大長編 STAND BY ME ゼロえもん ――僕の新世紀・新エロマンガ島―― 作:ぽんこっこ
さて。六時間目に起きたひと悶着は僕らにとっては大事件でも、世界にとってはそうでもないようで。当然ながら、小学六年生の児童が学年主任に啖呵を切ったことなどローカルニュースにすらならない小さな出来事だ。
当の「彼女」本人は、終業後のホームルームが終わると同時に職員室へ呼び出しをくらい誰も話を聞けない状態だったが、「あの千条にケンカを売ったやつがいる」と僕らの学年は一時期騒然となった。だが、各クラスの担任による速やかな情報統制と「さっさと帰れ!」という退去勧告により放課後一時間くらいたった頃には、その熱も沈静化しつつあった。
そうやって、一日の大半を占める学校生活から解放された浮かれ声も遠くなり、自分以外誰もいなくなった教室で、僕は一人自分の席に座って書き物をしていた。
いつもと違い、マンガを描いているわけではない。そこに広げていたのは、日直当番の報告日誌だった。
大半の学校がそうだと思うが、クラスの日直は男女二人組が日替わりとなっており、その日は僕とある女子が当番の日だった。
「ごめーん、日野くん。わたし用事あるからよろしく~」
ところがどっこい、その女子A子は僕一人に仕事を押し付けて帰ってしまった。僕は放課後日直の仕事を一人でやらされたあげく、それを正直に記載しようものなら後が怖いので「一緒にやりました」と嘘にまみれた仕事の分担と詳細を書き、職員室に提出しなければならないのである。
たぶん耐震強度偽装事件とかもこうやって起こったんだろうなぁとか、だいたい女子小学生にそんなご大層な用事なんてあるわけないだろとぶつぶつ脳内で文句を垂れながら、一人で教室に居残っている間に黒板上の壁かけ時計は午後四時を回っていた。
あ~あ、男子小学生の辛いとこね、これ。
空が少し橙に染まり始めた春の終わり。床に残るワックスの匂いがかすかに混じる五月の教室は、放課後のひんやりとした空気に覆われている。そんな中でようやく日誌を書き終えた僕は、少し薄暗くなった放課後の廊下を歩き職員室に向かう。
「失礼します。田中先生に用があります。入ってもよろしいですか?」
別に失礼したくないんだけどなぁと思いつつ、例によってテンプレのセリフを言う。ちなみに本当は「よろしいでしょうか」が正しいのだが、僕の場合「しょ」が上手く言えないので、こっそりと「ですか」に変えていた。今のところバレてはいない。
「おう、ご苦労さん。そこ置いといてくれ」
と高木先生や千条先生と話している田中先生は言い、ノートパソコン横を目で指した。時間のかかり方でたぶん僕が一人でやらされていることに気づいているのかもしれないが、この人はそういう事を荒立てるようなことはしない。
まあ、なんというか、うちの担任はそういうやつなのだ。
僕としても変に騒ぎ立てられて学校での立場が危うくなるのは困る。自分のようなぎりぎり友達がいない変人で踏み止まっているやつが、いじめられっ子にジョブチェンジなど容易に想像できる。
「まったく――なんて描いてるから」
何か言われる前にさっさと退散しようと足早に出口に向かっている時、先生たちの雑談がかすかに聞こえてきたが、何の話かも、誰の話題かもわからない。僕は特に気にすることなく、「失礼しました」と一礼してその場をあとにする。
そのまま下駄箱の棚が並んだ玄関に向かうと、じめりとした空気が鼻についた。
どこかかび臭く、廊下よりもさらに暗い下足場は、下校時間だというのに気分をますます憂鬱にさせる。放課後、塾がない曜日であることだけが救いである。
僕はまたしてもやれやれとため息をついて、下駄箱の蓋に手をかける。靴に染み込んだくぐもった匂いと一緒に誰もいない空間にぎぃという音が響き、
不意に周りでよどむ空気を吹き飛ばすような強い風が舞い込んできた。その方向――開け放たれた玄関扉からは光が差し込み、初夏の風に乗った土の匂いが入ってくる。
そして、その光の向こうにいる人影に気づき、はっとした。
風に揺れるボーイシュなショートカット。鼻筋のはっきりとした中性的な顔立ち。
よく目をこらすと――それは「彼女」であることに気づいた。
だけど、僕には……下駄箱の陰に隠れ立っているその少女が、なぜか全くの別人に見えた。
職員室で教師たち相手にケンカを売っていた時とも、教室に帰ってきた「めっちゃキレてたなぁ~」とあっけらかんと笑っていた時とも違う。
その瞳はうっすらと潤み、何かに耐えるように口を引き結び、うつむいていた。なんだか僕は見てはいけない場面を見ているようで、少し離れた反対側の出口に逃げようとかがんで足元の靴を手に掴む。
「あっ」
だけど、その時。
ランドセルの錠前が豪快な音をたてて外れ、蓋になっている冠裏(かぶせうら)をすべり台にして、後頭部から目の前を教科書とノートの滝が通過した。鍵をかけ忘れていたのだ。よくやる僕の悪い癖だ。
「……」
「……」
そして、残念ながら、その音に気付いた「彼女」と目が合ってしまった。簀の子の上で盛大に撒き散らされた教科書。そして、暗がりに浮かぶ僕の顔を見て、「彼女」は少し驚いているようだった。
「……日野?」
「……ど、どうも」
どうもってなんだよってあとから自分でも思ったけど、それ以外に返しようがない。
確か去年も同じクラスだったけど、僕は「彼女」とそんなに仲良くないし、事務的なこと以外で喋ったのも数回くらいだ。それなのに、「彼女」が僕の名前を覚えていてくれたことは意外だった。
「なにやってんの?」
「あっ、いや、そのう……」
どう答えればいいだろう。「日直の仕事を押し付けられて遅くなったら、君をたまたま見つけたので気まずくて逃げようとしました」と率直に答えようかと思ったが、最初の「日直」に「ょ」がある。それにあの千条先生にケンカを売るようなやつに、正面切ってそんなことを言える自信はない。
だが、僕が悩んでいる間にも「彼女」は近づいてきた。もしかして先ほどの様子をこっそり見ていたことがバレたのだろうか。僕の頭の中にはゴジラのテーマがアラート代わりに流れ、急いでぶちまけた教科書たちを集める。
「なんかよくわかんないけど……大丈夫か?」
だけど、「彼女」が取った行動は意外にも優しかった。
しゃがみ込んで国語の教科書を一つ手に取ると「ほい」と僕に手渡し、そのまま一緒になって拾い集めてくれたのだ。
「あ、ありがとう」
僕はビクビクしながらも一応お礼を言い、心の中でこっそりと怪獣王扱いしたことを詫びる。二人がかりでやると片付けはすぐに終わり、ランドセルにしまっていないのは後二冊になろうとしていた。
「……っ!」
そこで、気づいた。むしろ、なんで今まで気づかなかったのだろう。
残りの二冊のうちの一つ――それは自作マンガノートと化している自由帳だ。しかも、床に落とした拍子に開いて、中身があらわになっている。
「あの、これっ……」
僕が気づいたのと、「彼女」が気づいたのは、ほぼ同時だった。
次の瞬間、「彼女」がなぜか大きく目を見開き、どこか呆然とした様子でマンガノートを手に取った。僕は息を呑む。いつもの鈍くささが嘘のように体が素早く動き、乱暴に「彼女」からマンガノートをぶんどる。
「ご、ごめん! これ、なんでもないから! ありがとう。それじゃあ」
だが、それで終わらなかった。
「待って!」
マンガノートを片手にそのまま立ち上がろうとする僕に、「彼女」はいきなりしがみついてきた。いや、しがみついてきたなんてかわいらしいもんじゃない。『アイシールド21』みたいなアメフトタックルを正面からくらい、ひ弱な僕は成す術なくバランスを崩し、仰向けに倒れる。そして、「彼女」は容赦なく僕の上にのしかかってきて、僕の右手にあるマンガノートを取り返そうとする。
「危ないよ! やめて! ケガするよ!」
僕は思わず叫ぶが、その手は止まらない。「彼女」はとにかく奪おうと暴れ、僕は奪われまいと必死で抵抗し、もみくちゃになる。小学生男女の体格差などたかが知れてるし、僕みたいなひょろひょろだと女子の方が強いなんてこともざらだ。このまま体重をかけられたままじゃ分が悪い。
僕はなんとか体勢を立て直そうと無理やり腰をひねり、上下逆転に成功した。何も考えられず、荒い呼吸のまま「彼女」を組み伏せようとする。
「ちょ……」
「えっ」
だが、その時、「彼女」がすっとんきょうな声をあげた。
その声で、僕は我に返る。
そして、目の前の光景――自分の右腕。その先の、手のひら。それが、彼女の胸の上に位置していることに気づき、お互いに動きが止まる。
瞬間、まるで時が止まったみたいに周囲の音が消えた。
校舎裏でのひそひそ話。校庭で放物線を描くボールがバウンドする音。空気に溶けていく僕と彼女の荒い息。放課後の学校にある全ての響きが消えた静寂の中、認識は数秒たった後に遅れてやってきた。
おっぱいだ。
僕の手が、この子のおっぱいに触れている。
おっぱいだ ああ、おっぱいだ おっぱいだ(字余り)
なんて日野少年11歳心の俳句を詠んでみたけれど、それだけでは現実逃避には足りなかったようで。僕はあまりの衝撃的事態に身動き一つできないでいる。
だけど、一方の「彼女」は、僕と違った反応だった。
「……あっ、おっぱい触った~、エッチ~、ドスケベ~」
「なっ!?」
こちらとは対照的。恥ずかしさなど微塵も感じさせない棒読みの声で、目の前の状況に引き戻された。僕はドギマギしながら飛び退き、勢いをつけすぎてまた尻餅をついた。このままじゃ尻が腫れ上がってケツだけ星人になりそうだ。
一方、一瞬だけ同じように硬直していた彼女は、それを見て口角を思いっきり引き上げた笑みを浮かべると、「ごめん。ケガ、ない?」と言いながら立ち上がる。
「僕は……な、ないけど。君は?」
「私も。ただ……君に触られたところが痛いな~、困ったなぁ~。特にこのへん」
そして、僕が聞き返すと、言葉とは裏腹に全く困ってなさそうな口調で自分の胸を擦り始める。悪魔のようなその笑顔を見た刹那、僕は、なんとなくこの勝負に負けたのだと悟った。
「この後……ちょっと付き合えよ。私の胸触ったこと、クラスのやつらにばらされたくなかったらな」
それは彼女も同じようで。勝ち誇った顔でそう僕を脅迫した。
たぶん、これはあれだ。『それでもボクはやってない』みたいな痴漢冤罪(僕のは冤罪じゃないけど)をふっかけられて、和解で済ませるために金銭を要求される感じのあれだ。
それに気づいて、僕はいつもの「やれやれ」というため息をつくことすらできない。思わずデュエルスタンバイしたくなるくらいの死亡予告だった。