大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第26話:名無しの唄

 

 

 『名無しのあいつ』。

 

 「七梨」という名字を文字った皮肉交じりのあだ名。それが、俺の学校での名前で、キャラクターで、存在価値だった。

 

 インターネットなんてものは、まだ創作世界のテクノロジーであった頃。当時のオタクたちの話題の中心といえば、地上波で放送される『ガンダム』や『宇宙戦艦ヤマト』といったそれまでの子供向けとは一線を画すアニメであり、本屋に置かれた『アニメージュ』なんかが唯一の情報源であり、数少ないオタク仲間と世間から小さなコミュニティで世間から隠れながらあーでもない、こーでもないと言い合っていた――そんな時代の話だ。

 

 そんなオタクの一人だったが、あいにくと学校に同じような仲間はおらず、友人すらいなかった俺は、学校が終わるとまっすぐに家に帰り、一人でアニメのワンシーンを模写し――特に好きだった漫画作りをしたりと、一人の部屋で机に向き合っていた。

 

 別にドラマチックな不幸や大きなトラウマがあったわけじゃない。ただ、気づいたら、そんなふうに『普通』から外れてしまっていたのだ。

 

 だけど、それでも構わなかった。両親や教師はいい年してアニメや漫画に夢中になる俺に呆れ、学校のやつらは奇異の視線を向け今でいうイジメというやつにもあったが、漫画を描いていると、そんなもの苦にはならなかった。

 

 たいていのやつらの人生は、決まっている。

 

 高校卒業と同時に就職して、安い給料で無理して車を買って、適当な女と結婚して、家のローンに縛られ老後まで社会に奉仕する。そんな日本における平均的で、普通で、幸せな素晴らしい人生だ。

 

 まっぴらごめんだった。俺は、お前らとは違う。

 

 ちゃんと自分が好きなものも、情熱を込める先も、夢もある。世間の有象無象になって名無しになるのは、お前らの方だ。俺はそうはならない。なぜか根拠もないそんな自信を後ろ盾に、俺は漫画を描き続けていた。

 

 その頃、まだ出版不況など影も形もなく、毎月どこかの雑誌で新人賞がいくつも開かれており、俺は毎月のようにそれらの賞に応募していた。

 そして、佳作ではあったが、高校卒業直前にとある雑誌から賞をもらった。子供の頃からずっと読んでいた憧れの雑誌だった。

 

 生まれて初めて行く東京で、生まれて初めてパーティという場所を経験した。

 授賞式では、それまで顔も見たことがなかった漫画家たちがいた。コミックスのあとがきぐらいでしか知らない――紙面の向こうにしか存在し得なかった人間たちがいる。

 

 そして、俺も今日、その人間の一人となったのだ。興奮と困惑が入り混じった今までに感じたことのない感覚だった。

 

 同じ賞で受賞した同期とはそのパーティで知り合い、その後予想外にもすぐに打ち解けた。

 漫画家を目指す者にもタイプがいろいろあるが、その時の同期はオタク系が多く親しみやすかったのもある。

 お互い周囲にオタク話をする相手なんて滅多にいないし、何より皆「漫画家になる」という共通の夢に向かって努力を重ね、これから志を共にする同士なのだ。互いに競い合う相手とはいえ、仲間のような感覚を俺は持っていた。

 

 とはいえ、俺は佳作の身だ。同期たちとのレベルの差は明らで、その時は仲間を得た安心感よりも自分の技量に対する焦りが心の中を支配していた。

 

「担当している先生のとこ一人アシ抜けたんだけど、行ってみる?」

 

 その焦りを見抜いたのか。担当の編集者から提案された俺は、二つ返事で引き受けた。

 

 

 

 

 

 先生はいわゆる若手のホープというべき存在で、雑誌の看板を担うベテラン作家たちに迫らんとする新進気鋭の作家だった。単行本は新人として異例とも言える勢いで売上を伸ばしており、俺自身もその雑誌の連載陣――いや、現在進行形の漫画の中では、一番面白いと言っても過言ではないと思っていたのだ。

 

 そんなライバル視するどころか雲上人のような人がアシスタント先なのである。はたして自分の拙い技術でそんな職場が勤まるのだろうか……不安は尽きなかったが、とにもかくにも俺は漫画家として次のステップへと踏み出した。

 

 結論から言うと、心配は杞憂に終わった。

 というより、実際に職場に入ってみると、そんな心配や不安に駆られる暇などなかったという方が正しい。分刻みの週刊連載のスケジュールでは「できる・できない」、「教わった・教わってない」など関係なく、次々と仕事を任され、不安に駆られる暇などなかった。

 

 予想通り周囲のアシスタントと俺のレベル差は目も当てられないほどひどいもので、最初は明らかに使えない新人が入ったことに淡々とした職場の雰囲気が苛立っていたのを肌で感じた。

 自分の作品だから当然といえば当然だが、先生は非常に仕事に厳しく、どんなに時間をくっても妥協を許さず、俺は一つの仕事に数十回はリテイクをくらった。

 

 漫画というのは才能でポンとできるものではなく、いわゆる伝統工芸の職人技のように技術の集積によって生み出されるものだと身を持って体感した。

 

 1週間。24時間×7日。168時間。

 

 たったそれだけの時間の中で、編集と打ち合わせをしてプロットを修正し、先のネームを切り、残りの時間で作画作業を完成させるのだ。連日の徹夜や泊まり込みは当たり前でほとんど職場に住んでいるようなものだった。

 

 だけど、俺は決してやめなかった。どんなに辛くても、この日々が漫画家という夢に繋がっていると思えば耐えられた。感覚が麻痺していたのかもしれないが、楽しくすらあった。学校で無理やりやらされた勉強やスポーツより、はるかに自分が成長していることを感じた。

 

 進化と取得。その連続の日々が続いた。他の仕事がどうなのかわからないが、週刊連載という激流の中で時は早く過ぎ去っていった。人の入れ替わりはあったが、そうやって現状にしがみついて二年もたつ頃には、俺は職場で戦力の中心になっていた。

 

 その頃、前から計画が進んでいた先生の作品のアニメ化が決まった。すると、職場は輪をかけて忙しくなった。だけど、それに伴い単行本の売れ行きも爆発的に伸び、先生からの評価も上がっていた俺は同世代と比べて何倍もの給料をもらえるようになっていた。あまり使う暇がなく溜まっていくばかりの通帳の金額を見て、これが漫画の世界なのだと思った。

 

 まともに連載が続けば、億万長者の世界。エンタメ界のメジャーリーグ。

 逆に一回の連載で業界から消え、その後行方知らずになる同業者なんて珍しくない。

 

 漫画家を目指すようなやつは、ギャンブラーと一緒だと思う。いや、ただのギャンブラーはまだいい。失うのは一時の夢と握り締めた金だけだ。

 それまでの人生で積み上げた時間、あったかもしれない普通の幸せと生き方。そういうもんを全部投げ捨てることになる。実際、同期や元アシスタントの同僚の中には音信不通となったやつもいた。

 

 時折、もうやめてしまおうかと思うこともなくはなかったが……巻末のオマケページ、そのアシスタント一覧に自分の名前が載っているのを見ると、自分が確かにこの世界に存在しているのだという確証を――あの頃の「名無し」ではないという自信を得られ、自分を鼓舞できた。その時間は紛れもなく俺の青春で、世界の全部だった。

 

 

 

 

 

 それから数年後。アニメも軌道に乗り、看板作品としての地位が盤石で揺るぎないものになった頃、先生は職場を法人化した。俺はそこで現場を取り仕切るチーフアシスタントに近い立場に就いた。年は30歳近くになろうとしていた。

 

 サラリーマンになる大人をあんなに忌み嫌い、見下していた俺は――いつの間にかいっぱしのサラリーマンになっていた。

 

「お前……いつデビューするんだ?」

 

 そんな折。実家の父から電話がかかってきた。実家を出る際は漫画家という夢に難色を抱いていた両親が、毎週雑誌と先生の単行本を購入してくれていたという事実を、その時初めて知った。そして、電話がかかってきた週の新連載は、奇しくもあの授賞式で仲良くなった同期のものだった。

 

 それをきっかけに、俺は全力で突っ走ってきた自分のこれまでと――これからを不意に考える時間を得た。

 

 アシスタントの数も増えて、連載年数も重ねたことで、職場はかつてのようなブラック企業然としたものではなく、かなり余裕のある体制になっていた。休日もかなり増えた。しかし、俺は――いつの間にか自作漫画を担当に提出するどころか、ネームを切ることさえここ数年していなかったことに、その時になって初めて気づいたのだ。

 

「……近いうちに連載取るよ」

 

 俺は、父親に短くそう告げ、電話を切った。アシスタントで自力がついていたこともあり、休日を利用して1か月程度で久々のネームを切り、それを受賞時の担当に見せようとした。だが、担当は数年前に異動で編集部を外れていることを直後に思い出した。

 

「七梨くんはプロアシでやっていくんもんだとばっかり思ってたよ」

 

 確か引継ぎ時に後任の担当者を教えてもらっていたが、念のためかけた電話口で元担当は驚いた口ぶりだった。

 

 そして――歯車が狂い始めたのは、ここからだった。

 

 

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