大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島――   作:ぽんこっこ

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第34話:202×年 ゼロえもん誕生

 

 外に出ると、むわっとした湿気が肌にまとわりついた。同時に大気を満たす夏虫たちの合唱が鼓膜を揺さぶり、アスファルトの上に土と緑が混じり合った匂いが鼻につく。

 

 それは子供の時はあんなに身近にあったのに、いつの間にか忘れていた夏夜の空気だ。生温い夜風に乗り、どこか遠くで地方線の電車が揺れる音が聞こえた。東京や勤め先の工場近くでも聞いていたはずなのに。そういえば、そういう音もこの世界にはあったのだなと、ふいに思った。

 

 駐車場で軽自動車のキーボタンを押し、車に乗り込みエンジンをかける。ゆっくりと震える車内でスマホの地図アプリを起動し、音成市の駅前を目的地に設定する。

 

 なぜそこを選んだのか。明確な理由もないけれど、僕はあそこを――『みんなのジパング ガンダーラ音成店』を目指した。正確な住所は覚えていないし、ネットで調べてもあの時とは違いなぜか情報はひとつも出てこなかった。

 まさか両親や姉に「音成市にあったエロ漫画売ってる店ってどうなったか知らない?」などと気軽に聞けるわけもなく。ひとまず近くまで車で行き、あとは歩きで探すことにしたのだ。

 

 コンビニ、ファミレス、パチンコ店……国道に出ると、ヘッドライトに照らされた沿道では小学生の時と変わり映えしない田舎の街並みがあった。ただコロナの影響かそれ以前に潰れたのか――レンタルチェーンや飲食店がいくつか空き店舗になっていて、少し寂れた道なりだ。

 

「こんなに近かったっけ……」

 

 それから十分もしないうちに『4.5m 頭上注意』の看板が見えた。あの夏にも自転車で通った鉄橋だ。車ということもあるのだろうけど、昔はここに来るまでにはもうへばっていたのに、夜に沈む川の流れはあの時と同じで。その変化のなさがますます重ねた時間を自覚させ、苦笑が深くなった。

 

 目の前に立ちはだかっていた坂道も。光の出口が見えた高架下の小さなトンネルも。翌年に怯えた中学校も。巨神兵のようにも思えた鉄塔も――車を走らせる道程で見た全てが、あの時と比べ小さく、短く、なんでもないもののように感じた。

 

 音成市内に着くと適当な駅前の駐車場に車を停めた。

 夏期休暇で帰省している人も多いのだろう。地元の友人たちと飲んでいるらしい若者や家族連れの間をすり抜け、マスクを着けた人波の中、記憶だけを頼りに街はずれへと足を運んだ。

 

 地図アプリ片手に早足で歩く。少し乱れた呼吸が喧噪にさざめく街の空気を肺に送り込み、理由のわからない焦りだけ吐き出されていく。街頭から抜き出された小さな影がショーウインドウに写った。まるで小学六先生の自分と並走しているみたいだった。

 

 市街地を出て数分もしないうちに、僕は駆け出した。

 肺が痛い。ふくらはぎが痛い。背中が痛い。足裏が痛い。運動不足の体はすぐに悲鳴を上げたけど、ひたすらに道路沿いのガードレールの内側を走り続けた。

 

 思えば、エロえもんと別れたゼロ年代のあの日から、僕はずっと何かが欠けたまま毎日を生きていた。

 

 いろんなことができると思っていた。全部叶えられると思っていた。どこにでも行けると思っていた。だけど、世界の終わりなんて望む前に、自分が今を生きることに精一杯で。あの夏の日のことも彼らと見た夕焼けごと忘れてしまっていた。

 

 それでも……本当は、心のどこかで待っていたのかもしれない。

 この路地の向こうに踏み出せば――あの時の僕らにとってエロ漫画がそうであったように――行き詰ったジリ貧の毎日を抜け出せる何かがあるんじゃないかと。あの時、エロえもんが僕にくれた言葉と同等の世界を変える何かがあるんじゃないかと。

 

 僕は目の前にあった路地を曲がった。その瞬間、奇妙な既視感に襲われた。

 今まで忘れかけていたのに近くまで来ると、どんどんな脳内から記憶が呼び起こされ、思い出の断片が道を示してくれた。体力が切れ小走りになったけど、それでも前へ進むのはやめなかった。坂道を下る。横断歩道を渡る。立ち並ぶ街頭を通り抜ける。

 

 もう少し。ほんの少し。

 

 それだけで構わない。それだけが欲しい。先のない毎日を、何もない自分を、変えてくれる何かがほしい。自分の中で漠然としていた望みが形を持ったものに変わった時、同時に胸中を確信が支配した。

 

 ここだ……!

 

 曲がり角が見えた時、僕は持て得る最大限の力で地面を蹴った。

 この先に――きっと、僕を救ってくれるものがある。言語化されたその思いと共に熱を帯びた脳内で去って行ったエロえもんの背中が明滅した。

 

 そして、僕はその角を曲がった。曲がり、見て、一瞬放心して、肩で息をしながら、地面に視線を落とし、曇る眼鏡の向こうでアスファルトに落ちる汗を見て、苦笑とも自嘲とも言えない笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 そこにあったのは、ひとつの残骸だった。 

 夜の黒から抜き出されたような照明の下、廃屋が眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 僕らに達成感をもたらした宝島の看板は塗りつぶされていた。幸田曰くすげえアキバだった空間はガラリとし、エンドレスに流れ続けたアニソンも、所狭しと貼られたポスターも、当然エロ漫画が敷き詰めてあったあの本棚も置いていない。

 

 ところどころ薄れた『――まで営業』、『半額――実地中! 下――化!』、『――人――美少――・――・ゲー―― 豊富な品揃え! どこよりも――!』という看板脇の文字だけが、確かにそこに『みんなのジパング ガンダーラ音成店』があった証拠で――僕はそれを見て、ようやくあの店が潰れたという事実を認識することができた。そして、それを理解した時、思わず乾いた笑いが漏れた。

 

 そりゃそうだ。

 

 小学六年生の時、わかってたじゃないか。ここは現実だ。漫画やアニメみたいな超展開は――この世界にありゃしないのだ。

 

 僕たちが生きる21世紀にひみつどうぐはまだない。未来から手助けしてくれる友達も来ない。

 

 だから、そうやって選ばれなかったやつが、世界や自分を変える特別な何かを手に入れるには、たぶん地道に積み重ねるしかないのだ。他人からどう言われても、普通からこぼれ落ちても。夢という呪いに捕らわれ、もがき、努力し続けた人だけが、手に入れることができるのだ。

 

 そして、それを始めるには……僕は、年を取りすぎた。

 あの時代はすでに亡く、残されたのは、大人になってしまった子供時代の残骸だけだ。

 

 エロ漫画を買えなかったあの帰り道のように――僕は、僕らにとっての宝島だった廃屋に背を向け、ノロノロと来た道を引き返した。

 

 歩いている間、空っぽの店内を、あそこに確かに存在していた人たちのことを思った。

 

 ゼロ年代から、ずいぶんとオタク趣味を取り巻く環境は変わったと思う。

 自室でひとり、あるいは互いにプライベートを知らない同好の士と楽しむような――日陰の恥ずべき趣味として笑われてきたものが、いつの間にかクールジャパンなんて取りざたされ、今までそういうものを見下してきたであろう人たちも突然アニメや漫画好きをアピールし始め、学校や職場でもコミュニケーションツールとして使われ、僕より下の世代ではリアルで堂々とオタクを自称する人も珍しくない。

 

 だけど、僕は変化していくその様を見て、時々言いようのない違和感を覚えることがあった。

 

 漫画もアニメもゲームもネットも、別にオタクだけのものじゃない。そういうふうに市民権を得ることはきっとすごく正しくて、前向きな方向性なのだろうけど。どこか――現実をうまく生きれない僕らの手にあったものが、離れていったような寂しさと嫉妬を覚えたのだ。

 

 彼らは……どうなのだろうか?

 

 あの店で働いていた店長や店員、訪れた人たちは、今でも変わらずオタクなのだろうか。今でも変わらずエロ漫画を買い続けているのだろうか。それとも、オタク趣味とは別の場所を見つけたのだろうか。そうやって世界と自分の折り合いを、見つけていったのだろうか。

 

 だけど、あの頃教室の隅で一人漫画を描いていた僕のように――現実に救われない、閉じた世界にしか居場所を見出せないやつは、どうすればいいのだろう。

 

 この世界に納得できず、でも、自分も世界も変える力がないやつは、どこに行けばいい? どう生きればいい?

 

 車のヘッドライトの明かりが目の前を照らし、通り過ぎた。誰に投げかけたわけでもない問いかけは、夏のアスファルトを走る排気音にかき消される。

 

 どんな疑問にも答えてくれた友達は、もう、僕の隣にはいない。

 そのことを改めて実感させられた。

 

 その瞬間、今まで感じていなかった強烈な喉の渇きを覚えた。市街の明かりはまだ遠くに見える。スマホで検索すると近くにコンビニがあったので疎らな街灯を辿っていき、案内に従って進んでいく。

 

 蛾や羽虫がまとわりつく寂れた蛍光看板の文字は、聞いたことのない店名だった。今どき珍しく大手のフランチャイズではない、個人経営のコンビニだ。そういえばあの道すがらでも『小池商店』という似たような店でアイスや昼飯を食ったことを思い出す。無駄に広い駐車場には3台ほど車が停まっており、僕はその間を抜けて年季が入った自動ドアへと向かう。

 

「パパ! はやく!」

 

 だけど、センサーが僕に反応する前にドアが開いた。うつむきがちだった視線をちらりと上げると、僕と同年代くらいで恰幅のいいツナギ姿の男性が女の子と手を繋ぎ、店内から出てきた。僕はなんとなく軽く会釈してその脇を通り過ぎようとする。

 

 そして――その瞬間、何かに気づき、思わず振り向いた。

 目が合った。彼も同じように顔を向け、一瞬だけこちらを見た。

 

「パパー、何してんの?」

 

 でも、娘さんの言葉に髭を伸ばした彼は「なんでもねえよ」と野太い声で笑う。そして、その後はこちらを振り返ることなく、そのまま停めてあったミニバンへと乗り込み、去っていった。

 

「幸田……」

 

 すれ違った彼の名前をぼそりとつぶやき、閉じてしまった自動ドアの向こうをガラス越しに眺めた。

 

 向こうはこちらに気づいたのだろうか。気づいても、あえてスルーしていたのだろうか。真相はわからないが、娘さんを連れた幸せそうな背中を見送ると、僕は自然と笑みがこぼれた。

 

「そっか……」

 

 もう、僕もそんな年なのだ。学生時代か社会人生活序盤までに何人かの女性と出会い、別れ、あるとき結婚して、家庭を築く。日本における普通で王道の人生を歩めるよう努力していれば、そんな未来もあったのかもしれない。

 

……何をやっているんだろうな、僕は。

 

 夢に挑む前からあきらめたくせに。そのあきらめた先でも、普通になることすらできない。寄せた頬の皺に自嘲の影を濃くして、飲料コーナーへと向かう。人工的な白色蛍光灯の下、無意味に並んだペットボトルの列を眺めて立ち尽くした。

 

 エロえもんが転校していった後も、幸田と細川とは小学校を卒業するまでお馴染みの三人組として過ごした。

 

 幸田とは同じ公立の中学に進学したけど、もともとは別世界の人種だ。中学入学と共にクラスが別になってからは合同授業や廊下で会った時に話をする程度の仲になり、やがてそれも途絶えた。彼が工業高校に進学してからは、どこでどう生きているのかも知らなかった。

 

 細川は見事に受験に合格し、例の中高一貫の進学校に進んだ。ある県で公務員として働いているという風の噂を聞いたことはあるけれど、卒業以来一度も連絡を取ったことはなかった。

 

 会う機会を作ろうと思えば、いろいろと方法はあるのだろうが……たぶん、もう、一生会うこともないと思う。

 

 ミネラルウォーターを適当に一本取り、そのままレジに向かおうとしたが――どことなく後ろ髪を引かれる思いで、窓際の雑誌コーナーへと向かった。そして、マガジンラックの片隅、トイレ前の一角を見て、おや? と思う。

 

 そこにはやたら肌色の面積が多い表紙が、モザイク模様のように押し込められていた。何年か前までは全国どのコンビニでも設置されていた――エロ本コーナーだった。

 

 確か2019年の夏頃……だっただろうか。ラグビーワールドカップや翌年に行われるはずだった東京オリンピックで訪日観光客が増えるのに考慮して、大手のコンビニがいっせいにエロ本の販売を取りやめ、コーナーを撤去していったのだ。

 女性や子供が安心して買い物できる環境を作るためとかそもそも占有スペースに対し売上が少ないとか……色々な真っ当な理由があげられ、それはあくまで法規制ではなくコンビニ各社の判断とされていた。

 

 コンビニでエロ本が買えた時代は、もう過去の歴史になっていくのだ。僕自身コンビニどころかエロ本自体買わない人間だけど――今まで当たり前にあったはずの景色が、そういう強制的な自浄によりなくなっていくことに一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

 

 この店はフランチャイズ店じゃないし、田舎なので自主規制もやっていないのだろう。ラックの片隅に置いてあるそれらに視線を落とし、下側で平積みされたある一冊に気づいた。

 

 小さく肩をすぼめるように息をしているエロ本――その中の一つに、エロ漫画雑誌があった。やたらとごちゃごちゃした文字フォントの下では顔を赤らめた水着の女の子が、アイス片手に股を開きながら舌なめずりをしていた。僕はそれを手にし、ふとあの時彼女と選んだエロ漫画たちと店長さんのことを思い出していた。

 

 

 僕が知らない間に――どれだけのエロ漫画雑誌が、消えていったのだろう?

 どれだけのエロ漫画家が、誰にも知られることなく、筆を折ったのだろう?

 どれだけの人生が、変わったのだろう?

 どれだけの人の世界が……終わったのだろう?

 

 

 そんな答えのない問いを頭の中に浮かべながら『あなただけしか知らない夏……見せてあげる』とデカデカと書かれた煽り文句、表紙の左上に並んだ名前を見ていく。

 

 テープで封をされているので中身は確認できないが、掲載されている作品の漫画家一覧だろう。小さく並んだその列に視線を這わせていた時、大きく目を見開き、動きを止めた。

 

 

 

 

 

 『21ゼロえもん殿下』

 

 

 

 

 

 その文字の連なりを見た瞬間、息が詰まった。まるで深い時空の狭間から引き揚げられた気分だった。望んだものが全て入っているポケットを見つけたように、僕は人目をはばからず立ち尽くし、その名前をじっと見つめていた。

 

 

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