大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島―― 作:ぽんこっこ
第29話:God Knows
僕は尋ねた。
エロえもんは答えた。「学校に行こう」、と。
雲の欠片もない静かな晴天の夜だった。月光を受けて白く光るグラウンドには、怪物みたいな校舎の黒い巨影が落ちている。まるで昆虫の複眼のような闇に染まった無数の窓枠が、僕らをじっと監視している。
家路から逸れた僕らは近くのコンビニに自転車を置き、その足で小学校へと向かった。外周をぐるっと歩いて見てみたが、職員室にもすでに灯りはなく、唯一の光源はあの用務員のおじさんがいるプレハブみたいな宿舎の窓だけだ。
周りに民家がなく、車の通りも少ない裏門近くまでたどり着くと、エロえもんはじっとその門構えを見据える。そして、おもむろに通路を塞ぐ折り畳み式のアコーディオンゲート――僕らの背丈よりちょっと高いそれに手をかけ、「足支えてくれ」と僕に告げる。
「えっ?」
戸惑う僕を尻目に、エロえもんはそのまま体を浮かせた。僕は少しためらいがちに彼女の足首を持って、上へと押し上げる。まるでクモのようにスルスルとエロえもんは上っていき、ゲートの向こう側へと着地した。
「ほれ」
エロえもんはあっさりと内側から鍵を開錠し、わずかに空いた隙間から僕を招き入れる。
「これって不法侵入じゃない?」
「まあ、そうだな」
あっけらかんと言い放つエロえもんは僕に「こっちだ」と指を差し、裏門から早歩きで移動する。どういうつもりなんだろう。エロえもんの真意がわからない。僕は不安を顔に滲ませながらも、彼女について行くしかなかった。
エロえもんの背中を追い、そこが見覚えのある場所だと気付くのに時間はかからなかった。
「ここでしばらく待機だ」
たどり着いたのは本校舎から少し外れた――先週、パソコン室の鍵を借りに来たあの用務員宿舎だった。指示に従い、少し離れたところにある旧時代の遺物、小型焼却炉の陰に隠れること十五分ほど。
やがて、宿舎のドアが開いた。演歌っぽい調子の鼻歌を歌いながら出てきたのは、用務員のおじさんだ。左手に持っていた懐中電灯のスイッチを入れると、漏斗状の光が闇を切り抜き、おじさんは校舎の裏手へと消えていく――宿舎のドアに、鍵はかけずに。
――二時~四時の間は巡回と別の仕事あるから、鍵は勝手にこの中入って戻しとけ!
――なんか……巡回中とか、簡単に鍵盗めそうだな
僕はその時、ふとあの時のおじさんの笑い声と何気ない幸田の言葉を思い出した。同時にエロえもんが何をしようとしているのかも理解する。
さすがに止めた方がいいんじゃないか……しかし、そう思った時には、もう遅かった。エロえもんはぱっと駆け出し、まるで泥棒みたいに(実際そうなのだけど)ドアを素早く開けると、宿舎の中へと忍び込んだ。僕は状況に流されるままに慌ててその後ろへ続く。
ドアの向こうは、6畳もない狭い畳敷きの和室だった。隅のブラウン管テレビではNHKかどっかの歌謡ショーが流れ、真ん中には小さなテーブル、壁際にはこれまた小さな冷蔵庫と電気ポットが設置されている。そして、その上には――コルクボードにくぎ打ちされたフックに、鍵がずらりと並んでいた。
「これ頼む」
エロえもんはそのうちのいくつかを適当に見繕い、ズボンのポケットに突っ込む。何本か僕にも渡された。これで指紋が付いたので共同での犯行となってしまう。
だけど……なぜだろう。これまで、不安で、彼女を止めなきゃいけないと思っていたのに。
宿舎を急いで飛び出した時、僕は得体の知れない高揚感に包まれていた。こんなことはマジの犯罪で、やっちゃいけないとわかっているのに。昼間、あの店長さんから叱られたばっかりなのに。なんだか、もうすべてがどうでもよくて。僕は先ほどまでと違い、エロえもんの横に並び立って、宿舎を飛び出していた。
僕らは用務員のおじさんと出くわさないように注意し、本校舎西側の勝手口の扉を開けた。
校舎の中へ続く薄暗い廊下は、まるで異界への入口のようだった。埃っぽく、暗闇に閉ざされたその道を僕らは慎重に進んでいく。
僕らが初めてまともに喋った玄関ホールを通り過ぎ、エロえもんが千条先生に啖呵を切った職員室のプレートの下を抜け、パンツ一丁を見られてドギマギした保健室を横切り、エロ漫画を買う方法を調べたパソコン室を視界の端に捉える。
「怖いか?」
光度に慣れてきたおかげで暗闇から浮かび上がるエロえもんの横顔が見えた。
いつもの得意気に加えて、ちょっといたずらっぽい笑みだった。
「……別に」
「嘘つけ」
「本当だよ」
少しムキになった子供っぽい僕の声が、静まり返った廊下に響く。外にいた時は聞こえていた夏虫のささやきも、どこかでバイクのマフラーが震える音も、今は不思議と聞こえなかった。
人気なく、電灯が全て消え落ちた校舎の中。人工的な灯りは、時折壁際に現れる防災ブザーの赤と避難口の上に設置された誘導灯の緑だけだ。
僕らを照らすのは綺麗な月明かりしかなくて、降り注ぐ光が校舎の中を満たしていた。風景の全てが淡く光を帯びていて、なんだかそこは夜の水族館――いや、まるで海の底を歩いているみたいだった。足を進める度に、黒と白が折り重なる夜の洪水に僕らは飲み込まれていく。
青に染まった廊下の踊り場も、県のコンクールで誰かが受賞した絵も、薄汚れたタイルに囲われた長方形の洗面台も。いつもとは違いどこかよそよそしい学校の風景の中、目的もなく僕らは歩き続けた。
「……おっ、我らが教室だ」
そんな折、頭上のプレートを見て、エロえもんがニヤリと笑った。いつもと違う風景に気を取られ、僕はそれに気づかなかった。ポケットから鍵を一つ取り出して、エロえもんはドアへと差し込む。スライド式ドアは何事もなくいつも通りの音を立てて開いた。毎日聞いていた音のはずなのに、ずいぶんと久しぶりに聞いたような気がする。
教室の中は、月光を受けてほのかに輝く天板が整列し、黒板の日直欄の上では終業式の日付が記されている。まるで、ここだけ世界から隔絶され、夏休み前で時間が止まっているみたいだ。
小さな夜に包まれた、小さな学校にある、小さな教室にいる、小さな僕たち。
すごく蒸し暑いのに、その孤独に冷えた景色を頭の中で俯瞰すると、なぜか僕は真夏の夜に凍えそうだった。
「なんだか……この世界に私たちだけみたいだな」
同じようなことを考えていたのだろうか。そんなことを言うエロえもんの方に顔を向けると、「……すまん」と照れ臭そうに下を向いた。
窓辺の席で机の天板をじっと見ているエロえもんは、いつもと違い、すごく小さく見えた。なんだか月明かりに透き通るようなその横顔を見ていると、ふいに変な予感に襲われた。
……エロえもんが、このままどこかに行ってしまうのではないか。そんな予感が。
「なあ」
そんなふうに全てが静止した青の時間の中で、エロえもんは机の中に入っているプラスチックケース――僕たちの地域では道具箱と呼んでいたものを引き出す。鉄とプラスチックが触れ合う無機質な音が響いた。
「もしこの机の引き出しがタイムマシンの入り口に繋がってたら……君ならどうする?」
その問いに、僕はしばらく黙考した後、「わからない」と一言だけ答えた。
だけど、それは……嘘だった。昨日までの僕なら、迷わず、未来に行ってエロえもんと一緒に漫画家になった自分を見に行こうと言うだろう。過去に行って、じいちゃんに僕にも友達ができたって報告するだろう。
でも、今の僕は……きっとその引き出しの先にタイムマシンがあったとしても、過去にも未来にも行こうとは思わないだろう。あの店長さんの話を聞いた時から、僕は決定的に何かが変わってしまったのだと思う。
「私は……早く未来に行きたい」
曖昧な僕の答えとは対照的に、エロえもんはそう言い切った。
「子供は、もう嫌だ。でも、親や教師みたいな大人にもなりたくない……何かになりたい。子供じゃないけど、あいつらみたいな大人でもない。何かに」
僕は黙ったままだった。言葉が喉に詰まり、出てこなかった。吃音とは関係なしに、どんな言葉を使えば正しいのか。うまく自分の思いを表現できるのか。今の僕には、どんなに時間を尽くしても、何もわからなかったから。
僕の無言の回答にエロえもんは静かに笑った。笑っているのに泣いているような――僕がよくする苦笑とも違う、初めて見る表情だった。僕はその顔を見て、今までに感じたことのない胸が締め付けられる感覚を覚えた。
でも、それでも、僕も早く未来に行きたいとは、言えなかった。
だって、僕たちのもとにドラえもんは来ない。ジョン・タイターの書き込みだってきっとでたらめだし、未来なんてたぶん、この何も起こらない日々の連続の先にあるだけなんだ。
僕たちが立っている暗い教室に薄い月光が差し込んだ。その窓辺に寄りかかり、僕らはどうしようもなくただ
「私も……もしかしたら、漫画家になんかなれないのかもしれないね」
僕の無言を、否定と受け取ったのか。エロえもんは少し寂しそうに笑った。
僕は、拳を握りしめ、エロえもんをまっすぐに見つめる。
「なれるよ」
そして――断言した。
これだけは、絶対に言葉にして伝えようと思ったから。
だって、君はいつでも揺るがなかった。
千条先生に殴られそうになった時も、相合傘を描かれた時も、舞子先生のおっぱいを凝視していた時も……あの店長さんから漫画家の辛い現実を聞いた時も。
エロえもんが向かい合った大人たちからすれば、つまんないことなのかもしれない。男のくせに女子にこんな感情を抱くなんてかっこ悪いのかもしれない。
だけど、僕にとって――君は間違いなく、現実世界で初めて出会うヒーローだった。だから、そんなふうに迷った顔を見たくはなかった。僕はあの店長さんの話に打ちのめされてしまったけど、君にはいつもみたいに自信満々の顔で「漫画家になるに決まってる」と笑っていてほしかったんだ。
「〇〇は、漫画のし……ぅ……し……キャラクターみたいだから」
本当は「主人公」と言いたかったのだけど、こんな時ですら僕の口はうまく動いてくれなかった。
「君に名字を呼ばれたのは……久しぶりだな」
ほんの一瞬だけ苦笑いを浮かべたエロえもんにそう言われ、自分でも無自覚にあだ名ではなく……「彼女」の名前で呼んでいることに気づいた。
その時、気づいた。いや、本当はずっと心のどこかで理解していたのかもしれない。
もうバカなあだ名で呼び合えるような――子供の時間が、終わろうとしていることを。
「私……もう、その名前じゃないんだ」
「えっ?」
だけど、その時、発せられた言葉に目の前の現実が揺らめいた。見開いた視界越しにエロえもんの表情が歪む。
「親、来週離婚して、母親が親権持つから。だから……もうその名字じゃなくなる」
僕は、吐き捨てられた事実に動揺し、口を開きかける。だけど、結局出てきたのは言葉にならない空気の塊だけだった。
僕の周りで両親がそういうことになった子は初めてだった。日本の離婚率からすれば、決して珍しいことではないのに。そのせいか、僕はこれまで離婚など不倫した芸能人がワイドショーでそうなったのを聞くぐらいで、テレビの向こう側の話だと思っていた。
「なんで……?」
「元から仲はあんまり良くなかったけど……たぶん、私と父親の血が繋がってないって、わかったのがきっかけだと思う」
『私と父親の血が繋がってない』。
それは、生まれ育ったこの国で使われている純度100%の日本語のはずだった。だけど、僕にはその意味をわかっても、理解はできなかった。
エロえもんは言葉少なに事情を説明した。
両親は共働きで、夜帰ってきても二人の間にほとんど会話はなかったこと。
離婚調停に入る前。父親が珍しく早く帰ってきた時、仕事鞄にこっそりと入れていた封筒――その中身を見てしまったこと。
エロえもんの話は、まるで遠い異国の言葉で行われる演説のように聞こえる。
でも、僕も、そこまで子供じゃない。その一連の話から……彼女の母親が、過去に何をしたのかはなんとなく察することができた。察することが、できてしまった。
「父親は、今でも私のことは娘だと思ってるって言ったけど……男親は裁判で親権取りづらいし……顔を見るのが、辛いって。毎日顔を合わせるのが、耐えられそうにないんだってさ」
エロえもんは乾いた笑みを浮かべた。はっきりと「父親」と言った。そこには「パパ」と呼びかけていちいち直していた頃の面影は、まるでない。彼女は下唇を噛んだまま、背負っていたカバンの中を乱暴に取り出し、ぶちまけるように宙へ放り投げた。
僕ら以外誰もいない教室に、大量の紙切れが四散した。月明かりを反射して白く輝き、まるで蝶の羽のように僕らの周りをひらひらと舞い、地面へと落ちる。
それは――漫画だった。僕が彼女の部屋に初めて入った時に見せてくれた、あのちょっとエッチなラブコメ漫画だ。
だけど、そのうちの1枚を手に取った時、僕は呆然とした。
あるものは斜め半分に破られ、あるものはしわくちゃにされていて――それがエロえもん自身の手によるものなのか、彼女の両親の手によるものか。「……ごめん。八つ当たりだ」とだけ告げる彼女の表情からは、読み取れなかった。
ただ、僕は――黙って床に散らばった漫画だったものの残骸を拾い集めるほかなかった。ただ、その最中、一枚だけ白と黒で構成された漫画とは明らかに違う異質が紛れ込んでいることにきづく。
カラフルなそれを手に取り、近くで見てみる。名前も聞いたことがない女子校の私立中学。夏期オープンスクールのチラシだった。
――まあ、私は焦ってやんなくても大丈夫だからいいや
――うち、ちょっとの間ネットが使えなくなりそうなんだよ
――自分も周りも、どうにもならないってわかってても……でも、どうしてもどうにかしたい時って、どうすればいいんだろうな
――あー……すまんが、今週末はちょっとな
その時、これまでの彼女の発言が、僕の脳内で思い起こされる。
おそるおそる右下にあったその学校の所在地を確認した。それは遠く離れた他県のもので――エロえもんに言われなくても、彼女が遠くに行ってしまうことがわかった。
「……来週末、引っ越すんだ。母親の実家がある県。それで、そこ、受験しろって」
そして、エロえもんが初めて聞く震える声で、その推測を裏付けた。今、世界で一番聞きたくない事実だった。
僕も一昨年まで転勤族だったから、別れなど慣れているつもりだった。
だけど、だけど、だけど……!
大人になれば飛行機や電車を乗り継いで1日もかければ会いに行ける距離だけど、そんなお金も手段もない今の僕らには、それはとてつもない距離で。エロえもんの引っ越し先は、ハルカ星やハテノ星雲みたいな宇宙の果てとなんら変わりないもののように思えた。チラシの中では、僕らのことをあざ笑うかのように教職員と生徒がにこやかな笑みを見せていた。
「笑っちゃうよな。今時、規則でセーラー服に三つ編みおさげだぜ? しずちゃんかよ」
『着せかえカメラ』のファインダーを覗くように、目の前にいるエロえもんに頭の中でチラシの中のセーラー服と三つ編みを被せてみる。エロえもんには、全然似合わなかった。
「……パパもママも……私にどうしたい? なんて、一言も聞いてくれなかった。相談もしなかった。ただ、そう決まったから。いつも、それだけなんだ」
どうということない平坦な声だったが、それは僕の胸に重く響いた。
そう。僕らはいつだって、こうなのだ。
仲良くなっても転校しなくちゃいけないし、じいちゃんが死んじゃうのに何もできなかったし、クラスに馴染めなくても学校には通わなきゃいけないし、お金があってもエロ漫画を買うことはできなかった。
どんなにこの世界に反抗しても、結局僕らは何もできない子供のままで。自分たちの意思とは無関係なところで世界は動いて、成す術なく奪われて、そのまま流されていくしかない。
エロえもんが拳を握りしめながら、下を向き、黙りこくった。
空間に沈黙が満ちた。その静けさが、もうエロえもんと会えなくなるという事実を僕に再度自覚させた。教室の隅――月明かりが届かない闇に視線を落とすと、どうしようもない不安と悔しさが生まれた。闇は深く、濃く。僕はそれをどうやっても、掃う手段を持たなかった。
やがて、数分経ってから、エロえもんが顔をあげた。何もできずにその横顔を眺めていた僕と目があった。
「ねえ――」
数分ぶりに発せられたエロえもんの声。
その二文字は、瞳の輝きは、何光年もの先から届けられたもののように思えた。
「……やろうよ」
続いて僕の鼓膜に響いたのは、そんなひらがな四文字分の音だった。