夜凪はまだ開発関係者と通話中。
「な…」
「なるほど! そういうことだったのね…!」
夜凪は笑顔で、
「ありがとうございます!」
「はい! これで『シェアウォーター』好きになれるかも知れないです!」
電話を片手にスタスタと走り、監督たちの方へと戻ってくる。
ようやく話が終わったらしく、時間を気にしていた監督も一安心。
「終わった!? もう気が済んだ!? じゃ、ちゃちゃっと撮ろう! ね! ね!」
アリサから(よく見ておきなさい)と言われた皐月は、にこやかに戻ってくる夜凪を見て、
「…。」
と無言。
…戻ってきた夜凪は監督に向かって、朗らかな表情で、
「はい。その前に、その辺一時間くらい走ってきていいですか?」
と尋ねた。
ここまで温厚だった監督も、
「ダメに決まってるよね! マジで時間ないからもう!」
と、さすがにプンプンしながら返事した。
監督の隣に立っていた皐月は、
(何考えてるの、この子。怖いんだけど)
と、顔をしかめた。
夜凪のリクエストを耳にしたアリサ。
真面目な顔で、
「本当に走る必要があるの?」
と、夜凪に問いかけた。
「…うん」
そう答えた夜凪も真面目な顔。
ADと監督が、
「ちょ…、いくら星アリサの要望でも、これ以上時間使えませんよ!」
「わ…分かってるよ」
と、現状確認の会話を交わす。
その会話がアリサの耳に入る。
この時間が使えない状況下。
一時間くらい走る必要がある、と言う夜凪。
アリサは、
「じゃあ、足と時間を使わずに走ってきなさい」
「あなたなら可能でしょう」
と、不可解な提案をした。
「…! あ、そっか」
言われたことの意味を理解した夜凪は、なるほど、という表情で答えた。
周囲の者は、当然、
「…は?」
という反応を見せた。
…そこから夜凪の沈黙タイムが始まる。
目を閉じる夜凪。
黙って立っている夜凪の長い髪を、海から吹いてくる風が
ザァ……、という波の音。
「……。」
周囲の者たちは、そんな夜凪を無言で見つめる。
夜凪が何をしているのかは判らない。
皐月も、
「な…何? 急に黙っちゃって」
と、周囲の者と同じく夜凪が何をしているのかが判らない。
目を閉じて無言で立つ夜凪。
…その頭の中には、「炎天下の風景」がある。
灼熱の太陽
どこまでも続くアスファルトの道路
はっ
はっ…
はっ
熱気を帯びた息を吐きながら走る
はっ
はっ…
夜凪の靴は、ザッ、とアスファルトを蹴っていく
皐月は、夜凪の顔を覗き込んだ。
ピクリとも身体を動かさずに、ただ無言で突っ立っている夜凪の顔。
その頬には、ツーっ、と幾つもの汗が流れていた。
首にも汗が伝っていた。
「え」
皐月は、驚きのあまりそんな声を上げた。
砂の上に落ちる大粒の汗の
はっ…、はっ…、という荒い呼吸。
次々と溢れ出る汗は頬から顎を伝い、ポタポタ、と落ちていく。
全身汗だくになり息を切らせた状態で、夜凪は立っていた。
見ていた人たちの間に、大きく、ざわっ、と騒めきが起こった。
皐月は目を見開き口を開けて、
(突然、汗が…)
と心の中で呟いた。
夜凪の才能を何度も目の当たりにしているアキラは、
「走ってきたんだね。想像の世界で」
と、
アキラの説明を聞いた皐月は、
「!?」
という状態。
皐月にとっては、信じがたい出来事だった。
(想像の世界で…!?)
皐月が初めて目にする芝居のスキル。
夜凪のメソッド演技法のスキル。
夜凪は頬の汗を右腕で軽く
「準備できました。待たせてごめんなさい」
乱れた息で、そう告げた。
現場は驚きと困惑の空気に包まれた。
その空気は
…治まらないまま、本番テイクの撮影が始められた。
まだ治まらない。
皆の驚きと困惑は続く。
カメラは回っている。
夜凪は芝居を続ける。
汗まみれの身体に染み込ませるように、シェアウォーターをぐいぐいと飲む。
元井製薬の担当者は、口を半開きにして夜凪の芝居を眺める。
監督も、
(信じられない)
と心中で呟きながら、撮影を進める。
「カット」
「オーケー…!」
撮影を終えて、波打ち際に立っている夜凪。
その姿を見つめる元井製薬の担当者は思う。
本当に走ってきたとしか思えないような汗と息切れと疲労感
シェアウォーターをがっつき気味に飲む喉の動きと仕草
飲み終えた時の美しい笑顔から滲む、「これが飲みたかった」、という満足気な心情
(いるものなのか)
(こういう子が)
夜凪の仕事に、
現場にいる皆から、パチパチ、と長い拍手が続いた。
拍手は、夜凪と皐月に向けられた。
皐月が夜凪に詰め寄る。
「ちょっとあなた、どういうこと!? 何したの!?」
「…!」
ここで夜凪は、ふふん、と得意げな態度になる。
「ああそっか。皐月ちゃんはまだシェアウォーターを美味しく飲む方法を知らないのね」
「…? 何よ?」
そして得意げな表情のまま夜凪は大いに語る。
「シェアウォーターは、元々ランナー用に開発されたスポーツ飲料!」
「美味しさより、枯渇した身体への水分補給を目的にしたものなのよ!!」
ぽかーん、となる皐月。
さらに夜凪の演説は続く。
「例えば、真夏に一時間近く走ってから口にしたら、ほらどう!?」
「枯渇した身体に染み込むような瑞々しさだわ!」
「しかもミネラルからビタミンバランスまで全部考えられてるの!!」
「これは開発者の高橋さんの元カノさんが、元々マラソンランナーだったことが理由で、誰にも内緒らしいわ!」
演説を聞く関係者たちの間で、
「そ…そうだったんですか?」
「いや知らん」
といったやりとりが発生した。
夜凪は顔を輝かせて、
「とてもすばらしい飲み物だわ! ルイとレイの運動会に持たせなきゃ」
とシェアウォーターを掲げて見せる。
「いや…、そういうのをききたかったんじゃなくて…」
皐月が聞きたかったのは、「想像の世界で走ってきた」という部分。
唐突にアリサが皐月に、
「愚直で非効率」
「バカみたいでしょう?」
と話し掛けてきた。
皐月は夜凪への追及を中断し、アリサの方を見る。
アリサは真剣な表情で、
「それでも…」
と一度
「良い芝居は必ず人の心に残る」
と、皐月に教えた。
…撮影されたばかりのVを、スタッフたちは食い入るように見ていた。
そこに映されている夜凪の表情。
シェアウォーターを飲んだ満足感が伝わってくる笑顔。
汗まみれなのに、美しい…。
皐月は、
「…。」
と黙り込んでしまう。
(映画や舞台で演技派と持てはやされたとしてそれが何!?)
(芸能人の主戦場はテレビなのよ)
夜凪に対して言ったそんな自分の言葉が思い出された。
それは、テレビ以外で活躍する役者を軽んじる発言。
先輩面して偉そうに語った自分を、皐月は
目には涙が浮かびそうになっていた…。
そんな皐月に、アリサは言葉を続けた。
「皐月。真似ることはないわ。ただ、覚えておきなさい」
「こういう役者もいる」
「こういう戦い方もある」
皐月は、アリサの言葉に聞き入り、そして夜凪を見つめた。
次にアリサは、アキラに話し掛けた。
「皐月はまだ若い。これから色んなものを見せていってあげたいのよ」
「…!」
「頬を痛ませることだけが、戦い方じゃないかも知れないから」
アキラは、これまでの自分に思いを
子供の頃に母親から言われた言葉を、長年に渡り守ってきた。
そんな芸能生活を過ごしてきた自分。
「…そうだね」
アキラは、自分がこの現場に連れてこられた意味を理解した。
(それでわざわざ僕を呼んだのか)
アキラにも、色々な戦い方を選ぶ道がある。
アリサは、砂浜に立っている夜凪に歩み寄る。
「さあ、景。あなたに入っている仕事はこれだけじゃない。これからしばらくの間、私が…」
…ここで乱入者が登場。
「私がしごいてあげるわ」
アリサの言葉に自分の言葉を被せてきたのは皐月。
二人の間に割って入り、より夜凪に近い位置で、皐月は腕組みで立っていた。
目を輝かせて、頬を朱に染めて、気合い十分の表情。
「…。」
「しごく?」
皐月に乱入されたアリサは無言。
夜凪は、普通に疑問に感じたことを尋ねた。
「だってあなた、自分の可愛さの売り方とか全然分かってないでしょ!」
「私が色々教えてあげるわよ! だって後輩の面倒を見るのが先輩の仕事だから!」
頬を赤らめながら先輩として指導していく意志を表明する皐月。
夜凪はそんな皐月を、(かわいい…)、と思いながら見る。
「いいわね!」
「うん」
うん、と返事しつつ、思わず皐月の頭を撫でてしまう夜凪。
「じゃまず、あの汗をいっぱい流すのどうやったのかきいてあげるわ! 教えてみなさい!」
「え…私が教えるの?」
ADが「次、写真撮影に入るのでよろしくお願いしまーす」と声を張っていた。
こんな感じで、夜凪のテレビCM撮影初挑戦は終わりを迎えた。
2週間後。
ギーナチョコレートのCM撮影。
フローリングの床、センターラグの上に座卓、右側に衣装用タンス、左側にベッド、という「部屋」のセット。
座卓には既に2人の女の子が付いている。
夜凪は、セットに足を踏み入れ、センターラグの上に立った。
「夜凪景です。役者です! よろしくお願いします!」
夜凪が挨拶した相手は、
の2名。
「よろしくー」
「わぁ、新宿ガールだ。かわいい~」
雛森と水野の2人は、ニコォ、と返事した。
「ほら、真ん中真ん中」
「ごめんね。まだ羅刹女観てなくて」
「ううん…、じゃなくて、いいえ」
丸いクッションに座る雛森と水野の間に、夜凪用の丸いクッションが置いてある。
そこに座るように2人から勧められる夜凪。
…カメラテスト前。
水野は(はぁ、どうして私が千世子以外にセンター取られないといけないんだよ。何、この子…)などと考えていた。
雛森は(なぜかスターズが広告担当してるって話、マジだろうな。さっき星アリサいたし…。キナ臭い)などと考えていた。
…カメラテスト開始。
雛森は、
「ギーナチョコは子供の頃から大好きで! そのCMに出られるなんて嬉しいです!」
と、無難なしゃべり。
水野は、
「仲良しの友達に贈りたいチョコレートです。え? 彼氏はいないので~」
と、ぶりっ子気味のしゃべり。
そして夜凪は、
「ギーナチョコレートのすごいところは、カカオ83%でも85%でもなく84%のところなんです!」
「私、工場で色々な配分パターンのチョコを食べ比べしたんですけど、これが一番食べ易くて本当に美味しいんです!」
と、夜凪っぽさ全開。
「…。」
「…。」
他の2人は呆気にとられて言葉が出ない。
かまわずしゃべる夜凪。
「これは偶然かも知れないんですけど、他社のチョコと比べて一番湯煎し易くて、チョコケーキ作るのに便利なんです!」
「しかも定価は120円なんですけど、うちの近くのスーパーでは75円で一番安いんです!」
「皆さんも探せば75円で買えるかも知れません!」
真剣な顔つきで夜凪は、ペラペラペラペラ、とまくし立てた。
撮影スタッフの間で夜凪についての会話が始まる。
「ちょっと。あの子は何? ギーナの回し者?」
(小売店の安さをアピールされてもあれだけど…)
「商品に惚れ込んでからじゃないと、広告仕事やらないんだって彼女」
「いや、話にはきいてたけど異常だろ。怖いわ」
「タレントの鏡だな…」
雛森は、
(クッ…。こういう天然に見せかけたあざといタイプか)
(ちょっと新しい…。油断してた!)
と表情を引き締めた。
…夜凪の熱弁はまだ続く。
「あっ、でも。ルイとレイ…。私の弟妹の話なんですけど」
「…!」(←スタッフは「お!」という明るい表情になっています)
「ギーナはちょっと苦いから、マーブルチョコの方が好きらしいです」
…雛森と水野は心の中で、
「他社!?」
と同時に突っ込んだ。
「だから子供にはマーブルチョコの方がいいかも」
「カット! カット!」
現場の様子を見ている清水とアリサの会話。
「随分慣れてきたかと思いましたが、やはり怖いですね」
「いいのよ。あの子はあれで」
夜凪は、撮影用固定カメラの脚台にタヌキとキツネのお面を置いた。
「この子たちを観客に見立てたらお遊戯会みたいな感じで演じられるんです…。置いといていいですか?」
「い…いいけど、お遊戯会って…?」
現場の者たちは(変わった子だな)という目で夜凪を見た。
そしてメインとなる歌とダンスの撮影が始まった。
夜凪をセンターに、
「ギーナ ギーナ。チョコレートは青色ギーナ!」
と、3人で歌って踊る。
撮影を見守るスタッフたちは、夜凪の歌とダンスの演技を見て、多少面食らった顔を見せた。
「…いいね。全然いいよね」
「うん、思ったより良い…」
「たどたどしいけどタレント性があるというか」
「小鳥と葵を前に少しも
センターで光る物を見せる夜凪について感想を述べ合う。
そして、
「存在感でも勝っている気が」
そんなふうに、夜凪を見つめる。
アリサは、隣に立つ清水に見解を口にする。
「器量が良いだけじゃない」
「人のために懸命になれる者は無条件で他人を惹きつける」
「元々スター性はあったのよ、彼女には」
アリサは昔のスターズ、昔の夜凪との出会いを思い出していた。
(幸せになれる役者しか育てない。実力は関係ない)という考えだった
うちのオーディションに訪れたあなたを私は落とした
一度芝居の喜びを垣間見た人間はもう止まらない
そう分かっていて、私はあなたから逃げた
いつかこの世界で泣くくらいなら、私の見えないところで泣いてくれと…
…私はもうあなたたちから逃げない。
撮影現場を眺めつつ、そう決意したアリサ。
そんなアリサに話し掛ける者がいた。
「聞きましたよ、社長」
「知人に元井製薬の担当がいましてね」
アリサは、険しい視線を左に動かし、話し掛けてきた人物を見た。
天知…。
アリサの
天知は、
「芸能界に“本物”が現れたと」
と言葉を続けた。
アリサは、ビジネスに鼻が利くこの天知という男に告げた。
「仕掛けるのは来月から」
「…くれぐれも気をつけなさいよ、天知」
来月になると変わるであろう渋谷駅周辺の景色。
その未来予想図がアリサの脳裏に大きく描かれた。
渋谷駅ビルのライトアップ看板、歩道に立てられる大看板、商業ビル壁面に大きく
それらが夜凪で埋め尽くされる…。
「もうじき、この国で夜凪景を知らない人間はいなくなるのだから」
「scene111.本物」/おわり
以上が、アクタージュ「scene111.本物」の紹介となります。
絵面のインパクトはやはり最終ページの見開きの大ゴマでしょうね。
仕掛けた後の渋谷駅周辺の光景。
シェアウォーターを飲み、満足そうな顔をする夜凪のアップも素敵です。
そして、恰好いいのは想像の世界で走ってきて汗だくになる夜凪。
アリサから「夜凪のような戦い方もあると覚えておきなさい」と言われた皐月ですが、8歳の子供にはやや難しい話かと思います。
ただ、皐月は凄いことをやってのける夜凪に興味を持ったようですね。
テレビ業界では自分のほうに「一日の長」があるわけで、「色々教えてあげる」は皐月の本音でしょう。
まあ、結局は色々教えるという仕事はアリサが務めるわけですが。
今回、物語の上で重要なポイントがありました。
それはアリサが「逃げない」と決意したこと。
つまり、今後のスターズは「役者と向き合う」という方針に舵を切り始めるわけです。
当然、スターズに所属する多くの芸能人に影響があります。