世界にゾンビが蔓延してる中、私はマザーらしい。 作:Htemelog / 応答個体
イースはゾンビである。
他のゾンビ達のように自身らのことを"同胞"なんて呼ばない……自身が死んでいる事を自覚し、それを受け止めた上でゾンビだと呼んでいる。死した者。死して蘇り、動き続ける者。生きてはいない者。
そんなイースがこの国で英雄とまでに呼ばれるようになったのは、とある少女を助けた事に起因する。
その日、イースは"マザー"から逃げるようにして島を出た。
イースは賢かったから、誰よりも早く気が付いたのだ。マザーには、この女性には、愛情などというものは欠片も無く──イース達を実験動物としてしか見ていないと。エインよりも、アイズよりも流暢に言葉を操り、小さな子供の姿であったイースを、素材程度にしか認識していないと。
自らが温もりを求めてマザーと呼んだ。ただそれだけ。彼女自身にその自覚はないし、それに成り得る要素の一つだって持っていない。
アレは、研究者だ。決して母ではない。だから、その手の内にいるのが怖くて、逃げた。賢かったから怖がったのだ。アレには勝てないと悟っていたから。
そうして逃げて、大陸へ辿り着いて、行く当てもなく彷徨って……この国に着いた。
当時はゾンビへの対処法が十分でなく、数多の被害が出ていた国だ。親を亡くした者も少なくは無く、一見ゾンビと見間違うようなみすぼらしい子供が数多く泥を啜って生きていた。イースはその子供たちに紛れるようにして肌に泥を塗り、この国の子供に成った。
知性無き頃のゾンビは生者をゾンビにするため、自身の粘膜に繁殖している菌を生者の体内へ侵入させようとする。彼らの咥内や体液に含まれるその菌は噛みつき等の行為によって相手の体内に侵入、凡そ五分足らずで人間の脳に到達し、その体の機能を停止、菌が再活性する事によって脳および肉体の所有権を手に入れ、ゾンビとなる。
"マザー"の研究室でイースが読み漁った研究資料によれば、そういう原理らしい。
けれどイースには、生者をゾンビにしたい、という欲求が無かった。もしかしたら知性を獲得する前はあったのかもしれないけれど、少なくとも「君は三番だから、
だから、人間に混じっていても問題が無かった。襲いたいという衝動は起きず、別種族に対する嫌悪も無い。イースが子供だからなのか、知能が高いからなのかはわからないけれど、それはとても都合の良い事実で。ゾンビらしく食べなくても生きていけるイースは薄暗い路地裏で、襤褸布を纏って呆けるだけの日々を過ごすことにした。
そうして、子供に紛れて一週間ほどを過ごした頃。
蹲るイースに声をかける存在があった。
──"どうしたの?"
──"なにをしてるの?"
──"どこか、痛いの?"
ゾンビの襲撃に怯える国の、活気のない通りのさらに外れ。
雨の降る日だった。イース達ゾンビにとって湿気を補充してくれる雨は天の恵みであり、痛いどころか気持ちがいいと感じていた……そんなときの事。
ふと遮られる天からの雫に顔を上げれば、そこにはみすぼらしい子供──ではなく、この国の住民にしては、多少良い素材を使った衣服を纏った少女が、イースを見下ろしていた。
傘をイースの方へ傾けて、問うている。
──"君は誰?"
──"おかあさん、いる?"
その言葉に、イースの中の二つのトラウマが刺激される。
一つは生前。母親と引き裂かれ、目の前で母親をゾンビに食われ、自らもゾンビに飲み込まれたあの光景。
もう一つは今生。無数の試験管や薬瓶が怪しく光る研究室に寝かせられ、「うーん、君もダメか」とぽつりと呟かれたあの瞬間。
今まで気持ちが良かっただけに、イースは一瞬で不快になってしまって、彼女を無視する事に決めた。手を出さなかったのは彼が賢かったからだろう。見た所それなりの身分を持っていそうな少女だ、手を出せばこの国を追いやられることになるかもしれない。
マザーから、そして他のゾンビから逃げ、ずっと隠れていたかったイースにとってそれは悪手。だから、無視。相手も子供だからすぐに飽きるだろうと高を括っての行動。
けれど少女は──彼女は違った。
──"大丈夫、怖がらないで"
──"私は君の事、怖がらないから"
そう言って、あろうことかイースの腕を無理矢理掴み取ったのだ。掴んで、引っ張った。イースは知性強化型……他のゾンビのようにどこかが肥大していたり、異常な筋力があるタイプのゾンビではない。等身大の子供でしかない。むしろゾンビ故に痩せ細っているとすら言えるだろう。だから、簡単に引っ張り上げられてしまった。
まずい、と思った。イースの肌は泥で偽装してあるけど、体温までは変えられない。ゾンビの体温は低い。死んでいて血液が流れていないのだから当たり前だけど、その冷たさは隠しようのないゾンビたる証左だった。
だというのに。
──"こんなに雨で冷えてる"
──"おいでよ、こっちに。温かいスープがあるよ"
少女はそういって、イースを無理矢理路地裏から引き摺り出した。
他人の事を気にする余裕がない程切羽詰まっている国だったから、そんな子供二人の事は誰も見向きもせず、少女の手を振り払う事も出来ぬままにイースはとある家に連れてこられた。
入って。その言葉に有無も言えず、上がる。
中は真っ暗だった。そんな家の中をするすると歩いていく少女。少女は慣れた手つきで壁にあったランプに火を灯し、改めてイースに向き直る。
──"お父さんもお母さんも、今はゾンビの対策で忙しいから"
──"だから安心して。誰も君を怒る大人はいないよ"
その見当違いな慰めに、しかしイースは何故か落ち着いてしまった。
襤褸布を取る事は無かった。けれどイースは、自らの名前がイースである事を少女に告げた。生前の名前もあったけれど、それを名乗るのはダメだと……イースの幼い倫理観が、あるいは賢き道徳観が告げていたから。自分は彼ではなく、イースだと。
その名乗りに、少女はパァっと笑顔を浮かべ、口を開く。
──"私はメイズ。よろしくね、イース"
それが、少女との出会い。
彼が英雄になる一日前の出来事である。
Ρ
ゾンビは食事を必要としない。要らないのではなく、出来ないと言った方がいいだろう。胃が動いていないから食材を消化出来ないし、排泄も出来ない。咀嚼する事は出来ても嚥下自体が難しいから、何を食べても喉に詰まらせる結果となるだろう。詰まらせたところで何も起きないが。
だからイースは食事を断った。この国は困窮しているのだから、自分で食べて、と。しかしメイズは引かなかった。じゃあ私も食べない、なんて言って、乾いたパンに手を付けない。
イースは子供だ。子供だけど、良識があったし、他の子より正義感の強い子だった。だから、折れてあげることにした。食べられないけど、パンを食べる。そうすればメイズも食べるだろう。両親が帰ってこない、寂しい思いをしているだろう少女を……余計なお世話とはいえ、曲がりなりにも自身を助けようとしてくれた少女を、お腹を空かせたままにしておくことが出来なかったのだ。
この時点でもう、イースの中からトラウマを刺激された事なんか消え去っていたし、妹に対する庇護欲のようなものまで湧いていた。生前に兄弟姉妹のいなかったイースだけど、島にイヴという少女のゾンビを残してきたから、それが由来しているのかもしれない。
とにかくイースはメイズの世話を……少なくとも彼女の両親が帰ってくるまではすることにした。パンを出来るだけ細かく千切って喉に詰め、スープを流し込んで胃まで持っていく。味はわからない。食べたという感覚もない。それを苦痛に思う事さえない体。
けれど目の前で、メイズが美味しそうにパンを食べているのを見るだけで、イースの心は満たされていた。その不思議な感覚は、しかし心地の良いもので。
──"ねぇ、メイズ"
──"なに? イース"
──"メイズのお母さんって、どんな人なの?"
イースは自らトラウマに触れる事にした。
自分でそう言葉にして、けれど不快さは無く。
嬉しそうに母親の良い所を語り始めるメイズに、自然と笑みが零れる程──イースは彼女に気を許し切っていた。
日付が変わっても、メイズの両親が家に戻ってくる事は無かった。
いつものことだよ、なんて笑うメイズに、じゃあ今日は僕が一緒に寝てあげる、なんてことまで言って。嬉しいと抱き着いてくるメイズに、少しだけ迷って……イースは彼女を抱きしめる。
もう雨に打たれていない、温かいスープも飲んだ……にも拘わらず、冷たいままの身体で。
そうして、朝が来る。
π
慌ただしい声──怒号と悲鳴の入り混じったその声に、二人は叩き起こされた。
家の中からそーっと外を見てみる二人。
そこは、地獄だった。
倒れている者は一人もいない。
ただ、血みどろの死体が、灰緑色の遺骸が、国中の人間を襲っている。逃げ惑う者に老若男女は関係ない。皆が皆一様に生へと縋り、けれど叶わず散っていく。屍に捕まった者は数分をそこで蹲り、次の瞬間には屍と同じ灰緑色になって家族や友人を襲い始める。
地獄だった。
地獄、だった。
イースはすぐさまメイズを下がらせる。あの時代……つまり知性無き頃のゾンビは視覚で生者を判断すると知っているから、姿を隠させたのだ。
けれど、彼の腕の中でふるふると震える彼女は……けれど。
「お、お母さんが、今ッ!」
「っ……もう、無理だ。あれじゃ……」
「そんな──」
イースにはどの人間が彼女の母親なのかはわからなかったけど、あの量のゾンビに囲まれて生き残り得る人間がいない事など、イースが一番わかっている。少なくとも今はただの子供である二人では、どうする事も出来ない。
悲しみの嗚咽を漏らす彼女に心が痛む。どうしようも出来ない事実に心が叫ぶ。
その時点でイースは、たとえこの国が滅んだとしても、どこか安全な国に彼女を送り届けようという意志があった。それがゾンビの……"同胞"の蛮行を許した自身の償いだと。
ああ、けれど、どれだけイースが賢くても、賢くはなれない……感情を抑えきれないのが子供というものだ。
イースの決断。その逡巡。それらが創った一瞬の隙を突いて、メイズが走り出す。制止の声を上げた時にはもう遅く、メイズは家の扉を開けてしまっていた。
同じゾンビだ。彼らはイースに見向きもしないだろう。
けれど、メイズは格好の的だ。身体能力も高くない子供等、すぐさま掴まって死者にされてしまうだろう。
イースは自身らを新人類などと宣う"兄妹"とは違う。自身を死体だと認めているし、それが悲しい事だと思っている。
メイズを死なせたい、とは──到底思えなかった。
果たして、その想いは、行動による結果となって現れる。
メイズ、と言葉を発した。その瞬間、菌によって掌握された脳が命令を下す。それは思考よりも先に脚を動かし、壁にあったランプを掴み、今まさにメイズへ掴みかかろうとしていたゾンビの頭蓋へ向けてそれを投擲、更には玄関横に立てかけられていた箒を持ってメイズを守るように立ち、襲い掛かるゾンビの顎を的確に突いて跳ね飛ばしていく。
ゾンビは思考によって脳を動かしているのではなく、菌によって思考と脳を動かしている。だから、考えるよりも先に手が出た、を地で行くのだ。
子供の身体には余りにも大きすぎる負荷も、ゾンビの身体であれば何ら苦にならない。
突然の事に頭を抱えて伏せるメイズを良い事に、彼女に襲い掛かるすべてを一本の箒で払いのけていくその様はまさに"英雄"。
次第に菌の掌握に追いつき、加速し始める思考が菌と並列に物事を処理し始め、メイズにばかり集中するゾンビ達を効率的に排除できるようになっていく。
さらには。
「──ゾンビの弱点は頭部だ! それも、後頭部──頭蓋を叩き割るんだ! なんでもいい、とにかく脳を潰せば止まる! それが出来ない者は足を狙え、少なくとも動けなくなる! 逃げるな! 逃げずとも──」
手で筒を作り、それを銃身として、箒の毛を取り払った底部を膝で蹴り上げ強く突き上げる。
寸分違わずゾンビの顎骨を衝いたソレはゾンビの身体を仰向けに倒し、その喉に箒を突きつけ、思い切り踏みつけた。
ぐちゃ、という音。生前であれば嫌悪を感じただろうその感覚を受けて、更に全体重をかける。
足りない。少しだけ体重が足りない。
しかしそれは、蹲っていたはずの少女によって、補われた。
何かを決意したような瞳で箒に脚を乗せる少女にイースは頷き、もう一度思い切り力を込める。
そうして、ぶち、と。
「──倒せるぞ! こいつらは不死身の怪物じゃない! 倒し得る、ただの障害だ!」
宣言する。
その言葉に、先ほどまで逃げ惑うばかりだった人間たちが、どこか興奮したように同調を返した。
「倒せる、のか」
「倒せるんだ」
「倒せる──殺せる! ゾンビは」
「殺せる──!」
当事者以外にはどれほど異様な光景に映った事だろうか。
しかし、
"英雄"を。
「僕の名は、イース! 人々よ──僕に続き、この国を守れ!」
そうして。
湖と川に隣接する豊かな国は、一度は死に瀕し──しかし"小さな英雄"を擁す、"人類最後の希望"となったのである。
μ
イースが"英雄"と呼ばれ始めて数週間が過ぎた頃。
両親を失い、一度は折れかけ、けれど立ち直ったメイズを前に、イースはある事を明かそうとしていた。
"英雄"のためにと用意された家。静かな家だ。イースとメイズだけが住むこの家で、二人。
「それで、話、って?」
「……驚かないで、聞いてほしい。いや、驚いても良いし、なんなら嫌ってくれても構わない……だけど、最後まで聞いてほしいんだ」
「……うん」
メイズに動揺は無かった。まるでイースが何か隠し事をしているのを知っていたかのように。
否、まるで、ではないのだろう。メイズは子供だけど、賢い子だ。生前のイースでは比べ物にならない程賢く、聡く──気遣いの出来る子だ。
だから。
「──」
大きく息を吸って、吐いて。
ゾンビには呼吸なんて必要ない。本当は肺を動かすのも難しい。けど、イースはあの一件から肉体の掌握が他のゾンビよりも上手く行っていたから、出来た。必要はなかったけど、出来るからやった。
そうした深呼吸の後──口を開く。
「僕は、ゾンビなんだ」
「……」
「この肌は、顔料を塗ってあるだけ。僕は……僕らゾンビは死んでいる。それは君もよく知っている事だと思う。だけど、ゾンビの中で一定以上に生存能力を高めた一部の個体は、知性を得るんだ。難しいよね。ごめん。でも、聞いてほしい」
「……うん」
「それで、僕は知性を得たゾンビで……その中でも、言葉を喋る事が出来るし、生きていた頃を思い出せる程にまで辿り着いた個体だった。多分、現状存在するどのゾンビよりも頭が良いと思う。これは自慢とかじゃなくて……」
「うん、大丈夫。わかってるよ」
「……それで、僕は……逃げてきたんだ。僕は、僕らゾンビはね、マザーって呼ばれてる研究者から生み出された。その人はゾンビを作ってる……生きた人間に菌を感染させて、殺して、ゾンビを作ってる。僕もそうやって出来ているし、あの日のゾンビ達もそうやって出来ている。本当に死んでいて、そこに感染した菌が動かしているだけなんだ」
メイズは静かにイースの話を聞いている。話す必要のない難しい事も、イースの口が、懺悔をするかのように溢していく。それをメイズは、静かにうなずいて、聞く。
「マザーは……恐ろしい研究者だった。怖いんだ。彼女は僕らをなんとも思っていない。ううん、貴重なサンプル程度には大事にしてくれているけど、そこに子へ向けるような愛情なんかないし、家族とも仲間とも思っていない……必要があれば全身を切り刻む事も、マグマの海へ放り込む事も、顔色一つ変えずにやるんだろう」
「……」
「僕はね、そんなマザーが怖くて、逃げた。マザーはある島でゾンビの研究を続けているんだけど、そこから逃げてきた。海を泳いで渡って、大陸を彷徨って……この国に来た。最初はそのまま、土みたいになっているつもりだったよ。マザーの目の届かない人間の国で、太陽と雨に打たれて、泥に塗れて……僕らゾンビは、死なないからさ」
でも、と。
イースはメイズを見る。
「君が来た。君が僕を、引き摺り上げてくれた。正直に言えば、それが僕にとって良い事だったのか悪い事だったのかはわからない」
だけど。
「だけど、次の日のあの大襲撃……あの日に君を守る事が出来たのは、この国の人達を立ち上がらせることが出来たのは、あの日君が僕を見つけてくれたからだ。あの日君が僕の心を、もう一度マザーに立ち向かえるよう奮い立たせてくれたからだ。だから、だからさ」
「うん」
「僕はゾンビだけど、僕は逃げてきたけど……僕はマザーを倒すよ。他のゾンビ達も。そうして、世界に……そして君に、また元の平和をプレゼントする。君の両親を取り戻す事は出来ないけど、せめて君だけでも幸せになってもらいたい。それで、それが叶ったら」
言葉を続けようとして、歯が震えた。そんな機能は残っていないはずなのに。
もう一度口を開く。けれど音にならない。ああ、と。独り言ちた。
僕は。やっぱり、僕は。
イースは苦笑した。"英雄"なんて呼ばれても、やっぱり何も。
メイズを見る。メイズはイースを心配したのだろう、慰める言葉を発さんと口を開く。
けれどそれを、イースは止めた。待って、と。
「……僕は臆病だ。怖がりだ。だけど、だけどね。決めたし、考えたし……それが、一番だと思うから」
「イース……」
「もしそれが叶ったら──」
今度はちゃんと、
「僕は死ぬことにするよ。まぁもう死んでるんだけど……海の底にでも行って、空の上から君を眺めることにする」
「──……」
「僕はゾンビだからさ。多分、ダメなんだ。みんなが死んだあとまで僕が生きてたら、それはズルだから。せめてみんなと一緒に足を止めたい。それは、怖いよ。とっても怖い。けど」
もう一度、イースはメイズを見つめた。
「僕は君が、大事だから。だから、怖いけど──怖くない」
イースは、冷たい手を差し出す。
その手をメイズが握る。そこに躊躇は無い。迷いはない。それは温かみのある信頼。
「だから、それまでは……僕の隣にいてほしい。一緒にマザーを倒すんだ。手伝ってくれる、かな」
「うん。勿論。……イースが眠る時は、ずっと私が傍にいてあげるから。海で独りぼっちなんてダメ。本当に、どうしても死ななきゃいけないなら──私がやる、から」
その手は震えていて。
だから、イースは彼女の手を強く握る。冷たい両手で、強く、温かく。
「頑張ろう、メイズ。この国の人達と一緒に──マザーを倒そう」
「うん。一緒に」
これが。
これが、イースが"英雄"となった顛末。
これがイースが人間側に寝返った──人間を守る"英雄"になった経緯である。
ν
「おかえり願います」
それは、深夜のこと。月が雲に隠れた真っ暗闇の中。
イースが国の大人達と作戦会議をしている少しばかりの時間。
「人間……シネ……!」
片腕が異様なまでに肥大化し、筋肉が張り詰めた異形の男。
それに相対するは歳の十を超えるか超えないかくらいの少女──メイズ。彼女は異形を前にして、たじろぐ素振りすら見せない。
「おかえり願います」
「……──!」
再度の警告。
それは、超質量による拳で以て返された。
「──」
はずだった。
その拳は、メイズの前でピタリと止まる。
風圧がメイズを打つが、やはり気にすることなく──拳の向こうの男を見つめた。
「人間……人間──
「
「
急速に、何かを取り戻すように。
何かを──知性を、違う、本能を──恐怖を取り戻すかのように、男は、ヴィィはゆっくりと拳を降ろし、引いて……メイズを見た。
「リザ?」
暗がりが隙間だけ晴れ、差し込んだ月明かりが一瞬だけ彼女の口元を照らした。
ヴィィの声にならない問いかけに、しかしメイズは口角を上げて微笑んでいて。
「まだその時ではないよ、ヴィィ。わかるかな」
「……」
ヴィィは、怯えるように……けれどしっかり頷いて。
その巨体を、元来た方へ戻す──踵を返していく。
それを見て、メイズも国内へと戻る。
一瞬の攻防。あるいはまだ、この国の人間では対処しきれなかったかもしれない肥大強化ゾンビヴィィの襲撃は、"英雄"に寄り添う一人の少女によって事なきを得たのであった。