セカンドールマスターー育成者とドールのイロモノシリーズー 作:御舘雅盛
「や・め・ろぉぉぉ!!」
ヨッピガルムの叫びが木霊する。
同時に、何事も無かったかのように――力ある者が見れば、目に見えない鎖が引きちぎられる光景が見えたであろうが――オドスソフィの縛めが解かれる。
ブリザーエーデルの喉元にスティレットが触れるのと、ヨッピガルムの手がその刀身を掴むのはほぼ同時であった。
刃を握る手から、一滴、また一滴と紅の血玉が伝わり落ちる。
「間に合ったか……」
ブリザーエーデルの白磁を思わせる肌から滴り落ちる物が無い事を確認し、ヨッピガルムが安堵する。
「……あの縛を解くとはな……」
感情が篭らない声が背後に木霊する。
「わしとした事がお主の力量を見誤ったらしい」
ブリザーエーデルの気配が、やや落ち着いた物になっている事を確認し、ヨッピガルムは声の主を一瞥する。その視線は、常日頃接している仲間や育成者が見たことが無いほど冷たく、同時に怒りを秘めたものであった。
「おぬしの内に眠りし存在を目覚めさせてしまうとはな……。迂闊であった」
淡々と話すオドスソフィにヨッピガルムが無言でパタを振るう。
「後一歩であったが、やむを得ん、ここは一旦退こう。ヨッピガルムよ、次に会った時がお主等の最後じゃ。それまで精々足掻くが良い」
その声と共に閃光がヨッピガルムの視界を覆う。閃光が消えたとき、オドスソフィの姿はヨッピガルムの視界から消えていた。
気配が完全に消えたのを確認し、ブリザーエーデルの身体を膝の上に横たえる。
パタを外し、彼女の双丘が規則正しく動いている事を確認したヨッピガルムは、その金色の長い髪を梳いた。
「……誰にも負けない努力家なのに。……人一倍努力した結果がこれか。……実の叔父から命を狙われることになるなんてな」
術が解けたのか、次第に穏やかな表情になるブリザーエーデルを見つめるヨッピガルムの胸中に、やりきれなさが次第に湧き上がる。
『何なんだ、このやりきれなさは? 叫びたくなるような凶暴なこの気持ちは?』
戸惑うヨッピガルムの胸中に過ぎる想い。
――この娘を死なせたくない。この娘だけは自分が生きている限り、最後まで護り続けたい。
その想いがヨッピガルムの心の一画を占めていった。
静かな時が過ぎ去った。
杖の輝きも次第に薄らぎ始めた頃、ブリザーエーデルが微かに声を上げ、定まらなかった焦点が次第に像を結ぶ。
「……ここは?」
「気がついたか……」
安堵の溜息を漏らすヨッピガルム。
「そっか……私、オドスソフィ叔父様に……」
そのときを思い出し、顔を歪めるブリザーエーデル。
「……あなたが助けてくれたの?」
ヨッピガルムの膝上に抱かれている自分に気がつき微かに顔を赤らめるブリザーエーデル。
「……まあな。二人で還らないといけないからな」
「……ありがとう、ヨッピ」
「……気にするな。それより動けるか?」
「……うん。……ねぇ」
躊躇いがちな口調のブリザーエーデルが意を決したようにヨッピガルムに問い掛ける。
「私、あの時、いろいろ嫌な物を見ちゃったんだ。自分の全部が嫌いになっちゃった。でもね、声が聞こえてきたの。あなたの声で『全部が上手い人なんていないんだ。自分が出来る範囲で頑張れば良いんだ。果せなかったからって価値が無いわけじゃないんだ』って。……あの言葉、信じても、いいの?」
その問いかけに直接答える事は無く――。
「生きてみないか? 手を取り合って。俺が必ず護るから」
言外に、君には誰よりも、幸せに生きてもらいたいから――。その想いを込める。
「……ありがとう。……随分変わったわね、ヨッピガルム」
「ほんの僅かな時間で変わってたまるか。気のせいだろう」
「ううん。あなた、強くなった。この迷宮に入る前は只の鼻持ちならない自信家だったけど、今は、本当の闘士になったって言うのかな、変わったように見える」
上手く言えないけどね。と、ブリザーエーデル。
その言葉に、ふと主の言葉がヨッピガルムの脳裏を過ぎった。
『真の強さを身につけるにはどうすれば良いかって? ……護るべき存在ができれば自ずと強くなれるさ。≪勇気という剣を持ち、慈愛という盾を持つ、心に修羅を住まわせる者を、真の闘神と称す≫ ……昔から言われている言葉だ。今のお前は勇気という剣を備え、血筋かも知れんが修羅を住まわせている。護るべき存在、それを慈しむ、慈愛という名の盾を持った時がお前が闘神として目覚める時だ』
「もう大丈夫だから……。時間、間に合わないかもしれないけど、そろそろ行こうか、ヨッピ」
足許をふらつかせながらブリザーエーデルが立ちあがりかけ、その場に崩れ落ちる。
「無理するな。少しは他人を頼ってみろ。君は俺みたいに強くはないんだから。……俺がいる時は俺に頼ってくれると嬉しいんだがな」
その言葉の語尾は微かな声となり、儚く消え、ブリザーエーデルには届いていないかの様であった。
よく言うわね、と言いつつスッとブリザーエーデルがその繊手を伸ばす。
ヨッピガルムの力強い手がその手を引き上げる。
……何時の間にこんなに強くなったのだろう。
幼い時は自分の方が力は上だった。
「やっぱり敵わないわね」
何時の間にか逞しくなったヨッピガルム。
先ほど言われた最後の言葉が脳裏を過ぎる。
『……俺がいる時は俺に頼ってくれると嬉しいんだがな』
そう微かに聞こえたヨッピガルムの声をブリザーエーデルの耳は捉えていた。
『頼れるの? ヨッピガルムに』
他に頼れる存在が身近にいる。それに気づいた時、ブリザーエーデルは胸中を覆っていた不安が幾分和らぐのを感じた。
『このまま本当に頼れれば……』
そんな淡い期待を抱く。
『でも、ヨッピガルムは今までずっと黙っていた事で裏切られたと感じているかもしれない。だとしたら頼れるなんて考えてはいけない』
失った時、その衝撃は大きすぎるから。と淡い期待を打ち消す。
そんなブリザーエーデルの内心に気付かず、ヨッピガルムが「それにしても」と沈黙を破る。
「まさか、ブリザーエーデルがグローリアスの後継者だったなんてな。……気がつかなかったよ」
その言葉に、ブリザーエーデルが身を強張らせる。
――ヨッピガルムはこの事を非難するに違いない。恐らく証を取れば今までのような関係ではいられまい、と。
「今まで黙っていて、ごめんね。……グローリアスの後継者って変な目でみられるのが嫌だったんだ」
恐る恐る傍らを歩く男の表情を伺う。
嘘を吐かれ事に怒りを含んでいると思われた男が自分を見つめ笑っていた。
「ブリザーエーデル。君が何者であるかなんて、どうでも良いんだ。俺には君が可愛い女の子としか感じられない。だから、気にしないで良い。……俺は君を守る。……何者であるかなんて気にしないでくれ。君が自分の力で生きていけるまで、俺が、君を護るから。諦めては駄目だ、諦めたら何にも得る事は出来ないから。誰だって他人とは違うんだ。君の場合、それが他より少し大きいだけなんだ。絶対に君が生きていける場所があるはずだから……。君が好きだ。君が望む限り、俺はいつも傍に居る」
その言葉に、諦めと安堵、悲哀が入り混じった感情を宿していたブリザーエーデルの表情が崩れる。
「ごめんね、ヨッピ。こんな事に巻き込んじゃって」
泣き声が若干入り混じったブリザーエーデルの声。
「気にするな。俺が好きでやっている事だ」
「閣下!」
執務室に執事長のしのぶが血相を変えて報告をもたらした。
「何事だ」
「はい! ワインチェリーからの緊急報告です。先ほど迷宮に挑んだ結果、地下13階と14階を結ぶ通路が全て崩壊していたとの事です」
「間違いないな? それは」
「はい。間違いないかと」
「現在迷宮にいるのは誰だ?」
主の問いかけに、
「はい。時間的にはヨッピガルムとブリザーエーデルが地下15階前後に。マッドナイスとビートチーフがそろそろ地上に出る頃かと」
そのしのぶの言葉に主が少しの時間考え込む。
「……一応、マッドナイス達の報告を待つ。救出隊の準備はしておくように。ところで、アデールは見つかったか?」
アデールは地下迷宮の管理責任を負う執事補である。その姿が朝から見えず、しのぶ達が手分けして探していた。
「いえ、まだ所在がつかめません」
その答えに、
「そうか……。あいつがいれば救出も楽なのだが。……仕方がない。しのぶ、救出隊の準備を急いでくれ」
この家門において、交易或いは訓練計画といった公の事務処理から主の私的な日常雑務において『滞り』という言葉は無縁である。それは執事長のしのぶが、主の意思を迅速且つ手際よく執事や執事補、門家達に伝え、適切な指示を出し続けた結果である。
そのしのぶが、主の指示を受けた後もその場から動こうとはしなかった。その姿に気付き、主が不審気に問う。
「どうした?」
しのぶが幾許かの不安を表情に出す。暫らくの躊躇いの後、主にその不安を述べる。
「ブリザーエーデルが中ですが、大丈夫でしょうか」
その『大丈夫』が意味する対象に主も気付く。
「ああ。何事もなければ良いがな」
所謂『グローリアスの内紛』について、グローリアス一族を抱える、『育成者』と呼ばれる貴族の間では盛んに情報交換がなされている。まして、次期後継者を抱えるこの家門では、その情報について特に神経を尖らせ、様々な筋から仕入れた。その結果、ほぼ正確に情報を把握している。それは主と執事長達にとって、無視し得ない内容であった。
「閣下!」
激しく扉が叩かれ、豪胆さを感じさせる重厚な声が沈黙を破った。
「何事か。フォルテス」
しのぶに次ぐ席次――次席執事――のフォルテスが扉を破るような勢いで入室する。
「はっ! マッドナイス達が戻りました。緊急報告です。執事補アデールの遺体を発見したとの事です」
「なっ!」
絶句する2人。
「どういうことだ!?」
地下迷宮の管理責任を負う執事補であるアデールが、遺体で見つかったと言う報告に驚きの声をあげる二人。
「はっ。寄り道好きのマッドナイスが例によって帰路、経路を外れたところ、6階奥にて遺体を発見。以後、最短経路で戻ったとの事です。遺体の切り口は焼け爛れていたとの事。ビートチーフによれば魔法による可能性もある、と」
「なに! ……しまった……」
「閣下!」
茫然自失状態になった主がしのぶの一喝で我に返る。
「直ちに地下に下りる。しのぶ! フォルテス! 他に5名ほど完全装備で連れて続け」
証がある最下層の奥まった広間。円形に周囲を囲む柱と壁に塗り込められた光苔と等間隔に備え付けられた松明が充分な光量を提供していた、その空間に声が響く。
「来たか、ヒヨッ子ども」
一筋の光が先頭を歩いていたヨッピガルムを照らす。光が消えると同時に、思わず身構えていたヨッピガルムの手に巻物――最下層到達の証――が収まる。
「これは……?」
ヨッピガルムが訝しげな声をあげる。
「それが手に入らねば、死んでも死にきれまい。冥途へ赴くお主等へわしからの餞別の品じゃ」
その声と共に、不意に空気の密度が増す。広間の中に、吐き気を催すほどの威圧感が溢れた。
広間を取り囲む壁が、淡い白光を放つ。それらは剥がれるように壁から離れると、2人の前方で収束した。最初はただの光の固まりにすぎなかったそれが、彼らの緊張した視線の中、徐々に人の形を取っていった。魔術王オドスソフィの姿が其処にあった。
「決する時ぞ」
重厚な声が響き渡る。
その言葉を受けブリザーエーデルが剣を構える。ヨッピガルムが素早くそれを制し、
「ブリザーエーデル、俺の後ろにいるんだ」
思いがけないその言葉にブリザーエーデルが抗議の声をあげる。
「……そんな! 私はパートナーじゃなかったの!?」
「ブリザーエーデル」
ヨッピガルムの分らず屋の子供を窘めるような声。
「私は邪魔になるために此処にいるの…!?」
「違う! ……君が後ろにいてくれさえすれば俺は倒れずに戦える。だから……」
「…………」
「後ろにいてくれ。……そして俺を支えてくれ」
必ずしも納得していないブリザーエーデルであったが、状況を考えひとまず矛を収める。
「解ったわ。……でも無理しないで。二人で還るんだからね」
その言葉にヨッピガルムが口元を吊り上げた笑いで答える。
「そっちはどうだ!」
主が焦りの色を帯びた声を発する。
「だめです。完全に埋まっています」
完全に崩落した天井を見てしのぶが否定する。
「こちらの階段もだめだ。別の通路にまわるぞ!」
足音が迷宮に慌しく木霊する。
「参る!」
その叫びと同時に、オドスソフィの立っている場所を中心として、空気が外向きに炸裂する。
ブリザーエーデルの前に立っていたヨッピガルムの身体が、その衝撃波をまともに受け、石壁に叩きつけられた。
「ガハッ!」
広間に響く骨が折れる鈍い音と共に、抑えきれない声がヨッピガルムの口から漏れる。
彼の元へと駆け寄ろうとするブリザーエーデルの足下に、純白の光熱波が突き刺さる。爆風にバランスを崩して、彼女はその場に転倒した。
逆さまになった視界の中、光熱波を放った姿勢のままのオドスソフィが、再び抑揚のない、しかし確かに熱い感情の宿った声で告げる。
「……グローリアス一族の歴史に置いて比類のないお前の才能に敬意を表して、私が自ら葬ってやろう。さあ、立つんじゃ、ブリザーエーデル」
その言葉に反応したのは、ヨッピガルムだった。
一瞬全ての感情が消え、次に現れたのは怯えでも絶望でも悲しみでもなく――笑み。
今までのヨッピガルムの自信に溢れたそれとは違う、どこか狂気すら孕んだ凄絶な笑み。
オドスソフィが姿を表してから彼の身体を支配していた微かな震えも、いつの間にか完全に止まっている。
「敬意……? ここまで、ブリザーエーデルの力を使わせといてよく言うもんだな」
「なに?」
ヨッピガルムは立ち上がり、体の埃を払った。
先ほどまでの微かな怯えが混じった表情からは想像もできないほど落ち着いた動作で、オドスソフィを見据える。
「此処の管理者はアデール執事補だったな……。主の執事補まで抱き込んであれだけの罠を用意したのは、全てブリザーエーデルの精神力と体力を消耗させるためだろう? ……そして、心身ともに疲弊したブリザーエーデルをあんた自身が確実に始末するため。グローリアス一族に似合わない姑息な作戦だな。どうせ執事補も消してるんだろ」
ヨッピガルムは笑みを浮かべたままだった。声には、明らかに嘲弄の響きが含まれている。
「尤も、随分年下の姪の才能に恐れを抱くような小心者……それぐらいしないと安心できなかったんだろうがな」
オドスソフィは答えない。
ヨッピガルムの眼が次第に閉じられる。
「ふ……何の真似じゃ?」
オドスソフィの顔に、嘲笑が浮かんだ。
その嘲笑に関わらず、ヨッピガルムは半眼にまで眼を閉じた。
「何を考えているのか知らぬが、私が倒せるとでも思っているのか? ヨッピガルムよ」
「ああ。思っているよ」
その言葉と同時にヨッピガルムが、
「……其処か!」
溜めこまれた気がヨッピガルムの腕から解き放たれた。
無双暗明流の奥義の一つである『無双波』。
その気の流れは光波と化し、オドスソフィの背後の岩壁へと突き刺さる。
「なに!?」
閃光が生じる。
同時に広間全体に波紋が走る。広間を照らしていた松明が一斉に消え、同時にそれまでそこに満ちていた威圧感が消失した。あたりが一瞬闇に包まれた。
薄らと光苔に照らされた其処は、先ほどまでとは異質な空間だった。
基本的な構造は変わらない。しかし、場に満ちている空気のようなものが、それまでの鉛のような重圧を持つものではなくなっていた。
そして、先ほどまでとは少し離れた場所に、オドスソフィが立っている。心なしか、その表情は呆然としているようにも見えた。
「松明の光を利用して幻影を生み出し、この広間そのものを用いて俺達に暗示をかける。……そういえば、前にブリザーエーデルにも幻覚を掛けてたな。どうやら幻覚はあんたの十八番って訳だ」
ブリザーエーデルが癒しの呪をヨッピガルムに掛ける。
「でも、いくら魔術王のあんたでも俺の骨を折るぐらいの強力な暗示を与えるにはそれなりの装置が必要なんだろ? 最も俺達の目に映りにくい、自分の背後に隠してるんじゃないかと思ったが……予想通りだったな」
元通りになった自分の腕を動かしながら、ヨッピガルムが吐き捨てるように言う。
オドスソフィは、絞り出すような声で低くうなった。
「……わしの幻覚を見破ったのは誉めてやるが、それだけで勝ったなどとは思わんことじゃ。あれはあくまでも策の一つ。貴様達を実力で排除することなど、造作もないことじゃ」
ヨッピガルムは、軽く鼻で笑うと、
「解ってないな、あんた。あんたは、ブリザーエーデルを恐れてる。……ブリザーエーデル一人を殺すために、無数の罠を用意したり幻覚を作り出したり……。そんな手段を採ろうとした時点で、あんたはすでに敗北してるんだよ」
蔑むように言った。
「ほう。口だけは達者じゃの。実力を伴わない者ほど雄弁になると言うが。……そう言えばキリンビーも口だけは達者じゃった。わしと試合で当たる度に無様に血反吐を吐いていた男じゃったが」
口元を歪め、哀れむような口調で話すオドスソフィ。
その言葉を受け無言のままヨッピガルムがパタを振るう。
「ぬかせ!」
最高のタイミングと間合いで放たれた斬撃。
オドスソフィは幻術を駆使してそれをかわす。
「くっ! 当たれ!」
パタを装着したまま瞬打から連拳に繋いだ連続撃を繰り出すも全てをかわされる。
『威力があっても当たらなきゃ意味は無いでしょ、当てることを考えなさい』
格闘訓練中に女性門家に言われた言葉がヨッピガルムの頭を過ぎる。
格闘のセンスは自分より若干上だったかもしれない。体力は自分の方が上であるはずだった。
技を繰り出す速さで勝っていたはずの攻撃を、その門家はいとも簡単にかわした。
『あなたの攻撃は簡単に読めるの。だから私でも簡単に避けられるのよ』
「あの門家に読めるなら、この男も読めるんだろうな」
あの門家に今ほどの打撃を繰り出した事は無かった。
だがあの門家ならそれでも避けるだろう。いや避けられる状況でなければ此方にそれを出させない。
そういう組み立てをしてくるし、それに自分は乗せられることが多かった。
『考えてみれば当然か……仮にも相手は年齢と経験を重ねた魔術王だ。さて、どう攻めるか』
「ヨッピ! 退いて!」
攻めあぐねるヨッピガルムの前にブリザーエーデルが進み出る。
ブリザーエーデルが魔法の光を帯びた剣――ヴァジュラを構える。
「ほう、破強拳流剣術か。面白い……やってみせい」
ブリザーエーデルの構えを見たオドスソフィが一笑する。
「ハッ!!」
気を吐き、ブリザーエーデルがオドスソフィに斬りかかる。
「ふん」
それを苦も無く躱し、ブリザーエーデルの肩口をメイスで打ち据えるオドスソフィ。
「うっ!!」
「乱撃龍爪斬か、つまらん。……期待はずれじゃったの」
オドスソフィが溜息をつく。相手を明らかに見下した表情で。
「トリクラビットも魔法は上手くなかったが、おぬしはそれ以下じゃな。まぁ、あの母親の娘なら仕方あるまいて。才能も無い女の娘ならの」
普段のブリザーエーデルならばそんな挑発には乗らなかっただろう。だが、この場合は違った。
オドスソフィは自分が最も大切にしていた母親を侮辱したのである。
「!!」
怒りで闘志を統一し、その念を剣へと注ぎ込む。
「ふむ。光から察するに『波動剣』か。やはり期待はずれじゃの。トリクラビットはおぬしの歳には『吸命剣』を自在に振るっておったぞ」
「なっ………にをぉ!!」
ブリザーエーデルがオドスソフィめがけ波動を放つ。
だが――。
「くっ! 幻術!」
虚空に消えるオドスソフィの姿を捉え、唇をかむブリザーエーデル。
「……ブリザーエーデルよ。お主との戦いで楽しめるとは最初から微塵も期待してはいなかったがの」
すぐ間近に聞こえた声に背後を振り向くブリザーエーデル。
その身体に爆炸衝が炸裂する。
弾き飛ばされたブリザーエーデルが素早く跳ね起き体勢を整え、オドスソフィに対して剣を向ける。
「慌てるでない。おぬしの力量はよく分かった。傍から見るより数段低かった事に感謝しておるぞ。お主の始末はお主の傍らの男を斃した後じゃ」
「炎よ……」
熱炎海の呪を唱えかけるも、
「遅い」
傍らに回りこんだオドスソフィがメイスでブリザーエーデルの腕を打ち据える。
鈍い音と共に腕が折り千切られたかのような激痛が彼女を襲った。
「ハァッ!」
気合と共にヨッピガルムがオドスソフィを斬りつける。
「よそ見していると足許を掬われるぜ。爺さんよ」
その姿を憎々しげに睨みつけるオドスソフィの視線を感じたヨッピガルムが、挑発するように軽口を叩く。
「ほう。どう掬われるというのかな」
ブリザーエーデルはオドスソフィの注意がヨッピガルムに向かうのを感じた。
『今なら……』
剣に念を込め、雷撃を放つべく構える。だが――。
「邪魔をするでない」
オドスソフィはブリザーエーデルを見もせずに凄まじい爆風を解き放った。
ブリザーエーデルの身体が羽毛のように吹き飛ばされ天井に叩きつけられる。
「小娘が出しゃばりおって。大人しくしていれば良かったものを」
ダメージはブリザーエーデルの身体の奥深い所まで届いていた。鈍い紅色の血が、その口元を染める。
明らかに口中の出血ではない。傷ついた内臓からの出血に違いなかった。
「ブリザーエーデル!!」
その衝撃でブリザーエーデルの意識は消滅し、その身体が力無く落下する。
その細い身体が冷たい地面に叩き付けられる直前、走りこんだヨッピガルムがその腕にブリザーエーデルを受け止める。
「ブリザーエーデル!!」
ブリザーエーデルが微かに目を開けたが、その瞳にはすでに光が無かった。
ヨッピガルムは主から、万が一迷宮で重傷を負った場合に。と預かった、リアニメイションの呪が込められた水晶球――翳すだけで呪が発動する特殊な発動体――をブリザーエーデルの腕に握らせ、耳元に口を寄せた。
「ブリザーエーデル!! 死ぬなよ……君は、俺の護るべき珠玉なんだ……。君がいるから、俺は強くなれる。君がいなくなったら、俺は俺じゃいられないんだ!」
水晶球が込められた力を解き放ち、ヨッピガルムはブリザーエーデルの命を辛うじて繋ぎとめた。
「ヨッピ……」
力は無かったが、瞳に光を戻し、掠れた声を出せるようになったブリザーエーデルを、ヨッピガルムが窘める。
「喋るな」
ヨッピガルムは抱えていたブリザーエーデルの身体をそっと後方に横たえ、手を強く握る。
「暫らく休んでろ。……そして見ていろ。俺の戦いを!」
ヨッピガルムの手は、ブリザーエーデルのそれよりも大きく、そして暖かく。
力の差は歴然としているはずだが、ブリザーエーデルはひどく安らいだ気持ちになった。
ヨッピガルムと一緒ならどこにでもいける。と。
「愁嘆劇は終わったかな?」
オドスソフィの嘲笑を含む声が場を支配する。
「悔いを残さぬようにな。もう二度と会えんからの」
「ぬかせ!」
その言葉と同時にヨッピガルムがパタを振るう。
「懲りぬ奴よの」
その斬激は空を切り裂き、オドスソフィの声のみがあたりに響く。
ヨッピガルムは躊躇うことなく、左足を軸にパタを薙ぐように身体を反転させる。
「ぐぁっ!」
悲鳴が響く。ヨッピガルムの背後に出たオドスソフィが胴を薙がれる。
「何時までも同じ手に引っかかると思っていたのか? だとしたら甘いな」
この程度では冷静さを失わないだろうな。内心そう思いながらも挑発するヨッピガルム。
その残響が終わらぬうちに雷撃がヨッピガルムを襲う。
「……!」
広間を荒れ狂う雷に全身を貫かれ声すら出せぬ悲鳴を上げのたうちまわるヨッピガルム。
「どうじゃな? わしの雷撃は」
余裕の口調で言うオドスソフィ。
「範囲を広くする為、威力は弱めておいた。生きておるんじゃろう? ……全身は動かせまいが」
そうヨッピガルムを一瞥し、ブリザーエーデルに視線を向ける。
「最初の予定通り、ブリザーエーデル、おぬしから始末しようかの」
ブリザーエーデルに歩み寄るオドスソフィ。
ブリザーエーデルの身体は未だ癒えず、瞳に怯えを宿した身体が力なく横たわる。
「お主を護る男は、最早あの通り動けぬ。お主を護る者はもういない。迷わず冥途へ赴くが良い」
絶望を宿すブリザーエーデルを満足そうに見つめるオドスソフィ。
「安心せい。お主を始末した後であ奴もお主の下へ送ってやる。二人共に行くなら黄泉路も寂しくなかろうて」
冷徹な笑みを浮かべるオドスソフィ。
その動きを見つめるヨッピガルムは不甲斐ない自分の身体を呪っていた。
『動け! 動け、この役立たず! 俺は誓った筈だ。あいつを必ず護ると。……傷ついた身体なんかどうでもいい! ここで動かない身体など、自分で切り刻んでやる! だから、動け―――!』
その瞬間、ヨッピガルムの動かない身体の中で何かが蠢いた。
動かない身体を補うようにヨッピガルムの身体に別の力が湧きあがる。
身体の奥底から弾けるような力とともに、声にならない雄叫びを上げヨッピガルムが立ち上がる。
立ち上がり様に左手のパタをオドスソフィに投げつける。
投げられたパタが、ブリザーエーデルに振り下ろしかけたオドスソフィのメイスを砕く。
信じられぬ物を見た表情を浮かべたオドスソフィが、次の瞬間憤怒の表情を顕わにする。
「おのれ! 一度ならず二度までも邪魔立てするか! やはり貴様を先に始末してくれる!」
先程とは比較にならない光を帯びた稲妻がヨッピガルムに襲いかかる。
咄嗟にかわすヨッピガルム。
すかさず次の雷撃。
「くっ!」
常に身につけていたダークを投げ、稲妻を誘導するヨッピガルム。
砕け散るダーク。
「貴様と戯れる時間はない。これで終わりにしてやろう。ヨッピガルム、覚悟せい! お主が傷つき動けなくなった後、隣にあ奴を並べて、ゆっくりと切り刻んでくれる……。順番にな!」
間を開けたオドスソフィが大きく吼えると、両腕を胸の中心で複雑に組み合わせ、呪文を唱えはじめた。
「聖なる力よ 光に溶けよ 暗黒の力よ 闇に消えよ 天と地と光と闇 一つ処に寄り集え 太古の主神振るいし裁きの光よ 今此処に解き放たん!! <神雷>」
避ける事の出来ない稲妻がヨッピガルムを直撃する。
周囲を眩い閃光が支配する。
眩い閃光が消え去った後、倒れ伏すヨッピガルムを想像したオドスソフィの目に、
「この、程度じゃ、俺は、倒れ、ないぜ」
息も絶え絶えになりながらもヨッピガルムが不敵に笑う。
その不敵さに、
「良い覚悟じゃな。その痩せ我慢が何時まで続くか試してやろう。この呪を受けてみよ!」
オドスソフィが自らの持つ呪の最強の呪を唱える。
「天界守護せし光 地に凍てつく死の影 集え我が手に 天と地と我を結び 破滅の光を解き放て! <超新星爆縮>」
見えない火線が収縮し、ヨッピガルムの全身が虚無の光に包まれる。
「ヨッピ!!」
動けないブリザーエーデルから悲痛な声が迸る。
その場にいる者が同じ光景を思い描く。一人は勝利を、一人は絶望を。
だが――。
虚無の光が収束し、再び風景が広がった時、其処には全身を虚無の光に切り刻まれながらも、刀身の折れ曲がったパダを支えに立つヨッピガルムの姿があった。
「何故じゃ!」
驚きを隠せないオドスソフィ。
「あの術を受けて立っていた者は居らん。おぬしの父ですら、立ち上がれなかったというに……何故おぬしは立てるのじゃ!」
その焦りを含んだオドスソフィの問に直接の答えはない。
ヨッピガルムの傷ついた身体から鮮血が滴り落ちる。
「……この、程度で、倒れて、たまるか。俺の、後ろには、ブリザーエーデルが、いるんだ。俺は、ブリザーエーデルに約束した。必ず護ってみせると。この程度で、約束を、違える訳には、いかないんだ、よ……」
崩れ落ちそうになりながらも、身体を支えるヨッピガルムの口から鮮血が零れる。
「……もう、良いよ、ヨッピ。もうあなたが傷付くの、耐えられない。もう良いよ……」
その双眸を涙に濡らすブリザーエーデル。
「私が死ねば……」
「黙ってろ!」
重傷を負っていることを感じさせぬヨッピガルムの鋭い一喝。
「君を護るって言っただろ! 諦めては駄目だ、ともな。諦めたら何にも得る事は出来ない。絶対に君が生きていける場所がある。俺は諦めないぞ! 最後まで傍に居てやる! 安易に、死ぬ。なんて二度というな!」
傷つきながらも一歩も退かないヨッピガルム。その姿に、
『ドールの義務というのはね、死ぬ直前まで生きて、生きて、 闘いぬき、そして死ぬという事なの』
亡き母の言葉がブリザーエーデルの脳裏に浮ぶ。そして伝来の『血染めの紋章旗』を前にした主の講義。
『ドールの死に方か。……ドールは、仲間を護って味方に勝利をもたらす為に死ぬ。運命の歯車が回り、その順番が来たら味方を護り、その足許に埋もれるように死ね。皆を押し上げるように死ぬんだ。そうやって絆は紡がれ、一つの目的に向かって進んでいく。身体は滅び、人は入れ替わるが、想いは絆によって、いつか必ずそれをやり遂げられると信じて未来へと紡がれていく。想いの絆は永遠に、限りある肉体と共に生き続ける唯一の魂なんだ。目を逸らさず、よく見るんだ。この血で染められた旗はそうして斃れていった先達と我々を結ぶ証だ。この事を忘れず胸に焼き付けておけ』
ヨッピガルムがこれ以上巻き込まれる事はない。これは自分自身が決着をつけなければならない問題の筈であった。
『ヨッピガルムをこのまま巻き込み続けてもいいの?』
その答えは一つしか浮ばなかった。そして取るべき道も。
「この死にぞこないが! 次で終わりにしてくれるわ!」
憤怒の表情を顕わにするオドスソフィ。
身構えるヨッピガルムに対し、
「ありがとう、ヨッピ」
背後から声がかかる。
そして――。
「ごめんね」
その言葉と共にヨッピガルムの首筋に衝撃が走る。
崩れ落ちるヨッピガルム。
「ブリザーエーデル、な、何を……」
「やっぱり、私が決着をつけるべきだと思う。何時までもあなたの好意に甘えるわけにもいかないから」
ブリザーエーデルがそうヨッピガルムに向かい微笑み、オドスソフィに対しヴァジュラを抜き放つ。
「ほう。おぬしが来るとはの。順は逆になったがそれもまた良しか」
そう呟くと、再度オドスソフィが呪を唱える。
「……や、やめろ、ブリザーエーデル」
自由の利かない身体でヨッピガルムが制止の声をあげる。
その姿にブリザーエーデルが微笑み、
「ありがとう、ヨッピ。楽しかったわ……」
そして、オドスソフィに向かい微かな望みを掛けて跳躍する。
その口の端には微かな笑みが浮んでいた。
『これで、だめなら仕方ないわね。でもヨッピ。あなたが逃げられるだけの時間は稼いで見せるから』
迎え撃つオドスソフィもまた不敵な笑みで呪を放とうとする。
だが、次の瞬間。
風が唸りを挙げ、ブリザーエーデルの頬を掠める。
柱の影から飛来した幾筋もの矢がブリザーエーデルを掠め、正面にいるオドスソフィを直撃する。
気配の全てを二人に向けていたオドスソフィにその飛来する矢を避ける術はなかった。
その全身を矢に貫かれ絶命するオドスソフィ。
「えっ!」
オドスソフィの身体に突き刺さった矢羽には見覚えのある模様が染め抜かれていた。射手を振り返ることなく難詰するブリザーエーデル。
「何故! 何故邪魔したのですか、閣下!」
柱の影から一つの影が広間に木霊する足音とともに歩み寄る。
「邪魔? 私の行為は育成者として間違っていないつもりだがな。詰まらない事で大切なドールを失うわけにはいかんのだ」
ブリザーエーデルのさすような視線を悠然と受け流す、連弩を手にした主達の姿が其処にあった。
「だが! ……あなたに武人の誇りは無いのか!」
その言葉にヨッピガルムが非難の声をあげる。
「武人の誇り? ……犬死する事が武人の誇りとでもいうのか! 武人の誇りの意味を履き違えるな!」
にべも無く吐き捨てる主。
「ヨッピガルム。お前は既に満身創痍の身体だ。万に一つの勝ち目もあったとは考えられない。そして、ブリザーエーデル。君の力ではまだオドスソフィには勝てない。彼の行動は生半可な覚悟では止められぬ。彼の地位からして捕縛出来ない以上射殺する以外に方法はなかった。……二人とも勘違いするなよ。我々は伝承歌の不死身の英雄では無い。ただの人間だ。此処で命を落とすのは犬死でしかない! 軽々しく武人の誇りなどと口にするな!」
そう言うと主は、声を潜め、不満の色を顕わにするヨッピガルムの耳元に囁いた。
「……どうやらブリザーエーデルとはいい関係を築けたようだが、お前が先に死んだら誰がブリザーエーデルを護る? 彼女を護りたいと思うなら先に死んでも良いなんて思うなよ。彼女が生き続ける限りお前も生き続けるんだ。安っぽい英雄行為なぞ行うな」
立ち上がり、行くぞ。と立ち去る主に不満を抱きながらも従う二人。
ブリザーエーデルが後ろを振り返る。
「……叔父様。あなたとはこういう決着の仕方はつけたくなかったです」
微かに呟く彼女の声を聞いた者はいなかった。
闇の中を黙々と先頭に立ち、歩み続けた主達が、重厚そうな大扉の前でその足を止めた。扉を開き、立ち去るしのぶ達。
「……ここが出口だ。私は先に行くから、落ち着いたら出て来なさい。……尤も、一晩明かすなんて事はするなよ」
そう言い残すと扉を押し開け、主が最後に立ち去っていった。
漆黒の闇を扉の向こうから流れた一条の陽光が一瞬切り裂いた。
「……行こうか」
主達が消えた扉に手を伸ばしかけたヨッピガルムの腕をブリザーエーデルの手が押し留める。
「どうした」
その問いかけに、何も答えず、身体を寄せるブリザーエーデル。
「……私の父は、グローリアス本家の長男だったの」
不意にブリザーエーデルが話し出した。ヨッピガルムは黙って、彼女の肩を抱く手に力を込めた。
「その頃のグローリアス一族は、叔父様と父のふたりのどちらを正統な後継者にするかということで一族が真っ二つに分かれてもめていたらしいわ。父はそんな一族間の醜い争いを憂えて、25の夏に家を出た……結局、後継者になったのは叔父様。全てはうまくいっていたの。……13年前、私と母が現れるまでは」
ヨッピガルムは、ブリザーエーデルの体が震えていることに気がついた。少し逡巡したが、その体を抱きしめる。
「……君が話したくなければ……いい」
「ううん……話しておきたいの。ヨッピには、色々迷惑かけちゃったから」
ヨッピガルムの力に逆らわず、ブリザーエーデルは疲れ果てたかのように体を預けてきた。今まで張り詰めていたものが不意に消失してしまい、何を拠り所にしていいか分からなくなっているのだろう。
「母は……私のことを父と自分の娘だと言った。父が亡くなって、まだ幼い私を連れてさまよって……最後に頼ったのが、父の一族だった。母は、きっと本当はグローリアス一族を頼りたくはなかったんだと思う。それでも、もう他に方法がなかった……もちろん、一族の人間が母の話を鵜呑みにしたわけじゃないわ。けど、直系のグローリアス一族の人間は、目に人を魅了する魔力の光があるの。叔父様はそれがあまりに強すぎるから封印していたけど……とにかく、それが私にもあったの。それで、私は一応、父の娘として認められたわ。叔父様に優秀な子供がいなくて、一族が満足する後継者がいないということがグローリアス一族の悩みだったから、私は結構貴重に扱われた。でも……母は違った。一族の人間にとって、母はドールではあっても、所詮どこの馬の骨とも知れない女でしかなかったのよ。毎日間じゃないように扱われて……よく、家の隅で泣いている母を見ていたの。そして……」
ブリザーエーデルが、ヨッピガルムの胸に顔を埋めた。
服の袖を、悪夢に怯える子供のように強い力で握りしめながら、
「母は……死んだわ。私が7歳のときに……首をつって、揺れてた……あれは、まるで人の体じゃないみたいだった……何か、もっと別のおぞましいもののようで……私は、それを見つめてた。瞬きもできなかった。……私はああならないように。私は負けないようにって……だから、私はグローリアス一族の後継者になった。私は天才じゃなくちゃいけなかった。イズニッカ姉さんやワインチェリー姉さんの様に努力家の叔父様を目指すのじゃなくて、天才だった父を目指さなくちゃいけなかった。だから、頑張るのは誰にも知られないようにしないといけなかった。入家試験もトップの成績で、それからもずっと期待されつづけるようにしてきたわ……私が中齢3冠を獲れれば、存在が一族に認められると思ってた……なのに、叔父様は……どうして……」
胸の中で途切れ途切れに話す彼女の背中を、ヨッピガルムはただ黙ってさすっていた。今の彼女には、鎧のように、こり固められたプライドも、自分の存在理由を確立させるための情熱もない。あるのは、たった一つの壊れかけた心だけだった。自分にすがることで、それを何とか守ろうとしている彼女を、ヨッピガルムは心の底から愛しいと思った。
自分には何もできないが、せめて彼女を支えてやりたい。そして、もし出来るのならば、彼女を守りたい。この世界の、彼女を傷つける全てから彼女を守りたかった。
「どうして……私は、一生懸命やってたのに……私は、認められたくて……ここにいてもいいって……それだけだったのに……」
ヨッピガルムは、ブリザーエーデルの体に廻していた腕に力を込めた。彼女の耳元に口を近づけ、そっと囁く。
「誰も、ブリザーエーデルを憎んでなんかいないんだよ……彼だって、最初から君を憎んでいたわけじゃない。ただ……少し、嫉妬してしまったんだ。苦しかったんだよ、彼も。そして道を間違えてしまったんだ」
「でも……叔父様を苦しめたのは私。そして、殺してしまった原因も私……」
「ブリザーエーデル!」
突然大きな声をあげたヨッピガルムに、ブリザーエーデルの体が震えた。
「仕方が……なかったんだ。こうなることは、誰にも止められなかった……君の所為じゃない」
「でも……でも……私は……」
「何も君が気に病む事なんてないんだ。たとえ3冠が獲れなくても、グローリアスの血を引いてなくたって、きっと君を必要としている人間はいくらでもいるはずだ。だから……もうそんなに、自分を責めるもんじゃない……」
「ヨッピ……」
ブリザーエーデルの声は弱々しい。ヨッピガルムは、彼女を救ってやれない自分自身にもどかしさを感じていた。
闇の中で、己の、血に塗れた両手の幻影を見つめて震えている彼女。周りの人間から作られた壁を、いつしか自分自身で作ってしまうようになってしまった彼女。そして、今、その壁の中で直に自分の魂を支えてもらうことでしか、自分自身を守りきることの出来ない彼女。
「ヨッピ……あなたは私が……必要……?」
それは、薄羽が地に落ちるような、静かな問いだった。
ヨッピガルムは、彼女をより力を込めて抱きしめた。
願わくば、自分の答えが少しでもブリザーエーデルを救えるようにと祈りながら。
「何度も言っている筈だがな。もう一度言おうか? ……君は、俺の護るべき珠玉だ。俺は君がいるから、強くなれる。君がいなくなったら、俺は俺じゃいられないんだ。……そして俺は、君のいない世界になんて、住みたいとは思わない。君が好きだから。君が望む限り、いつまでも傍にいたい」
その言葉に、ブリザーエーデルは答えなかった。ヨッピガルムの胸に顔を埋めたまま、赤子のような頼りなさで彼の体にしがみついている。
「もう一つだけ。……最後にもう一つだけ、あなたに我儘言っていい?」
「俺にできることならな」
「うん。……これを、これを最後にするから、あなたの胸で泣かせて」
そう言っているうちからブリザーエーデルの双眸に薄い膜が張りつめる。
「お願い。もう……もう一人で泣くのは、嫌なの」
既に語尾は涙声となっていた。
ヨッピガルムが、手を伸ばしブリザーエーデルを抱き寄せる。
同時にブリザーエーデルが身体をヨッピガルムに預ける様に背中に手を廻す。
暫しの逡巡していたヨッピガルムが彼女の身体を引き寄せ、その背中に自身の両腕を回した。
泣きじゃくるブリザーエーデルの闇の中でも金色に輝く髪を何度も何度も優しくなでる。
やがて泣きじゃくっていたブリザーエーデルの声が次第に啜り泣きへとかわり、次第に小さくなっていった。
ヨッピガルムがブリザーエーデルの耳元に囁きつづける。
「心配するな。冬の寒さもいつまでも続く訳じゃない。冬の寒さが厳しいほど後に来る春は素晴らしいものになる。今、これだけ辛い思いをしていれば、この後に来る幸せはより素晴らしいものになる」
ヨッピガルムはそれ以上何も言えず、ただ、黙って彼女の涙を受け止めていた。
啜り泣きが次第に収まり、ブリザーエーデルが顔を上げた。涙を拭い、ヨッピガルムから体を離す。
「……ありがとう。全部話したら、すっきりしちゃった……」
ブリザーエーデルは、猫が甘えるような仕草でヨッピガルムの胸に額を押し付けた。
「あなたの妻になる人は幸せね」
面食らったようなヨッピガルムに、
「だって、あなたの腕の中って泣き易いから。素直になれるの」
泣き笑いのブリザーエーデル。
「ブリザーエーデル。俺でよかったら……何か話したいことがあったら、何でも聞いてやる。いつだって、どんなことだって……君が話すことならな。気にしないで良い。今ここで俺は誓う。君がグローリアスの後継者でもそうでなくても、絶対に此処での言葉は覆さない」
俺にはそれしかできないから、と胸中で付け加える。
「うん……」
ブリザーエーデルはもう一度涙を軽く拭うと、次の瞬間には笑顔を作っていた。まだ、少し無理しているような笑みだったが、それでも充分すぎるほどヨッピガルムにはまぶしかった。
「私には、まだ何も分からない……母の思いも、叔父様の本当の気持ちも。でも……」
静かに話しながら、壁に手を当てて立ち上がる。ヨッピガルムよりも数歩前に出ると、振り返って胸を張った。ガラスのように揺れる瞳に、誇り高い光が灯っていた。
「あなたと一緒なら、どこにでも行けそうだから」
微かに微笑むブリザーエーデルに、そうだな。とヨッピガルムが笑みを返す。
「……あっ」
おもわず声を漏らす彼女。
そのとき彼が別世界の住人のように感じられた。
そして、その微笑みを彼女は一生忘れることはなかった。
「さあ、いこうか、ブリザーエーデル。俺達の新しい旅に」
何の屈託もない声を彼女に掛けてさりげなく手を差し伸べる。
「……うん、いこう、ヨッピガルム。これからもよろしく!!」
僅かな忘我の時を経て、彼女も最高の笑顔を返して手を取る。
手を取り合って進み始めた二人。
その瞳に迷いはない。
手を重ね扉を押し開く。
二人の姿を柔らかな光が包んだ。