ヒエンはいつの間にかグレイの隣に立っていた。190センチ程の高身長の彼は、相変わらず奇妙な狐のお面を顔に装着していた。二年前から、まるで時が止まったように何も変わってない。
至候聖が現れた途端、周りの殆どの冒険者は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。ギルド職員も目を付けられないようにと、さっさと仕事に戻った。彼は紛れもなく世界最強の一角なのだが、グレイが来た時以上に酷い対応である。一体どんな悪評が囁かれているのか……。
「あら? グレイ、ヒエンさんと交流があったの? 知った風な感じだけど」
「寧ろ俺がこいつを冒険者の道に引き入れたんだ。愛植《あいうえ》
ヒエンが適当に所々端折ってアザレアに解説した。大体合ってるので口は挟まない。
「その様子だと、もう登録は済んだようだな」
「はい。ヒエンさんのお陰でここまで来れました。本当にありがとうございます」
「あー、やめろやめろ。野郎に言われても嬉しかねーし、お前に教え込んだのはクロムさんとクリスティアナさんだろ」
クロムとクリスティアナというのは、グレイの剣技と魔術の師である。とは言っても、魔術の才能はグレイには皆無だったが。
「でも……、あの日僕を助けて下さったのは、ヒエンさんですから……」
「気紛れだ」
にべもない。感謝を伝えているというのに、ヒエンは煩わしい煙を払うような態度を取っている。
「所でヒエンさん。何かグレイに用ですか? 私はこれからグレイに街と本拠を案内しようと思ってる所なんですけど」
「ああ、そのようだな。聞いてたよ」
――何処から?
グレイはそう思っていたのだが、ふと視線を感じて目線を上窓へと上げると、窓の向こう側、数百メートル程離れた場所に一つの建造物がある事がわかった。そこに開け放たれた窓があり、風に揺さぶられている白いカーテンが、そこからヒエンが盗み聞きし、ここまで瞬間移動した事を物語っていた。
いや……どんな耳してるんですか。
向かうの窓の奥には至候聖の侍従らしき成人の男女が二人揃って嫌そうな顔でこちらを見ていた。多分グレイに、ではなく、ヒエンに対してだろう。面倒な上司に振り回されているようだ。
取り敢えず手を振ると、気の良さそうな男性が振り返そうとし、その前に落ち着いた感じの女性が窓を閉めた。残念。
「あの、ヒエンさん……」
「ん? 何だ」
「ヒエンさんの従者って……」
「ああ、ドットとナージャの事か? 今は俺の始末書を片付けさせている。あと、今度の長期遠征の申請書。俺の分だけど」
「「…………」」
グレイは沈黙した。アザレアに視線を向けると、天真爛漫な彼女が珍しく気まずそうに苦笑した。その反応を見るに、如何やら日常茶飯事のようである。未熟な少年は此処で彼等を憐れむ事しか出来ない。
「じゃあアザレア。後は頼む」
「あれ、もう行くんですか。てか何しに来たんですか?」
「顔を見に来ただけ。どうせいつか挨拶しに来るからな。それに、用事はグレイだけじゃない。どっちかというと、こいつに会いに来たのはついでだ。じゃーなグレイ」
「あ、はい。また今度」
そう返すと、ヒエンはふっと風のように消えた。何処に行ったのか定かではないが、多分執務室には戻ってないんだと思う。
「じゃっ、今度こそ行きましょう」
「はい。アザレアさん」
――――――――――
アザレアと二人っきりで街を練り歩く。グレイの噂は冒険者の間にしか広まってないのか、一般市民の反応は特に何も感じられなかった。もしかしたら、ヒエンが情報規制している可能性もある。
「バジノヴァーの冒険者含めた人口は五万人程度かしら? まぁそんな大きくはないわね。ただ此処は至候聖が管理している。何故かわかるかしらグレイ?」
「…………。何ででしょう」
「ヒエンさんが問題児だからよ!」
「大声で言う事じゃないですよね。それに、何でヒエンさんの非行がバジノヴァーの管理に繋がるんですか?」
「ヒエンさん……というか至候聖がギルド上層部とバチバチやってるのは知ってるわね。上層部は基本的に王都から動かない。で、ここって結構王都から離れてるでしょう? つまり上層部は、性格悪くて人外的に強いヒエンさんが怖いから此処に送ったのよ」
「ええ……」
「表向きは悪魔が出現率が多いからって理由よ。実際多いしね。あははっ、至候聖から物理的に距離取った所で何の対策にもならないんだけどねー! 対戦争魔術楽式でも持ってこいって話よ」
「それで平等になるんでしょうか?」
「ならないわね! 掠り傷ぐらい付けられたら御の字かしら?」
悪魔というのは、言ってしまえば『理性のあるモンスター』だ。
ダンジョンから産まれるモンスターと違って、悪魔は個体差はあるが意思が強く、悪意を持って人類に敵対している。扱いとしてはモンスターと同じだが、《悪魔王公》と呼ばれる悪魔は別次元の存在であり、出現した際は、集団で準一級と一級冒険者で討伐するようにとギルドから推奨されている(至候聖が単独で祓う場合もある)。
至候聖という称号は、実は冒険者の最高位という訳ではない。正確にはアレグリア最強の実力者を《至候聖》という枠組みで区別しているのだ。冒険者に限らず、宮廷魔術師や軍人など、言ってしまえば実力があれば誰でもなれる。
尚、今現在、至候聖は八人だけだ。
アザレアが話しながら、自然に金貨を露天商に投げ、二人分のラップサンドを注文する。
「おっ、アザレアちゃん! 今日も綺麗だねぇ! その灰色の髪の子は新入りかい?」
露天商の恰幅のいいおばちゃんが笑顔で二人に話しかける。
「ええ、そうよ! グレイっていうの! ほら挨拶して?」
「グレイロード・ラメンテです。今日冒険者になりました。これからよろしくお願いします」
「ははっ、随分と可愛い子が来たもんだねぇ! どれ、少しおまけしておくよ!」
「ありがとう、おばちゃん!」「あ、ありがとうございます」
ラップサンドをアザレアから受け取る。アザレアにも礼を言った。
気前のいいおばちゃんに手を振って別れる。
普段の量をグレイは知らないが、一つ110イリスでこの量なら相当安いな、と思った。
姉弟のように並んでラップサンドをもしゃもしゃと食べる。シャキシャキとした瑞々しい野菜とまだ温もりのある肉が絡みあって非常に美味い。
「美味しいでしょう!」
「はい、とても。故郷を思い出します」
「故郷? 花隠れの森だったわよね」
「はい。双子の弟と二人暮らしだったので、料理は得意でした。近所のお姉さんに教えてもらって勉強しました。とは言っても、基本的には野生や果物、魚ばかりでしたが……。お肉や卵は、森では貴重品なんです」
「へー、そうなの! 私は料理は多分練習すれば出来ると思うけど、作るより食べる方が好きだし、皆に任せっきりなのよね。朝弱いし~」
「はは……」
他愛のない会話。戦と死を知らずに朗らかに笑う人々。
その『当たり前』が何より尊い事を、既にグレイは知っていた。知ってしまった。
何気なく、自分の今持っているラップサンドを、宝石か何かのように丁重に扱わなきゃいけない気がした。