~間桐桜side~
ふわふわとした、水の中に浮かんでいるような、そんな曖昧な意識の海に私は漂っていた。
何をしていたんだっけ…?
私の名前は…なんだっけ…?
もう何度この行為を繰り返したんだろう。自分の何かが抜け落ちていって、それを思い出す作業。多分、私はそれを何回も行って、そして忘れている。
きっとそれは大事な事なんだと思う。忘れちゃいけない何かだから、私はこんなに必死になっているんだろう。
だからもう一度。もう一度だけ、思い出そう。
真っ先に思い出したのは、自身がもっと幼かった頃の記憶。
少女はたったひとつ、大切な人から貰った髪紐だけを心の頼りに養子として引き取られた。
うつむき気味に、不安げな表情にきょろきょろと周囲を見回している。
そんな少女を待っていたのは、温かい歓迎なんかでは無かった。
毎日毎日、体中をよく分からない何かに這い回され、ねぶられた。肌を刺して、濡らして、気持ちよくて。
幼い少女の理解を超えた出来事だった。唯一分かった事と言えば、自分は汚されたのだと、本能的に感じた悪寒。
少女は耐える事しか出来なかった。反抗しようなどとは思わなかった。そんな事をすれば、自分への罰が酷くなるだけだろうと。
刻々と過ぎた時間は、着実にその体と心を蝕んだ。気が付いた時には、取り返しがつかない程に壊れていた。
だがそんな日々は突然終わりを迎える。
五年前に起きた聖杯戦争。全てを呑み込んだ、闇。
多くの者が亡くなった。おじいさまも、おじさんも、兄さんも、憧れていた人も誰もいなくなった。
喜べば良かったのだろうか?それとも、悲しめば?
去来した感情は、途轍もない虚無感だけ。
今まで、何のために苦しんだんだろう。その思いだけを胸に、ただ日々を浪費するようにボーッと時間を過ごしていた。
「どうして、世界はこんなに私に優しくないんだろう?」
色褪せた世界の中に閉じ籠もるばかりだった日々。だけどあの日、貴方に出会ったんだ。
日が傾き、紅い夕暮れに世界が包まれる時間。普通の人なら綺麗だと思うのかもしれないけど、少女はまるで裂けた動脈から溢れ出る鮮血のような赤だと思いながら、外を眺めていた。
そんな景色の中、校庭に人影が見えた。
ただ生徒が走り高跳びをしているだけ。なのに、その姿に妙に視線が惹きつけられた。
しばらくその姿を瞳に映していた。何回繰り返しても、その男の子はバーを飛び越える事は出来ていなかった。バーの位置が高すぎるのだ。元より、跳べるはずもない。
だけど彼の目には諦めという感情はなかった。変わらない熱量で、試行し続けていた。
「あ………」
頬に熱いなにかが流れた。
手を伸ばせば、べちゃりとした液体を触る感覚。
「もう涙なんて、枯れたものだと思っていたのに…」
どうして泣いてしまったのか、それは自身にも分からなかった。
ただ、自分が失ったものを彼は持っていて。その純粋さが、羨ましかったのかもしれない。
気が付けば、校舎を出て校庭へと足を踏み入れていた。
泣き腫らした目の赤さは、夕日の紅が隠してくれている。
「あの……」
「ん?君は………」
声をかけられるまで、彼はこちらに気が付く様子がまるで無かった。
「えっと、私…間桐桜と言います…」
「あ、あぁ。俺は、衛宮士郎」
突然声をかけられて、彼は少し困惑しているようだった。
「どうして…、こんな無茶な高さをずっと跳ぼうとしていたんですか?」
問われた彼は、どう答えようかと思案するように頭を掻いた。
「恥ずかしいんだがな…、迷っている事があるんだ。昔からの夢があって、それを叶える為には犠牲にしなきゃいけないものがある。でも、俺にとってはその犠牲にしなきゃいけないものも大切なものなんだ」
「諦めようって…投げ出しちゃおうって、思わなかったんですか?」
何のことかは分からなかったが、顔を見れば分かる。きっと彼にとっては、凄く重要な事なのだろう。
「…結局はどちらかを選ばなきゃいけない。でも無駄な事だって分かってても、俺は諦めたくない。きっと最後の瞬間まで足掻く。走り高跳びは…その願掛けというか、まぁそんな感じだ」
結局跳べてないんだけどな、そう笑った彼から目を離せなかった。
綺麗だと、とても…綺麗な想いだと思った。
「今日はもう帰るよ、桜も日が沈む前に帰るんだぞ」
片付けを始めたその背に声をかける。
「あの!……お疲れ様です、
振り返った彼は、笑顔を浮かべた。
「ああ。待たな、桜」
そう、私の名前は間桐桜。そして、彼の…先輩の名前は衛宮士郎。
それから、学年が上がった私は先輩と同じ弓道部に所属した。
二人だけしか部員はいなかったけれど、一日一日が楽しかった。
世界が色付くように、何でも無い日常が幸せで、こんな日々がずっと続けば良いのにって。
だが、そんな甘い願いが叶う事は無かった。
聖杯戦争がまた始まろうとしていた。私の元に、英霊の力を宿す事の出来る礼装、クラスカードが配られていた。
それだけならばまだ良かった。問題は、聖杯に据えられた器とある少女が五年前に先輩が引き取った、家族同然の存在である事。
それを知った時、先輩が抱えていたものが繋がった気がした。このままでは先輩は間違いなく、聖杯戦争という殺し合いに参加する事になるだろう。
だから私は、先輩が戦わなくていいようにと衛宮邸へと赴いた。
しかし待っていたのは、私にとって残酷な現実だった。
渡されたカードは屑カードで、そして先輩は使えないはずのそのカードで英霊化してしまった。
これが先輩と私の差なのかもしれない。私はカードを使えないと分かった瞬間、生を諦めようとした。
先輩は最後の一瞬まで諦めるなんて事はしなかった。本当に…自分が嫌になる。
戦いに踏み出した彼の背中を見送る事しか、私には出来なかった。
結果、勝者となった先輩は私の手の届かない所へと行ってしまった。
それからは悲惨だった。
ご飯が喉を通らない。何をするにも気力が湧かない。生きているのが辛かった。私が抱えていた想いはこんなにも重かったんだと、自分でも驚いた。
憧憬だけじゃない、尊敬だけでもない。私は……、
「こんなにも先輩が…好きだったんだっ……!!」
いなくなってから、自覚するなんて。どうして、妹を見捨てて自分を選んでくれなかったのか。そんな汚い気持ちが溢れてきて、そしてまた自己嫌悪する。暇な時間があるたびにそんな考えがループしてしまう。
「随分と焦燥しているようだねぇ」
唐突にかけられた言葉に、ゆっくりと振り返る。
「……貴方は」
初めてその姿を捉えた瞬間から、薄気味悪い悪寒を感じていた。目の前の人物が普通の人間で無い事はすぐに分かったが、私には何かを行動する気力も無かった。
「私はダリウス。エインズワースの当主だ」
「なんの用ですか…私にはもう利用価値なんてないでしょう…」
自分は一人前の魔術師なんかではない。先の聖杯戦争で形だけとはいえクラスカードが譲渡されたのは、あくまで私が間桐の家の唯一の後継者だったからだ。
実際、私には多少の魔術の知識があるのみでほとんど魔術の行使は出来ない。
「いやいや、私は謝罪しに来たんだよ。屑カードを渡すなんて、ジュリアンが随分と無粋な事をしたそうだね。そのお詫びとしてはなんだが、屑カードではない本物を君に一枚あげよう」
男は一枚のカードを差し出して来た。見る限りは、バーサーカーのカードだ。
「……バーサーカー。これで自滅しろと?」
ダリウスと名乗った男は、不気味は笑みを浮かべる。
バーサーカーのクラススキルの中には、狂化というものがある。文字通り、使用すればその身は狂気にさらされる事となる。
「そんなつもりでは無いさ。使い方を誤らなければ、君の幸せに貢献してくれる」
それに、これは君の望んでいる力をもたらしてくれるかもしれないじゃないか――――。
……私はそう言われて、カードを突き返す事が出来なかった。
一ヶ月が経ち、二ヶ月が経っても先輩は帰ってこなかった。私はもう…限界だった。藁にもすがる思いで、カードへと手を伸ばした。
英霊を象徴する武具や防具、それらは宝具と呼ばれている。もしかしたら、このカードの英霊は先輩へと繋がる何かを持っているかもしれない。結局はあの男の思惑通りになってしまっているが、これが今残されているたったひとつの可能性なのだ。
淡い期待を胸に、カードを掲げる。
「
確かにこの英霊の力は絶大だった。だけど、それだけ。私が望んでいるような力ではなかった。
しかし私は別の部分で、このカードという物に魅入られてしまう事となる。
「あ……」
時間と共に、少しずつ理性が抜け落ちてくのを感じる。狂化の影響だろう。だがそれは私にとって、甘くて、一度嵌ったら脱出しようとも思わないような、そんな蠱惑的な味わいとなった。
私の心を蝕んでいた後悔や自己嫌悪が色褪せていく。考えなくて済む。思考にも浮かばない。そして残ったのは、重くて大きすぎる先輩への愛情だった。
「Aァァ……♥♥」
こんなのがただの逃避であるのは分かりきっていた。それにこのまま
思考の海に意識が溺れていく。粘ついて、独りよがりな愛情だ。でも、もう苦しい思いをしなくてすむのならこの陶酔の中に浸っているのも良いかもしれないと考えている自分もいた。
それからはただ自らの身体が起こす行動を俯瞰した意識で眺めていた。私の自意識は殻の中に閉じ籠もったまま。
魔術回路が開かれる。この英霊の戦士としての性質の影響を受けたのか、それともカードとは元よりそういうものなのか、カードを
皮肉にも、私とこのカードは相性が良かった。この英霊の持つ宝具は、手に取った全ての武具の所有権を奪い取る。そしてそれは間桐の吸収・束縛という魔術特性と必然に親和し、より強大な力となった。
終いには先輩を閉じ込める虚数の檻というべきか、私は世界と隔絶した世界を生み出した。模したのは先輩の屋敷。現実と瓜二つの空間の中で、私は先輩を待ち続けた。
「はやく…先輩帰ってこないかなぁ」
待ち合わせ場所でウキウキそわそわと、愛しい人を待っている少女のような無邪気さ。しかしその根底に根付いた、ヘドロみたいな狂気は誤魔化しようがなかった。
一ヶ月以上もカードを
私は……人の魂を、…………貪り食った。
後戻り出来ない所まで、私はもう壊れていた。だが壊れきる事も出来ずに、時間ばかりが過ぎていく。例え私が普通の人間に戻れたとして、私は人として生きていけるのか、生きて…いいのだろうか?
でも、死ぬのならせめて先輩の手で殺されたい。そして遂に、先輩をこの空間に連れてくる瞬間が訪れた。
どうして、どうして私は先輩を傷つけているの?
私の視界に映る光景は私の望んだモノじゃない。こんな事の為に、私は強くなった訳じゃない。これは先輩を切り刻む為の力じゃない。でも、手は止まってくれない。身体は止まってくれない。
ダメ…違う…違うッ!!!
狂気に呑まれた身体はもはや止まってくれない。自分の中の大切な何か、最後の防波堤すらも、今まさに壊れようとしている。これは結局は、私の自業自得だ。こんな事になるのなら、もっと早く死んでしまうべきだったんだ。
湧き上がる負の感情に呼応するように、魔力と虚数の霧が私を覆い包む。そう、醜い私を隠して、このまま縊り殺して…。
ギュッと拳を握り込み、最後の瞬間を待った。でもその時、何者かに引き上げられるように意識が急速に浮上していくのを感じた。夢心地だった意識の感覚が戻り、身体も思うように動かせるようになっている。
私を包んでいた黒い霧が晴れていく。そして視界一杯に広がる、桜の花びら。
「ああ――素敵ですね」
自然と言葉が口をついて出る。
「先輩と一緒に見たかった…この一面の…」
じわりと視界が歪んでいく。
「サクラ吹雪…」
もう戻らない日常を思い、涙は止めどなく流れる。
こんな私でも、先輩は愛してると言ってくれる。私は消えない罪の重さを背負って、この先生きていく事が出来るのだろうか。
最初から、知っていたんだ。先輩は何も諦めない人なんだって。だから、そんな先輩と一緒ならこんな弱い私でも、胸を張って『生きたい』って言える気がしてくる。
差し伸べられた手は暖かで、いつも私を日の当たる場所へ連れて行ってくれる。
「ふたりで…いや、みんなで。桜を見に行こう」
だから……、
「セ、ン…パイ―――」
ありがとうございます、先輩。私は返しきれない程の、多くのモノを先輩に貰いました。
「あれ……?」
突然意識が飛んでしまっていた。気が付けば、私は先輩の胸の中にいた。
「気が付いたか、桜。…体は大丈夫か?」
「は、はい……」
先輩に抱きしめられている事にドギマギしながら自分の体を確認してみる。カードの
また助けてもらっちゃったな。でも後悔の言葉よりも伝えたい言葉が私にもあった。
「先輩。私も、先輩が大好きです。先輩がいなければ、生きていようとも思えない程に…」
少し赤くなった先輩の頬を眺めながら、ニッコリと私は笑う。
「ああ。ありがとう、桜」
無意識の内に、先輩の手を私は握っていた。先輩も握り返してくれた。きっと、もうこの絆を断つ事は誰にも出来ない。そんな思いと共に私は立ち上がった。
「では、行きましょうか。美遊ちゃんを助けに行くんですよね?」
朧気ながらに覚えている。今、エインズワース家には美遊ちゃんが囚われている。こちらの世界に先輩が戻ってきたのも、妹を助ける為だろう。
返事が無かったので不思議に思い先輩の方を振り返ると、なんだか驚いた顔をしていた。
「……強くなったな、桜」
私はもう一度強く、先輩の手を握る。
「そう思うのならば、それは先輩のおかげです」
こんな重い女の子を好きになった責任は、キッチリとってもらいますからね!
そして私たちは、結界の外へと歩み始めた。
~間桐桜side out~
補足を入れた方が良いかなってポイントが多すぎて、書くの大変そうなのでコメントで質問があったら答える感じに今回は致します。すみません。