世界にゾンビが蔓延してる中、私はマザーらしい。 作:Htemelog / 応答個体
当然の事だけど。
勝てるはずもない戦いだった。何度も述べるように、私には人間に毛が生えた程度の身体能力しか存在しない。こちらが一撃入れたら勝ちで、私は何度でも再生するというアドバンテージこそあるものの、エージェントなんていう鍛え上げられた肉体を可動域無視な状態で扱う元軍人と、少女の身体を十全に扱う事の出来る元軍人。
それを相手に勝ちを得ようなんて無理な話だ。早々に足や腕を潰され、地に転がるに終わる。
そこからまた再生して、潰されて、その泥沼の戦い。"マルケル"には何か秘策があるようだったけれど、よくわからなかった。こちらの活動を一時停止させる何かを入手していることまでは理解したけど、然したる問題にはならないと判断。流石に活動停止時の外界まで観測できるわけではないので画策は無用。
本当に泥沼だった。
互いに決定打が無い。否、こちらにはあるけど、どうも届きそうにない。
エインとジョゼフは遠くで戦っているようで、それもまた決定打の喪失の要因となっていた。
ただし。
「……ぐ」
「不味い……」
この泥沼は、そう長くは続かない。
こちらは砂と岩のゴーレムだ。活動限界というものは存在せず、生物のような休眠も食事も要らぬ存在。
対してゾンビは、同じく睡眠や食事を必要としないものの、唯一必要となるもの──水分の存在がある。
渇き。渇くこと。汗はかかねど激しい動きをすれば水分は飛ぶ。彼女らが現在どれほど水分を蓄えているかなど、私には手に取るようにわかる。このまま菌の動きを抑制する薬を打たずとも、彼女らは渇きによって自壊することだろう。
さらに言えば、私の身体が彼女らの水分を奪っている。主な攻撃手段を打撃とする二人と接触した時、その水分を少しずつではあるが奪い取る事で、彼女らはいつも以上に渇きを覚えているはずだ。
「それで、君達は私に何をしてほしいのかな」
「壊されろ」
「死ね」
疑問の一つではあった。
私に何をしてほしくて、戦いを挑んできているのか。個体名ミザリーを無駄死にと形容したことを謝ってほしい、とか。あるいは人類を救うために抗菌薬を作ってほしい、だとか。その辺りなんじゃないかな、と思っていたんだけど。
単純に、壊れて欲しい、とのこと。
ふむ。
「うん、わかった」
「──」
別に臨床研究は他の場所でも出来る。
こんな荒野に拘る必要はないし、"英雄"にも然して興味はない。強いて言えばこの"マルケル"には多少の興味も覚えたけど、覚えた程度だ。研究の前に置くにしては弱い。
だから、そのリクエストに応えよう。
身体を──崩す。
これでいいかな、という意思を込めて、肩を竦めた。そのまま、指先から、顔から、足先から……砂になっていく。細かい、細かい砂。月が見え始めた事で、その砂は結構綺麗に輝いているんじゃないだろうか。私の身体を構成する岩と砂。岩も、先ほどのみ込んだナイフも全て砂にして、崩れていく。
崩れて、風に吹かれて飛んでいく。
「マザー!?」
背後から、悲痛そうな声が聞こえた。
振り向く。けれど、流石にここまで崩れた状態では声を掛ける事も出来ない。再生するには一日ほど時間が必要だ。
サラサラ、サラサラと舞い散っていく体。その、僅かばかり残っている胴体に、彼女の長い腕が巻き付いたのが見えた。
その衝撃により、完全に崩れる身体。
一際強い風が吹いて──。
「嫌、嫌──!」
私は、その場から完全に姿を消した。
Д
当然、自壊を選んだ、というわけではない。
崩れた状態のまま意識はあるし、再生の準備のために各部……つまり身体を構成する砂を集める事も出来る。強風吹き荒れる中、少しずつ少しずつ一点に砂が集まっていく様子はおかしなものであるとは思うけれど、目撃者などゾンビくらいしかいない。況してや夜闇、空を舞う砂に気を配るような奇特な人間はいないだろう。
そうして風に流され、辿り着いたのは──どこかの人間の国。この時世でありながら十分な文明を維持しているらしいこの国であれば、臨床研究も容易い。
少しじめっとした路地裏に流れ着いて、時間を待つ。一日を経なければ再生できない、というのは設計上の仕様であり、そこの改善は難しい。とはいえ何か急ぐ事があるわけでもない。流石にたった一日で人間が全滅する、という事は無いだろう。
そうなりそうだったら、島にいる他のクローンたちが動くし。
今は文字通り地に伏して、待つ。
それが──。
「……マザー、か」
声が聞こえた。
私達における耳という器官、目という器官は外見を人間に近づけるために作り上げた、謂わば見た目だけのハリボテである。だからソレがなくとも音は聞こえるし、周囲の確認も出来る。
その声は、路地裏の奥から聞こえた。
少年の声だ。暗がり。肌の色は明るい──人間の手。ゾンビじゃない。
「言っておくが」
熱に浮かされたような口調だ。自分で何を言っているのかわかっていないように聞こえる。
この、ただの砂塵である状態の私の事をマザーと呼ぶ少年。イースの声ではない。なら、誰か。
「アンタの夢を、悲願を、俺は否定しない。悲しいのが嫌だ、という理想も俺は理解できる。俺だって嫌だ。悲しくなるくらいなら仲良くなりたくはないし、仲良くさせられるくらいなら相手を死ななくしたい。自分が今後、長く、長い、とても永い時間を生きなければならないというのなら……そうしたい」
こちらを覗き込むようにしてしゃがんだ少年の顔に、やはり見覚えは無かった。
このパンデミックの渦中には珍しい、健康状態の良さそうな人間の少年。実験対象には持って来いなその少年に、しかし私はそれどころではない。
いつかエインに話した私の悲願。私達の目的地。それを、何故こんな子供が知っているのか。
しかし、疑問を挟み込む余地のないまま少年の独白は続く。
「同時に、短命の美しさにも同調しよう。短い時間を抗い、激しく、うだるような熱量を持ったまま生き抜いて、その果てに死ぬ。短い幸せを、続かない幸福を得て、誰かと寄り添い、あるいはただ一人、研鑽の果てに辿り着いて死ぬ。その先にあるのが無為でも、何も出来ず、何も成せず、何も残せず、何の意味が無くとも──それでいいと思う。誰かの記憶に残る必要はないんだ。俺はそもそもそれを、悲しいとは思わない」
悲しむのが嫌だ。悲しみたくない。
私達の行動理念に打撃を与えかねないその言葉は、けれど最後の一言で抑えられた。
「大切なものを失ったら悲しい。それを受け止めたくないし、得たくないから、アンタは今こうして色々な手法で人類を強化しようとしている。これから仲良くなる誰かと、いつまでも一緒にいたいから。ああ、それはそうだろう」
同じ言葉を吐く。言葉が違うだけで、内容の同じ言葉だ。
それを何度も何度も、少年は吐く。
「何度でも肯定するぞ。俺はアンタを否定しない。マザーの夢。ミザリーの愛。セイの慈しみ。そして、メイズの縁と、リザの願い。俺はアンタ達を否定しない。そして、マルケルの想いも、
あぁ、今、私は崩れている。
だからリブート出来ない。リセット出来ない。勿論一日が経てば昨夜の時点にまで記憶の一部消去も可能だろうけど、今それを行う事は無理だ。
だから聞くしかない。少年の言葉を。
「悲しみとは離別でしか得られない感情だ。友との決別。家族との哀別。大切な人との死別。すべての悲しみは誰かと離れ、別れる事が付き纏う。だがな、離別が全て、悲しみを伴う、というわけではない」
いつかを幻視する。
車椅子に乗った老婆。視覚も聴覚も機能しておらず、赤子程度の知能しか持たぬ女性は、最後の最期に初めて覚えた言葉を発した。
「いつまでも共にいたい。その想いは普遍だ。誰しもが持っているし、誰しもが感じる事だろう。マザー。アンタは……貴女は、普通なんだ。何も特殊ではない。誰が至ってもおかしくはない感情に、何ら特別ではない環境を経てそれを獲得した。だけど、圧倒的に経験が足りない」
──"ありがとう。"
そう、言われた。私じゃない。
長らく忘れていた言葉だ。だって、その後の事が、あまりにも悲しくて。
「悲しみなんか受け入れなくていい。嫌だというなら、そんなものはいらない。楽しさや嬉しさに彩りをつけるために悲しみを許容する、なんてこともしなくていい。ずっと楽しくて、ずっと嬉しくて良いんだ。そんなのは耐えられるヤツだけが持てる理想だ。耐えられない弱いヤツにまで押し付けられる話じゃない。マザー、貴女は弱い──弱者側の存在なんだ」
……これは多分、オリジナルの記憶。私達が経験したことじゃない。私達に受け継がれた記憶に、このような事柄は存在しない。私達は作られた時点で、オリジナルの一部記憶しか転写されなかったのだろう。オリジナルとクローンは同等の性能をしているけれど、クローン同士でさえ記憶と経験に差異があるのだ、オリジナルとクローンに記憶の差異があったっておかしくはない。
それを何故、今思い出しているのか。
「いいか? 貴女は弱いんだ。清濁併せ吞む事なんて出来ないし、自分と違う主張に晒されたら簡単に立ち止まる。思い込んでいた事象の前提が崩れたらイライラするし、失敗が続けば躍起になって効率の悪い事をする。貴女は弱い。弱い事を自覚しろ」
路地裏に朝日が差し始めた。もう夜明けだ。次第に照らされていく少年の顔。彼が笑っているのだと、今気が付いた。
「その上で、言う。悲しみを伴わぬ離別を目指せ。自分の心が壊れないよう全力を賭して、最期に感謝を伝えられるような……死後の息災を、願えるような」
何かが折れてしまったような気がした。
早くリブートをしなければならない。一日という時間が遠い。これ以上の入力は根幹のシステムに異常を来す。しかし、耳という器官が見せかけであったように、耳を塞ぐ、という行為を行う事は出来ない。私という砂の身体は、勝手に、周囲の情報を拾ってしまう。
「笑って送り出すんだぜ。じゃあな、元気でな、って」
風が吹いた。路地裏の狭さが風圧を増強し、周囲の情報を拾いきる体が轟音に塗りつぶされる。
次の瞬間、少年の姿は無くなっていた。
……エラーだ。リセット、リブート。早く、早く。一日よ経ってほしい。
この、抱いてしまった感情を、受け止める前に──早く。
В
気付いたら、朝焼けの眩しい場所にいた。
少しだけ眠っていたのか、記憶が途切れている。覚えているのはあの階段……リザが閉め忘れた階段への扉に、何度か躊躇しつつ、それをくぐった所。階段を上がった記憶も、その先からここまで歩いてきた記憶も無い。
「眩しい……」
久しぶりの朝日だった。
無論ゾンビの頃も陽光に照らされる事はあったが、生身を取り戻してからの日光浴は初めてだ。生前から数えてどれほどになるのか。あるいはこの身体の持ち主が最後に日光を浴びたのはいつなのか。
冬ではあるが、染みわたる光の温かみに嘆息する。寒さはあるけれど、それ以上に心臓が温かな血液を送り出しているのが分かる。
「少年」
ふと、背後から声がかかった。
振り向く。
そこには背の高い男。中華系の顔立ちで、槍を背負っている。
「俺か?」
「ああ、君の周囲に他に少年はいないだろう?」
「ふむ……確かに」
流石に早朝過ぎて、周囲にいるのは大人ばかりらしい。
果物の籠を運ぶ女性や木材を担ぐ男性、武装した人々。リザに貰った服を着ているためか、奇異の目や憐みの目を向けてくる存在はいないが、どこか心配のような気配は伝わってきた。
「迷子か、と思ってな」
「ああ……違うんだ。最近ずっと家に籠っていたから、朝日を浴びたくて、親に内緒で出てきた」
「……大人として叱りたい所だが、まぁ、朝日を浴びたいという気持ちはわかる。そうだ、少しの間俺と共にいないか?」
「誘拐か?」
ワイニーを名乗るようになってからスラスラと出てくる嘘に心の中で苦笑しながら、相手を観察する。こんなに透け透けの誘拐文句がかつてあっただろうか。どれほど三流でももう少し工夫する。というか、この時世に誘拐なんぞ企む人間がいる事に多少の失望だ。緊急事態くらい手を取り合って危機に臨めよ。
「誘拐っ? い、いや、違うぞ? ム、もしや俺を知らないのか?」
「知らんが」
「……まぁ、そうか。イース殿ならともかく、最近来た他国の"英雄"など興味は無いか」
気になる単語が二つ。
イース。懐かしい名前だ。懐かしすぎる名前だ。アイツが島を出てから、一度も会っていない。そうか、まだ壮健なのか。いやゾンビに壮健も何もないと思うが。
そして"英雄"。成程確かに、男は相当な手練れらしい。ジョーの奴には劣りそうだが、少なくとも俺じゃ足元にも及ばない。
「一応、他国で"英雄"をしていたシンという者だ。今は見回りの時間で……まぁ、君を見つけた。この国の守護を任された者としては、子供をそのまま放置する、というのも心苦しい。君が朝日を浴び、帰りたくなる時まで守らせてはくれないか。その後、君の親御さんの所にまで送って行こう」
「ゾンビの脅威が消えたわけでもないだろうに、ンなことをしてていいのか」
「何、我が槍はここからでも外壁に届く。見張りの者には専用の笛を渡しているし、狙いを外す、ということもない」
……訂正。コイツも十分化け物だ。この国の広さがどれくらいかは知らないが、外壁までは結構な距離がある。朝というのもあるだろうが、霞んで見えなくなるくらいの距離が。
そこに、笛の音程度で方向と距離を計算して槍を投擲し、ゾンビを殺し得る、とか。化け物でしかない。"英雄"というのはこんなんばっかりか。"マルケル"の増え過ぎを懸念していたが、もしや人類は大丈夫なのではないかという錯覚にさえ陥る。
「……その辺りのベンチでいいか」
「ああ、ありがとう」
何故礼を言われているのかわからない。
とりあえず街路にあったベンチへ座る。寒さはあるが、それよりも日光が心地良い。
「親御さんと、仲が悪いのか?」
「ん? ……そんなことはないさ。十分、よくしてもらっている。服を見ればわかるだろう。欲しいものは大体揃っているし、自由も利く」
「そうか。それはよかった」
一応、リザを想定して話している。今の俺の身体は少年だが、元の歳を考えればあんな少女を親扱いするのに多少の抵抗はある。が、嘘だし良いだろう。リザもマザーのマザーみたいなもののようだし。
「何か悩みがあるみたいだな、家族の事で」
「……透けたか」
「丸わかりだ。まぁ、なんだ。こんな子供でいいなら、相談に乗るぞ」
「子供に話す事ではないさ。それより、君は随分と賢い子のようだ。もしかしたら本当に余計なお世話だったかな」
「……さてな。俺も久しぶりに、知らんヤツと話す。節介という意味では大きすぎたのだろうが、機会という意味では大事だったやもしれん」
「はは、まるで同い年の者達と話しているかのようだ」
もう少しくらいは歳下だと思うぜ、なんて胸中で嘯く。
朝日は、俺の身体を光に浸ける。渇きを気にしなくていい身体。気温を感じる事のできる身体。ほぅ、と息を吐けば、それに含まれた水蒸気が白く染まる。
「……妹がな、いたんだ」
「ああ」
話す気になったらしい。
男……ええと、シンと言ったか。彼は随分と疲弊しているようだった。肉体的なソレではなく、精神的に。
「ずっと一緒だった。ずっと一緒にいて、ずっと一緒に育ってきて、心の底から信頼していた。……だが、アイツは俺を裏切った。俺だけじゃない、俺達によくしてくれたイース殿やメイズ殿にも刃を向け……今でも信じられない。今までの人生は全て嘘だったと聞かされたよ」
「そうか。そりゃまぁ、悲しいな」
「ああ。悲しい。怒りもした。……それ以上に、苦しいんだ。半身を削がれた気分さ。悔しいんだ。もっと早く気付けていれば、彼女を変える事も出来たかもしれない。その機会はいくらでもあったのに、俺は信頼なんて言葉で目を背けて……妹をちゃんと、見ていなかった」
「ふむ」
想像の百倍くらい重い話が返ってきて多少驚いている。
兄妹の裏切り。イースは確か、人間の国で人間の味方をしていたはず。その名前が出てくるあたり、国家反逆でもしたのか。あるいはヴェイン辺りに唆されてゾンビ側へ何か情報を売ったとか。
なんにせよ、大勢を裏切ったのだろう。
それは。
「それは、お前の責任だろうな。お前が背負って良い責任だ」
「……」
「あー……言葉を間違えたか? でもな、身内というのは、家族というのは、腐れ縁で繋がってる他人なんだよ。血の繋がりは関係ない。ソイツを家族と思ってしまった時点で、ソイツを身内の線引きに入れてしまった時点で、ソイツと自分に鎖が発生する。コイツは残念ながら切る事が出来ない。絶縁しても、忘れようとしても、必ずどこかでぶち当たる。ふと思い出してしまったり、アンタのように直面したりな」
仲間意識はとうに薄れたが、あの島にいたゾンビ達をまだ身内だと思っている。共に旅をしたマルケルも、ジョゼフとミザリーも、そしてマザーとリザも。
俺の身内のラインはかなり緩いし、広い。簡単に情を入れてしまうし、簡単に絆される。それを俺は、恥だとは思っていない。
「身内だと思ったって事は、所有物だって宣言をしたに等しい。奴隷だの物扱いだのの話はしてないぜ。ソイツとの繋がりは、アンタの持ち物だって話をしている。アンタと妹の間にあるしがらみはアンタだけのモンだ。他人のモンじゃねえ。だから、アンタがその妹さんが変じてしまった事を、あるいはハナからそうだった事を悔いたいなら、悔いて良い。誰も止めないさ。誰にも止める権利はない」
考えなくていい、とか。お前のせいじゃない、とか。
そんなこと、他人に言われる筋合いはないんだ。決めるのは自分だ。背負うも背負わぬも、悔いるも悔いぬも、己の勝手。そこにあるしがらみは己だけのものだ。同情や憐みなど知った事ではない。落ち込んでいる姿を見ていたくない、なんてエゴに付き合っていられるはずもない。
「苦しめよ。アンタは耐えられる人間だ。散々疲弊し、疲労し、苦しみ苦しみ苦しんで苦しめ。うだうだ悩んで、落ち込んで、泣いても良い。声を荒げても良い。でもアンタは耐えきってしまうだろうよ。その妹とやらの生死さえ俺は知らんが、折り合いも割り切りもアンタには必要ない。だってアンタはもう知っている」
「怖い、子供だな。君は」
「どうしようもない、という事実は、決して。アンタの足を止める枷には成り得ない」
もし、ジョゼフがミザリーちゃんを喪ったとしても、同じ事になるだろう。悲しみ、苦しみ、嘆き、気が触れたように口早になるかもしれない。憑りつかれたように行動をするかもしれない。
けれどアイツの足を止めるには、余りにも軽すぎる。
「足を止める。踏み出す。どちらを選んでも良い。進まなければいけない、など誰が決めたというのか。だが、アンタは歩くだろう。歩き続けるだろう。酷く残酷な事ながら、アンタは」
「"英雄"だから、か?」
「"人間"だから、だ」
人間である事を望む者が立ち止まるはずがない。進まなければいけないなんて事は無い。立ち止まっていい。踏みとどまっていい。その間人間でなくなったとしても、それが自らの心を守るための措置であるなら何も問題は無い。そのまま死ぬまで立ち止まったとしても、誰が怒るという事も無い。
ただ、立ち直りたくなってしまうのが人間だ。人間というのは悩み続ける事が出来ない。感情を維持するのが余りにも下手な生物だ。怒り続ける事も、悲しみ続ける事も、楽しみ続ける事だって難しい。エネルギーを消費する"情動"という行為は、持久力を持っていない。
「間違えるなよ。アンタの身体がどれだけ人間を超越していようと、"英雄"だのと罵られる技術を有していようと、アンタは人間なんだ。どこの国の"英雄"もそうさ。残念ながら、人間だ。アンタはそれ以上にはなれない」
「それ以下にはなれると?」
「ふん、思い上がるなよ。人間が一番上じゃない。一番下だ。人間になるってのは誇る事じゃない。恥じ入る事だ。人間以下の存在なんて存在しない。ゾンビもそうでない何か達も、全部人間なんかより上だ」
最も弱く、最も無為な生き物だろう。それを創りたいというリザも奇特なものだし、それを生き永らえさせたいというマザーも狂っているとしか思えない。
「だが、初めから人間であった者が、人間であり続ける事は、決して恥じる事ではない。そうであり続けることはそうでなくなる事より遥かに優れている。成長など必要ない。変化など必要ない。今この時点で、アンタより優れているアンタは存在しない。妹の事を悔やむなら悔やむだけ悔め。俺に話してどうにかなる話ではないし、話さずともどうにかなる話ではない」
「相談を聞いてくれると、さっき言ったように思うんだがね」
「聞いただろう? それで、先ほどと心持ちは変わったか?」
「いいや。もっと深刻になったよ。……だが、向き直る事は出来そうだ。向き合わなかった事を悔やんでいたにも拘らず、結局今まで、俺は妹の事を見ようとはしていなかった。言葉にしておけば考えているのだと自己暗示して、何も考えていなかったみたいだ」
シンはゆっくり立ち上がり、傍らに立てかけていた槍を握り締めた。
見えたのは、弓なりに身体を引いたところまで。瞬きをした後には彼の手から槍が消えていた。
「ふぅ、理由にしておいてすまないが、君を送り届ける事は難しくなってしまったらしい。君なら危険はないと思うが、気を付けて帰るんだぞ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「そうだ、最後に君の名前を聞かせてくれないか?」
「ん──」
ちょっと言葉に詰まる。確かリザが、地上……この国では俺が指名手配されていると言っていたはず。似顔絵と、ワイニーという名前。少年のゾンビ。
顔は似ても似つかないし、ゾンビではない。が、要らぬ誤解を招きそうだ。
かといってマルケルを名乗るのも……それはそれで危ない。
ふむ。
「レヴェロフ、という」
「この辺りでは聞かない響きだな。ああ、いや、時間の猶予はなさそうだ。それでは、レヴェロフ」
「ああ」
「助かった。心から、礼を言うよ」
言って、その姿が掻き消える。
視線を上へ向ければ、屋根の上を駆けていくシンの姿。
……なんだ、中華というのはクンフーとかいう超絶技巧の達人ばかりがいる場所だと聞いた事があるが、アレは"英雄"だから、だよな。全員が全員そう、じゃないよな。
別に今は人間と敵対していないが……。
「
吐き捨てるように。
Ц
しかし、帰り道。覚えてないな、俺。