世界にゾンビが蔓延してる中、私はマザーらしい。   作:Htemelog / 応答個体

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ディードゥヌ-死者の隣に住むモノ

 ゾンビの種類をいくつか分類すると、まず知性無きゾンビと知性を得たゾンビに分けられる。歩行ゾンビや走行ゾンビのほとんどは知性無きゾンビに分類され、部位の肥大したゾンビの大半もここに振り分けられる。その中で歩行走行の極一部と、肥大ゾンビの一部が知性を獲得し、肥大強化ゾンビ……人間達の呼ぶ強化ゾンビ、あるいは上位ゾンビとなるのだ。

 知性を獲得したゾンビはまず自身の活動停止を恐れるようになり、簡易ではあるが連携を行ったり、目に見えた罠であれば避けるようになったりする。この状態になったゾンビは基本的には進化(肥大)しないため、走行歩行ゾンビから知性アガリするよりは肥大ゾンビから知性アガリした方が能力的に優れた個体となるのである。

 ただし、各種ステータスを点数付けした場合、最終的な点数は同等になるといえばいいのか、肥大ゾンビは基本的に頭が悪いし、そうでないゾンビは頭が良い傾向にある。ゾンビは人間で、人間の能力以上の事は出来ず──出来ているように見えたのなら、何かを失っているはずなのだ。

 

 そうして、何かを失いながらも高い生存能力と知性を獲得したゾンビが、言葉を解すようになる。それをナンバーゾンビと呼ぶ。

 

 と、されていたのはかつての話。

 

「水……」

「お前も……」

「……早く」

 

 マザーのいなくなった元リゾート島。そこではゾンビが溢れかえり、人間が見れば地獄の様相を呈している、と称したことだろう。しかしゾンビ達にとっては正しくリゾートで、中でも知性アガリをしたゾンビ達が何の危険にも晒される事無く日々を過ごせる楽園となっていた。

 どうしてか、マザーがいなくなってから、ゾンビ全体の知性獲得率とでも呼ぶべきものが減った事は危惧すべき事態であるのだが、元々知性を獲得していたゾンビの内二、三割程度は既に言葉を理解できるようになっていて、ナンバーゾンビとは比にならない程度ではあるものの、賢い、と呼べるソレが……新人類と呼べるソレが増えた事は喜ばしい事実だった。

 

 ……ナンバーゾンビ、アイズの死さえなければ、素直に喜べたはずだった。

 

「お前がいなくなっては……意味が無いだろう、馬鹿が」

 

 吸う事も出来ない湿気た煙草を口に咥え、エインは呟く。

 生前の己が経営していたホテルの一角で、エインは頭を抱えながら書類を眺めていた。

 

 ウィニから上げられたマザーの研究資料。ヴェインから上げられた人間の国の動向。アイズ含む、数多の同胞が活動停止したとある国のとある街についての遠隔観察記録。

 ウィニとヴェインが懸念した、マザーらしき者の影。

 気を揉むことが沢山ある。否に行動的で攻撃的なウィニとヴェインと違って、エインは保守派な性格だと自己分析している。アイズのように武闘派でも、イヴのように幼稚でも、ヴィィのように凶暴でもなく……割と普通で、受け身的な性格であると。

 

「……イース。お前は、どこにいるんだ。頼むから俺の気苦労を分け合ってくれよ……」

 

 エインとアイズ、そしてイースは最初に自我を獲得した三体として、多少、仲が良かった。次に獲得したのがイヴだから、というのもあるだろうし、イヴが言葉を解すようになったのがエインのソレの二か月後と、それなりに時が経っていたからというのが大きいだろう。

 とかく初めの頃は話し相手がこの二人だけで、イースがいなくなってからはもっぱらアイズと、まるで兄弟のように日々を過ごしていた事を覚えている。

 そのアイズがいなくなってしまってからは仲の良い者がいない孤独に……寂しさに浸るくらいには、依存をしていたのだろう。

 

 依存だ。初めの頃。否、初めは、一人だった。

 勿論マザーはいたけれど、マザーはマザーで、同胞でも仲間でもない。守るべき存在だ、という意識は今でもある。けれど決定的に違う──そこに愛情と言うものが欠片も存在しないから。

 そんな始まりの孤独を埋めてくれたのがアイズとイースだ。周りが物言わぬ獣が如き同胞である中、よろしくな、と。はじめまして、と。それぞれ言葉を掛けてくれた時、どれほど嬉しかった事か。生前の女々しさはエインになった直後から現れていたのか、その時に感じた心の温もりを今でも忘れらずにいる。

 

 そしてそれは、生前を思い出しても同じだった。

 自身の大切なホテルがゾンビで溢れかえったあの光景に、あろうことか立ち向かいもせず逃げ出した己の情けなさ。客や従業員が上げる悲鳴を聞きながら、一人島裏の入江においてあった従業員用のボートに乗り込もうとして、ゾンビ達に追いつかれて死んだあの絶望。

 すべて思い出して、恐怖に震えた。自身がゾンビであるのだと自覚した。眠ることの無い身体は悪夢を見せないでくれたが、安らぎを与えてくれることも無い。

 

 その恐怖を和らげてくれたのもまた、アイズだった。

 彼はアイズとして活動していた頃とは違う軽薄な笑みで、けれど真面目な声で。

 

「けど今、こうして俺達はここに立ってる。死が絶望だったのは旧人類だったからだ。だが、今は希望ですらある。そうだろ? 時間さえかければ、別離というものは無くなり、残るのは永遠の楽園だ。エイン、俺達がやってることは悪い事じゃねえ。旧き人類(アイツら)はかつてのお前と同じように絶望に瀕して苦しんでいるんだ。それを救ってやろうじゃねえか、先にこっちに来た者として、手を差し伸べるんだ」

 

 と、そんなことを宣った。

 詭弁だし、話の論点が全く違うし、そもそも人間を襲う事を悩んでいるわけではない──そうは思ったけれど、言いたい事は伝わった。「うだうだ悩んでねぇで、気軽に行こうぜ」と。

 その通りだと、エインは思う。

 死という最大の悩みが消えて、食事もいらなくなった身体。金の事を考える毎日だった生前と違い、今は恐ろしい程の余裕がある。

 

 俺はマルケルってんだ、なんて生前の名を名乗るアイズに、エインもかつての名を返した。

 ホテルに保蔵されていた酒を取り出し、飲めもしない体にかけて乾杯とし、様々な事を語り合って。

 

 そうして、そうして。

 

「……人間に殺された、か」

 

 アイズは脚部強化型のゾンビだった。その脚力はコンクリートをも蹴り砕くほどの威力を有し、素の戦闘能力も高い。代わりに上体の筋肉量と水分の保有時間に多少の低減が見られたけれど、それを補って余りある程の戦闘センスを有していた。元軍人だと、彼は言っていたはずだ。

 それが、死んだ。

 頭蓋から股下までを割断されて死んだらしい。らしいというのはかつて狙撃手だったらしい知能アガリをしたゾンビが遠隔地から撮影した画像から判断したが故で、その遺体を回収する事さえ適っていない。

 

 アイズが最後に相対した人間はウィニ達のいう所の"英雄"……ジョゼフという名の個体。その名はアイズが記憶を取り戻した直後に話していた彼の相棒の名であり、彼と彼の"英雄"間に何があったのかを想像して、しかし(かぶり)を振る。

 そんなものを気にしても仕方がない。

 アイズは死んだ。エインにとっては、それだけのこと。

 

「イースの国に行って、帰ってきたヴィィは怯えが止まらない様子だった。ヴィィのあんな様子は初めてだ。そんなにも……そんなにも恐ろしい人間がいる、というのか。アイズを殺した奴も、ヴィィを追い返した奴も……」

 

 "英雄"。

 各地に出現した埒外の戦闘能力を有す人間達。それはゾンビの肥大強化を軽々と跳ねのけ、知性無きゾンビでは歯牙にもかけない……まさに化け物だ。

 ウィニ達の話では彼らの傍にマザーがいる可能性がある、とのことだったが、それは余りにも夢物語が過ぎる。ヴィィが圧殺したのは"よく似た他人"で、各地にマザーがいる、など。

 

 生前は読書を趣味にしていたエインだ。その"よく似た他人"がクローンと呼ばれるものなのではないか、という所までは想像したが、しかしそれも頭を振って追い払う。

 だって、もしそれが出来るのなら。

 もしそんなものを、大量に用意できるのなら。

 

「世界を壊すのにゾンビなんて作る必要はない……はずだ」

 

 言っていて、少し、疑問が湧いた。

 

 エインは最もマザーと共にいた時間の長いゾンビである。よってこの島に訪れる人間……マザーではない、各国のエージェントと呼ばれる者達の会話もそれなりに聞いていて、彼らとマザーの間に取引があったことも知っている。

 マザーの目的は一貫して死者の蘇生。エージェント達は何か裏があると睨んでいたし、エインも世界を滅ぼす事こそが目的なのではないかと考えていた……が、もし本当に、死者の蘇生のみが目的だったら、どうなるか。

 人間を生き返らせる。それだけが目的。

 

「……いや、それなら、それこそゾンビを作る必要など……」

 

 口に手を当てて考える。

 必要。必要と言った。

 だから、必要なんてないんじゃないか。

 

 ゾンビを作りたくて作ったのではなく、出来てしまっただけ。

 死者の蘇生の失敗作が──ゾンビ。

 

「笑えないが、いや……」

 

 マザーはゾンビ化を治療する薬を各国と取引していた。治療できるものを作る時点で、そして治療しうる薬をつくる時点で、世界を滅ぼしたいわけではないことが窺える。そしてその取引で得ていた人間の精子と卵子。

 今は封鎖されてしまった実験室には、ゾンビ用の工房のほかに"人間を栽培する部屋"があったことをエインは憶えていた。実験用であったり餌用であったり、様々な用途が挙げられる人間を作る部屋。

 けれどその人間をゾンビにすることは無かったし、わざわざ外部からそれらを買わずとも、自身の卵子を用いれば済むことのはずだ。彼女は女性なのだから。

 

 それをしない理由はなんだ?

 

「……子を産めない体にあった? 可能性は無きにしも非ずだが……どうもしっくりこないな」

 

 エインは過去を思い出す。

 あの実験室。名前も知らない研究者の事。

 ウィニ達の言う通りなら彼女は自身のクローンを作る事が出来る。けれどクローンで世界を滅ぼす事はしない。それは世界を滅ぼす事が目的ではないから。彼女は死者の蘇生が目的で……しかし、自身で栽培した人間やそのクローンとやらを実験に使う事は無かった。

 何故だ。

 表の人間を実験材料にするより、戸籍の存在しない自身のクローンを用いたほうが、リスクマネジメントからしても選択肢として取りやすいはずなのに。

 

 何故、何故。

 

「……マザーはゾンビに成れない? マザーの手によって作られた人間はマザーの組織が入っている? 俺達ゾンビは……元人間だ。他の動物が俺達の肉を食って突然変異する事はあれど、ゾンビ化することが無いのは確認済み……ゾンビは、人間しかなれない」

 

 じゃあ、マザーは。

 

「……賭けだが」

 

 エインは立ち上がる。

 立ち上がって部屋を出て、ある場所へ向かう。

 

 マザーの墓碑がある場所へ。

 

 

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 ホテルがある場所の反対、かつて自身が死んだボートが泊めてあった入り江を囲む片側の、切り立った崖の頂上に建てられた、簡素な墓碑。

 そこに添えられるは一輪の花。その他、エインの価値観ではガラクタとしか言えない諸々。

 それを添えたのはイヴだ。イヴはマザーを本当の母親のように慕っていて、彼女の死を誰よりも悲しんでいた。彼女の死後も毎日の日課のようにここへ"お話"に来ているし、花が散ったり枯れたりしたら新しいものに替える等、律儀で心優しい面を見せている。

 花以外のガラクタはイヴが島で拾ったものや海からサルベージしたものであり、中でも比較的小奇麗なものばかりが集められているのを見るに、イヴの中でも大切なものを添えているのだろうことがわかった。

 

「……掘り返す事に良心が痛むのは、俺がまだ人間の証拠なのかな」

 

 墓荒らしが悪い事だ、というのは、生前の宗教もあるのだろうが、多少心が痛む事。それはゾンビである今も変わらず、マザーへの守護意識が残っているエインはより、良心に傷を負っていた。

 けれど、それでも。

 確認しなければいけない事があるからと──マザーの墓碑の手前の地面に、シャベルを入れる。

 

 懐かしい、と思った。

 エインが経営者をやっていた頃、たまに土いじりをすることがあったから。読書や土いじりが趣味の好青年……リゾート島が有名になって横柄な客が来るようになってからはヘビースモーカーの中年になってしまったけれど、かつてはそうだった。そうだったはずだ。

 掘っていく。エインは一応、脚部強化型のゾンビである。アイズが跳躍や蹴りの威力に振っているのに対し、エインは走行に長けている、という感じの進化を遂げた。そういう所でも気があったな、なんて懐古を、また頭を振って追い出した。

 

 こつ、と硬質な音。

 上の土を掻き出していけば、そこには簡素な棺が一つ。

 釘打ちされた蓋に開かれた形跡はない。杞憂か、と思って……けれどやはり、心配になった。

 用意してきた釘抜きで、それを丁寧に抜いていく。

 

 動いていないはずの心臓が脈打つ気がした。焦っている。怖がっている。

 

「……ふぅ」

 

 落ち着け、と。ただ確認するだけだ。

 そうして、すべての釘を抜いて……そっと、蓋を開ける。少しずつズレていく蓋。また心臓が脈打つ気がした。妄想だ。幻覚だ。生きていない俺達に、心臓で左右される体調という概念は無い。

 

「──……()()()()()()()()()()()()()……」

 

 蓋を、開け切った。

 そこには安らかな表情で眠る、記憶通りのマザーがいて。

 

 生前から続く情けなさと女々しさが生んだ杞憂に惑わされていただけなんだと、安堵した。

 

 

 

 ж

 

 

 

「待て」

 

 待て。待て。待て。

 それに気付くことが出来たのは、その臆病さ故だろう。

 

「……マザーの死因は、圧死だ。ヴィィによって叩き潰された。だから」

 

 だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 最後に見た時は、もっと拉げていたし。

 最後に見た時は、誰かもわからない程だったし。

 

 エインは、いつもの白衣に身を包んだマザーにそっと手を伸ばす。

 そして、その胸元を開いた。

 

 開こうと、した。

 

「私にも一応、恥じらいの心とか、あるよ」

「──!」

 

 飛び退く。脚部強化型の性能を遺憾なく発揮して、バックステップ。

 その声は確実にマザーの死体から聞こえた。

 その声は確実にマザーの口から聞こえた。

 

 その声は、紛う方なきマザーのもので。

 

「おはよう、エイン。久しぶりだね」

 

 マザーは、上体を起こして──まるでいつも通りの事であるかのように、エインに微笑みかけたのだった。

 

 

 

 л

 

 

 

「水が欲しい……」

「怖い……」

「アノコ、アノコ、ドコ……」

 

 言葉を話す人達が増えてから、この島はうるさくなったとイヴは感じていた。最初、賑やかなのはいいことだと思っていたけれど、話しかけてもちゃんと反応してくれるわけじゃないし、ちゃんと反応してくれるのは相手してくれないしで、とてもつまらないからだ。

 

 イヴは話すのが好きだ。おはなし。今日あったこと、昨日あったこと、明日あったら嬉しいこと。

 ()、イヴはあまり話してはいけない家族の元にいた。声を出すと怒られる。お母さんもお父さんもずっと怒っていて、喧嘩ばかり。友達を作る事も外に遊びに行くことも許してもらえない。

 イヴはそれが嫌で、夜すぐに眠って、朝に早く起きて、こっそり外に遊びに行って……なんて、ちょっと悪い事をしていたくらい、遊ぶのが好きだった。外であった走ってる人やお散歩しているおじいさんに話しかけたり、よそのお家の犬や猫を撫でさせてもらったり。

 

 だからその日も早く寝て──気付いたら、ここにいた。

 ずっと怒っているお母さんもお父さんもいなくなっていて、知らない人が沢山いて……けれど唯一人、マザーだけは、イヴの話を聞いてくれた。怒りもせず、然りもせず、「うん、うん」と。「そうなんだ」とか「どうしてそう思ったの?」とか、ちゃんと相手をしてくれるのだ。

 イヴはそれがとても嬉しかった。嬉しかったから、毎日のように話をした。マザーにもお仕事があるのがわかっていたから、お話をするのは一時間だけ。他の"お兄さん達"の言葉遣いをまねっこして、マザーを怖がらせる人達は懲らしめて。

 

 けれどそのマザーも、いなくなってしまった。

 ううん──死んでしまった。

 

 イヴはまだ子供だから、難しい話はよくわからない。ただなんとなく、大人の"お兄さんとお姉さん"から嫌な雰囲気があるのは感じ取れて、段々と距離を置くようになった。

 帰ってこない、歳の近い"お兄ちゃん"がどこにいるかなんてイヴにはわからない。その他の喋ってくれる人達はみんな大人で、いつも難しい顔をしていて、あまり相手をしてくれない。

 

 つまらなかった。イヴは、つまらなくて。

 だから毎日、マザーのお墓にお話をしに行った。

 

 そしてそれは今日も同じで──島の裏側の、とても高くて、風の()()()()()ところにあるお墓に来て。

 来て、見て。

 

「え──」

 

 それを見た。

 

 手前にいるのは、"お兄さん"だ。エインお兄さん。大人達の中では嫌な雰囲気を持ってない方の人で、少しの時間だけなら相手もしてくれる人。ただアイズお兄さんが帰ってこなくなってからはずっと泣きそうで、イヴも少し心配していた。

 

 その、奥に。

 

 よいしょ、なんて言いながら、白い服に着いた土を払う女の人。

 お母さんよりは若くて、"お姉さん"よりは年上で、優しくて、かっこよくて──何度も夢見た、人。

 

「マザー……?」

「ッ、イヴ!?」

 

 駆け寄る──ではなく、いつしか伸びるようになっていた腕を、マザーに向かって伸ばす。

 何の抵抗もなく腕に巻き付かれたマザーに向かって、イヴは飛び込んだ。一瞬エインお兄さんが手を伸ばしていたようにも見えたけれど、イヴにとってそんなどんでもいいことは頭の隅っこに追いやられていて。

 

 ()()()()()()()()()()その胸の中で、イヴは何度も彼女に頬ずりをした。

 

「マザー……マザー!」

「イヴも久しぶりだね」

「うん、うん!」

 

 頭を撫でられる。これは滅多にやってくれないから、とても嬉しい。

 マザーと初めて会った時に一度やってくれたくらいで、でもイヴはおねだりするのがなんとなくできなくて、だからとても嬉しかった。

 

 背後、エインお兄さんが近づいてくる足音を聞いても、イヴは離れない。

 エインお兄さんとマザーはいつも難しい話をしていて、いつもだったらお仕事の邪魔をしてしまうから離れるけれど、今日だけは嫌だった。嫌だったから、離れなかった。

 

「……マザー。本当に、マザー、なのですか」

「うん。そうだよ。別人に見える?」

「……いいえ」

 

 何故、エインお兄さんが落ち込んでいるのか、イヴにはわからなかった。

 死んだ人にはもう会えない。それはイヴでも知っている常識だ。悲しい事だけど、仕方がない。近所の犬や猫が死んでしまった時も、その家の人と一緒に悲しんだ。その時に死というものを知ったし、それが悲しいから、生きている内に沢山お話しようと思うようになった。

 それが、それが。

 死んでしまったと思ったマザーが、生きてた。嬉しくないはずがないのに。

 

「貴女は……死んだはずだ。俺……私達と違って、人間は身体が潰れたら死ぬ。違いますか」

「ううん、違わないと思う。潰れる部位にもよるけど、上体がぺしゃんこになったらどんな治療を施そうにも治療は適わないんじゃないかな。蘇生なら、話は別だけど」

「では、貴女は……俺達と同じに?」

 

 イヴを抱きしめたまま、マザーはエインお兄さんと難しい話を始めてしまった。イヴの方が先にお話ししたかったのに。

 でも、今はこの温もりだけで十分で。イヴがマザーを好きなのは、何よりも、誰よりも暖かい事が理由だから。

 

「まさか。私の作った菌を私に感染させられるなら、初めにやってるよ。出来ないから困って、人間のサンプルが欲しくて、あのホテルのお客さんに菌を投与したんだもん」

「ならば……ならば! 何故、貴女は生きている……貴女は、貴女は、本当に──」

 

 いきなり怒鳴られて、イヴはビクっと身体を震わせた。

 マザーにひっしりと抱き着く。その胸に顔を、耳を当てて──そこから何の音も鳴っていない事に気付いた。

 

「人間、なんですか……?」

「ううん、私は人間じゃないよ。私は研究者だけど、人間じゃない。だからゾンビ化細菌も効かないし、時間を経ればこうして再生する。私は一度も、自分を人間だと名乗った覚えはないよ」

 

 マザーが指を立てて──それを、噛む。

 イヴはびっくりして、マザーの手を長い両腕で掴んで、またびっくりした。

 

 指先から流れるのは、赤い血じゃなくて──砂。

 

「読書が好きだったエインなら、わかるかな。私はね」

 

 その砂は零れ落ちて……けれど少しずつ、少しずつ、砂粒が元の位置に戻っていくのをイヴは見た。

 それは段々と指の傷口に集まって、イヴが瞬きを一つした後には、傷なんて何もなくて。

 

「ゴーレム、ってやつ……になるかな。正確にはゴーレムのクローン、だけど」

 

 マザーは、イヴ達でも初めて見る程にっこりと、可愛らしく笑ったのだった。


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