、つう、と一筋の血が流れるのも厭わず、歪んだ笑みを浮かべた。交渉は決裂だ。ならば、あとは己の流儀を通すのみ。
「結構。どうやらワタクシの理想は、あなたのような過去に囚われた人間には高すぎたようだ」
彼はゆっくりと立ち上がり、見下ろすようにマツムに告げる。その瞳には、もはや先程までの友好的な色は欠片も残っていない。
「『ポケモンからの人間の解放』、ですか。聞こえはいいが、それは恐怖から生まれたただの弱者の言い訳に過ぎない。悲劇を嘆き、世界を呪い、ポケモンという強大な存在から目を背けるためのね」
ゲーチスは一歩、また一歩とテーブルから離れながら、最後の、そして最も残酷な言葉を彼女に投げかけた。
「その恐怖が、あなたの息子さんを守れなかったようにね」
マツムの背後に控えていたトレーナーたちが、その侮辱に思わず殺気を放つ。しかし、マツムはただ静かに、ゲーチスが手を付けなかった紅茶のカップを見つめているだけだった。
「行くぞ。こんな墓場で時間を無駄にした」
ゲーチスはマントを翻し、部下たちにそう命じて部屋を後にする。
扉が重々しく閉まり、部屋にはマツムたちだけが残された。
マツムは、何も言わなかった。
ただ、冷え切ってしまった紅茶のカップを、そっと両手で包み込む。
その指先が、わずかに震えていた。
☆
ラーノノスタジアムの観客席で、ルリナは息を詰めていた。
フィールドでは、彼女の友人、ヤローが鬼気迫る表情で指示を飛ばしている。
普段の彼からは想像もつかないほどの、鋭い声。だが、その声とは裏腹に、彼のパートナーであるワタシラガの動きは精彩を欠き、消耗しきっているのが遠目にも分かった。
対面のジムリーダー、ノマルは、表情一つ変えない。
ただ静かに、冷徹に、追い詰めた獲物を見定めるかのように、ヤローとそのポケモンを見つめている。
強い、という言葉だけでは足りない。あれは、相手の戦術、気力、そしてプライドの全てを分析し、最も効果的な一手で的確に心を折りに来る戦い方だ。
ヤローは唇を噛み締め、その拳がわなわなと震えるのを、ルリナは見逃さなかった。
やがて、彼は、悔しさを押し殺すように、足元に置いていたピッピにんぎょうを、フィールドへと投げ入れた。
その瞬間、ルリナの背筋を、ぞくりと冷たいものが駆け上がった。
あのヤローが、ガラルでも屈指の実力を持つ彼が、手も足も出ずに『降参』させられた。
だが、その恐怖は、すぐに灼けるような闘志へと変わった。
違う。ヤローの戦い方にはきっと甘さがあった。あの場面、もっと踏み込むべきだった。躊躇したから、あのジムリーダーの術中にはまったのだ。
彼女は強く拳を握りしめる。ヤローですら届かなかった、あの氷の仮面を打ち砕く。それができれば、自分は彼を越えたことになるだろうか
「私なら」
ルリナは誰にも聞こえぬ声で呟く。
「私が、あの『鬼教官』を打ち破り、ヤローを超える最初のトレーナーになる」
彼女の碧い瞳に、恐怖の色はもうない。ただ、目の前の壁を打ち破らんとする、激しい炎だけが燃え盛っていた。
☆
ヤローの試合から程なくして、新たな挑戦者としてルリナがフィールドに足を踏み入れると、スタジアムの空気は一変した。
彼女の、洗練された立ち姿と自信に満ちた表情に、観客は新たなスターの誕生を予感し、期待の歓声を送る。
対戦場の中央で、二人のトレーナーは対峙した。長身で優雅なルリナと、小柄ながらも揺るぎない存在感を放つノマル。ノマルは、これまでの挑戦者たちと何ら変わりない、淡々とした口調で特殊ルールを説明し始める。
「もしくは、どのような状況でも、そのピッピにんぎょうを投げれば、バッジを贈呈します」
しかしルリナは、その人形を足元に置いた。
「この人形は、必要ありません」
凛とした声が、ノマルの説明を遮る。スタジアムのざわめきが、一瞬にして静寂に変わった。
ルリナは、観客席のヤローに一瞥をくれると、再びノマルに視線を戻し、はっきりと告げた。
「私は、あなたに『勝って』バッジをいただきます」
その挑戦的な言葉に、観客は今日一番の熱狂で応えた。これこそが、彼らが見たかったジムチャレンジの熱量だ。
熱狂するスタジアムとは裏腹に、ノマルは表情を変えなかった。ただ、諭すような、静かな口調で言った。
「気持ちは分かります。ですが、全ての選択肢を手元に残しておくこと、それもまた、強さですよ」
その言葉は、まるで子供扱いするような響きだった。ルリナのプライドが、カッと燃え上がる。彼女は何も言い返さず、ただ強い意志を込めてノマルを睨みつけた。
ノマルは、ルリナの瞳の奥にある、ヤローへの対抗心という名の「恐怖」と、それを必死に覆い隠そうとする「強がり」を、静かに見抜いていた。
彼女は小さく頷くと、無言で自らのポジションへと踵を返す。
熱狂するスタジアムの中で、ただ二人だけが、氷のように冷たい戦いの始まりを予感していた。
☆
審判のホイッスルが鳴り響き、試合開始を告げる。ルリナは待っていましたとばかりに、淀みなくボールを投げた。
繰り出されたポケモンはみずどりポケモン、ペリッパーだ。
フィールドに舞い降りた大きな水鳥が翼を広げると、その特性『あめふらし』によって、スタジアムの照明を遮る黒い雨雲が瞬く間に形成される。フィールドに激しい『あめ』が降り注ぎ、バトルフィールドは一瞬にして彼女の独壇場へと姿を変えた。
ノマルが一体目のポケモンを繰り出す。だが、そのポケモンがフィールドにしっかりと足をつけるより先に、ルリナの指示が飛んだ。
「『ハイドロポンプ』!」
雨によって強化された水流が、濁流となってノマルのポケモンに襲いかかる。強烈な一撃を受け、なすすべなくフィールドに倒れるパートナーを、ノマルは静かにボールに戻した。
「このまま、一気に決める!」
ルリナは勝利を確信する。観客のボルテージも最高潮に達していた。
だが、ノマルが二体目のポケモンを繰り出す。その姿を見て、ルリナは勝利を確信していた空気を一変させ、奥歯を噛みしめた。
はつでんポケモン、エレザード。でんき・ノーマルタイプ。飛行タイプ複合であるペリッパーにとっては、まさしく天敵。
ルリナは『ノーマルタイプ』というものの対応力の広さというものをまさに体感していた。
相手はノーマルタイプのジムリーダー。しかし、彼女の戦い方を見てきた者なら誰もが知っている。彼女の使うノーマルタイプは、決して教科書通りの戦い方はしない。
その対応策の広さこそが、ノーマルタイプというものの、そして何よりノマルというトレーナーの真の恐ろしさだ。
熱狂から一転、緊張に支配されたスタジアムの中で、ルリナは初めて、目の前のジムリーダーの本当の恐ろしさを感じ始めていた。
表情一つ変えずに、ただ静かにこちらを見据えている、鬼教官の。
ルリナは歯を食いしばる。ペリッパーを失ったのは痛手だが、まだ終わってはいない。彼女には、この状況を打開する完璧な一手があった。
「お願い!」
フィールドに現れたのは、みず・じめんタイプのヌオー。でんきタイプの技は、一切通用しない。エレザードの最大の武器を封じ、ここから反撃に転じる。それが、ルリナの描いた逆転への道筋だった。
それを見たノマルの口元に、ほんのかすかな笑みが浮かんだのを、ルリナは見逃してしまった。
ルリナが次の指示を出すよりも早く、ノマルは動いた。
彼女は無言でエレザードのボールを手に取ると、赤い光でパートナーをその中に収める。手にしたボールに、腕のダイマックスバンドから溢れ出した紅いエネルギーが注ぎ込まれ、ボールは見る間にその大きさを増していく。
やがて人の頭ほどの大きさになったそれを、ノマルはやはり無言のまま、静かな動作で後方へと放り投げる。
巨大なボールが弾けるように開き、中から溢れ出した光と共に、天を突くほどの巨体となったエレザードがその姿を現した。その咆哮はスタジアムを震わせ、雨雲の下にあるフィールドに、絶対的な支配者の影を落とす。
ルリナは息を呑んだ。ここでダイマックスで応戦するべきか?。否、相手は残り二体。こちらはまだ二体残っている。エースのカジリガメにダイマックスは温存するべきだ。
ヌオーなら、ダイマックスした相手でも、十分に持ちこたえられるはず。
その一瞬の判断が、命取りだった。
ノマルの声は、氷のように冷静。
「『ダイソウゲン』」
その言葉の意味を、ルリナは一瞬理解できなかった。
緑のエネルギーが渦巻き、ヌオーを飲み込む。抵抗する術もなく、四倍の弱点を突かれたヌオーはフィールドに倒れる。
ルリナがその『ダイソウゲン』がエレザードのサブウェポン『ソーラービーム』を元にしたものであり、なおかつノマルが『あめ』状況下でありながらその技を選択するためにダイマックスを選んだことを知るのは、もう少ししてからだった。
ダイマックスしたエレザードの巨体が、フィールドに絶望的な影を落としている。
残る手持ちは、エースのカジリガメ一体のみ。だが、タイプ相性を考えれば圧倒的な不利、ルリナの心は、すでに完全に折れていた。
足元に転がる、一体のピッピにんぎょう。
それはもはや、ただのルールではなく、彼女に残された唯一の道であり、打ち砕かれたプライドの象徴だった。
震える手で、彼女はそれを拾い上げる。ずしりと、魂が抜けていくような重さを感じた。
最後に見たノマルの表情は、やはり何も変わらない。その揺るぎなさが、今は何よりも恐ろしかった。
ルリナが投げた人形は、力ない放物線を描き、フィールドの中央に、ことりと音を立てて転がった。
審判の、試合終了を告げる声が、やけに遠くに聞こえた。
☆
ノマルはエレザードをボールに戻すと、静かな足取りでルリナのもとへと歩み寄った。俯いたまま動けないルリナの前に立ち、彼女は、勝者が見せる表情ではない、どこまでも穏やかな、しかし感情の読めない声で言った。
「あなたの判断を、私は誇りに思います。勝ち目のない戦いから、自らの意志で降りる。それこそが、本当の勇気です」
その言葉が、ルリナの胸に突き刺さった。
賞賛の言葉のはずなのに、それは何よりも残酷な、敗北の証明だった。悔しさで唇を噛み締めると、熱いものが喉の奥からこみ上げてくる。ここで泣いてしまえば、本当に、全てを認めてしまうことになる。ルリナは、奥歯を強く食いしばり、必死に涙を堪えた。
ノマルはそんな彼女の葛藤に気づかぬように、事務的な動作でジムバッジを取り出す。
「規定通り、あなたにはバッジを贈呈します」
差し出されたバッジを、ルリナは何も言わずに受け取った。ありがとうございます、と声に出すことすら、今の彼女にはできなかった。
一刻も早くこの場から立ち去りたい。その一心で、彼女はノマルに背を向け、控室へと続く廊下へと、逃げるように歩き出した。
☆
控室へと続く、静まり返った廊下。遠くなった歓声が、今はただ虚しく響くだけだった。
その壁に、ヤローが寄りかかって待っていた。
どんな顔をすればいいのか分からず、ルリナは俯いたまま彼の前を通り過ぎようとする。軽蔑されるか、あるいは、同情されるか。どちらにしても、今の彼女には耐えられそうになかった。
「お疲れ様です」
かけられたのは、想像していたどんな言葉とも違う、ただ静かで、優しい声だった。
顔を上げると、ヤローは困ったように、しかし穏やかに微笑んでいた。
「悔しい、ですな」
その、自分のことのように痛みを分かち合う言葉が、彼女が必死に張り詰めていた意地の糸を、ぷつりと断ち切った。
堪えていた涙が、堰を切ったように頬を伝う。
声にならない嗚咽を隠すように、ルリナは俯いて顔を腕で覆った。
ヤローは何も言わず、ただ静かに、彼女の隣に立っている。
ライバルとして、ただ競い合うだけの関係は、この瞬間に終わった。
互いの痛みを、そして、あの壁の高さを知る、ただ二人の『戦友』が、そこに生まれた。
☆
ラーノノジムの閉館時間をとうに過ぎた、静かなリーダー室。
ノマルは一人、デスクのモニターに映し出された試合記録を、無言で見つめていた。
画面には、ターフタウンのヤロー、そしてバウタウンのルリナのデータが並んでいる。二人とも、最後はピッピにんぎょうを投げた。ダンデやキバナのような、思想そのものを拒絶する頑なさはない。
だが、そこに迷いがなかったわけではない。彼らの瞳に宿っていたのは、安堵ではなく、屈辱と悔しさの色だった。
果たして、自分のやり方は本当に彼らのためになっているのだろうか。
その問いが、最近の彼女の頭を支配していた。彼女が深く思考の海に沈もうとした、その時だった。
コン、コン、と控えめなノックの音が、静寂を破った。
「リーダー、お客様です」
ノマルはハッと顔を上げ、モニターから視線を外した。「どうぞ」と返すと、フッツが穏やかな笑みを浮かべて扉を開ける。
その背後からひょっこりと顔を覗かせたのは、キルクスタウンのジムリーダー、メロンだった。彼女は、部屋の主であるノマルが驚いているのを見ると、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「どうも、ノマルちゃん。ごめんね、突然押しかけちゃって。今日はちょっと、様子を見に来ただけだから、気にしないで」
フッツが気を利かせて温かい紅茶を二つ用意すると、邪魔しないようにと静かに部屋を辞した。残されたのは、二人のメジャージムリーダー。年の離れた、しかしどこか似た空気を纏う二人だけだった。
メロンは、窓の外に広がるラーノノの穏やかな街並みを見ながら、穏やかに口を開いた。
「本当にいい町ね、ラーノノは。来るたびに思うわ。シュートシティのような華やかさはないけれど、人の暮らしが根付いている、温かい空気がする」
彼女は、その街の空気と、旧知の仲であるフッツの姿を重ねる。
「フッツさんが長年守ってきたものね。あの人らしい、優しくて、少し不器用な町。さっき受付で会ったけど、相変わらず元気そうで安心したわ。ジムリーダーを辞めても、あの人はあの人ね」
その流れで、彼女はノマルへと視線を移し、優しく微笑んだ。
「正直に言うとね、あなたがあの子の後を継ぐと聞いた時、少しだけ心配していたのよ。フッツさんとは、あまりにもタイプが違うから。この町の空気が、あなたには少し窮屈なんじゃないかって」
そして、彼女は心からの言葉を続けた。
「でも、杞憂だったみたい。あなたは、あなたのやり方で、ちゃんとこの町に根を張っている。市場の人たちも、あなたのことを話していたわ。思っていたよりも、ずっと……立派にやっているのね」
突然の、そして真心のこもった賞賛に、ノマルは少し戸惑い、素直に礼を言えない。「……ありがとうございます」と、小さく返すのが精一杯だった。
そのノマルの反応を見て、メロンは本題へと入る。「そうやって頑張っているのを知っているからこそ、今日の話があるのだけれど……」と切り出し、自身の息子の話へと移った。
「うちのマクワもね、もうすぐなのよ。ジムチャレンジに挑戦するって、息巻いててね。親としては、心配ばかりが先に立ってしまって……」
メロンは、ノマルの目を真っ直ぐに見つめる。
「だから、あなたのやろうとしていること、母親としては、痛いほど気持ちがわかるの」
その共感の言葉に、ノマルは少しだけ、心の鎧を解いた。
「でもね」とメロンは続ける。「トレーナーとしては、どうしても思ってしまうの。『強敵に立ち向かう』あの喜びも、あの子たちの成長には必要なのかもしれない、って」
ノマルは静かに問い返す。「その『喜び』は、若者たちを危険と隣り合わせにしてまで、与えるべきものですか?」
「本当に難しい問題よ」とメロンは正直に認め、「危険を避けすぎるなら、子供に一人でおつかいに行かせることすらできないわ。そして事実として、今のシステムで、ガラルは何とかうまく回っている」と、リーグの現実的な側面を語った。
そして、メロンは、この訪問の本当の理由を切り出した。
「あなたの施設やバトルが安全なのは、私もよく分かっているわ。私が**『危険』**だと言っているのは、そこではないの」
彼女は、ノマルの驚異的な連勝記録を指摘する。
「あなたのその強さが、皮肉なことに、あなた自身を『倒すべき最高のトロフィー』にしてしまっているのよ」
メロンの言葉に、ノマルは息を呑んだ。
「あなたは『逃げる勇気』を教えたいのに、あなたの圧倒的な強さが、若者たちに『あなたに挑む無謀な勇気』の価値を教えてしまっている。……ダンデくんが、その扉を大きく開けてしまったわ」
図星を突かれたノマルは、言葉に詰まる。そして、思わず、心の奥底にあった不安が漏れた。
「ダンデくんは、元気にしていますか」
「ええ、元気すぎるくらいよ」とメロンは優しく微笑み、空気を和ませる。
「ごめんなさい、批判みたいになってしまって。でもね、ジムリーダーは八人もいるのよ。あなた一人で、全ての責任を背負いすぎることはないの」
ノマルは、その優しさに素直になれず、一度は「ご心配、ありがとうございます」と、形だけの礼を言う。
しかし、メロンが立ち上がり、部屋を去ろうとする間際に、ノマルの本心がこぼれた。
「メロンさん。あなたの息子さんの、ご無事を祈っています」
それは、ノマルなりの最大限の感謝であり、同じく子供の未来を案じる者としての、偽らざる祈りだった。
メロンはそれに静かに微笑むと、何も言わずに部屋を後にした。
☆
それは、ナックルシティ不世出の天才であるキバナが、史上二人目となるジムリーダーノマルへの勝利者となった日であった。
フィールドに倒れる相手のエースポケモンと、荒い息を繰り返す自らのパートナーを、キバナはただ、瞬きも忘れて見つめていた。
脳裏に蘇るのは、数週間前の、あの惨めな敗北の光景。悔しさに濡れた頬の感触と、ロトムフォンが放った無慈悲なフラッシュの光。あの日の誓いを、今、果たしたのだ。
「っしゃあ!」
観客の歓声にかき消されるほどの、喉の奥から絞り出したような、彼自身のためだけの雄叫びだった。
やがて、ノマルが静かに敗れたパートナーをボールに戻し、フィールドの中央へと歩み寄る。
その光景を見ながら、彼女の脳裏には、数日前にメロンが残していった言葉が蘇っていた。
『あなたのその強さが、皮肉なことに、あなた自身を『倒すべき最高のトロフィー』にしてしまっているのよ』
まさしく、その通りだった。
目の前の少年は、ダンデが開けた扉を、その執念でこじ開けたのだ。自分の存在が、彼のような才能ある若者を、より危険な道へと駆り立ててしまっている。
「おめでとう、ございます。私の、負けです」
差し出されたノマルの手を、キバナは力強く握り返す。
「ああ。あんたにも、ダンデにも、オレさまは負けねえ」
ノマルは静かにジムバッジを差し出す。そして、すれ違いざまに、懇願するような、それでいて諦めにも似た声で言った。
「キバナくん。あなたは強い。ですが、だからこそ忘れないでください。この先、必要があれば、いつでも逃げていい。その選択肢を、決して捨ててはいけません」
しかし、勝利に酔う少年に、その言葉は届かない。キバナはそれに答えず、不敵な笑みを浮かべるだけだった。
観客の万雷の拍手に応えながら、キバナは再びロトムフォンを呼び出す。
彼は、数週間前の涙に濡れた自分の写真を開く。そして、その隣に、今撮ったばかりの、汗と埃にまみれながらも誇らしげにバッジを掲げる自分の写真を並べた。
敗北と、勝利。
その二枚の写真こそが、彼がこのジムで手に入れた、何よりの勲章だった。
その光景を、ノマルは、ただ複雑そうな表情で、黙って見つめていることしかできなかった。
☆
ジムが閉館し、全ての喧騒が去った後も、リーダー室の明かりだけが消えることはなかった。
ノマルは一人、安価なボールペンを走らせ、今日新たに生まれた『強敵』キバナについての目録を完成させようとしていた。
書き終えたルーズリーフの束をファイルに綴じ、彼女は部屋の奥にあるダイヤル式の金庫を開く。
そこには、すでに四つのファイルが収められていた。ソニア、ヤロー、ルリナ、そして、ダンデ。
キバナのファイルが加わり、彼女の『特別な』挑戦者は、五人となった。
想定外の数だった。彼女の計算では、自身の思想を乗り越える、あるいは深く理解する可能性のある『特別な』挑戦者は、このシーズンに現れてもせいぜい二人、多くても三人だと踏んでいた。
そのズレが何に起因するのか、思考を深めようとした、その時だった。
部屋の扉がノックされ、フッツに促されるようにして、ミスミが顔を覗かせた。
「リーダー、まだ」
ノマルは思考を中断されたことにわずかに眉をひそめたが、すぐに表情を戻すと、デスクの上に置いていたキバナのファイルを掴み、自身のバッグに滑り込ませた。
ジムでの分析はここまでだ、この続きは家でやらなければならない。
「帰りましょうか」
その時、ミスミが思い出したように声を上げた。
「あの、リーダー! 前にお願いした、友達とポケモンをゲットしに行く約束なんですけど、ジムチャレンジが終わった週の休日はどうですか?」
その声は、ノマルの耳には届いているようで、届いていなかった。彼女の頭の中は、五人の挑戦者と、その先に待つファイナルトーナメントのことで埋め尽くされている。
「ああ、ええ。わかっています。その日ですね」
彼女は、どこか心ここにあらずな様子で、適当に頷いた。
その返事が、彼女の深い疲労からくるものであることに、ミスミはまだ気づけない。ただ、約束を取り付けられたことに、彼は安堵の笑みを浮かべるだけだった。
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マシュマロ
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