罠   作:紫 李鳥

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 空席を一つ置いた奥の席に着くと、鮎川を待った。――間もなく、コーヒーカップを手にした鮎川が俺の顔を認めると、真っ直ぐに向かってきた。

 

 ……俺の顔を知ってて当然だよな。

 

「お忙しいとこ、すいません」

 

 範之は腰を上げて会釈をした。

 

「……いえ」

 

 鮎川はカップをテーブルに置くと、コートを脱いで横の椅子に載せた。中は白いシャツにモスグリーンのカーディガンだった。仕事ができるキャリアウーマンというイメージだった。

 

「で、めぐみのこととは?」

 

 鮎川はキリッとした目を向けた。

 

「あなた、お姉さんですか?めぐみさんの」

 

「……だったら?」

 

 鋭利な刃物のような視線を向けた。

 

「……どうして、俺を罠に()めたんですか」

 

「は?なんのこと」

 

 鮎川は眉をひそめた。

 

「電車の中ですよ」

 

「……」

 

「それも、二度だ。一度目の痴漢騒ぎがあったあの日と同じ匂いがした」

 

「!……」

 

 鮎川に動揺が(うかが)えた。

 

「誰しもが無意識にやる癖がある。あなたにも、香水をつけるという癖があった。しくじりましたね。その香水のお陰であなたにこぎ着けたわけですから」

 

「……」

 

 鮎川は素知らぬ顔で、カップに淡いピンクの唇をつけた。

 

「どうしてですか。俺が何か、あなたに恨まれることでもしましたか」

 

「……とぼけるつもり?」

 

 鮎川は薄ら笑いを浮かべると、範之を蔑視(べっし)した。

 

「……何を?」

 

 範之には見当がつかなかった。

 

「こんな所で喋ってもいいんですか?」

 

 身を乗り出した鮎川が小声で言った。何か勘違いをしているのかもしれない。そう思った範之は話を聞くことにした。

 

「場所を変えましょうか。お食事でもいかがですか」

 

「……ええ、いいですわよ」

 

 鮎川はコートを着ると、カップを持った。

 

 

 範之の肩ほどしかない鮎川は、二、三歩後ろをついていた。駅に向かう途中に、日本料理の店があった。客の少ない店の奥の席に着くと、呑めないという鮎川に梅酒を勧めた。

 

「……確かに、めぐみさんとお付き合いしてました。そのことと今回のことは何か関係があるんですか」

 

 手酌をしながら上目で見た。

 

「……めぐみは自殺をしました。ご存じですよね」

 

 鮎川の向けた視線は、先刻と同じ鋭利な刃物だった。

 

「……ええ。共通の友人から聞いて」

 

「自殺の原因もご存じですか」

 

 鮎川は梅酒を口に含んだ。

 

「……いえ」

 

「当の本人が知らないんですか」

 

 小馬鹿にしたような口吻(こうふん)だった。

 

「えっ、俺?」

 

 意味が分からなかった。

 

「あなた、結婚したい女がいるから別れてくれって言ったそうね」

 

「……」

 

「散々(もてあそ)んどいて」

 

「……そんなつもりじゃ。それに彼女は納得してくれて、幸せにと言って――」

 

「それが、めぐみの本心だとでも?あなた、男を何年やってるの?好きな人を苦しめたくない女心じゃない。そう言うしかなかったのよ」

 

「……」

 

 範之は飲み干した。

 

「どれだけ、あなたを愛していたか……。あなたを失ったあの子は生きる望みをなくしたのよ」

 

「……」

 

 酒を注いだ。

 

「男の人って勝手よね。……あなたへの想いが綴られた遺書を読んで、あなたへの復讐を誓ったのよ」

 

「……」

 

 例の鋭い視線を想像した範之は、鮎川を直視できなかった。

 

「あの子の携帯にあったあなたの顔と名前、住所と会社を手がかりにあそこに引っ越し、あなたに復讐する機会を狙っていた」

 

「……」

 

 手酌をした。

 

「痴漢をでっち上げて、仕事も家庭も滅茶苦茶にしてやろうと思った。一度目、あなたの横に背を向けた。そしてタイミングを計ると、あなたの前に立っていた女を触った。女の私が触ったなんて思いもしない女は、真後ろのあなたを犯人にした。ところが、身長差を理由に、あなたは無罪になった。

 

 そして二度目。そのチャンスが来た。あなたの目の前にはどでかい女。今度こそ起訴できると思ったら、離婚して独り身になったあなたは、失うものがなかったせいか、開き直って、逆に女を(ひる)ませてしまった。

 

 痴漢での逮捕は諦めるしかなかった。次はどんな方法で逮捕させるか考えている時に、あなたからの電話があったのよ」

 

「……そんなに憎いですか?俺が」

 

 酔った目を向けた。

 

「当たり前じゃないですか!たった一人の可愛い妹を自殺に追いやった男ですよ」

 

 鮎川は声を抑えながら怒りを表した。

 

「……彼女がそんな気持ちだったなんて思いもしなかった」

 

 二本目の徳利を傾けた。

 

「だから、男の人は勝手だと言うんです。相手の気持ちなんて考えてもやらない。自分さえよければ……」

 

 鮎川は涙ぐんだ。

 

「……申し訳ない」

 

 頭を下げた。

 

「今更謝られてもめぐみは戻ってきませんよ」

 

 鮎川はバッグから財布を出すと、自分の飲食代をテーブルに置いた。

 

「あなたにとって、めぐみは遊び相手の一人だったかもしれないけど、めぐみにはあなたがすべてだったんです」

 

 鮎川は腰を上げると、コートを着た。

 

「あなたを絶対許さないから」

 

 そう言って範之を睨み付けると、背を向けた。

 

 鮎川の背中を目で追いながら、範之は言い知れぬ物悲しさを感じた。それは、この季節によく似た想いだった。……コートを着なければ凍えてしまう。身も心も……。

 

 

 ――そんなある日、立ち寄った書店で、鮎川が勤める出版社のパズル雑誌、『puzzle・circle』が目に留まった。

 

 家で開いてみると、その中に鮎川が作成したクイズがあった。

 

 

〈パズル塾へようこそおいでなすった。わしはパズル塾の塾長、鮎之介じゃ。よろしくお頼み申す!さて、皆の衆は何問正解できるかのぅ?わしも楽しみじゃYでは、スタート!〉

 

 クイズはなぞなぞや言葉遊びなどもあって面白かった。

 

〈どうじゃった、楽しんでもらえたかのぅ?また、次回会えるのを楽しみにしておるYさらばじゃ!

 

【出題 鮎川のぞみ】〉

 

 

 ……のぞみと言うのか。そのユーモラスな言い回しは、俺の知ってるあの怖い顔の女と同一人物とは思えないほどのギャップがあった。……こっちがのぞみの本来の性格なのかもしれないな。俺のせいで、あんな怖い顔にさせてしまった。……申し訳ない。範之は心で詫びた。

 

 

 最近、同じ車両でのぞみを見掛けるようになった。さすがに俺の傍には来ないが、時々見せる横顔は、「あなたが居るのを知ってるわよ」の合図のように思えた。

 

 近いうちにまた、食事に誘おうと思っている。そして、ちゃんとのぞみに謝罪して、それから、めぐみの墓参りもさせてもらうつもりだ。

 

 

 

 

 

「『puzzle・circle』読みましたよ。鮎之介塾長のパズル塾、とても面白かったです。次号も楽しみにしています」つり革を掴んでいる範之は、ドア横に立っているのぞみの横顔を見つめながら、そんな誘い文句を考えていた。――

 

 

 

 

 

 完

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