ARIA The PIACERE 1 その輝かしい船出を祝して 作:neo venetiatti
朝から行ったり来たりと忙しく走り回っていたかとおもうと、突然立ち止まり「はぁ~」とため息をついた。
ネオ・ヴェネツィアで一番の老舗水先案内店「姫屋」の後を受け継ぐべく、その支店を若くして任されることになったオーナーの娘、藍華・S・グランチェスタは、自分がいちばんしっかりしなければいけないことを、今さらながら痛感しているところだった。
「わかってるんだけどね・・・」
サンタ・ルチア駅近くに出来たカンナレージョ支店が本格的に開業して以降、目まぐるしい日々を送っていたが、これ程までにままならないものかと頭を悩ませていた。
仕事の管理、観光協会との会議や打ち合わせ、業者への発注、ペアやシングルの教育、等々。
考えれば考えるほど切りがない。
元来気合いで乗り切ることに自信はあったが、気合いだけではどうにもならないことがあまりにも多すぎた。
「こらっ、藍華・S・グランチェスタ!いつも自分で言ってるじゃない。ネガティブ思考禁止!」
ぺしぺし。
「後輩ちゃんや灯里が頑張っているのに、こんなことで負けてられないわ」
藍華が任されることになったカンナレージョ支店は、姫屋本店と比べれば規模としてはまだまだ小さく、まさにヨチヨチ歩きの赤ん坊といった感じ。
だが、それでも姫屋の看板を掲げている以上、注目を集める存在であることに間違いはなかった。
また、藍華がプリマ・ウンディーネに昇格を果たすと同時に、支店を任されることになったことも、水先案内業界やウンディーネ達の間で大きな話題となった。
そのため藍華の気合いが相当なものであることは誰の目にも明らかだったのだが、最近の藍華の様子は少し違っていた。
「はぁ~」
また藍華の口からため息がもれた。そして、なんとなく窓の外に見える薔薇をぼんやりと眺めるのだった。
「支店長!」
「はいっ!」
突然背後から声をかけられ、思わず声が大きくなった。
「気合いが入ってるなぁ」
藍華が振り返った先には、感心したように両手を腰に当てた、晃・E・フェラーリが立っていた。
「もう晃さん、なんなんですか?」
「すわっ!なんなんですかってなんなんだ!」
面倒臭そうに答える藍華に、晃も思わず大きな声が出た。
「すみません。ちょっとイライラしてたもので・・・」
両腕をたらーんと前に垂らして、藍華は疲れた表情で答えた。
「なんだ、どうした?何かあったのか?」
「あると言えばあるような、ないと言えばないような・・・」
「なんだそれは?」
「いいんですぅ。これは私がやらなければならないことなので」
目を閉じ、少し眉間にしわを寄せながら、藍華は自分に言い聞かせるように言った。
「そんなことでいいのか?お前はもう立派に支店を任されている身だぞ」
「それを言わないで下さい。自分でも嫌っていうぼど思い知らされているところなんですから」
藍華は忙しさに振り回される日々に思わず弱音を漏らしそうになるところだった。
「ところで今日は何の用なんですか?」
「そうだ、それだ。うっかり忘れるところだった」
「もう、しっかりして下さいよ、晃さん」
はぁ~とため息をもらす藍華にふっと目をふせて、
「ちょっといいか?」
晃はそう言ってエントランスの隅にあるテーブルへと向かった。
「少し前に話したあの件、覚えてるか?」
晃の少し真剣な言葉に、藍華がすっと背筋を伸ばした。
「はい、覚えてますけど。カンナレージョ支店開業一周年記念のイベントを姫屋本店と合同で行う件ですよね」
「うん、そうだ」
晃は現在、姫屋本店と支店の両方を統括するチーフ・ウンディーネの任に就いていた。
そのため、最近はここカンナレージョ支店にやって来る機会も増えていた。その上、カンナレージョ支店一周年記念イベントが近づいていることもあり、藍華との打ち合わせの機会も多くなっていた。
「それでだ。どれくらい準備が進んでいるのかを聞きたくて来たわけなんだが・・・」
藍華の表情をみて、晃は少し不安な気持ちになっていた。
「この私の顔を見れば察しがつくと思いますが・・・まだ全然進んでません」
「全然て、どのくらいだ?」
「全然は全然です」
晃は大きく目を見開いて、藍華の顔をまじまじと見つめた。
「おい、ちょっと待て。全然と言っても本当に全然ていうわけじゃないんだろ?」
「全然は全然です。言葉のとおりですぅ」
「どっ、どういうことだ?一体今まで何してたんだ?」
自分でも不本意だと言いたげに、藍華は憮然とした表情になっていた。
「お前、どうしたらそんな表情になるんだ?」
「だってしょうがないじゃないですか。忙しくて、てんてこ舞いで、猫の手も借りたいくらいで。だからといってヒメ社長に仕事を頼む訳にいかないし」
「当たり前だ!何を言ってるんだ!」
藍華はまた「はぁ~」とため息をついた。
「ため息をつきたいのはこっちのほうだ」
晃は目を閉じ、頭を抱えた。
「どう考えたって無理ですよ。今のてんてこ舞いの状況で、一周年記念のイベントをやれって言ったって」
「あのなぁ、これはお前の支店のためにやるんだぞ。それをわかってるのか?」
「わかってますよ。でもここは本来姫屋の支店なわけですし・・・」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
「だって“お前の支店“てゆうから・・・」
「あのぉ~」
ふたりの会話が途切れるのを待っていたかように、テーブルから少し距離をおいたところで、女性従業員が立っていた。
両手に手袋をはめている、ペアのウンディーネだった。
「なんだ?」
思わずそう言って顔を上げた晃だったが、はっと我に返った。
その従業員はティーカップをふたつ乗せたトレイを持って、その場に立ち尽くしていた。
「あっ、ごめん。悪かった」
晃は、ばつが悪そうにその場を繕った。
「すみません。大事なお話の途中で」
「ありがとう。気にしなくていいわ」
藍華は優しい口調でその従業員に声を掛けた。
ふたつのカップを置いて頭を深々と下げると、その従業員は申し訳なさそうに立ち去った。
「晃さん、新人を怖がらせてどうするんですか?」
「新人なのか?」
「今月入社したホヤホヤの新人です」
「そうか。悪いことしたなぁ。お前から謝っておいてくれ」
晃はカップを手に取り、そこに注がれた紅茶を一口飲んだ。そしてゆっくり目を閉じた。
「う~ん、うまいなぁ」
「そりゃあそうでしょう。これは特別に取り寄せた紅茶なんですから。うちはお茶ひとつとってもこだわってますからね」
藍華は自慢げに腕を組んで、ふむふむと納得したように頷いた。
「確かにこの紅茶はうまい」
晃はカップをテーブルに置きながらそう言った。
「でもな、藍華。お前の今の立場はなんなんだ?」
「わかってますって、晃さん。それ以上言わないで下さい、お願いですから」
藍華は、自分でもままならないこの状況に苛立ちを隠せないでいた。
晃は脚を組み直すと、改めて藍華に向き直って言った。
「お前の苛立ちはわからないわけじゃない。私もウンディーネを統括するチーフの立場になったことで、これまでとは違う忙しさの中にいる。正直いって、うまくやれるかどうか不安なときもある」
「まさか、晃さんが?」
「当たり前だろ。わたしの取り組み方次第で、姫屋の歴史にキズを着けてしまうかもしれない。それに・・・」
「それに?」
「それにだなぁ。このカンナレージョ支店の記念すべきイベントだ。ここはなんとしても成功させなければいけないしな」
「それって晃さん・・・」
藍華は晃の言葉に、表情が崩れそうになっていた。
「すわっ。こんなことぐらいで何をウルウルしてるんだ」
「まだ泣いてません」
と言いながら、藍華は目を潤ませていた。