大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第4巻 大人になる前で
第17話:今、描きにゆきます――サムデイ・イン・ザ・レイン――


 

 

 幸田と細川と別れた後の帰り道。上空で少し強い風が渦巻き、どこか別の世界からやってきたような黒雲と共に遠雷があたりに響いた。

 

「雨だ」

 

 隣のエロえもんがつぶやいたのと、ほぼ同じタイミングだった。

 

 熱を帯びたアスファルトにぽつり、ぽつりと水滴が滲み、僕の鼻面にも冷たい感触が落ちてきて、何かを予感した肌がぞわりと鳥肌を立てる。やがて、それはバケツをひっくり返したような大雨へと姿を変えると、僕らの顔面を容赦なく打ち付けた。

 

「こりゃあ! あれだな! 最近話題のゲリラ豪雨ってやつだ!」

「ゴリラ!?」

「ゲリラ!」

 

 僕らは慌てて駆け出しながらそんな会話をするが、滝のようにドドドッと轟音を立てて落ちてくる大粒の雨に世界の音は支配され、すぐに会話すらままならなくなってしまう。エロえもんが「あそこ!」と指をさした先にあったスーパーを目指し、僕ら二人は全速力でその光へと向かって地面を蹴った。

 

 荒い息を吐き出しながらスーパーの軒先に転がり込んだ時にはびしょ濡れで、水を吸った髪と服がべったりと体に張り付く。足元のスニーカーもグショグショで気持ち悪い。夏の大気からは瞬く間に熱が消え去っていた。

 

「すごいな」

「うん」

 

 空を灰色に塗り込める雲を見てエロえもんがつぶやき、スニーカーを脱いで中に溜まった水を出しながら僕も同意する。濡れ鼠の服を絞れるところだけ絞った後、エロえもんは夕飯を買って帰るというので、僕も同行することにした。

 

「悪いな。付き合わせて」

「いや、僕もこれだとまだ帰れないし。エロえもんって、いつも夕飯買って帰るの?」

「ああ……うちの親、二人とも帰るの遅いからさ。夜は総菜とか弁当が多いんだよ。時々自分で買えって夕飯代も渡される。おかげでここらへんのスーパーと弁当屋のレベルは、けっこう把握してるぜ」

 

 スーパーの中に入る途中の会話でエロえもんは笑いながらそんなことを言った。それに僕は少し驚きつつも「ふーん」と当たり障りのない返答をする。

 

 幸田の話を聞いた時も思ったけど、二人と違って僕の家ではたいてい僕以外の誰かがいることが多い。お母さんもパートに行ってるけど、だいたい夕方頃には帰ってくるし、お母さんがいない時は、ばあちゃんが夕飯を準備してくれる。お父さんも仕事で夜遅い時もあるけれど、ゴルフ以外の時は休日家でゴロゴロしている。

 そういうふうに……家には誰かがいて当たり前だと思っていたけど、そうじゃない家というのもやっぱり世の中にはあるのだ。

 

 スーパーの中に入ると、まるで秋風みたいなひんやりとした空気が肌に伝った。雨で濡れているのもあるのだろうけど、冷房が強いせいだろう。特に冷蔵食品が並ぶコーナーの前は寒いくらいだ。

 

「そういやさ、あれ、どうする?」

 

 秋を飛び越して冬みたいな生鮮食品コーナーを通り過ぎた後、エロえもんが出し抜けにそんなことを聞いてきた。

 

「あれ?」

「漫画賞の件」

「……ああ」

 

 それは夏休み前に二人で話していた計画で、この夏休み中にちゃんとした読み切りの漫画を一作完成させて、とある漫画誌の新人賞に応募してみようということだった。

 

 ただ、結局、塾やら夏休みの宿題やらで立て込んでいて……いや、正直に言うと、夏休み中にダラダラと過ごしていたせいもあり、夏休みも折り返し地点が見えてきているというのに、まだネーム――しかも、半分くらいしか進んでいなかった。

 

「君は?」

「私も……似たようなもんだな。描いていたんだけど、いざ賞に応募するって考えると、何が面白くて、どういうもの描きたいのか……よくわかんなくなって、止まっちゃってるよ」

 

 それは僕も同じだけど……一応、僕の場合はストーリの終わりと描きたい場面は頭の中にあるので、後は途中の整合性を取って後半の話を繋げるだけだ。

 

 でも、夏休み後半に入るにあたり夏休みの宿題を仕上げなきゃいけなし、幸田、細川と話していたエロ漫画入手プロジェクトもある。それに僕はエロえもんと違ってペン先や軸どころかちゃんとした原稿用紙やインクなどの消耗品すら持っていなかったので、来週ある親戚の集まりでお盆玉という名の購入資金を速やかに回収してからではないと、仕上げ作業には入れなかった。

 

「そういうのがあるんだ、すごいな。うち、親戚づきあいとかあんまりないから」

「そうなの?」

「ああ。遠方だし、葬式とかでしか会ったことないな」

 

 その話を聞いたエロえもんは少し羨ましそうに言った。

 

「提案なんだけどさ」

 

 それからちょっとの間を置いて、総菜コーナーで手持ち無沙汰に大盛りカツどん弁当を眺めている僕にエロえもんが笑いかける。

 

「君……私とコンビ組む気ないか?」

 

 うまそうだなぁとアホ面で総菜が敷き詰められた茶色の一角を見ていた中、彼女が告げた言葉に顔を上げる。思いがけない提案に僕は「コンビ……?」と目を丸くした。

 

「そう。君が原作で私が作画。それなら、なんとか〆切まで間に合うかもしれないし。それに……私、好きだから」

「へ?」

 

 

 その一言に、僕は思わずピタリと動きを止めた。

 

 まるで視界に入る風景が全て一時停止しているDVDの世界であるかのように――ピタリと時が止まったみたいで。世界を震わせているのは、イートインコーナーのラジオから流れる前線の動きを伝える天気予報だけだった。

 

 

 

「――君の漫画」

 

 

 

 だけど、その直後発せられた言葉で、僕はハッとする。

 

「……は、は、は、ははははい。はい、ああっ、はい」

「……改まっていうと、なんか恥ずかしいな」

 

 緊張のあまり先頭に「あ」をつけるのを忘れて、「は」が連続してしまう。僕があわあわと口を動かすと、エロえもんも耳元を赤くしてニヘラっと笑う。

 

「で、どうだ? コンビ?」

 

 少ししていつもの調子に戻ったエロえもんが尋ねる。

 

「僕は……大歓迎だけど、エロえもんが大変じゃない?」

「いや、作画はむしろ好きだから大丈夫だ……ただ、ちょっと君にも手伝ってほしいところはあるけど」

「もちろん。消しゴムかけから部屋の雑巾かけまでなんなりと、大先生」

「ちゃかすなよ」

 

 僕の軽口にエロえもんが右頬の口角を吊り上げる。最近気づいたことだけど、それは照れ隠しの時に見せるシニカルな笑みだった。

 それにしても、コンビか。まるでF先生とA先生みたいだ。もっとも二人はそういう作画と原作に分かれた体制ではなかったけれど、ネームにもエロえもんがアドバイスをくれるみたいだし、たぶんしばらくはそうやって互いの作業を手伝い合う形になるだろう。

 

「明日明後日は塾だったよな?」

「うん」

「じゃあ、水曜からさっそく打ち合わせ――」

 

 とカレーライス弁当とフランスパンに挟さまれたメンチカツを手に取り、エロえもんがレジに向かおうとした時だった。

 

「よーし、パパ特盛牛肉焼いちゃうぞー! 会社休みだしな!」

 

 僕らのすぐ横を、背後から来た家族連れが通り過ぎた。両親と幼い兄妹の四人家族みたいで、父親の宣言に「えー、じゃあ私フィレミニョンステーキのレアがいいー」、「いい肉使ってる!」と子どもたちが笑う。まるで日本の核家族はこうであるべきとでもいうような平和そのものの一家団欒である。微笑ましい光景だ。

 

 だけど、エロえもんは――その後ろ姿をじっと見ると、なぜか急に言葉数が少なくなってしまった。理由はわからないけど、僕もそれにつられなんとなく押し黙ってしまう。

 

 レジに並んでいる間、所在なく見上げた窓はまだ雨に濡れている。その向こうでは、蝉の声は消え失せ、まるで地鳴りのような強すぎる雨音が支配している。明るいBGMが流れる店内とは、まるでガラス一枚隔てた別世界みたいだった。

 

「もしさ――」

 

 レジを通った後、エロえもんは独り言のようにぼそりと呟いた。

 

「自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな」

 

 突然投げられた脈絡のない問いに、僕は首をかしげる。なんの話だろう? 日本の少子高齢化対策についてだろうか?

 

 質問の意図がわからず思ったことをそのまま口に出すと、「悪い、忘れろ」と笑われた。

 スーパーの強い冷房に当たりぱなっしだと風邪をひきそうなので、雨は降っているけどそのまま外に出て軒先へ向かう。

 

 大量の雨がコンクリートに落ちて爆ぜる音。道路脇に溜まったその水を車のタイヤが撒き散らしていく音。外は明るく人工的な店内の音とは違い、夕立の響きに満ちている。そんな音の濁流の中、重苦しく立ち込める雨雲に押さえつけられるように僕たちは黙っていた。

 

 そうやって呆然と佇んでいると、足元にアマガエルが跳んできて、僕は思わず彼(彼女?)とじっと目を合わせてしまう。

 

 カエルは昔から苦手、というより嫌いだ。確か低学年の時に同級生がケツに爆竹を入れたり、石で潰したりする遊びをやっていて、それに誘われたけどあまりにひどすぎて逃げ帰ると臆病者の烙印を押された時からだと思う。

 あと、よく間の抜けた顔と眼鏡のせいでケロロ軍曹に似ていると言われるのも関係している気がする。というか、八割そっちのせいだと思う。

 

「ほら、あっち行け」

 

 と脅すようにスニーカーの端で触れると、アマガエルは大して慌てる様子もなく、数秒後にゆっくりと方向を変え、ぴょんと駐車場脇の草むらへ跳んで行く。その方向を追い顔を上げると、道路を挟んだ先にある街の中心部が遠目に見えた。

 

 雑居ビルや高層マンションの下層は薄っすらともやがかっていて、よく見えない。暗い世界を切り抜くいくつかの窓灯りが、まるでバミューダトライアングルをさまよう幽霊船のように揺らめていていた。

 

「なあ」

 

 雨煙る風景を眺めていた時、近くなのにどこか遠くに聞こえるスーパーの業務通達の放送にエロえもんの声が混ざった。

 声の方に目を向ける。雨に濡れて短い髪の毛が貼りついたエロえもんの横顔は――どこかいつもと違って見えた。なんだかひどく儚げで、このまま排水溝に流されていく雨と一緒に溶けて行ってしまいそうな……なぜかわからないけど、そんな気持ちにさせられた。

 

 その時、不意に雨に濡れたエロえもんの背中――貼りついたTシャツから浮かび上がる灰色を見て、ドキッとした。

 

 あれは……下着、だろうか。慌てて目をそらしてしまったので、エロえもんは一瞬不思議そうな顔をしたけど、僕が平静を装うと話の続きを始めた。

 

「このまま雨が降り続いたら……どうなるんだろうな?」

 

 気を取り直し、確かドラえもんでそういう話があったなと思う。のび太が大雨で大洪水になる夢を見て、ドラえもんも巻き込んでノアの箱舟を作るのだ。僕がその話をすると、エロえもんは「そういえば、あったな」と微笑んだ。

 

「そしたら……学校も、家も、街も、全部流されたら、ずっと、夏休みでいられるよな」

 

 もしそうなったらホームレス小学生になって、夏休みを満喫するどころじゃないと思うけど。

 そんな非論理的で小さな子供みたいなことを話すのは、エロえもんらしくなかった。

 

「……なぁんてな」

 

 冗談ぽくエロえもんが付け足すのと時を同じくして、雨足は弱まり、やがて完全に途絶えた。

 だけど、雲はまだ分厚く空を覆ったままだった。

 

「じゃあ、また水曜日な!」

 

 それまで静かだったヒグラシたちが鳴き始めた頃、雲間から降りていく光の梯子を見て、エロえもんはいつも通りの笑顔で別れを告げた。

 

 だけど――洗い流された夏夕焼け空の下。去っていくエロえもんの後ろ姿を見た時、ふと僕の胸に不安が湧き上がった。

 

 今度の水曜日、僕は本当にエロえもんに会えるのだろうか?

 

 たぶん、それは、何も根拠がない過剰な心配だったと思う。

 でも、もしエロえもんの言う通り大洪水が起きるくらいの大雨が降ったら。僕やエロえもんが交通事故に遭ったら。重度の熱中症や食中毒にかかったら。いきなり未知の変なウイルスで病気になったら。

 

 確率的にそんなことはめったに起こらないんだって、さすがの僕もわかってるけど。

 

 でも、もし万が一そうなったら、エロえもんとはもう会えない。それでも、僕やあいつが死んだ後も、夏は続いて、蝉は鳴いて、夕立ちは降って、毎日同じようなニュースがテレビでは流れていく。

 

 急にそんな当たり前のことが、怖くなった。その瞬間、僕は駆け出していた。

 

「あのさっ!」

「ん?」

 

 とっさのことで言葉に詰まる。

 なにせ自分でも、なぜこんなことをしたのかわからないのだから。

 

「家まで送るよ」

「い、いきなりどうしたんだよ? 気持ち悪いな」

「送る」

 

 辛辣なエロえもんの言葉にもひるまず、僕はまっすぐに彼女の目を見た。

 

「エロえもんと……もう……ち……っ……少し話したいから」

 

 何も考えずにち「ょ」っと言いそうになり、少しに変える。

 エロえもんは僕の言葉に何か言おうとして口を開きかけたけど、結局そのまま何かを発することなく閉じて、足元を見る。

 

「……うん」

 

 そして、うつむいたまま、一言だけ返答した。

 それを聞くと、自分から提案したにも関わらず、言葉が見つからず黙ってしまう。

 

 僕は……いつでもうまく言えないことばかりだと思う。吃音があってもなくても、たぶんそれは変わらなくて。その時、初めて漫画以外でも、もっとちゃんと自分の気持ちを表現できるようになりたいと思った。

 

「今さっきの質問だけどさ」

「ん?」

 

 僕は必死に手繰り寄せた話題を、喉から吐き出す。

 

――自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな

 

「い……ぅ……しょに……漫画描くよ。君の気が済むまで」

 

 また小さい「ょ」だ。エロえもんの前だとあまり気を使わないので、つい使ってしまう。

 

「……質問の答えになってなくないか?」

「あっ、はは。いや、えっと、なんの解決にもならないけど、気晴らしにはなるかなって」

 

 代わりにエロ画像もらおっかな、などと思い出したように付け足すと、ようやくエロえもんの顔に――笑みが戻った。

 

「そっか。そうだな。うん……君は、そういうやつだもんな」

 

 僕はその言葉を聞いて「お前、エーミールかよ」と思ったが、口元を緩ませるエロえもんを見て、それが皮肉ではないことに気づき、少しほっとしてしまう。

 

 雲が風に流されて空が戻ってくると、雨上がりの冷えた空気はあっという間に夏の様相を帯びていく。

 

「……晴れたな」

「うん」

 

 雲間から漏れていく漏斗状の陽ざしが、水滴をつけた雑草やクモの巣、僕らの肌を撫で、地上に残った雨を光の粒へと変える。僕の眼鏡に付いた水滴も、エロえもんの肩にかからないほどの短い髪も、その陽光でみるみるうちに乾いていく。

 

 空はすっかり開け放たれて、次第に強くなっていく夕日が雲の下でオレンジと灰色の濃淡を描いている。まだら模様の夕空の下、『夕焼け小焼け』のチャイムがどこか遠くで鳴り響いて。僕たちはその中で、少しぎこちなく会話を再開した。

 

 エロえもんの背中に、もう下着は見えなかった。

 道路を走る車の排気音も、夕日に染まる建物も、電線の上で会話するカラスの鳴き声も。すべてはゲリラ豪雨が降り出す前と同じで、世界は何もかもいつも通りに戻っているように思える。

 

 だから、気のせいにしておこうと思った。エロえもんの先ほど言葉が……どこか弱弱しく、震えているように感じたのは。

 

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