さあ、死の向こう側へ

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死の向こう側へ

 全て損なわれていく気分程恐ろしいものはなかった。

 いつしか、自分も気が付かぬうちにあらわれた背中の痕跡が、自分自身の全てを拭い去っていく。初めに些細なことから。やがて、愛する人や故郷の記憶さえも吸い込まれていく。まるで火にたかる夏虫が、その温度に焼かれて死に絶えるように。まるで、湖の底に開いた闇の穴に水が吸い込まれていくように。望もうと、望むまいと、それは容赦なく記憶を、ソウルを削り取っていく。

 背中にあらわれた痕跡――ダークリング。それの由来を知るものはいない。ダークリングがあらわれたものは、まともな手段では死ぬことができなくなる。頭蓋を粉々にされようが、身を焼き尽くされようが……。死ねぬ人々。それは人間社会において重大な危険要素になりうる。死ねない人間を、どうして死刑に処することができるというのか? ダークリングは徐々に人の理性を消していく。そしていつしかソウルを奪うことしか考えられないけだものへと変化してしまう。だが、けだもの――亡者になったとしても、死ぬことができない。人々は闇の訪れに恐れをなしていた。

 ダークリングがあらわれたものは時折夢を見る。遠い場所。豪華絢爛な城。竜の飛び交う空。世界のどこかにあるという古い国。かつてソウルの根源に近づいたという王が坐する場所。その名をドラングレイグと言った。

 伝説によればドラングレイグにのみダークリングを消すすべがあるという。僅かばかりの希望が、その土地には残されているという。

 ――『そのもの』もまたダークリングを担った人物だった。騎士、あるいは盗賊、魔術師かもしれない。兆しを取り去るために手を尽くし、ついに手段も見つからないままに、一人の老婆にいきついた。素性も知らぬ老婆はドラングレイグの伝説を語った。残された希望はそこにしかないのだと……。

 多くの泥を吸い薄汚れた衣服と僅かなものだけを手に船をこぐ。船は、怪しげなローブを被った小柄な人物によりになわれていた。僅かな硬貨を渡し、船を借り受ける。振り返った時、小柄な人物の姿は既に消え失せていた。元の世界から持ってこれた僅かな財産がうしなわれた懐はどこまでも空虚に感じられた。そうまでして元の社会とのつながりを意識するのは、希望という火を絶やしたくないというあらわれだろうか?

 船の向かう先には、朽ち果てた広間と門がある。広間には黄色とも赤ともつかぬ光を宿した無数の虫が枯れた大樹に掴まっていた。訪問者のおとずれに虫が舞い上がる。それは火の粉と混じり合い、時に燃え、時に消えながら渦を巻き、門がひとりでに開くさまを彩る。そのものには、門が言葉を口走ったように感じられた。

 ――この門をくぐるもの、一切の望みを捨てよ。

 望もうと、望むまいと――足を止めることなど、できなかった。

 固く閉ざされた門からは影のような存在が絶叫とともにあたりに飛び交い、彼らは門の先にある渦を巻く水面――あるいは、影の存在を強調した。

 それは渦だった。外側から内側へと大気を、あるいはなにか別の物を吸収する渦であった。壁にかけられた松明の火の粉と、羽虫を吸い込んでいく。底の知れぬ穴は人の悲鳴や苦悶の声を思わせる低い反響をともなっていた。手に持つカンテラの光さえことごとく吸い込まれていくようでもあった。

 やがて人物は穴の前で足を止めた。

 希望は、この先にしか残されていない。

 人物は誰に押されるでもなく、穴の奥底へと身を投げる。長い落下時間。渦は闇を深め、カンテラの光さえ奪い去る。人物の視界と感覚全てが黒に染め上がり、もう何も感じられず考えられなくなった。

 

 ――水滴が、顔にかかった。

 フードから僅かに露出した顔に水滴がかかったのだ。

 人物はよろよろと身を起こすとあたりを見た。神殿――あるいは寺院を思わせる、石造りの地点。正面には空に切れ込みが入っており、眩いばかりの白い光が差し込んできていた。ここは、どこかの洞窟の中のようだった。しかし、あまりに巨大な空間が広がっていた。ほそぼそと生育している草木の向こうに灯りが焚かれているのが目に映った。

 先に進むしかない。望もうが望むまいが。

 そして人物は、一歩を踏み出した。

 




『篝火』
不死人がよりどころにするという不思議な火
尋常な火ではないため燃え移ることはない
故も知らない火であるが、奇妙な懐かしさとあたたかみを感じる
不死にとって、この火こそが故郷なのだろうか?

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