大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第28話:WORLD END

 

 

 店長さんが語り終わった後、僕らがいる部屋に響くのは無機質なエアコンの風音と店の表側からうっすら聞こえる明るいアニソンの断片だけだった。重苦しい空気に誰も何も言えない。ただぼんやりとどこかを見つめる店長さんの曇った瞳に、僕らは映っていないようだった。

 

「アシスタントとして、色んな人から愛される漫画に携われたのは、嬉しかったよ。曲がりなりにも連載を持てたことも。それに……俺は、夢をあきらめた後も、親のつてで職にありつけたから、まだ恵まれているんだ」

 

 込み上げる熱いものを必死で押さえつける様子に、僕はきゅぅと胃が締め付けられるのを感じた。先ほど深く考えもせず、店長さんが話すきっかけを作ってしまったことを後悔する。

 

 うつむきがちに話す店長さんの姿――それは十二歳の僕の手に余るあまりにも残酷で、苦しい世界の体現者だった。

 

「いっそのことノストラダムスの予言が成就して、世界なんて、滅べばよかった。現実なんて、必要ないと思ってた」

 

 下を向いたまま、店長さんは吐き捨てるようにつぶやく。

 

「ただ、自分の好きな世界があれば……それを描き出せさえすれば、よかったんだ。幸せだったんだ」

 

 唇が震え、喉の奥に引っ掛かるような声だった。先ほど説教していた大人が子どもの前で泣きそうになっているのだ。普通の人からすれば、ドン引きするような光景かもしれない。でも、僕は何も言うことができなかった。

 

 自分が一番好きなもので1ページ、1コマごとに批判され、見向きもされず、自分が作ったものが、この世界にとって価値がないという現実を突きつけられる。

 

 それは同じ漫画を描いている端くれの僕でも、どれだけ痛いことか、よくわかったからだ。

 その時、僕は、親や教師――周囲の大人たちがなぜ夢がある仕事を否定して、「ちゃんとした」、「普通」の仕事を勧めるのか、少しだけわかった気がした。

 

 きっと……夢というのは、希望であると同時に、それ以上の呪いなんだ。

 

 それも呪いが解けた後には、何も残らないどころか借金や失った時間、履歴書の空白――取り返せない人生という置き土産だけが残る……そんな呪いなんだ。

 

 

 

「なんでだよっ……!!!」

 

 

 

 だけど、その時。

 

 僕らがまだ知らなかったそんな事実を切り裂くように、怒声が響いた。歯が砕け散らんばかりに食いしばり、青筋が浮かぶくらいに拳を握りしめ、エロえもんが立ち上がる。

 

 エロえもんは決して緩まぬ視線で店長さんを見た。突然の大声に店長さんも驚いたようにノロノロと顔を上げてこちらを見た。

 

「漫画家なら……死ぬ寸前までえんぴつ握ってろよ!! 線を引けよ!! 諦めんなよ!! 今はインターネットでだって作品を発表できる!! もしかしたら、まだ――」

「そうだね。そうかもしれない」

 

 空間を揺らすような腹の底から出た言葉を、店長さんはあっさりと遮った。

 

 それはとても静かな同意だった。ただ平坦で、穏やかで。

 それでいて、どうしようもないほどの否定を込めた同意だった。

 

「でもね、誰もが藤子・F・不二雄みたいに……死ぬ直前まで漫画家でいられるわけではないんだ。知ってるかい? 藤子先生でさえ、もう来年はのび太たちを冒険させる場所がないって悩んでいたんだ。あまりにもコンテンツが大きくなりすぎて、ドラえもん以外のことをしたくてもできないともね」

 

 店長さんは眩しい太陽を見つめるみたいに目を細めて、エロえもんを見た。

 

「皆、自分が好きなものを作っても……いつの間にか自分の手を離れて、最初の気持ちが消えていく。周囲の要望に応えて好きじゃないものを作ったとしても……それを求められ続けて、作ることも、すごく難しいんだ」

 

 静かにそれだけ言うと、両手を組み、その中にあるものを閉じ込めるようにぎゅっと強く握る。

 

「俺は、手塚治虫のような先駆者の天才じゃなかった。藤子・F・不二雄のように全てをかける落ちこぼれにもなれなかった。ただの……普通のやつだった。俺がやってきたことは、全部、無意味だった。俺の作ったものに、価値はなかったんだ」

 

 それだけは決して揺るがぬ事実だと名探偵のごとく言うと、店長さんはまっすぐに僕らを見つめた。

 

「あの本棚には……今の君たちにとって面白い漫画は、まだ置いてないよ。焦らなくても、漫画以外にも面白いことはこれから先たくさんある。だから――」

 

 そして、一度瞼をつむり、どこか寂しそうに笑い、僕らに告げた。

 

 

 

「大人になるまで……二度とここには来ないでね」

 

 

 

 

 

 「来ちゃだめだよ」じゃなくて「来ないでね」。

 それは、命令より強い拒絶と心の底をえぐられる絶望に包まれた懇願だ。

 

 店をあとにした僕は、店長さんの言葉を何度も脳内で反芻しながら音成市を自転車で走り抜けて帰路についた。

 

 日が傾き始めたとはいえ、まだ八月の中旬だ。自転車をいくら速く走らせても風は生ぬるく、肺を満たすむわっとする空気も相変わらずだ。

 それなのに――まだ八月も、夏休みも、まだまだ残っているはずなのに。台風が過ぎ去った後のような秋風が、僕の肌をなでた気がした。なんだか、もう夏休みが終わってしまったみたいだった。帰路を走っている間、ずっと……何も起きなかった自分たちを浮き彫りにするような夕凪が、僕らにまとわりついていた。

 

 橙に支配される空の下。少しだけ自転車を停めて振り返り、小さくなった音成市の街並みを眺めた。

 大きなエナメルのカバンを抱えて塾に向かう制服姿の中高生。買い物袋を提げた主婦。携帯電話片手にまだ忙しなく歩き回るスーツのサラリーマン。

 今日という1日を終えようとしている街が、やけに遠くに見えた。その瞬間、今までに感じたことのない言葉にできない何かが、胸を支配した。

 

 

 

 僕は……どこにも行けない。

 

 

 

 それはたぶん――確信を持った予感だった。

 きっと、これから先の人生でそんな劇的なことなんて起こらないと、薄々感じていたのだと思う。

 

 

 白亜紀にフタバスズキリュウを帰しに行くことも。宇宙一の用心棒との一騎打ちも。アフリカの秘境を見つけることも。海の底でAIバギーと共に世界を救うことも。魔法でスカートめくりも。異星で独裁政治に反旗を翻すことも。ロボット少女との悲しいお別れも。地底世界で恐竜の絶滅を回避することも。7万年前の日本に家出することも。不思議なモヤを通って迷子になるのも。アラビア世界で絵本の世界との境界線を探ることも。天上人の計画を止めるのも。ブリキの国を崩壊させることも。夢の世界で塵になる恐怖も。自分が作った星の観測も。星間を走るSLの上で宇宙生物と戦うことも。

 

 

 そんなことは、これから過ごす未来では起こらない。

 いや、大冒険でなくても、少し不思議な日常さえ、僕には手に入らない。

 

 僕はたぶん、のび太から一人で会社を興したり、環境省の職員になるようなバイタリティや特技を除いたのび太以下の人間で、未来から人生を変えてくれる猫型ロボットが来てくれるわけでもない。おじいさんにヴェル〇ースオリジナルを100個もらえたとしても、きっと、そんなに特別な人間じゃないのだ。

 

 そんなことは、漫画やアニメやゲームの中にしかない虚構で。僕らの人生にドラマチックな展開なんか存在しなくて。どんなにその世界に立ち入っても、最後には、何もないこの毎日へ帰ってくるだけなんだ。

 

 あの店長さんの話を聞いてから、僕は……漫画に人生の全てをかけてもいいと、思えなくなってしまった。あんなに夏休み中に描きたいと思っていた漫画の続きが、今は一コマも頭に浮かばない。

 

 たぶん、怖いのだ。もし大好きな漫画に全てを注ぎ込んでも、店長さんみたいに何も報われなかったら。何も得られなかったら。今度こそ僕は、この世界から完全に突き放されてしまうから。この狭苦しい奴隷船みたいな世界で生きるしかないって認めてしまうことになるから。

 

 その時……初めて、店長さんが言っていたように、この毎日が終わればいいって気持ちが、わかったかもしれない。

 

 北朝鮮のテポドンが落ちてきて、鳥インフルエンザが大流行して、あちこちでテロが起こって、大きな災害が畳みかけるように襲って。

 

 そんな小さな子供みたいな妄想と一緒に、今、将来という未知への不安がはっきりと形を成して押し迫ってきた。僕らの目の前には、ただひたすらに重く、苦しい実感が、確かな質量を持って横たわっていた。

 

 もう一度振り返り、音成市を――その風景の中で忙しなく生きる人々の流れを、一瞥した。そして、思った。

 

 不謹慎極まりないけど、みんな心のどこかで期待してるんじゃないだろうか。

 閉塞感に満ち溢れ、陰鬱と続くこの世界が、何か劇的な変化によって終わるような――そんな決して人には言えない空虚な願望を、どこかに隠し持っているんじゃないか。

 

 夕日に照らされて橙に染まった景色の中、黒い影が喪服みたいに僕たちを染め上げている。自転車を押して帰路に就く姿が、葬列のごとく夕焼けから抜き出されていた。その影を見ていると、エロえもんたちと出会ってから色づき始めた世界が、モノクロに変わっていくのを感じた。急に漫画を描くことが、馬鹿みたいに思えてきた。

 

 まぶしい光を振り撒きながら、山向こうに沈んでいく太陽。夕方の風が吹き抜けてざわめく雑草。ここまで来てエロ漫画を買うこともできず、無駄足に終わった僕ら。

 

 なんだかそれは……とてつもなくむなしく、脱力感に満ちた光景だった。

 きっと、今日、店長さんから話を聞くまでの僕と明日からの僕は違う。世界が終わるときって、こんな夕焼けなのかもしれない。

 

 ただひたすらそんなネガティブなことばかりを考えながら、夕焼けに急き立てられるようにがむしゃらにペダルを漕いだ。

 

 そうやって、僕らが自分たちの街へ戻ってくる頃には、夕日もすっかりと地平線の向こうへと沈んだ。

 

「じゃあな」

「ああ」

 

 疲れていたせいもあったのだろう。言葉少なげに別れを告げ、幸田と細川と道を分けた後、僕とエロえもんは無言のまま自転車から降り、並び立って歩いた。郊外のあぜ道は街灯が少なく、自転車で走るにはちょっと危なかったからだ。

 

 迫ってくる夜の青とまだわずかに残る残骸の橙が混じり合って、空はコーヤコーヤ星みたいな濃い紫色の光に染まっていた。風もなく、雲もないよく晴れた夜空だった。

 

 田舎とはいえ僕らの家の周りは光害で星がそんなに綺麗に見えないけど、周囲に田んぼしかないここら辺は暗く、空気も澄んでいるから星がよく見える。天の川までは見えなかったけど覚えたての夏の大三角形はすぐにわかった。

 

 今日は月の明かりが強くて、黄金色の輝きの周りで夏の星たちはどこか肩身が狭そうに白く瞬いている。月は1年ごとに3.8cm地球から離れているらしいけど、それでも僕たちが生きている間、地球に天変地異をもたらすほど距離が空くなんてことはないだろう。

 

 でも、あの星たちは違う。彼らは地球からずっと遠くにある星なのだ。今、地球に届いて僕が見ている明かりは遥か大昔のもので、もうあの星たちはこの宇宙には存在していない可能性の方が高い。

 

 他の星からすれば、きっと地球だってそうなのだろう。

 核戦争やパンデミックに世界規模の気候変動、人口減少。どんな原因はわからないけど、きっといつか人類は絶滅しちゃって。70億年後か80億年後には巨大化した太陽に地球は飲み込まれて、人類がいたという証すらも消えてしまう。

 

 そう考えると、やっぱり僕がこうしている時間も、僕が今まで作ってきた漫画も、全部が無意味に思えてくる。

 

「漫画家って大変なんだな……」

 

 歩いて自転車を押しながら、なんとなく僕はぽつりと言った。それは独り言のように漠然としたつぶやきで、エロえもんからも返事はなかった。

 

「……私、あのおじさんと同じこと、思ったことあるよ」

 

 だけど、しばらくして、エロえもんは思い出したかのようにそう答えた。

 昼間の蝉に取って替わったヒグラシたちの声もとうに枯れ、代わりに夏虫たちの合唱が夜に満ちていた。その間をすり抜けて、エロえもんの声は不思議なくらい僕の鼓膜に響いて、頭の中ではあの時の静かな店長さんの言葉がよみがえっていた。

 

――いっそのことノストラダムスの予言が成就して、世界なんて、滅べばよかった。現実なんて、必要ないと思ってた

 

――ただ、自分の好きな世界があれば……それを描き出せさえすれば、よかったんだ。幸せだったんだ

 

「だけど……だから、許せなかったんだ。あのおじさんが……諦めた振りをしているのが」

 

 エロえもんがそう言ったのと同じタイミングで、頭の上からバチっと小さな音が響いた。

 僕らはいつの間にか壊れかけて点滅する電灯の下にいて、光に吸い寄せられた蛾たちが鱗粉を振り撒きながら、何度も体当たりを繰り返している。白い蛍光灯に照らされたエロえもんの横顔からは、表情が読み取れなかった。

 

「世界を滅ぼしたいなら……ち……っ……『地球破壊爆弾』でも、使ってみる?」

 

 軽口を叩いた僕にエロえもんは何も言わず、「君は本当にドラえもんが好きなんだな」とどこか寂しそうに笑うだけだ。

 

 それから僕らの間に言葉はなかった。遠くで響く喧噪とくたびれた自転車がきしむ音に小学生二人分の足音が混じる。祭りが終わった後のようなもの悲しい響きだけが、僕らの間にある全部だった。

 

「なあ」

 

 その時、唐突にエロえもんが足を止めた。少し先へと足を進めてしまった僕は振り返り、彼女を見た。先ほど違い、その顔には何かを企むような笑みが浮かんでいる。どこかで見覚えのある表情だった。

 

 

 

「この後……ちょっと付き合えよ」

 

 

 

 それが、初めてちゃんと会話をした――あの玄関ホールで取っ組み合いをした時と同じ台詞と表情だということに気づいたのは、その提案に頷いた直後だった。

 

 

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