大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第30話:エンドレスエイト

 

 僕は、その言葉が持つ意味を理解できなかった。ただポカンとアホ面を下げて「えっ?」と問い返すと、僕の返事を聞く間もなくエロえもんが、突然Tシャツを脱ぎ出した。

 

「何を――」

 

 僕は言いかけて、開いた口を止めた。

 

 脱ぎ去ったTシャツの下から現れたのは、日に焼けて少し浅黒い肌。ショートのズボンからむき出しになっている太もも――そして、白いスポーツブラの下にある小さな膨らみ。

 

 それは、まるで突然目の前にアカシックレコードが現れたようにも思えたし、前ニュースで見た百年に一度しか開花しない花が咲いているようにも見えた。いずれにせよ、僕にとって全く未知の存在が、そこには立っていた。

 

 彼女は異世界人のような仕草で前髪を払い、未来人のような唇を震わせ、超能力者のような目元で僕を見据え、宇宙人のような表情を浮かべた。

 

 この子は――いったい誰なんだろう。

 ふと、そんな疑問が頭に浮かんだ。そして、即座にそれを自分で否定する。僕は何を言ってんだろう。エロえもんに決まってるじゃないか。

 

 だけど、月明かりを受けてほのかに青く光り、少しかすれた声の少女は、まったく知らない女の子のように思える。夜の影に彩られたその顔はまるで作り物みたいで、僕はそこから視線を逸らすことできなかった。同時に心臓を鷲掴みにされたような――今まで感じたことのない疼きが、胸に走った。

 

 こちらに向かって彼女が歩み寄り、緊張した面持ちで目の前に立った。

 そして、硬直する僕の手首を掴み、己の方へと強く引き寄せた。瞬間、なされるがままの僕の掌が固く、少しだけ柔らかいものに触れた。

 

 放課後の玄関ホールでマンガノートを取り返そうともつれ合った時と同じ――だけど、何かが違うものが僕の手の内にあった。少し厚い布越しに捉えた感触がなんなのか。視覚でその光景を認識する前に、僕はそれを理解していた。

 

 いつもの四人でエロ談義をする時は「思いっきり揉んでみてぇ~」なんて馬鹿なこと言ってたけど、僕の指はピクリとも動かなかった。いや、動けなかった。まるでサッカーの時と同じように棒立ちになり、ただ掌から伝わる自分のものではない温もりだけがこれが現実なのだと告げていた。

 

 そんな僕を見たエロえもんは、微笑んでいた。

 だけど、本当は笑っていないことだけがわかった。怒っているようにも見えたし、悲しくなっているようにも思えたし、寂しくなっているようにも感じた。

 

 ただどうしようもない切実さだけが、赤く染まった耳元からこぼれ落ちている。その思いを、この昂ぶりを、どうすればいいのか。僕には全く見当がつかなかった。

 

 そして、その時、ふと――本当に唐突に、僕は理解した。

 

 僕たちは、この先、今までとは同じでいられないのだと。エロえもんが遠くに行こうが行くまいが、きっと関係ない。何かが変化して、この夏休みのように過ごせることはないのだと。そう、はっきりと悟った。

 

 エロえもんは困惑する僕を力の限り押し倒し、両腕を押さえつけた。幸田と喧嘩した時のように机の脚が床を引っかく音が聞こえた。自由帳を奪われたあの時とは逆に、彼女が僕の上に跨り、頬を赤く上気させてまっすぐにこちらを見下ろした。

 

 肌の柔らかさと指の感触、触れる温度。瞳孔が開いた瞳。中性的な顔立ちを構成する鼻筋と唇の形。月明かりに揺れるショートカットの髪の毛。

 

 膝立ちになり、夜の教室から切り取られたエロえもんだけが、僕の視界を支配していた。

 ウシガエルの鳴き声や車の排気音、夜風に揺れる木々の葉擦。窓の外から聞こえていた一切の音が消え、僕の中には痛いくらいの静寂と早鐘をうつ心臓の鼓動だけが同居していた。

 

 得体の知れない緊張と不安と興奮が体の隅まで血液を巡らせて、呼吸の仕方を忘れそうになって、時折水面から顔を出すように息をする。

 青い視界の中で、いつも見ていたはずのエロえもんの体だけがほのかに赤い色見を帯びて、今までに嗅いだことのないむせ返るような匂いが鼻をついた。五感で捉える彼女の全てが、僕が今まで生きてきた12年間に経験した何物とも違った。

 

 

 

 宝島。エロマンガ島。人間です。

 

 

 

 教室を包む淡い光に隠された秘密に手を伸ばそうとした瞬間、そんな意味を成さない単語の群れが脳内で明滅した。

 その直後、エロえもんが――友達が――急に全く別の恐ろしい何かに思えた。

 触れ合う肌を、体の熱を通して、エロえもんの中から押し寄せてくる衝動を必死に受け止めようとする。

 

 だけど――

 

 

「ごめん」

 

 

 たぶん。

 そう言葉にした瞬間が、僕とエロえもんの未来を徹底的に隔てたのだと思う。

 

「……なんで?」

 

 口を衝いて出たような彼女の疑問を聞いても、僕は何も言えないままだった。ケガをしているのにそれを隠して強がっている野良猫みたいな表情が、僕から言葉を奪った。

 

 自分でも、どこからこんな力が湧いてくるのかわからない。だけど、僕の腕を押さえつけていた彼女の手首を持って無理やり押し返し、上半身を起こした。

 口ごもりつつ、もう一度「ごめん」と拒絶の意思を告げると、エロえもんもまた「なんで?」と小さく繰り返し、ペタリハンドみたいな握りこぶしで僕の胸を何度も弱弱しく叩いた。エロえもんが僕の胸を打つ度に、その問いかけは心に重くのしかかった。

 

 なぜ自分でもそうしたのかわからない。

 なぜだかわからないけど……彼女は、ここで僕とセックスをするべきじゃないと思った。

 

 エロえもんは、きっと、何もできない今の自分に納得できなくて。だから、セックスをすることで僕らを取り巻く窮屈な世界に反逆して、特別な何かに変わりたかったのかもしれない。

 

 その相手に僕を選んでくれたことは、正直に言うと、嬉しかった。

 そして、その時、やっとわかった。

 

 

 

 僕は……たぶんこの子のことが好きなんだと思う。

 

 

 

 でも、それがどういう「好き」なのかは、自分でもわからない。

 ひとつはっきりと言えるのは、単純に女の子として好きってだけではないと思う。

 

 それよりも漠然として、霧がかったようにもやもやしていているけど。

 僕は、この世界で一番信頼できる親友として彼女が好きで、漫画という同じ夢を持っていた相棒として好きで、そして……一人の人間として、エロえもんが大好きだったんだ。

 

「君は……僕とは違うから」

 

 だから、ここでセックスをしたら、君を傷つけてしまう。例え僕らの道がここで別れることになっても、きっとそうすべきじゃない。エロえもんは、もっとちゃんとした別の方法で、特別になるべき人間なんだ。

 

「エロえもん」

 

 僕は、もう一度……今度は名字じゃなくて、あのあだ名で彼女を呼んだ。彼女はしばらくうつむいたままだったけど、やがて顔を上げた。瞳が真っ赤に染まっていた。

 

「僕は――君の漫画が、好きだ」

 

 体と心の全てが、痛かった。だけど、それでも伝えたかった。

 

 これから先の未来で、君の漫画を、君自身を、あるいは別の何かを、誰かが否定するかもしれない。鼻で笑うかもしれない。蔑むかもしれない。

 だけど、僕はいつまでも君の味方でいたい。例え世界中が敵に回ったとしても、僕は君が生み出す世界を見続けていたいんだ。

 

 月明かりを弾く滴がエロえもんの瞳から溢れ、頬をつたい、顎先で震えている。ぽとり、またぽとりと落ちる水滴が床に濃い影を作った。落ちていく涙に。初めて見る泣き顔に。僕も泣きたくなったけど……僕は泣かなかった。泣くべきじゃないと思ったし、彼女と一緒に泣く権利はないと思った。

 

 だから、僕は、エロえもんの肩を引き寄せて――そのまま、強く抱きしめた。

 

 エロえもんは一度びくりと肩を震わせたけど、ただ少し体を強張らせるだけで、僕の薄い胸に額を押し付けた。友情とか、恋だとか、憧れとか。僕にそうさせたのが、どういった種類の感情なのか、自分でもよくわからないけど。

 でも、僕はそれでも、あの教室で僕を見つけてくれた――唯一無二の友達にしてあげられることが、ただ、ずっと欲しかったんだ。そして、セックスとかエッチとか、どうやってやるのかわからない僕にできることは、限られていた。

 

 

 僕はエロ漫画を買うことも、友達の涙を止めることもできない――ただただ無力な小学六年生だった。

 

 

 エロえもんにTシャツを着せて、散らばった残りの漫画を拾い集めると、僕らは二人で教室の壁に寄りかかって床に座り込んだ。椅子と机の脚に囲まれた檻のような景色が目の前に広がり、一つ目線が下がると全く違う世界になるのだとどうでもいいことを思った。

 

 そうやって――どちらからともなく、隣り合った手を握った。まっすぐに天井を見上げるエロえもんの横顔は先ほどまでとは違っていつもと同じ――いや、いつもより幼い表情に見えた。

 

 ひそひそ話をするように小さな声で、僕たちはこれまでのことをひたすらに話した。

 最初に自作漫画を見せ合ったあの日から今日までのこと。幸田や細川のこと、そして、好きな漫画のこと。知っていることも。知らなかったことも。相手のことも。自分のことも。限られた時間の中で、何度も、何度も。

 

 だけど、これからのことは、お互い一切話題に出さなかった。

 

 エロえもんとちゃんと話し始めたのは、この数か月の間だけだったのに。僕たちの中には、色んな思い出がしまってあった。まるで別次元に繋がっているように、僕らの間には無限の過去が広がっていた。ただ心が通じ合える誰かが隣にいてくれることが、それだけで嬉しかった。

 

「私もね……好きだよ。日野の漫画」

 

 初めて僕の漫画を見た時からずっと――エロえもんはそう言ってくれた。

 それからの日々では。授業中も、休み時間も、登下校の間も、オープンスクールで連れていかれた遠い街の景色の中でも、君と君の作る漫画のことを考えていた。そう言ってくれた。

 

「君は私のことを主人公みたいって言ってくれたけど、違うよ。君があの教室にいてくれたから、私は……私でいられた」

 

 僕の手を握るエロえもんの力が強くなる。さっき「主人公」という単語言えなかったのにわかってくれたことに気づいたのは、後からだった。

 

「君が私にとっては……主人公だったんだ」

 

 僕には「心の友よ」なんて、クサい台詞を言える度胸はなかったけど、ただエロえもんの手を離せずに……いや、離さずにいた。今思えば、それは12歳の僕らにとって、性別やしがらみ、立場を超えて、ただ『友達』としてそれが許されるぎりぎりの行為だったのだと思う。

 

 それでも、言葉にならないほどエロえもんに伝えたいことがたくさんあった。

 

 僕はきっとこの夜のことを、一生忘れない。忘れちゃいけないと思った。

 エロえもんの涙に反射した夜の明かりも。押し寄せてくる学校の暗闇も。二人を包んでまとわりつく湿気も。繋いだ手から感じるあたたかな温度も。残しておきたいこの日の欠片を全部、全部、思い出のポケットにしまっておこうと決めた。たぶんエロえもんも同じ気持ちだったと思う。

 

 子供として、純粋に友達としていられる最後の時間を、僕たちはそうやって過ごした。

 

 

 

 

 

 僕らは、用務員宿舎に鍵を返しに行った。

 

 おじさんは鍵を盗んだことに対してはすごい剣幕で僕らを怒鳴ったけど、意気消沈した僕の顔と泣きはらしたエロえもんの目元を見て、何か察してくれたらしい。

 宿舎の施錠管理ができていなかったことを僕らに詫び、「……悪戯のひとつくらい、子どもはするもんだよな」と親や学校への連絡はしないと約束してくれた。

 

 

 

 その帰り道。夢から覚めた後にのしかかる現実の痛みを抱えながら、僕とエロえもんは二人並んで自転車を押し歩いた。僕らが逃げ込んだ夏休みが、終わろうとしてた。

 

 湿気を含んだ真夏の重たい夜に沈黙が溶けていった。蝉に取って代わった夏虫と蛙の声の中で僕たちはひたすらに無言を貫いて、一歩ずつ前へ前へと家との距離を縮めていく。このまま『どこでもドア』をくぐって遠くへ行けたらと思ったけど、きっと僕らはまっすぐ互いの家に帰るだけだろう。

 

 僕たちは明日からそれぞれの場所で、それぞれの明日を生きていかなきゃいけない。

 

 今まで口に出さず、目を背けていた事実に、僕は唇を引き結ぶ。今日までの時間の中で、エロえもんはこんなに近くにいたのに。きっと、もう、会うことはない。

 その事実を信じることはできなくて。でも、たぶんそれは変わらない未来の決定事項で。僕らはただ何も言えず、冒険の帰り道を続きから歩き続けた。自分の力ではどうすることもできない絶対的な確信が、歩みを進ませていた。

 

「私ね」

 

いよいよ道が分かれる時になって、エロえもんがぽつりと漏らした。

 

「引っ越し先でも……漫画、描くよ。中学に入ってからも描いて、描いて、描きまくって……絶対に漫画家になってやる」

 

 すぐ近くを通り過ぎた車のヘッドライトが、その顔を照らした。

 泣きはらした目元だけど、口元は笑っていた。僕がいつも見ていた得意気でシニカルな笑みだった。

 

「それで早く家を出る。早く……一人で生きていけるようになりたい」

 

 僕は、何も言えなかった。彼女も、それ以上何も言わなかった。

 僕らはしばらく金縛りにあったみたいに動けずにいたけど、やがて――エロえもんが今までに見せたことのない満面の笑みを僕に投げかけた。

 

 

「君も……描けよ」

 

 

 その笑顔を見た時、永遠に続くように思えた夏休みが、自分の中で終わっていくのを感じた。

 

 胸に焼き付く感触を握りしめる僕を置いていき、エロえもんの背中は、夏の夜に――僕が進めなかった未来に吸い込まれ、やがて溶けていった。

 

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