◇
たとえば。
大きな器に一滴ずつ水を落としていったとする。
雨にもなれないごくごく小さな水滴を、規則正しく、ぽつり、ぽつり、と絶えることなく。
どんなに大きな器でも、それが続けば必ず溢れる時が来る。
つまりはそういうことだ。
ずっと表面張力で保っていた玲の器は、その日決壊した。
清々しい朝のことだった。
……
…………
………………
目が覚めると、常にないほど身体の調子が良かった。
えもいわれぬ全能感に包まれながら、玲は原因を考えてみるが、特に思い当たる節はない。とりあえず、そういうものなのだろう、と当たりをつけ、いつものように頭のてっぺんから爪先まで痺れてしまうほどの期待と多幸感に包まれながら、いつものように支度をし、いつものように一部の隙もない身嗜み立ち振舞いで、いつものように己の足で家を出た。
「おはようございます、楽郎君」
「おぉ、おはよ、玲さん」
眠そうな彼が、玲の方を見て言葉をくれた事実で、胸がキュウゥッと締まった。いつものように、そのことを噛み締め、そして、へにゃりと玲は笑った。
そんな玲を見て、楽郎が目をしばたたかせる。
「玲さん今日なんか嬉しいことでもあった?」
「……? どうしてですか?」
「なんか幸せそうな雰囲気だったから」
記憶を遡ってみたが特に特出すべきことは思い当たらなかった。だが、楽郎が言うほどなら、きっとなにかあるのだろう、と玲は自らの状態を探り、天恵を得た。最近当たり前のようになっていたから咄嗟には思い当たらなかったが、玲には毎朝起きるたびに指先まで痺れるほどの多幸感に包まれる幸いがあるのだ。
「強いて言うなら、」
「うん」
花が綻ぶような笑顔で、玲は口を開く。
「楽郎君と会えて、今日も一緒に登校できるのが嬉しい、ですね」
「……うん?」
ごくごく普通の声だった。
◇
斎賀玲は、ヘタレである。
ああそうだとも。斎賀玲は、まごうことなきヘタレである。
……それも筋金入りの。
そのことは、
彼女は、胸中から溢れ続ける恋心を、己の内に押し留め続けていた。雨垂れでも穿てないそれは、確固たる意志からではなく、ただただ彼女が勇気を出せないからであった。
中身は膨張し続け、どんどん押さえつけるための力は必要となるはずなのに、それでもまだ抑え続けた。踏み出す勇気がない故に、ずっとずっと、彼の隣ですらも。
それがどうしようもなくなって、決壊したらどうなる?
こうなるのだ。
◆
今日は間合いが半歩ほど近いな、とは頭の片隅で思っていた。
……いつもは。
いつもは、「おはよう」と言い合ったあと、玲さんはあんな顔で笑ったりはしない。
登校が被るようになったはじめのころは、挨拶するたびにバグったりしていたわけだが、最近ではそうでもなかった。普通にそのまま、ただ、会話コマンドへと移行するだけだ。
だから、普通に、何気なく、意図もなく聞いただけだった。俺にとっていつもの会話の取っ掛かりにすぎなかった。
パンドラの箱を開けたようなことになるなんて、思ってすらいなかったのだ。
何かが、違う。
おそらくいつもと前提条件が違う。ああ、『嬉しい事』を聞いただけでこんなことになるとは誰も思わないだろ!
「楽郎君?」
「えっ」
「どうかしましたか?」
「いやっ、なんにもないけど」
落ち着け。いや、本当に。玲さんにも、変な意図はないはすだ。ただ俺に聞かれて答えただけ。俺だって、玲さんとは普通に話してるだけでも楽しい。それが、ちょうど質問の答えとして出てきただけなんじゃないか?
ああそれでも、『楽郎君と会えて、今日も一緒に登校できるのが嬉しい』だなんて、シャンフロの情報交換や、登校する話し相手を抜きにした、俺【個人】に付加価値があるみたいだ、と。
じわり、と何かが侵食してくるのを自覚した。言い様のない焦燥感が頭を支配する。この侵食は、止めなければならない、と警鐘が鳴る。
とりあえず、歩きながら半歩ほど玲さんから遠ざかる。一歩半詰められてさっきより近くなった。なんで?
天を仰ぐと、空は憎々しいほど青い。
───いつもは玲さんといると短く感じる通学路が、やけに長く感じた。