ノマルは二部だが愛がある   作:rairaibou(風)

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過去編 新人ジムリーダーノマル 52 無垢なる挑戦、悲痛なる理想

 激しい雷雨が、キバ湖の湖畔を叩きつけていた。

 

 ずぶ濡れになりながらも、一人のジムチャレンジャーの顔は達成感に満ちていた。

 つい今しがた、この荒天の中でしぶとく抵抗を続けていた野生のオノノクスを、見事なコンビネーションで打ち破ったところだ。

 この調子なら、最後のバッジも、その先のトーナメントへの道筋すら、はっきりと見えている。彼の胸には、確かな手応えが満ちていた。

 ぬかるんだ地面に膝をつき、満身創痍のパートナーをねぎらう。その時だった。

 

 穏やかだったはずの湖面が、突如として激しく泡立ち始めた。ゴポゴポと不気味な音を立て、巨大な渦が巻いていく。チャレンジャーが危険を察知し、パートナーをボールに戻した瞬間、水面が爆発した。

 

 嵐の中から現れたのは、もう一つの『嵐』だった。

 

 はさみポケモン、キングラー。

 それも、キョダイマックスの姿。

 

 山のような巨体が、雷光に禍々しく照らし出される。チャレンジャーは恐怖に息を呑んだ。それは、人の身では到底抗えぬ、自然そのものが持つ脅威の塊だった。

 

 しかし、その恐怖はすぐに、トレーナーとしての本能的な昂りへと塗り替えられていく。あれほどの強大な存在が、今、目の前にいる。

 

 これを打ち破ることができたなら、もし、とらえることができたのならば、自分は。

 

「やるしかない!」

 

 彼は、自らの闘争心に突き動かされるように、新たなボールを握りしめた。

 

 先陣を切ったのは、俊敏なストリンダーだった。

 

 雨に濡れた大地を滑るように駆け、エレキフィールドを展開、続けて放ったオーバードライブがキングラーの巨体に突き刺さる。

 

 しかし、チャレンジャーの表情から自信が消えた。効果抜群のはずの一撃が、キョダイマックスポケモンの特殊なバリアの前で、まるで厚い壁に阻まれたかのように掻き消える。信じがたい光景に、思考が追いつかない。

 

 彼は諦めなかった。立て続けにポケモンを繰り出し、持てる限りの知識と戦術で食らいつく。だが、その全てが、巨大な壁を前にしてはあまりにも無力だった。

 

 最後のパートナーをフィールドに送り出しながら、チャレンジャーの心には、初めて明確な『敗北』の二文字が浮かんでいた。

 

 その心の揺らぎを、キングラーが見逃すはずもなかった。

 天を覆い尽くすほどの巨大な泡塊——『キョダイホウマツ』が、フィールド全域を飲み込む。パートナーは抵抗する術もなく、その濁流に呑み込まれていった。

 そして、その攻撃の余波は、チャレンジャー自身にも襲いかかった。

 

「ぐっ……!」

 

 強烈な水圧と衝撃に体ごと吹き飛ばされ、背中を湖畔の岩壁に強く打ち付ける。薄れゆく意識の中、彼が最後に見たのは、自分を見下ろすキングラーの、無慈悲な巨影だった。

 

 その時だった。嵐を切り裂くようにして、数体のウォーグルが空から舞い降りた。その背には、悪天候用の装備に身を固めたプロフェッショナルたち——ポケモンレンジャーの部隊が跨っている。彼らは迅速に展開し、二つのチームに分かれた。

 

「これ以上の接近は危険だ! 援護班、キングラーの注意を引け!」

「了解!」

 

 隊長の指示を受け、若手のレンジャー二名が前に出る。彼らの瞳には、脅威を前にした恐怖よりも、人々を守るという使命感と、自らの力を試さんとする若者特有の闘志が燃えていた。

 

 彼らが繰り出したのは、ルカリオ、そしてウィンディ。

 

「『はどうだん』!」

「『しんそく』!」

 

 放たれたはどうだんは、しかし、キョダイマックスポケモンの周囲に渦巻く不可視のエネルギーの壁に触れた瞬間、霧散した。

 

 ウインディの俊敏な動きも、キングラーの巨体の前では、まるでまとわりつく羽虫のようだ。キングラーは鬱陶しげに巨大なハサミを振るう。

 それは直接攻撃ですらない、ただの牽制。しかし、その薙ぎ払いが起こした衝撃波だけで、レンジャーとパートナーたちは木の葉のように吹き飛ばされた。

 

「下がれ!」

 

 隊長の怒声が、雷鳴よりも鋭く響き渡る。

 

「救助班、突入!」

 

 その号令一下、部隊の動きは一変する。

 

 一団がマタドガスやゲンガーを繰り出し、『えんまく』や『あやしいひかり』でキングラーの注意を逸らす。それは攻撃ではない。ただ、時間を稼ぐための一手。

 その隙に、医療担当の隊員が、パートナーのラッキーと共に倒れたチャレンジャーへと駆け寄った。迅速な応急処置、そして特殊な担架に体を固定する。全ての動きに一切の無駄がない。

 

「救助完了! 離脱する!」

 

 通信を受け、上空で待機していたウォーグルが急降下し、担架をワイヤーで吊り上げる。

 レンジャー部隊は、役割を終えたポケモンたちをボールに戻すと、次々とウォーグルの背に飛び乗り、嵐の中へと再び舞い上がっていった。

 

 嵐の中、勝利の雄叫びを上げるキングラーを残して。

 脅威は、そこに、残されたままだった。

 

 

 

 

 その報せが届いたのは、ラーノノジムが閉館し、全ての喧騒が去った後のことだった。

 リーダー室のデスクで、ノマルはその日のジムチャレンジの記録を一人、静かに確認していた。

 

 モニターに並ぶのは『バッジ取得』の文字と、それに付随する無数の『敗北』の記録。彼女の教えをなぞり、ただ次のジムへと向かっていった挑戦者たちのリストを眺めるその瞳には、深い疲労の色が浮かんでいた。

 

 その時だった。デスクの携帯端末が、ニュース速報を知らせる鋭いアラートを鳴らした。

 

『速報:ワイルドエリアにてチャレンジャー重傷事故。キョダイマックスポケモンとの交戦中か』

 

 見ていたはずのモニターの文字が、意味をなさなくなる。手からボールペンが滑り落ち、乾いた音を立てた。

 彼女の予言が、彼女の警告が、最悪の形で現実になった瞬間だった。

 

 ノマルが言葉を失っていると、今度はその端末が、着信を知らせて震えだした。

 画面に表示された名前は、三文字。

 

『マツムさん』

 

 ノマルは、その名前を、ただじっと見つめていた。

 

 

 

 

 事故から数日後。一時閉鎖されたワイルドエリアのゲート前は、冷たい雨が降りしきる中、混沌の渦中にあった。リーグの公式発表を待つ報道陣の怒号、カメラのフラッシュ、心配そうに遠巻きに見守る野次馬たちのひそひそ話、そして、彼らを制止しようと必死に腕を広げるリーグの警備員たち。あらゆる音と光が混じり合い、現場は飽和状態にあった。

 

 その喧騒の中心に、まるでそこだけが切り取られたかのように、静寂の島があった。

 マツムを先頭にしたガラル遺族協会のメンバー数十名が、腕に黒いリボンを巻き、雨に濡れるのも構わずに、アスファルトの上に静かに座り込んでいる。老人もいれば、まだ若い夫婦もいる。彼らはシュプレヒコールを上げるでもなく、ただ「悲劇を繰り返すな」「ワイルドエリアに恒久的な安全を」と書かれたプラカードを、墓標のように抱きしめていた。その沈黙が、どんな大声よりも雄弁に、彼らの揺るぎない覚悟を際立たせている。

 

 均衡を破ったのは、痺れを切らした一人の記者だった。警備員の制止を振り切り、マイクを握りしめてマツムの前へと駆け寄る。それを皮切りに、秩序は崩壊した。我先にと、報道陣がマツムへと殺到する。

 

「マツム会長! 今回の行動の真意は!」

「リーグへの明確な抗議と見てよろしいか!」

 

 無数のマイクが、まるで牙のように彼女へと突きつけられる。しかし、マツムは動じなかった。彼女はゆっくりと立ち上がると、目の前の記者ではなく、その背後にある無数のカメラのレンズを、その向こう側にいるガラル全土を、真っ直ぐに見据えた。彼女の心は、嵐のように静まり返っていた。

 

 静かに、しかし、その場の全ての雑音を支配するほど力強い声で、彼女は語り始めた。

 

「リーグ協会による『一時的な閉鎖』は、その場しのぎの対策に過ぎません。嵐が過ぎ去るのを待つだけでは、また同じ悲劇が繰り返されるだけです」

 

 その凛とした声に、記者たちの喧騒がわずかに収まる。マツムは、一度言葉を切り、今度はより強い意志を込めて続けた。

 

「私たちが求めているのは、絆創膏ではなく、根本的な手術です。若きトレーナーたちが、夢を追う代償に命を危険に晒すことのない、恒久的な安全対策の確立です」

 

 そして、最後に、彼女の表情から一切の強さが消えた。それはもはや、NPO法人の代表ではなかった。ただ一人、息子を失った母親として、その魂から言葉を絞り出していた。

 

「私は、息子を失いました。これ以上、私のような思いをする母親が、このガラルに一人として生まれてはならないのです」

 

 その悲痛な訴えに、現場の空気は完全に圧倒された。あれほど騒がしかった記者たちも言葉を失い、誰かがマイクを落とす音だけが、雨音の中に虚しく響いた。人々はただ、雨に打たれながら静かに佇む一人の母親の姿を、見つめていることしかできなかった。

 

 

 

 

 マツムの声明がガラル全土に衝撃を与えている、まさにその時だった。

 舞台は変わり、ラーノノジム。

 マツムの抗議行動とは別に、ラーノノジムが「ジムリーダーによる緊急声明発表」を行うと各報道機関に伝えたため、ジムの前には多数の報道陣が詰めかけ、騒然としていた。

 

 ジムの自動ドアが静かに開き、フッツが一人で姿を現した。

 普段はおっとりとした男であるが、この時の彼は、かつてラーノノジムを統率し『ガラルポケモンリーグ倫理委員会会長』であった時のような緊張感をはらんでいる。

 彼は集まった報道陣を落ち着かせるようにゆっくりと両手を広げ、そして告げる。

 

「皆様、お集まりいただきありがとうございます。ただいまより、ラーノ-ノジムリーダー・ノマルによる、緊急記者会見を行います。リーダーの声明発表後、質疑応答の時間は設けません。あらかじめ、ご了承ください」

 

 その言葉に、記者たちの間に緊張が走る。フッツがジムの中に戻ると、入れ替わるようにして、ノマルが一人で姿を現した。

 

 ユニフォームではない。黒いリボンをつけただけの、シンプルでフォーマルな服装だ。その場の喧騒が、彼女の登場によって一瞬だけ静まり返る。

 

 彼女は、無数のカメラのフラッシュとマイクが作る壁に向かって、一歩、また一歩と、躊躇なく進み出た。彼女の頭の中では、ただ一つの目的だけが、燃え盛る炎のように輝いている。他の全ては、もはや意識の外だった。

 

 用意されたマイクの前に立つと、彼女は一度、目を閉じる。そして、ゆっくりと目を開くと、その声は、驚くほど冷静に、そして明瞭に、その場の全ての空気を支配した。

 

「先日、ワイルドエリアにて、将来ある一人のチャレンジャーが重傷を負うという、痛ましい事故が起きました。これは、決して起こってはならない事故でした」

 

 一つ、そこで息を吐く。

 

「ガラルポケモンリーグ協会に対し、トレーナーの安全を確保するための、恒久的かつ実効性のある対策の早急な確立を、私は強く求めます」

 

 そして、彼女はガラル全土が見守る中、この会見の、そして彼女自身の抗議の核心を、静かに、しかしはっきりと宣言した。

 

「その公式な見解と実施計画が示されるまで、私、ノマルは、ラーノノジムリーダーとしての全ての公式活動を、本日をもって一時停止いたします。挑戦者の皆様には、ご迷惑をおかけすることを深くお詫び申し上げます」

 

 声明を終えると、彼女は「質疑応答は受け付けません」とでも言うように、堰を切ったように浴びせられる記者たちからの質問には一切答えなかった。

 深く、一度だけ頭を下げると、毅然としてジムの中へと踵を返す。閉ざされた扉が、彼女の揺るぎない決意を物語っていた。

 

 

 

 

 記者会見を終え、ノマルがジムの奥へと姿を消した後も、ラーノノジムの前は報道陣の喧騒が支配していた。次々と焚かれるフラッシュが、閉ざされた自動ドアの向こう、静まり返ったジムのロビーの床にまで、明滅する光の残像を落としている。

 

 外の怒号やシャッター音は、厚い防音壁に阻まれ、くぐもった遠い喧騒としてしか聞こえない。その反面、ジムの中は、まるで嵐の目の中にいるかのように、不気味なほど静かだった。

 

 ノマルは、ロビーの中央に一人、佇んでいた。背後の扉の向こうにある混沌と、目の前に広がる静寂なジム。その境界線に立ち、彼女は自らが引き起こした事の大きさを、ただ静かに受け止めている。

 その時、受付カウンターから、フッツが声をかけた。彼が操作するメインモニターに、リーグのエンブレムと共に、最優先通信を示すアラートが点灯していた。

 

「リーダー、委員長からだ」

 

 ノマルはゆっくりと振り返る。その声色だけで、それがどのような内容であるか、彼女には分かっていた。彼女は静かな足取りでカウンターへと向かい、モニターに表示された簡潔な文面に目を落とす。

 

『シュートシティ、リーグ協会本部へ。速やかに出頭されたし』

 

 その高圧的な文面を読み終えても、彼女の表情は変わらない。ただ、その瞳の奥で、決意の炎がより一層強く燃え盛るのを、隣に立つフッツは見逃さなかった。

 

「ローズ委員長から、かね?」

 

 フッツは、心配そうに眉をひそめた。

 

「一人で行くのは、危険かもしれん。私も同席しようか?」

 

 その声には、ノマルを案じる温かさと、現委員長を「若造」と見なす、長年の経験者としての響きがあった。

 

 ノマルは、その心遣いに感謝しつつ「いいえ、必要ありません」と、申し訳なさそうに首を横に振る。

 

 そして、少し目を伏せて続けた。

 

「フッツさん、私の個人的な戦いに、あなたを巻き込んでしまって、本当に申し訳ありません」

「それが君の信念ならば、謝る必要はないよ」

 

 フッツは、諭すように言った。

 

「行ってきなさい。君の信じる道を」

 

 

 

 

 シュートシティ、リーグ協会本部、会長室。

 

 ガラス張りの壁の向こうには、ガラルの中心であるシュートシティの摩天楼が一望できた。

 その広大な部屋の中央で、ノマルは、巨大なデスクを挟んでローズ委員長と対峙していた。部屋の大きさも、窓の外の景色も、全てがこの部屋の主の権力を示すために計算され尽くしているように感じられた。

 

「まずは座りたまえ」というローズの言葉を、ノマルは静かに無視した。

 

 ローズは肩をすくめると、穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で切り出す。

 

「君の懸念は理解している。今回の事故は、リーグとしても非常に重く受け止めている。現在、全力で調査している最中だ」

 

 彼は一度言葉を切り、組んだ指に力を込める。

 

「しかし、現役のジムリーダーがリーグの方針を待たずして職務を放棄するなど、前代未聞だ。君の行動は、遺族協会の過激な主張に正当性を与え、いたずらにガラルの民の不安を煽っている。これはリーグ全体の信頼を揺るがす行為だ。スポンサーへの影響も考えてほしい」

 

 その言葉は、どこまでも正論だった。組織の長として、完璧な対応。しかし、ノマルは揺るがなかった。彼女は、ローズの言葉を最後まで黙って聞いていた。そして、静かに、しかし刃のように鋭い声で返した。

 

「委員長。これは職務放棄ではございません。私の職務とは、未来あるトレーナーたちを正しく導くこと。彼らを無為に危険に晒すシステムに加担することは、その職務に反します」

 

 ローズの眉が、わずかにぴくりと動いた。彼女は、彼の土俵で戦うつもりがない。

 

「『リーグの信頼』、と仰いましたね」と、ノマルは続ける。

 

「子供一人の安全すら保証できないリーグに、どのような信頼があると? スポンサーの方々も、悲劇の上に成り立つ興行を望んではいないはずです」

 

 ローズは、苛立ちを悟られぬよう、ゆっくりと息を吐いた。そして、最後通告のように、声のトーンを一つ落とす。

 

「これは命令ではない、あくまで『進言』だ。直ちに声明を撤回し、ジムリーダーの職務に戻りなさい。我々の調査結果を、信頼して待ってほしい」

 

 だが、ノマルの決意は変わらない。

 

「私が求めているのは『調査』ではありません。『恒久的な安全対策の確立』です。それが示されない限り、私の決意は変わりません」

 

 彼女の瞳には、一切の迷いがない。ローズの言葉も、この部屋の威圧感も、今の彼女の前では何の意味もなさなかった。二人の議論は、完全に平行線を辿っていた。

 

 巨大なデスクを挟んでローズと対峙するノマルは、その部屋の空気が、まるで自分一人のために用意された檻のように感じられた。ローズが繰り出す正論と、組織の長としての圧力が、徐々に彼女の精神を削っていく。彼が「ならば、こちらにも考えがある」と、最後通告を突きつけようとした、まさにその時だった。

 

 丁重なノックの後、会長室の扉が開いた。

 

「失礼するよ」

 

 入ってきたのは、アラベスクジムリーダー、ポプラだった。彼女は部屋の緊張した空気を意にも介さず、優雅に微笑むと、ローズに向かって言った。

 

「ローズ坊や。若い娘一人を、こんな大きな部屋に呼びつけて、いったい何のお話かしら?」

 

 その一言で、部屋の力関係が完全に変わった。ローズは、人生の大先輩でもある彼女を前にして、苛立ちを隠して丁重に応対せざるを得ない。

 

「ポプラさん、これは、リーグの内部の問題でして」

「そうかい?」

 

 ポプラは、ノマルの隣に立つと、まずローズに向き直った。

 

「この子が自分の務めを中断してまで訴えなければならないほどの『何か』が起きた。委員長であるあなたの仕事は、この子を叱ることではなく、その『何か』の根本を解決することじゃないかい?」

 

 リーグの伝統と、長としての責任。的確な指摘に、ローズは言葉を失う。

 しかし、次にポプラは、ノマルへとその厳しい視線を向けた。

 

「そして、あんたもだよ、ノマル」

 

 その声色に、ノマルはハッと顔を上げる。

 

「自分の正義を貫くために、リーグ全体を人質に取るようなやり方は、感心しないね。それに、あんたのやり方は、あまりにも性急すぎる。子供たちを危険から守りたいという気持ちは分かるが、全ての芽を摘んでしまっては、花は咲かないのさ」

 

 ポプラは、諭すように二人を見る。

 

「あんたたちが目をかけているハロンタウンの坊や、ダンデだったね。あの子のような、強い光を持つ子ほど、危いものはない。あたしたち大人の役目は、その光が自らを焼き尽くす前に、正しい道を照らしてやること。力で押さえつけたり、全ての道を塞いでしまったりすることじゃないよ」

 

 両者の不備を的確に指摘され、ローズもノマルも反論ができない。

 

 ポプラは、呆れたようにため息をつくと「さあ、どうするんだい? このまま意地の張り合いを続けるのかい?」と、二人に解決を促した。

 

 その言葉を受け、先に折れたのはローズだった。彼は面子を保つための唯一の選択肢として、ノマルに「取引」を持ちかける。

 

「分かった。ノマル君の意見は受け入れよう。だが、リーグが何らかの安全措置を発表した際には、すぐに活動を再開するように」

 

 ポプラという証人の前で、ノマルもそれを受け入れた。

 

「その『措置』が、真にチャレンジャーたちの未来を守るものであることを、期待しております」

 

 二人の間に、緊張をはらんだ一時的な休戦協定が結ばれた。

 

 

 

 

 ローズとの会談を終え、重い足取りで会長室を出たノマルを、ポプラが待っていた。彼女は、ノマルの疲労困憊の表情を見ると、悪戯っぽく微笑む。

 

「お疲れ様。少し、付き合ってくれないかい? いいカフェがあるんだ」

 

 有無を言わさぬその誘いに、ノマルは静かに頷くしかなかった。

 

 通されたのは、シュートシティの喧騒が嘘のような、静かで趣のあるカフェだった。アンティークの調度品に囲まれた奥まった席で、二人は温かい紅茶を注文する。テーブルに運ばれてきたカップの温もりが、張り詰めていたノマルの心を少しだけ和らげた。

 

 ポプラは、まず先ほどの件について、自らの立場を明確にする。

 

「勘違いするんじゃないよ。あたしはあんたの味方をしたわけじゃない。あの子(ローズ)のやり方が、ちと強引すぎた。ただ、それだけさ」

 

 あくまで中立だというその言葉に、ノマルは静かに頷く。

 

 しばらく、二人はただ静かに紅茶を口に運んだ。やがて、カップを静かに置いたポプラが、ノマルの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「聞かせておくれ、ノマル。あんたは、一体何と戦っているんだい?」

 

 その問いは、リーグやローズといった具体的な相手を指しているのではない、もっと根源的な問いだった。ノマルは一瞬言葉に詰まるが、意を決して答える。

 

「私は、無謀な『勇気』と戦っています。才能ある若者が、自らの輝きで身を滅ぼす、その運命と」

 

 その答えを聞き、ポプラの瞳に、深い慈愛と、そして悲しみの色が浮かんだ。

 

「そうかい。だがね、ノマル。あたしたち大人が、その輝きを恐れて、全ての光を覆い隠してしまっていいのかね? 時には、火傷をすることも、あの子たちの成長には必要なのさ」

 

 ポプラの言葉は、ノマルの思想の核心を、優しく、しかし鋭くえぐる。ノマルは、それにうまく反論できない。

 

「その火傷が、命取りになることもある。私は、その可能性を見過ごすことはできません」

 

 それが、彼女にできる唯一の返答だった。

 

 ポプラは、それ以上は何も言わず、一つため息をつく。

 

「あんたは、フッツに似て、頑固だね。だが、一人で全てを背負うんじゃないよ。それだけは、覚えてお帰り」

 

 ポプラは伝票を持つと、席を立つ。

 ノマルは一人、まだ温かい紅茶のカップを両手で包み込みながら、彼女の言葉の意味を、ただ一人、反芻するのだった。

 

 

 

 

 あの日から、もう三日が過ぎようとしていた。

 ワイルドエリアゲート前には、冷たい霧雨が降り続いている。熱狂と怒号に満ちていた当初の喧騒はすっかりと息を潜め、今では、雨音と、時折響く報道陣の小さな咳払いだけが聞こえる、重く湿った沈黙が支配していた。

 ガラルポケモンリーグ協会は、未だ『調査中』の一点張りで、具体的な安全対策を何一つ示してはいない。その不誠実なまでの沈黙に、ガラル遺族協会のメンバーたちの決意は、むしろ日を追うごとに硬くなっていた。雨に濡れて文字が滲み始めたプラカードを、彼らは固く握りしめている。

 

 その膠着した空気を破ったのは、新たな嵐の到来だった。

 人垣の外側で、ひときわ大きな声が響き渡る。

 

「だから大丈夫だって言ってるだろ、ソニア!」

「大丈夫じゃないから言ってるの! あなたねえ、今ガラル中がこの問題でどれだけ大変なことになってるか、全然分かってないでしょ!」

 

 その声の主は、報道陣や野次馬の注目を一瞬で奪い去った。

 ジムチャレンジのユニフォームに身を包んだ少年、ダンデが、彼を必死に引き留めようとするソニアの腕を振り切りながら、ゲート前へとずんずんと進んでくる。

 彼は、現場の重々しい政治的な緊張感など意にも介さず、ただ一つのことしか頭にないようだった。

 

「だって、ニュースで言ってたんだ! とんでもなく強いキングラーがいるって! 危ないポケモンがいるなら、俺が倒さないと!」

 

 そのあまりにも純粋で、悪気のない言葉に、ソニアは頭を抱える。彼のその真っ直ぐさが、長所であり、そして最大の短所であることを、彼女は誰よりもよく知っていた。

 

 ダンデとソニアの言い争いは、座り込みを続けるガラル遺族協会の面々の注意を引いた。

 その中から、マツムが静かに立ち上がり、ダンデの前へと進み出る。報道陣のカメラが一斉に彼女へと向けられた。

 

「坊や」

 

 マツムの声は、雨音の中でも凛として響いた。

 

「あなたも、あの怪我をした子と同じ、才能ある挑戦者なのでしょう。そのお気持ちは、痛いほど分かります。ですが、どうか、お引き取りください。あれは、遊び半分で近づいていい相手ではありません」

 

 その悲痛な訴えに対し、ダンデは悪びれることなく、目を輝かせて答えた。

 

「だからだよ! 危ないポケモンがいるなら、俺が倒さないと! それがトレーナーだろ?」

 

 彼の言葉は、あまりにも純粋で、揺るぎない「正義」だった。しかし、それはマツムが経験してきた「現実」とは、あまりにもかけ離れている。ソニアは「あなた一人が飛び出してどうにかなる問題じゃないのよ!」と必死に説得するが、ダンデの耳には届かない。

 

 言葉では平行線を悟ったダンデは、マツムに対して深く、一度だけ頭を下げた。

 

「ごめん、マツムさん。ソニア。でも、俺は行かないと」

 

 言葉では平行線を悟ったダンデが、実力行使で前に進もうとする。その時、遺族協会の一人である、屈強な体つきの中年の男性が彼の前に立ちはだかった。

 

「行かせるわけにはいかん。坊主、ここを通りたければ、私を倒していくんだな」

 

 その瞳には、深い悲しみと、若者を守ろうとする強い意志が宿っている。

 

「おやめなさい!」

 

 マツムが鋭く制止の声を上げた。

 

「バトルなど。 それでは、彼に中に入る口実を与えてしまうだけです!」

 

 しかし、ダンデはその制止の声よりも早く、嬉々としてその挑戦に乗ってしまう。

 

「望むところだ!」

 

 彼は男性に向き直り、瞳を輝かせた。

 

 男性が繰り出した強力なオノノクスに対し、ダンデはリザードンで応戦する。オノノクスの渾身の一撃を、リザードンは驚異的なタフネスで耐えきった。

 

 そして、ダンデのたった一回の指示による『ドラゴンクロー』が、一閃。

 

 オノノクスは、その一撃で戦闘不能に陥る。

 

 その圧倒的な実力差に、周囲は息を呑んだ。遺族協会の男性は、呆然と立ち尽くす。

 ダンデは、倒した相手に深々と一礼すると、今度こそ、誰にも止められない勢いで走り出した。

 

 ダンデは、遺族協会のメンバーや警備員の制止を、傷つけることなく、野生のポケモンのような俊敏さで振り切り、ゲートの僅かな隙間をすり抜けて、ワイルドエリアの中へと消えていった。

 

「ダンデくーーん!」

 

 ソニアの悲鳴が、雨音に混じって虚しく響き渡る。彼女は絶望的な顔でマツムを見上げた。

 

 しかし、マツムは慌てていなかった。

 彼女は、ダンデが消えていった先を、悲しい、しかし覚悟を決めた瞳で見つめながら、静かに携帯端末を取り出す。

 

「ご安心なさい、ソニアさん。こういう時のために、わたくしが連絡を取れる方がおりますから」

 

 彼女は、ある番号を呼び出し、耳に当てる。

 その電話の相手が誰であるか、そして、この先に待つ運命がどのようなものであるかを知る者は、まだ誰もいなかった。

 

 

 

 

 ダンデがたどり着いたのは、ワイルドエリアの中でも特に荒々しい気候で知られる『キバ湖』だった。彼の闘志を煽るかのように、湖畔には風が唸りを上げていた。

 

 湖のほとりに、そのポケモンはいた。

 噂に違わぬ、巨大なハサミを持つキングラー。ダイマックスこそしていないが、その体躯から放たれる野生の圧力は、ダンデがこれまで対峙してきたどのポケモンとも一線を画していた。

 

「いたな、リザードン! あれが、今回の相手だ!」

 

 ダンデの興奮に呼応するように、隣に立つリザードンもまた、喉の奥で低く唸り、闘志を燃やす。

 戦いは、ダンデの先制攻撃によって始まった。リザードンの翼が鋭い風を巻き起こす。

 

「『エアスラッシュ』!」

 

 放たれた真空の刃がキングラーを襲うが、それに気づいたキングラーはそれを巨大なハサミで盾のように受け止め、衝撃に身じろぎもしない。

 ダンデとリザードンは、持てる力の全てをぶつけて食らいついていた。だが、レベルの違いは明らかだ。

 

 しかし、キングラーは、自らの縄張りに侵入し、あまつさえ攻撃を仕掛けてくるこの小さな『異物』に、ついに怒りを爆発させた。

 

 キングラーは一度ダンデたちから距離を取ると、近くにあった光るポケモンの巣穴へと後退する。

 

 そして、天に向かって咆哮を上げた。巣穴から溢れ出した紅い光が、キングラーの巨体をみるみるうちに巨大化させていく。

 山のような巨体へと変貌したキョダイマックスキングラーを前に、ダンデの表情から、ついに笑みが消えた。

 

 状況は一変した。

 先程までとは比べ物にならないパワーと質量。キングラーの巨大なハサミから繰り出される『ダイアタック』を、ダンデとリザードンは回避し続けるだけで精一杯だった。

 リザードンの体力は、明らかに消耗している。ダンデの表情にも、焦りの色が見え始めていた。

 

 キングラーが、とどめの一撃を放とうとハサミを振り上げた、その瞬間。

 

 上空から、ヨルノズクの放った『サイコキネシス』がキングラーの腕に命中し、その軌道をわずかに逸らした。

 

 ヨルノズクに乗ったノマルが、ダンデとキングラーの間に舞い降りる。

 

「何をしているのですか、ダンデくん! 今すぐ退却しなさい!」

 

 ノマルの叱責に近い鋭い声に、驚きに目を見開いたダンデが、それでも闘志を失わずに叫び返した。

 

「嫌だ! 退却なんてしない! 俺とリザードンなら、絶対に勝てる!」

 

 その言葉に、ノマルは呆れたように、そして厳しく言い放った。

 

「勝てる、ですって? その楽観が、命取りだとまだ分からないのですか。無茶です!」

 

 二人が言い争うその一瞬の隙を、キングラーは見逃さない。

 

 その巨大なハサミから、回避不能な規模の『キョダイホウマツ』が放たれる。巨大な泡の津波が、ダンデ、ノマル、そして彼らのポケモンたちを飲み込んだ。粘着質の重い泡が全身にまとわりつき、二人を、そしてリザードンとヨルノズクの動きを完全に封じてしまう。

 

「くそっ、体が、動かねえ!」

 

 ダンデは、初めて状況の絶望を理解した。

 

 動きを封じられた二人に、キングラーが無慈悲なとどめの一撃を放つべく、ゆっくりと、しかし確実に巨大なハサミを振り上げる。

 

 ノマルは、舌打ちを一つすると、腰のボールには目もくれず、ジャケットの内ポケットに隠された、一つのボールを強く握りしめた。

 

 これだけは、いまは使いたくなかった。ですが、ここで使わなければ。

 

 それは、彼女が最後の切り札として隠し持つ『最後の手段』

 

 この力を使えば、彼女の計画は大きく狂う。

 だが、使わなければ、目の前の無謀な少年も、自分も、ここで終わる。

 

 キングラーの巨大なハサミが振り上げられる影の中で、ノマルは、自らの信念と、目の前の命とを天秤にかけ、ギリギリの葛藤を続けていた。

 

 万事休す。誰もがそう思った、その瞬間。

 

 突如、空に巨大な影が差した。それは嵐雲ではない。

 

 湖畔一帯が、まるで日食にでも見舞われたかのように、不気味な薄闇と静寂に包まれる。キングラーの動きが、ピタリと止まった。天敵に出会ったかのように、その巨体がわずかに震えている。

 

 音もなく、UFOのような威圧感を放つ、キョダイマックスしたイオルブが降臨していた。

 

 その光景に誰もが息を呑む中、イオルブが落とす影の中から、一人の男がゆっくりと姿を現す。現チャンピオン、アスチル。

 彼は、目の前の絶望的な光景を、まるで退屈な芝居でも見るかのような瞳で一瞥した。

 

 アスチルは、何も言わない。ただ、静かに指を振る。

 その合図だけで、イオルブは『キョダイテンドウ』をキングラーに放った。派手な爆発はない。ただ、空間そのものが歪み、凄まじい重力がキングラーの巨体を押し潰す。

 

 あれほど荒れ狂っていたキョダイマックスキングラーは、抵抗する術すらなく、たった一撃で戦闘不能となり、その巨体は光となって消え去った。ダンデたちを捕らえていた泡の拘束も、それと同時に霧散する。

 

 あまりにも、あっけない幕切れだった。

 

 ダンデは、その信じがたい光景に、危険も忘れ、ただ目を輝かせている。

 

「すげえ、 あれがチャンピオン!」

 

 彼の心には、恐怖ではなく、純粋な憧れだけが生まれていた。

 

 対照的に、ノマルは、そのあまりにも次元の違う力に、恐怖で戦慄する。自分がこれから挑み、超えなければならない壁が、どれほど絶望的な高さにあるのかを、彼女は初めて肌で理解した。

 

 アスチルとイオルブは元の大きさに戻り、静かに二人の前に降り立つ。彼は、二人から少し距離を取った場所で立ち止まると、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で忠告した。

 

「二人とも、私の正面には立たないでくれ。君たちの未来は、まだ見たくない」

 

 その言葉の真意を測りかね、ノマルとダンデが息を呑む。アスチルは、そんな二人を意にも介さず、感情の読めない声で告げた。

 

「ローズの命令で、事態の収拾に来た」

 

 アスチルは、興奮冷めやらぬダンデと、まだ戦慄から抜け出せないノマルを、まるで舞台上の役者でも見るかのように、どこか面白そうに、しかし冷徹に観察していた。

 

 彼はまず、その純粋さゆえの危うさを体現する少年へと、嘲笑にも似た言葉を投げかける。

 

「無謀、というより、無垢と言うべきか。少年、君は自分が今、何をしていたのか理解しているのかね?」

 

 その問いに、ダンデは悪気なく、興奮したまま答えた。

 

「ああ! ものすごく強いキングラーと戦ってたんだ! そしたら、あんたが来て、一撃で!  本当にすごかった!」

 

 彼の瞳には、自らが置かれていた危険への反省など微塵もない。ただ、目の前の絶対的な強者への、純粋な憧れだけが輝いていた。

 

 そのあまりの無邪気さに、アスチルは、今度こそはっきりとため息をついた。

 

「すごい、か。君はあれをそう見るのだな。私の目には、君がただ無意味な敗北を喫する寸前に見えたがね」

 

 彼の声は、熱狂するダンデの心に冷水を浴びせるように、静かで、冷たかった。

 

「君のパートナーは限界だった。君の戦術も、あの巨大な力を前には尽きていた。思考なき強さは、ただの暴力だ。それは誰も救えんよ。君自身も、そのパートナーもね」

 

 アスチルは、言い返す言葉も見つからない様子のダンデを一瞥すると、今度はその視線をノマルへと移す。

 

「そして、君の理想論も、だ。人間からポケモンを遠ざければ、悲劇は無くなると、本気で信じている」

 

 彼の言葉は、もはや問いかけではなかった。まるで解剖するように、二人の対立の本質を語り始める。

 

「君の考えそのものは、間違ってはいない。誰だって、悲しいことからは逃げたいものだ。だが、それができないから、それは『理想論』なのだよ」

 

 彼は、絶望的なまでに高い場所から、二人を同じ地平に立たせる。その瞳は、ダンデの無垢な輝きも、ノマルの悲痛な覚悟も、等しく無価値なものとして見下ろしているかのようだった。

 

「少年が、目の前の『強さ』に挑戦しているように、君もまた、『理想』という名の、決して手の届かぬ壁に挑戦しているに過ぎないのだ」

 

 その言葉は、ノマルの胸に深く突き刺さった。彼女は思わず息を呑み、固く拳を握りしめる。

 しかし、アスチルは容赦しない。彼はノマルだけを見据え、彼女が気づいていない、あるいは目を背けている矛盾を、静かに、しかし残酷に抉り出した。

 

「そして、最も滑稽なのは、君のその歪みだ。君は他者に『逃げる』ことを説きながら、君自身は、その絶望的な理想から、決して逃げようとしない。尊敬すべきことではあるが、その矛盾が、いずれ君を壊すことになる。忠告しておくよ」

 

 その言葉に、ノマルはついに声を荒げた。

 

「あなたに何が分かる!」

 

 それは、ノマルの魂からの叫びだった。これまで完璧に抑え込んできた感情が、初めて制御を失って溢れ出す。初めて核心を突かれた彼女は、呼吸すら忘れ、ただアスチルを睨みつけた。

 

 だが、アスチルはそれに欠片も怯むことはなかった。彼は哀れみと、そして慈愛を込めた視線を彼女に投げかけるのみだ。

 

 その張り詰めた空気を、ダンデの、あまりにも場違いで、しかし純粋な声が打ち破った。

 

「チャンピオン!  俺と、バトルしてください!」

 

 彼は、二人の間で交わされた哲学的な問答など理解していない。ただ、目の前に立つ、圧倒的に強い男に、トレーナーとしての本能が反応しただけだった。

 

 アスチルは、その無垢な挑戦を、静かにいなす。

 

「私との対戦は、勝ち取るものだ」

 

 彼は、ノマルとダンデの両方を見据え、進むべき道を示した。

 

「ファイナルトーナメントで会おう。二人の、どちらか」

 

 そして最後に、彼は自らの絶対的な未来を、変えようのない事実として告げる。

 

「どちらが私の対面に立つのか……それは、まだ私にも視えない。だが」

 

 彼は、一瞬だけ、ノマルの瞳の奥にある悲劇の色と、ダンデの瞳の奥にある無限の光を見比べ、そして、告げた。

 

「私が、誰かに負ける未来だけは、視えない」

 

 アスチルはそう言い残し、踵を返す。その背中が闇に消えても、残された二人は動けなかった。それぞれの胸に、王が残していった重い言葉と、あまりにも明確な目標を、深く、深く刻み込むように。

 

 

 

 

 アスチルが去った後、キバ湖の湖畔には、ただ風の音だけが残された。

 先程までの激闘と、圧倒的な力の顕現が、まるで幻であったかのように、世界は静まり返っている。

 

 沈黙を破ったのは、ダンデだった。

 彼は何も言わず、ただ黙って、傍らに立つリザードンの首を一度だけ強く叩いた。相棒は、主の決意を理解したように、低く一声鳴く。

 ダンデの瞳から、無邪気な興奮の色は消えていた。代わりに宿っていたのは、頂点だけを見据える、揺るぎない決意の光だった。

 彼はノマルに一度だけ視線を向けたが、やはり何も言わず、踵を返して、荒野の向こうへと歩き去っていった。

 

 ノマルは、去っていくダンデの背中を、ただ黙って見送っていた。

 彼女の頭の中では、アスチルが残していった言葉が、何度も反響していた。

 

『君自身は、その絶望的な理想から、決して逃げようとしない』

 

 自分の正義が、信念が、あの王には「歪み」として映っていた。

 彼女は、ジャケットの内ポケットに収められた『最後の手段』のボールを、そっと握りしめる。これを、いつか、あの王の前で使う日が来るのだろうか。

 

 こうして、ガラルの未来を懸けた、二人の若者の長きにわたる戦いが、静かに幕を開けた。

 頂に立つのは、無垢なる挑戦か、それとも悲痛なる理想か。

 その答えはまだ、誰にも分からなかった。




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