大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第33話:オナニーマスター日野

 

 

 その日は確か後期の中間テスト期間の最中だった。部活も休みなので友人と今日の出来について適当に喋りながら、まだ日が高い午後の帰り道を歩いていた時だったと思う。

 僕の横を下校途中の小学生たちがすり抜けていった。この時間帯なら、別にそれはなんでもない日本中どこにもある風景だ。

 

 それなのに――冬空のもと、冷たい空気をものともせずに駆けていくランドセルの後ろ姿を見た時、思いがけない既視感が僕に絡みつき、思わず足を止める。そして、思った。

 

 僕は、この街でずっと暮らしていくのだろうか。

 この街が変わっていくのを、人が去っていくのを、ずっと見続けていくのだろうか、と。

 

 その風景の何が、僕を付き動かしたのかはわからない。だけど、僕はその日を境に腰を据えて勉強に取り組むようになったのだ。

 

 いま思えば、たぶん東京の大学に行き、向こうで就職しようと――今でも再就職は東京近隣でしようと決めたのは、もしかしたら、あの夜の学校でのできごとが原因なのかもしれない。

 それはまるでのび太がつむじ風を見る度にフー子のことを思い出していたように。この街に住んでいると、ふとした瞬間にエロえもんの面影にぶつかることがあった。

 

――君も……描けよ

 

 その言葉を思い出す度に、思った。

 遠くへ行きたい。ここじゃないどこかに。

 

 具体的に何か目的があるわけではなかったけれど、そうしないとあの夜の約束に責め立てられているように思えて。とっくの昔に終わったはずのあの夏休みから、一生抜け出せない気がしたのだ。

 

 今は色を失った昔の思い出に引っ張られて、僕は初めてエロえもんの家に行った時に見たいくつかのWEB漫画のホームページを、ふとスマホで検索してみた。

 

 だけど、多くのサイトがサービス終了に伴い閉鎖され、かろうじて残っていたものも最後に更新された日付は10年以上前のものがほとんどだ。それらの多くは完結することなく、履歴を追うと年を経るごとに更新頻度も落ちていた。

 

 今、WEB漫画と言えば出版社などがアプリや直営サイトで出しているプロの作品が多くを占めるけど、当時のWEB漫画はほとんどがアマチュア作家によるものだ。遺跡のようなサイトを巡りながらなんとなく作者の行方を調べてみると、その後プロの世界に行って活躍している人も何人か出てきたけど、大多数は消息不明だった。

 

 仕事や家庭で忙しかったり、あるいは別の趣味を見つけたり……最悪、亡くなっているなんて人がいても、別におかしくはないだろう。あのゼロ年代から今に至るまでに流れたのは、そんなふうに人を変えるのに十分すぎる時間だ。

 

 僕だって、子どもの時と比べ、大人になってから漫画との付き合い方はずいぶん変わっている。今でも漫画は人並みに好きだけど、それはあの頃のような情熱を持った「好き」ではなかった。やっていることは無料連載の漫画を追ったり、ネットで評判の漫画で気に入ったものを時折買うぐらい。僕にとって……漫画は趣味の部類には入る暇つぶしの道具と化していた。

 

 当たり前だが、あの頃、漠然と根拠もなく信じていた漫画家になれるかもしれないという思いは、今は微塵もない。それどころか、一人で立ち上げた会社が炎上したり、環境省の調査員になることもなく――のび太から潜在的なバイタリティと善性の良心を差し引いたような人間となった僕は、今や成功者や楽しさを忘れずにいる人間をうらやむ小市民だ。

 

 ネットサーフィンついでに手持ち無沙汰にスマホをいじっていると……そんな僕と同じように――やっぱり、インターネットの世界もあの頃と比べずいぶんと変わってしまったと、再認識させられる。

 

 

 インターネットが急速に日常へと浸透していくにつれ、その世界は僕の中で昔のような未知と興奮が詰まったものではなくなっていった。

 

 夏休みのパソコン室で覗いたような――ウェルカムトゥ東京アンダーグラウンドなヤバイやつらの集会所だったインターネットは、今はもう小学生から棺桶に片足を突っ込んだ老人まで誰もが使う最も大きな情報インフラとなっている。

 大きな力を持った人たちが発言力や既得権益に物を言わせて支配する――新聞やテレビといったオールドメディアとあまり変わらなくなってしまったSNSやサービスもある。

 

 そうやって大衆化したインターネットの世界では、リアルと紐づいたアカウントで交流するSNSが急速に発展し、現実に即した良識とモラルが空間に広がっていった。

 

 その一方でこれまでの社会ではインターネットを使うことはなかったであろう人たちが入ってきたことで、これまで暗黙の了解のようにあった独自のモラルや共通認識はどんどん崩壊していっているようにも思う。それまで紙面の週刊誌が担っていた下世話な話題はSNSのトレンドが取ってかわり、次々と投下されるネタに逸脱を粛正するような糾弾合戦が行われ、数時間後には何事もなかったかのように同じアカウントが良識や正義を語っている。

 

 それは、昔の名無したちがやっていた悪口や中傷合戦が、正しさの皮を被った殴り合いに変わっただけなのかもしれない。でも、「どっちも自分が正しいと思ってる」正義の押し売りは、なまじ自己正当化の理由がある分、底辺同士の素直な殴り合いだった頃より窮屈かつ陰湿で――なんとなく、小学六年生の教室を、僕に思い起こさせた。

 

 きっと僕が子どもの時からインターネットにはそういう面もあり、むしろ無法地帯である割合は多かったのだろうけど、最近はそういうのを目にする機会が増えてように感じる。たぶん僕自身も大人になって、その類の話題ばかりを無意識に選んでいるのだろう。

 そう考えると、子どもの頃は感じなかったけど、のび太の結婚前夜にしずちゃんのパパが言ってたことがどんなに難しいのか、今ではよくわかる。

 

 僕はいつの間にか、人の幸せを妬み、他人の不幸を楽しむ――嫌な大人になってしまった。

 

 そのくせ、そんな自分や世界を変えようと努力することもしなかった。少年時代に見た夏空で立ち昇る入道雲のように――電脳の網はどんどん広がって、多くの人と情報と金が行き交う華やかな世界になっているのに、一向にわくわくすることはなかった。

 

 小学生の時のように自分の生きた証を残したいとも思わなくなったし、誰かと深い関係性を持ちたいとも思わなかった。人付き合いの一環で勧められたいくつかのSNSをやってみたけど、リアルに紐づけられた多くの意思と下手な自尊心が邪魔をし、どれも長続きはしなかった。

 

 趣味と言えるものもなく、本当の自分をさらけ出せる相手もいない。

 ただ仕事をして、家に帰って、暇つぶしにネットのどうでもいいニュースに目を通して、時折学生時代の友人から来るラ〇ンに当たり障りのない返事をして、休日には溜まった家事をこなし、時折半強制の会社のイベントに参加していた。

 そうした生活をしているうちに通帳の金額は、自分の想像以上のペースで増えていった。あの時、自分一人では買えなかったエロ漫画が何百冊も買えるような金額だ。

 

 だけど、通勤用の中古の軽自動車や最小限の娯楽を買う以外、特にその貯金に手を付けることもなかった。ずっと満ち足りていないのに、何かを欲しいとは思わなかった。何かをしたいとも、何かになりたいとも思わなかった。

 

 漫画やアニメの主人公のように決定的なトラウマや不幸もない人生だったのに。なぜ僕は、こんな人間になってしまったのか。ある日、今までわかっていたのに目を逸らしていた事実を、退職後の暇にあかして寝る前にふと考えた。そして、その時になって、ようやく気付いた。

 

 

 

 たぶん僕は、いつも一人だったんだ。

 

 

 

 最低限空気を読んだり、思ってもないことを言って、人付き合いができるようになっても。

 ちゃんとした家庭で育って、ちゃんとした進学をして、ちゃんとした会社に就職しても。

 

 毎日のように来る友人からの意味のないラ〇ンに辟易し、スマホを壁に叩きつけてぶっ壊したくなった。

 いつの間にか自分の責任にされていた仕事で頭を下げた時は、家に帰ってからも納得がいかず謝罪相手や周囲の人たちの顔面を殴り倒す子供じみた妄想で心を慰め、自分の幼さに苛立ちと羞恥が募った。

 休日一人部屋の中で無作為にインターネットサーフィンしてアニメを観たり、残業で終電を逃し雪が降り積もる田舎道を1時間近くかけて帰る時が、一番気が安らいだ。

 

 そういう自己完結のオナニーマスターで、社会不適合者である姿が、本当の僕なのだろう。

 

 でも、それを認めてしまうと今まで取り繕い、すがりついていた人生に帰れなくなる。

 だから、僕はそれをわかっていながら、なんとか現状にしがみつくしかなかった。年を取るにつれ縮小するどころか大きくなっていく自分の中のずれは、そうやって必死に世界の縁を掴む手を幾度となく切りつけてきたけれど、何もない空っぽの僕はそれでも手を放すわけにはいかなかった。

 

 それに気づいた午前0時。僕は自分でもよくわからなくて、耐え切れなくて。感情をごまかすようにパソコンを開き、子供の頃に観ていたドラえもんの旧作映画が配信されているサブスクに入る。そして、選んだ何本かを夜通し垂れ流していた。

 

 久々に観たドラえもんは、やっぱり面白かった。藤子先生は天才だと思った。

 

 だけど、子供の頃じいちゃんと観ていた時と違い、他には何も感じなかった。あの頃のように感動もしなかったし、笑いもしなかった。

 パソコンの画面に映し出される映像が眼球を素通りし、頭の隅にある現実が警告しても就職活動をする気にもなれなかった。

 

 自分で自分の感情がわからなかった。

 もともと何も感じない人間のくせに。喪失などあのゼロ年代に置いてきたはずなのに。

 

 どうして、今頃、僕は自分の中に何かあるはずだと必死になってかき集めているのだろう。空っぽの人間に、そんなこと許されるはずないのに。

 

 アパートの部屋の窓がうっすらと明るくなってきた頃、最後の一本が終わり、新聞配達をするバイクの音がどこか遠くで聞こえた。僕の中に残っていたのは、源泉のわからない焦燥と己に対する諦観だけだった。

 パソコンを閉じ、部屋に差し込む朝日を遮るように頭からタオルケットを被り目を閉じた時、またしても真っ暗な網膜に浮かんできたのは、エロえもんの泣き顔だった。

 

 彼女は――残酷ば僕の判断をどう思っただろう。

 

 もし『人生やりなおし機』が目の前にあって、あの夜の学校に戻れたら。

 僕は、エロえもんとセックスをするだろうか? やっぱり、それ以外の何かしてあげられることを探すだろうか?

 

 でも、大人になっても――いや、大人になったから、彼女にしてあげられることが何も思いつかない。きっと、あの時エロえもんとどんな選択をしようと、僕らの未来は変わらなかったように思えるし、降り積もる時間の中で人生の1ページとして忘れていくようにも思える。

 

 僕は――なぜ、何もできないんだろう。こんなにも、何者にもなれないのだろう。

 

 子供の頃、周囲にいた大人はあんなにも強く、狡猾で、傲慢であるように思えたのに。僕はあの頃に嫌悪していた彼らにすらなれず、ただ過ぎていく日々の中で一日分だけ年を取っていくだけだ。エロ漫画を買えなかった小学生の時から、僕は何も変わっていない。

 

 これまでも、そして、これからも――世界に流され、抗うこともできない、ただただ無力な大人だった。

 

 僕は追憶を振り切るようにゆっくりと立ち上がって、スマホをズボンのポケットにしまう。

 

「ひとりかくれんぼは終わり?」

「……うん。ちょっとね」

 

 皮肉染みた甥っ子の言葉に苦笑いを浮かべると、彼はなぜか怪訝そうに眉を寄せた。よほどひどい顔をしていたのだろうか。「かくまってくれてありがとう」とだけ告げ部屋を出ると、そのままリビングへと向かった。

 

 この街に帰ってきたからだろうか。昼に甥っ子のエロ検索の履歴を見たからだろうか。

 今、長い回顧を経て、こんな僕でも、欲しいものが一つだけ見つかった気がした。

 

 

――私もね……好きだよ。日野の漫画

 

 

 僕よりもはるかに砕け散りそうだった心を気丈に抱えていたあの子が、かけてくれた言葉。

 本当にシンプルで、なんの装飾も建前もなく――僕を肯定し、この世界につなぎ止めてくれたあの言葉。今はもうわずかに残滓だけが残るその響きを、もう一度聞きたかった。

 

 どうすればそれが叶うのかなんてわからない。それでも、僕は居ても立っても居られず、姉に断りと酒を飲んでないことを告げ、実家の軽自動車のキーを借りた。

 

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